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みえないものを、みる視点。

【オンライン授業】先生が顔を出す必要は、どこまであるのか?

オンライン授業でよく議論になることに、「先生の顔は出したほうがいいのか、出さなくてもいいのか」がある。学生にアンケートで聞いてみても、「顔があったほうがいい気がするけど、別にどっちでもいい」という答えが多いようだ。教員の側も自分の顔を積極的に見せたいわけでもないので、出さないですむならそれでもいいか、と非表示にしまう場合も多いだろう。僕自身、前期はどの授業でもあまり顔を出さない方向ですませた。でも、最近いくつか気になる情報を得て、考え方を改めることになった。

 

1)佐伯先生の有名な論文、「そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」に、ヒトが文化を伝承する際の特徴的な手続きが引用されている。人間はよくわからないことでも、目を見て、目の前でされることを信じてしまうらしい。

 

Gergely & Csibra によると,ヒトが他の動物と明白に異なることは,「文化」の中できわめて効率よく社会的な伝承が行われていることにあるという.そこではさまざまな行動様式が,伝承する側も伝承される側も,因果関係も機能的関係も不明瞭なまま,また,特定の集団のメンバーにとっての適応的な意味も不明であるにもかかわらず,「こうすることになっている」という行為系列が,いわば「盲目的に」伝承されているという点であるという(Gergely & Csibra, 2006).Gergely らによると,大人が子どもに対して①相手の目を見て,②手元が相手によく見えるようにして,なんらかの作業を行う,③作業の終了後に再度相手の目を見る(簡単な言葉で表せば「ミテネ・ヤルヨ・ホラネ」というメッセージで「お手本」の動作を示す)ということで,子どもは無条件に,その作業の意味を考えることなく模倣する,というのである.Gergely らは,このようなコミュニケーション様式を「教示伝達的顕示(OstensiveCommunicative Manifestation:OCM)」と名付けた.

 

(強調は引用者)

 

 佐伯『そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」組織科学 48 vol.2, 38-49, 2014

https://doi.org/10.11207/soshikikagaku.48.2_38

 

よくわからなくても盲目的に信じてしまう、というのが実に興味深い。そんなことが頭に引っかかっていたところ、先日興味深い映像を見た。

 

2)Netflixが作った「監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影/The social dilemma」は、SNSのダークサイドを描き出したドキュメンタリーである。主要なIT企業がいかに我々の内面的な欲求をハックして中毒にしているかについて、多くの専門家への取材とともに映像化している。

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なかなか攻めた内容で、映像内では『もしサービスを無料で使っているのなら、そのサービスの顧客はあなたではなく、広告主。あなたは、商品。』みたいな、企業からは口が裂けても言えないようなセリフが続出する。

 

主要登場人物のトリスタン・ハリスの主張には、僕は以前から注目していた。それで2年前につくった高校の情報デザインの教材「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」では彼のメッセージを受けて、誰もが知っておくべきリテラシーとして、デザインの作為性の問題を扱ったのだけど、まあ、今回はその辺の話は置いといて。

 

ドキリとされられたのが、映像内でフェイクニュースを主張する(危ない)人々が、揃いもそろって、みな「どアップ」で「カメラ目線」なこと。そして「画面を指差す」のだ。要するに、グリフィスらが確立した映像手法としての「クローズアップ」であり、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグの古典的なポスター名作I Want You for U.S. Armyで画面の向こうから名指しされるような「指差し」である。

 

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 そういえば日本で人気のYoutuberたちも、みなカメラに顔を大写しにしてカメラ目線で喋っている。

 

我々はメディアを介した向こう側から呼びかけられても、まるで現実がそうであるかのように錯覚する。それに抗えないのは、視線をあわせることで協働してきた長年の人間の進化上の特性によるんだろう。

 

この古い脳の中には、現実の世界とメディアの世界を区別するための切り替えスイッチは存在しない。人は社会的行為者が自然な物体を模したものに対して、あたかも実際に社会的であるかのように、実際に自然であるかのように反応する。人形は考えてみれば人間とはあからさまに異なっているだけれども、私たちの古い脳を騙す程度には人間にちかい。他のことに気を取られたり、自動的な反応に身をまかせたりしているときはなおさらだ。

『人はなぜコンピュータを人間として扱うか―メディアの等式の心理学』

 

そして視聴者は、よくわからないまま、そして作為性を見抜けないまま盲目的にメッセージを信じてしまうのだ。

 

 ということは、目を見て喋らないかぎり、どんなに学問的に正しいことを言おうが、一生懸命説明しようが、学生たちが普段見ているYoutuberほどは信じてもらえない、ということになる。これはなかなか衝撃だ。

 

 自分の喋っていることもひとつの主張にすぎないのだし、と他人事にように開き直ることもできるかもしれない。だが、せめて大学教員としての責任と学術的な裏付けを持った上で正しいと思うことを伝えなければ、学生たちは他の(怪しい)ことを信じてしまうだけだ。結局のところ洗脳合戦だとしても。

 

というわけで、ささやかな試みとして、ワイプで顔を出し、カメラのレンズ部を注視して、画面の先にいる学生を意識しながらしゃべることにした。(画面ではなくレンズを見ると目があってかなり怖い)

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使っているのは、mmhmmという配信用アプリ。

もちろん恥を感じるけども、どうやら恥ずかしいと言って逃げている場合でもない。真剣に届けようとしないと、誰にも届かない宙を舞うだけのレクチャーになってしまうだろうから。

 

www.mmhmm.app

www.netflix.com

 

 

【オンライン授業】一斉送信と少人数ダイアローグを両立させる試み

後期授業が始まった。結局コロナ禍はおさまることなく、後期も演習科目以外はオンラインということになる。僕は演習科目多いので週に3つは対面授業があるのだが、これがまたなかなか辛い・・・。学生が楽しそうにしているのは何より嬉しいけども、みんな顔覆っていて表情がわからない。近寄れない。マスクでしゃべると苦しい。なのでオンラインのほうがよほど気楽だとも思う。

 

というわけで、後期の講義もオンラインで新しい実験を続けている。前期の経験から、学生たちがもっともストレスを感じているのは、授業内容がプアになったことではなく、学生同士のコミュニケーションが奪われ、横のつながりがなくなってしまったことだ、と知った。たしかに、頑張って喋ってるのは先生だけだ。一日中授業受けていても、学生たちは一言も喋らないことだってざらにある。ここは確かに配分を変えていく必要がある。

 

真面目な先生は一生懸命教えようとしていると思うが、多分学びに大事なことは、同じ目線にいる者同士の「分かち合い」なんだろう。普段スライドを元に話しているような対面講義の内容は、わざわざ一緒に同期してやらなくても動画で空き時間に視聴すれば十分な気もする。後期は、多少のグダグダが発生するにしても、学生たちが少人数で対話する機会を最優先で確保することを念頭においてみようと思う。

 

少人数の対話(短時間)には、以下の点からDiscordが向いている。

・「会議室のURLどこだっけ?」とならない。サーバーに一回入れば、あとはアドレス不要

・チャットにコメントや画像投稿を残しておけることで、事後的にどんな発言があったかを全員がざざっと共有できる

・ワンクリックで部屋を移動できる

・音質が良い

 

しかし、このツールの欠点として、小部屋に入ったら外から一斉指示(ブロードキャスト)ができないことがあった。会話に夢中になってしまうと全体掲示板になにか指示書いてもなかなか気づかない。そうするとSAが「終わりだよー!ホールに戻ってー!」とか、呼びに行くことになる。

 

そこで、Google meetと併用してみた。大学がG suiteで契約しているからという理由だけで、別にzoomでもいいと思う。meetでメインの進行を進めつつ、Discordで個別に話す、というかたちだ。音声がどうなるのか心配だったが、履修生たちに聞いてみたところ、同時に入ったままで問題なく両方聞けるらしい。学生はみんなmacスマホもっているので、たとえばDiscordはスマホで入れば負荷分散にもなる。

 

グラフィックデザインの初回の講義の構成を図にしてみた。

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この日は、ガイダンスと、ウォーミングアップの発想トレーニング。work1とwork2は、簡単な発想力を競うゲーム(「ぐるぐる検索○と□」)。それぞれただ発想するだけでなく、それぞれの頭を使って書いたワークシートをDiscordのグループに投稿して、メンバーにシェア。対話を通して自分の頭脳のクセを知り、上手い人からコツを学び、どうすればもっとパフォーマンスがでるのかを対話する。

 

kmhr.hatenablog.com

work3は、カタルタ(#18エモーション)をつかって、
即興ストーリーをつくるもの。

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これが学生たちの間ではかなり盛り上がっていた。(僕は一定時間で画像を投稿するだけで、まったく喋ってないことがポイント)。テキストボードにストーリーの概要や感想コメントを書かせることで、履修生全員が簡単に共有できる。課題の投稿や共有はオンラインのほうが遥かに簡単だ。

 

たくさん頭使って喋れてあっという間に90分過ぎた、とみんな言ってくれた。

というわけで、一斉送信と少人数ダイアローグを両立させる試みは意外と行けそうだ、という感触を得た。次回からはみんながやってきた課題を元にみんなで共有し、自分の取り組みはどうだったか、どうすればもっとよくなるかの省察とともに考えていくことが中心になる。ここのところマンネリ気味だったので、新しい課題もどんどん試してみようと思う。挑戦はつづく。

 

 

 

【ベネッセ連載】親もいっしょに創意工夫してみよう

ベネッセの連載9月分が掲載されました。8月に書いたものですが、前回のプログラミング教育の記事が長くなったので2つに分割したもので、具体的な事例を中心に家庭でできることを紹介しています。今回はツッコミどころ少なめ。

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記事中で触れているmicrobitでの、「地磁気センサ―をつかったゲーム」はうちの子の夏休み自由研究としてやってみたものです。

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micro:bitには地磁気センサー(デジタル方位磁針)が内蔵されているのでけっこう簡単に応用することができる。

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実際に歩きながら、ドットを頼りに宝探しをする。座標を見つけたらクリア。弟をプレイヤーにして遊んでみるという当初の目的はなんとか達成。

 

それよりも、ゲームのプログラムを書きながら、

地磁気を取得してみる

→自分の位置に連動してうごいた!と感動

→なんでそもそも地磁気があるのか疑問に思う

地磁気について調べる

地磁気は、実は普遍的なものではなく、長い地球の歴史の中で過去360万年で11回も逆転しているらしい

→常にNが北を指すわけではないと知る

→77万年前の最後の逆転が、千葉にある地層に記録されている

→それが「チバニアン

チバニアンってそういうわけで騒がれたのか!

 

と、気づきをレポートにまとめさせながら、

確かにゲームだとしても、「やってみる」ことで学びのプロセスは回るもんだなぁ、と私も勉強になりました。

 

 

 

 

オンライン演習でのチェックイン/チェックアウト

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 前期授業が終わりに近づいている。強制的なオンライン授業、受ける側だけでなくする側も初めての経験ながら、なんとか無事に終了することができそうだ。オンラインではやはり限界があるなという感覚と、逆に効果的なこともあるなという感覚、いろんな気づきがあったが、仮想的な「場」の感覚を醸成するための工夫については、毎週強く考えさせられた。

 その中で僕が特に気付かされたのが、ワークショップでよく使われるメソッド、「チェックイン/ チェックアウト」の意味である。今日はその話を書いてみようと思う。

 

チェックイン/ チェックアウトとは
 チェックイン/チェックアウトとは、通常は、ホテルへの宿泊や飛行機搭乗の際に、顧客が到着し、そのサービスに入る手続きのことを指す。この言葉をメタファとして、ワークショップでは、参加者がその場の本題に入っていく際(チェックイン)、また出ていく際(チェックアウト)に、自分の状態や心理を調整するための技法として取り入れられている。

 

 「技法」と書いたが、特にスキルが必要なものではない。時間を少々とって、車座になり、例えば「今の気分は?」とか「今日は何を期待してここに来ましたか?」などの参加者それぞれの状態を簡単に共有する程度のことである。
 なので、基本的にはやろうと思えば誰でもできる。ワークショップに参加したことがある人は、ファシリテータがわざわざチェックインと言ってなくても、それに近い導入を取り入れていたことを思い出す人も多いと思う。

 

 ではなぜ「場に入る」ために、わざわざそんな儀式的な行為が必要なのか。ワークショップ設計所の小寺氏は「チェックインは、存在確認なのだ」と書いているが、まさしく僕もそう思う。

ws-plan.pro


 人々が一か所にただ集まっていても、それぞれがお互いの存在を受け入れているとは限らない。また、よく知っている間柄だったとしても、人の気分は毎日すこしづつ異なっている。他者の心のありようやプレゼンス(存在感)は、それほど自明なものではない。

 

 したがって、これからいっしょに何かをやるぞ、というときに、お互いの様子を確認し合い、お互いの存在を受け入れる態度を示し合うことは、当たり前のことに見えて実はとても重要なプロセスだ。逆に言えば、場作りのプロは、だれもが暗黙にしがちなところにまで丁重に気を配っていることが、プロたる所以なのだろう。

 

オンラインこそ、そんなきりかえが必要だ
 翻って、オンライン授業はどうか。受講生たちは同じ場所にすわったまま、デスクトップの上だけでビデオ会議システムに出たり入ったりを繰り返す。多くの場合、マイクもビデオもオフにしたままだ。なので、システムの中でアイコンが並んだり、視聴者数が表示されていたとしても、そのインタフェースの向こうに実際に生きた人がいることを、「直接」感知できるわけではない。


 しかし、演習に際しては、オフラインであろうがオンラインであろうが、目的のために力を合わせ、気持ちを分かち合う「仲間」となることが求められる。オンラインでは同じ場にいるはずの他者の心の機微を全く感じれないからこそ、その場に入る際には、意識的にお互いに「ああ、こんな人がいるな」と存在を確認し、受け入れ、それによる気持ちの切り替えを行う儀式が必要なのである。

 

オンライン授業で取り入れる
 そんなわけで、演習では毎回、最初と最後に必ずチェックイン・チェックアウトを試してきた。みんなにそれぞれ発言してもらうと時間かかるため、タイミングを揃えて一言チャットに書いてもらうという方式である。感覚としては、みんなで「しまっていこー!」「おー!」をやっているようなものである。
 いろんなお題を試したが、お題を毎回考えるのもなかなか難しいので、2年生の演習ではそれぞれで教員やTAで出題を分担しあった。


僕が出題した中でのお気に入りは、以下の3つ。

 

■第1回チェックイン(初回)

「いまの気分を、顔文字ひとつだけで表してください」

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■第10回チェックイン(演習終盤)
「あなたは、先生の代わりに授業始まりの掛け声をするとします。みんながラストスパートに向かって「超」やる気を出すために、どんな言葉を叫びますか?」

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■第11回チェックアウト(次回が最終回)

「ラストスパートに向かって、他のチームのみなさんに盛大な励ましの声援を!」

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 こんなふうに一瞬でタイムラインが埋め尽くされる(キャプチャは一部分)。

一斉にコメントすることによって、お互いのキャラクターが目に見える存在となり、結果的にみんなが同じ状況の中で相互に励まし合っている感覚がうまれる。(テキスト越しでもみんなの熱気や感情は感じるものであり、僕ですらそれなりにゾワゾワする)

 ZoomもMeetもチャットが毎回リセットされるため、こういった一瞬起こったムードもクラスの土壌につなげにくいのが難点だが、その点、我々はDiscordを使っているので、専用チャンネルをつくっておけば、ログが残る。こんな風にキャプチャも取って共有できるし、いつでも見直して元気になることもできる。

 

おわりに
 オンライン演習でのチェックイン/チェックアウトの事例を紹介した。実空間ではキャンパス内に教室の外側の空間が存在することで、ドアを介して内側に「入る」という感覚はあった。さらに時間になったら教員が現れたり去っていくことで、無意識的に授業のオン/オフの切り替えが起こっていたように思う。しかし、そういった手がかりがない場合には、相互の存在の感じ方や場の雰囲気の生まれ方に対して、もっと気を払い、小さな工夫をすることが求められている。

  

【ベネッセ連載】プログラミング「で」学ぶほうがいい

ベネッセの連載7月分。今回は編集部の要望でプログラミングに関する記事です。デザイン思考とつなげて解説してみました。

プログラミング学習は、上の子が小学校入りたての頃には自分の勉強も兼ねて自宅で定期的にやってましたが、だんだん抽象度が高まってくると四則演算が関係して理解の壁があるのと、ぼくが忙しすぎてやむなく一時中断してしまいましたが、そろそろ再開したいところ。

 

benesse.jp

「付箋を貼って進めていくアレ」は、ただ付箋を貼っているわけではない

先日、興味深いまとめ記事をみた。

グループで討論して付箋をペタペタ貼っていくようなワークは、現在広く行われているが、「はたしてあれは効果があるのか、最後に完成したものは写真映えはするが、終わったあとに何も得るものは無いし、 残るのは、みんなで何かすごいものを作り上げた、という達成感だけ」とある人が疑問を呈し、それに対するやりとりが行われている。

togetter.com

川喜田二郎が編み出したオリジナルな「KJ法」では、断片から意味を抽象化して発想(アブダクション)を導く手段として小さな紙片、今でいう付箋(ポストイット)がよく使われる。そして、この人が多くの人に盛大に突っ込まれているように、図解化をおこなった次に叙述化のフェーズがあることはよく見落とされることである。

 しかし、参考写真にかかれている「見出し(表札)」をみると、そもそもこれはワークの大事なポイントを外しているように思われる。やり方を間違ってながら、「得るものがない」と思ってしまうことは大きな問題だろう。

 

そこで、うちの2,3年生たちも同じようなところでハマっているようなので、デザインの前段階としてこの手のワークを行う場合のポイントについて手短に解説してみようと思う。

 

例えば、なんでもいいのだけど、机の上を調べ、そこで色鉛筆と消しゴムをみつけたとする。こんな感じだ。

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まずこの事実に対して、「色鉛筆がある。そして消しゴムがある」と、それぞれとりあえずそのまま捉えて、その仲間をきめるためにカテゴリとして「文房具」という表札をそれぞれ付箋に書く、としよう。

 

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 こういった要領で、見つけたことや、各自がおもいついたアイデアをどんどん付箋に書いて貼っていくことは、一応作業としては成立してしまう。たくさん付箋があれば、それぞれ仲間ごとに整理整頓は進んでいくから、いっしょに取り組んだという達成感もあるかもしれない。だが、分類の作業が終われば、おそらく「結局、何もわかりませんでした」という結論になるだろう。整理しただけでは、いや整理することが目的になってしまうがゆえに、やがて行き止まってしまう。この例は、間違った方法(カテゴリ分け)である。

 

では、どうするのか。もう一度写真を解像度を上げて、「よく」みてみよう。

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色鉛筆は、たくさんある。よくみると一律の長さではなく、黄緑は長くて赤やピンクは短い。つまり使い手がよく使う色に応じて長さが変わっている。ということは、たとえば僕が使った色鉛筆群と、あなたの使った色鉛筆群では、色ごとの減り方が異なり、その減り方には使い手の個性が無意識のうちに映しだされている・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

そして、もう一方のMONOの消しゴム。購入したままの状態ではなく、まんべんなく角が丸まっている。つまり使う人は、ゴシゴシこすって消すときに、字が消えやすいように、角になっている部分を使って字を消しているわけだが、4つともカドが使われてしまい、このあとには生理的快感のない長いマンネリがつづく・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

この2つは、かたちも素材も違うけれども焦点の合わせ方によっては、よく似ている。(本当は他にも机上には色々なものがあるとして)それは、決して「文房具」というカテゴリによるものではなくて、もともと新品のときにあったものが使いこんでいく中で消耗して減っていく様子が「見える」ことに、なにか近しい意味が見いだせる、ということによる。

 

そして、ここまでわざわざ言語化しなくても、我々のもつ「直観」は、その近縁性をキャッチすることができる。ゆえにこの2つはなんだかよくわからないけども、なんとなくひっかかり、意識の水面下で引きよせあうのである。

 

 

それを付箋に描くとこうなる。

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それぞれどこまでが「事実」か、どこからが独自の「解釈」かは、明確にわけて書く。解釈は人によって多角的に行われるものであるし、いろいろな視点があるからこそ、みんなで同じものをみて、あれこれ気づきを重ねていくことに意義が生まれるものである。

そしてそれらを一行で圧縮した見出しをつける。通常の質的調査では、こんなふうに頭がねじ切れるほど頭をフル回転させて、気づきを重ねて調べていく。そうして作り出した言葉には、ちゃんと重みがある。実際に何かをデザインする際に、手がかりとなりうる。

 

 こんなふうに、2つの例をよく見比べてみれば、同じ付箋を使ったワークをやっているように見えても、そこで行われていることは大きく異なることがわかる。上の例では、単にみたものを名詞にあてはめ、カテゴリに入れるという機械的な「作業」をしているのに対して、下の例ではものごとの状態をよく見たうえで、さらに人との関わりの観点から意味を取り出し、さらに見出しで抽象度を高めている。決して付箋の「数」は問題ではない。

 

「付箋を貼って進めていくアレ」は、付箋を使っていると言っても、本当はただ付箋を貼っているわけではないのだ。こういった考え方は、一般的によく使われる演繹や帰納といった論理的なものではなく、発想(アブダクション)と呼ばれるちょっと違う考え方をしなくてはならない。だから論理でしか考えていない人ほどトラップにハマりやすいし、トラップからの抜け出し方を知識として押さえた上で、取り組んでいくことが大事だ。KJ法は、そこがどうしてもモヤるという人が多いが、論理だけでは捉えられない直観性をベースにしているからこそ、半世紀たっても古びないのだろうと思う。

 

まあ、そもそも当たり前のように付箋を使うこと自体がどうなんだ、とか、限られた期間の中でこんな負荷のかかる仕事に比重をかけるべきか、という議論は昔からあるのだけども、それはまた別の機会に。

 

参考資料

2年生の演習(コンテンツデザイン)で以前使っていたKJ法の資料を公開しておきます。よろしければお使いください。

 

 

 

 

【ベネッセ連載】わたしたちの身体は、すわりっぱなしに耐えられない

みなさん、肩こりや腰痛に悩まされてませんか。私は肩こりがひどくて困っています。ベネッセでの連載、第二弾です。人間のからだは、座りっぱなしで生きられるようにできていないので、オンライン学習やリモートワークではもっと積極的に体のことを考えましょう、という話です。
これは頭の中にあったのですぐ書けたのですが、次はいつになるか。
 
 

オンライン研究室の挑戦 / 作り手側の立場になってわかること。

 オンライン授業について。先日書いた1,2年生の大規模演習の記事はわりと読んでいただけたようだが、今回は4年生の研究室のことを書いてみようと思う。ここ3年ほど7〜10名程度でちょうどいい人数から、本年度は13名の学生を引き受けることになり、久しぶりの大所帯、かつオンラインでの研究室活動という難題が加わっている。

 

 4年生たちといっしょに使っているツールは、リアルタイムコミュニケーション用のDiscord+非同期コミュニケーション用のScrapboxという組み合わせ。(結局2〜4年生全部がDiscordになった)。卒業研究はグループワークではないので、いまのところコラボレーション用ツールは検討中だけど、これからStrap(β版)に期待しているところ。

 

さて、 みんなやる気のある学生たちだから、こんな状況でもなんとか自分たちでできる範囲で研究を進めてくれているが、研究の初期は他者とたくさんディスカッションしてリサーチクエスチョンを固めていくことがとても大事なので、いかんせんゼミの時間だけでは時間が足りない。どうしようかなぁ、とミーティングしながらおもいついたのが、「トーク番組」を自分たちでやってみる、という方法である。

 

 オンライン授業の受講生は、とにかく言葉を発する機会が少ないし、何かしながらの作業になりがちで、集中しにくい。その一方で授業する側は、喋る文脈に全神経をつかい、集中力がはね上がる。準備に準備を重ねてちょっとでもアクシデントあれば汗がだらだら流れるような緊張がつづく、そんな非対称性がある。

 

 そういった真剣さは、おおいに学ぶ経験へと直結する。自分が実際に「つくる側」に回ってみると、自然な文脈の中で話題を深堀りしていくために、他者の話を傾聴することがいかに大事か、テレビの司会者やラジオDJ、Youtuberらの話術テクニックがいかにすごいか、よく見えてくるはずだ。ということで、みんなが話せるゼミの機会だからこそ、全員でトーク番組的なスキルを学んでみよう、と提案した。

 

2回ほど僕を交えてパイロット版を行う。初回のテーマは、「笑い×デザイン」。笑いに詳しいメンバーが出演する。

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 そうして感覚を掴んだのちに、3〜4人で1組になり、ゲスト役、司会者、コメンテータを割り振り、司会者とコメンテータが協力してゲストの研究テーマを深掘りしていく。そんな役割分担で全員のトーク番組を収録することを事前課題とした。(ちなみに大学の学期は5/11からだったが、3,4年生はすでに配属が決まっていることもあり、フライイングして4月から進めている)途中で、ある学生が壁紙やオープニング映像、BGMをつくってくれて、某国民的トーク番組のテイスト、というかパロティで統一された。

 

そして期限の5/13(正式な初回授業日)・・・。全員がピシッと収録も編集も済ませてきた、さすが4年生。僕の方でまとめてyoutubeに限定公開して、内部で見れるようにする。

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  視聴者に広くみてもらうことではなくて、周りに手伝ってもらいながら自分の問いを深めることと、番組の形式をかりて「自分たちでやってみる」ことが主目的なので、とりあえず研究室メンバーがみれれば問題ない。(もし見たいという方いらっしゃったら連絡ください)

 

 そして肝心のトークの話題の掘り下げは、僕がいなくても学生たちだけで脱線しないでちゃんと深められるのかなぁ、と不安だったけど、全部の回が素晴らしくて夜な夜な視聴しながら思わず感動した。みんなすごいよ。さすが4年生。なにより普通に僕一人が中心に応答していると最低1ヶ月はかかるところが、分担したことで全員分の堀りさげが同時に行われた。圧倒的時間短縮。

 

 学生たちの真剣さの混じったトークを聴きながら、いろいろと考える。このテーマを探すプロセスの悶々とする時期が、自分も知らない自分の未来を探っている感じがあって一番楽しいし、不確実な、いまこの時代に生きる一人の若者のかけがえのないリアルさが記録されているように思う。

 

 これを2月の卒業前にも、4年間を振り返ってもらって収録してみるといいかもしれない。30年ぐらい保管しておけば、きっと素晴らしいタイムカプセルになる。それまでyoutubeがあるといいのだが。

 

 

 

ベネッセのメディアに寄稿しました

ベネッセ コーポレーション自社メディア「教育情報サイト」に、子供向けのオンライン学習についてのコラムを寄稿した。

benesse.jp

 

そして、転載されてYahoo!ニュースにも掲載。ちょっと嬉しい。

headlines.yahoo.co.jp

内容は、本文内にある問いに対して、僕なりの考えを書いたもの。

さて、そんな当たり前を冷静に捉え直してみると、奇妙なことに気付くのではないでしょうか。小学校や中学校の授業で習う程度の知識は、実はインターネットの中にたくさん溢れています。書店では工夫を凝らした映像やワークブックなどの教材も売られています。今の時代、学習しなければならない内容は、先生だけが持っているわけではなくて、勉強しようと思ったらわりと手が届く距離にあるはずです。それなのに、私たちはわざわざインターネット回線をつないだ狭い画面を通じて、旧来の学校で何を学ぶことを求めるのでしょうか?

 

だんだんと学校再開される県も増えており、オンライン学習も新鮮味のない話題になりつつある気もするが、そもそもの問いは普遍的だろう、ということで、whyとwhatを中心に書いた。ご笑覧ください。