Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

「道具をつくる道具」を、活かすお手本を見た

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「無料データをそのまま3Dプリント 作業に出会える道具カタログ/事例集」の 書評を書きましたので、転載します。とてもいい本でした。

 

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林園子氏・濱中直樹氏による「無料データをそのまま3Dプリント 作業に出会える道具カタログ/事例集」(三輪書店)が、2021年6月に出版された。タイトル通り、利用シーンや出力時間で整理され、QRコード経由で実際に使うことができる3Dプリントのデータ集であり、活用事例集である。・・・そう書けば、いわゆる「便利そうな本」に聞こえるかもしれない。ところが、それだけに収まらない独特の深さを持つ本なのである。

 

作業療法 ✕ 一人ひとりと向き合うデザイン

本書に収録されているさまざまな道具は、作業療法の世界、いわゆるケアやリハビリが必要とされる場で利用されるものが中心となっている。まず、ここで、作業療法で言う「作業」という言葉は、いわゆる単純作業の“作業”とは意味が違うことに注意しておきたい。接点がない人にはあまり知られていないが、作業療法で言う「作業(Occupation)」とは、日常生活とともにある家事、仕事、趣味、遊び、対人交流、休養など、人々が営むさまざまな生活行為と、それに必要な心身の活動を含む概念であり、この言葉のなかには、「できるようになりたいこと」「できる必要があること」「できることが期待されていること」など、一人ひとりに固有の目的や価値までも含まれている。

 

この作業療法とパーソナルファブリケーション(個人によるものづくり)は、実はものすごく相性がいい。なぜなら、作業療法士たちは、当事者たちの「作業」への〈出会い〉に立ち会い、「作業」を可能にするために道具をつくる。人の行為をつぶさに観察し、一人ひとりと向き合ったデザインを実践するエキスパートでもあるからである。著者の林園子氏は、その相性の良さにいち早く気づき、おそらくいまの日本において、両者をつなぐ可能性をもっとも深く掘り下げている人だ。

 

著者らが運営するファブラボ品川では、障害の有無に関係なく、誰かの暮らしを便利で楽しくする道具を「自助具」と呼び、その生み出し方を参加する人々とともに実験しつづけている。たしかに、目の前にいる困りごとを抱える当事者自身を「助けている」モノであり、同時に、一人ひとりに合わせたモノを介して、周囲の人々が間接的に「手助けすることを可能にする」モノでもある。

 

考えてみれば、我々はついつい自分の身体のことを無意識的に捉えがちである。思い通りに動いてくれるのが当たり前だ、と。でも、例えば、なんらかの事情によって片手が使えなくなったとしよう。あなたは、靴紐が結べるだろうか。まな板の上で野菜が切れるだろうか。Nintendo Switchで遊べるだろうか。そんなときにこそ、量産品ではなく、一人ひとりの身体や状況にあわせてパーソナライズされた自助具が必要になる。〈わたしが〉靴紐を結ばずに靴を履くことができる紐靴エイド。〈わたしが〉片手で調理できるように工夫されたまな板。〈わたしが〉Nintendo Switchを片手で楽しく操作できるコントローラー。

 

それらは決して万人が常に必要とするものではないけれども、必要とする人にはぴったりはまる、そこだけの居場所を感じさせる。作業療法から生まれたものではあっても、決してその世界だけに限定されるものではない。3Dプリンタは、それらを可能にする。デジタルデータを書籍という手段で運ぶことで、これまで届きにくかったところまで拡張されていく。



創造性は周囲の環境によって変化する

本書にまとめられた活用事例は、個人によってものづくりが拡張できることを実証しており、実に素晴らしい。でも、その一方で、違う方向を見れば別の景色が見える。3Dプリンタを始めとしたデジタル工作機器が普及して随分経つけれども、社会の中での裾野は、当初喧伝されたほどには広がっていない気もする。流行りに惹かれて買ってはみたものの、ホコリをかぶってしまっているマシンも多いようだ。この違いは、いったいどういうことなんだろう。

 

僕は私立大の情報学部で教員をしているので、若い世代のものづくりを見る機会は多いのだが、確かにうちの学部でも3Dプリンタはあまり使われていない。3Dソフトの扱いは複雑だとか、自分でモデリングするのはハードルが高いとか、いろんな理由を見つけることができるだろう。けれども、その理由を考えていけば、現代の社会が抱えるもっと大きな問題点に行きつく。

 

それは、いまの多くの都市生活者たちが、消費に最適化されすぎ、あまり創造性を必要としない環境の中に生きていることだ。デスクワーク中心の生活では、身体を使わず必要最小限の操作だけですませることができるし、衣食住に必要なだいたいのものはすでに揃えられている。そして100円ショップにいけば、安価な便利グッズや素材が並べられている。負けじとECサイトの方も「安くするから買え」とばかりにどんどんセールを知らせてくる。

 

改めて見渡してみれば、人々は「消費者」の立場でいることが当たり前になり、既製品の寸法に自分をあわせることに対して、疑いすら持てなくなっている。本当は自分で生活する中で困りごとや違和感を発見することができるはずなのに、それに気がつく順番までいつのまにかすり替わっている。熱心にやっていることは、あふれかえる選択肢から「買うか買わないか」を決めることだけだ。我々はいつから道具を自分でつくれなくなったのだろう? 

 

そんな環境の中で生きていれば、自由自在にモノをつくりだせる装置が近くにあったところで、使い道を見いだせないのは、ある意味当然と言えば当然かもしれない。



「道具を作る道具」を活かすには

 逆に、そんな環境に裂け目が生じれば、状況は一変する。思い通りにならない不便さや不自由さに直面したとき、人は本気で道具をつくりはじめる。自分自身の可能性を取り戻すために。あるいは共感する身近な人の力になるために。そんな経験を通して、人は自分自身が周囲をつくり変えていく力を、本来的に持っていることを発見する。創造性は、安定した環境よりも、葛藤をなんとかしようとする中で発揮されるのだ。

 

そう考えると、3Dプリンタという「道具をつくる道具」が活かせるかどうかは、単独のテクノロジーの使い方の問題ではなく、周囲の状況を含めた関係性を含めて捉えなくてはならないことは明らかだろう。本書に掲載されている道具たちは、「居場所」を持つ。〈場〉をとりまく人々のネットワークとともに在る。それらは、全ての事例に丁寧に記載されたストーリーによって、はっきりと確認できる。そこを見逃してはならない。

 

さらにいえば、それらは、ちょうど〈あいだ〉に生まれている。困りごとを抱える当事者だけでもなく、ケアの専門家だけでもなく、デザイナーだけでもない。道具、いや「道具をつくる道具」がその境界をつなぎ、異なる領域にいる人々のコラボレーションを新しく生成しているのだ。

 

本書は、便利な事例/データ集としてだけでなく、可視化されにくいダイナミックな実践的な活動の記録としても読むことができるだろう。それは消費傾向の強まる最近の生活の場とはまさしく対極にあるような、生き生きとした創造が埋め込まれた共同体づくりの優れたお手本となるに違いない。

 

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態度リサーチvol.8 / 個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞く

態度リサーチ#8を更新しました。今回のテーマは、「個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞く」。
 
先日開催された東京オリンピック2020の男子サッカー競技はスペインに敗退しましたが、試合後のインタビューである選手が、「彼ら(スペイン)はサッカーをしているけれど、僕らは1対1をし続けているように感じる」という言葉を残しました。デザインのプロジェクトも同じかもしれません。目的を見据えて個々の役割を超えて組織全体で取り組むことは重要なことですが、職務の壁を壊しつつ有機的に連携していくことは日本人の共通する弱点でもあるようです。個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞いてみました。
ゲスト:飯田義明氏(サッカー研究者/全日本大学サッカー連盟理事)
 
 

 

カードゲーム「甘えん坊ど」のクラウドファンディングがスタート!

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昨年度上平プロジェクト(2020)の学生たちがクラウドファンディングに挑戦しています。「甘えん坊ど」というカードゲームを自分たちでデザインしたので、それを印刷してたくさんの人に使ってもらおうとするものです。学生たちはゼロ地点から、1年以上かけてなんとかここまで到達しました。あまりない機会ですので、すこし背景を紹介してみようと思います。

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2019年12月のこと。例年と同じように次の年度が始まる前、ある学生たちがプロジェクトを起案したいというので、ひきうけました。(うちの学部のPBLは、通常のゼミのように教員に学生が集まるのではなく、学生が自分たちで起案して担当してくれる教員を指名するという、スタートアップのような仕組みで運営してます)

 

しかしながら、さあキックオフしようという士気が高まったタイミングで、ご多分にもれずコロナ禍に突入。みんな家に閉じ込めっれ、顔も合わせられない中で暗中模索の活動が始まりました。当初考えていたテーマも大幅に前提を変えながら、「こういう中だからこそ、新しく出来ることが生まれる」を合言葉に、一から考え直しました。

 

そして、どんどん社会が殺伐としていく中で、みんなの頭の中に浮上してきたのが、いわゆる「人に迷惑をかけてはいけない」という社会通念への疑問です。なにか困り事があっても、人を頼って解決するべきではなく、自分の力だけでなんとかしなければならない。多くの人々がそんな思い込みにとらわれ、個人では解消できないことを過度に一人で抱えこんでいます。こういった傾向は、結果的に「孤立」の問題を深刻にしていきますし、不特定多数の感情や怒りが表出されるSNSが普及して以降、社会的な圧力はますます強まっているように思われます。

 

business.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

 

そして、この圧力は、結果的に私たちを他者との関係をつくりだそうとする機会から遠ざけてます。本来、助けが必要な弱い立場の人々ほど、その影響を強く受けがちです。

 

こうした圧力に抗い、もっと生きやすい社会をつくることはできないのか?学生たちは問いはじめました。私たちは幼いときから常に誰かの力を借りながら生きてきたはずですし、世の中は”お互い様”だからこそ、助けを求める手とそこに差し伸べられる手は共同体をつなぐ紐帯となる。大人はなかなか変われないだろうけども、若い世代はまだ変われる可能性がある。もっと頼る側/頼られる側、それぞれの立場を経験する機会を通して自分のふるまいかたを見直してみよう。そんな、ささやかな提言から生み出されたのが、「甘えん坊ど」です。

 

このゲームの詳しい内容や遊び方は一番下にあるサイトを見ていただくとして、ネーミングからもわかるように、他者を信頼するという真面目くさったような言い方はしないで、あえて「甘える」と若者たちが普段つかうボキャブラリーに言い換えています。日常的なシーンを想定したコミュニケーションの駆け引きを演じるために、「茶目っ気」や「演技」を引き出し、「笑い」に落としやすくするためです。そして誰にでも出来るちょっとした「勇気」を出しやすくするためです。

 

こうした工夫は、プロジェクトの学生たちが同世代の共感の中で行われたことなのですが、年を重ねた大人たちにとっては、あまり理解できることではないかもしれません。「甘える」のも調子に乗りそうでいかん、と感じるでしょうし、長くチームで仕事している人にとっては、人にお願いや頼み事することそれを引き受けることは普通にやっていることでしょう。

 

でも若い世代にとっては、当たり前ではありません。都市部(特に東京)では他者は限りなく遠く、コロナ禍の学校生活では、友達に助けを求めようにも友達になる機会すら少ないと言えます。不要不急を乗り越える突破口として、コミュニケーションを取るなにかの口実を求めています。甘え方だって、どこからがずうずうしいのか、どこまでが愛嬌なのかのバランスは際限なく判断が難しいものですが、その感覚はたくさんの経験を通してしか学べないでしょう。「当たり前」は意外に難しいのです。

 

途中過程では、山ほどのトライ&エラーが繰り返されました。簡単なゲームでも作るのは大変です。そしていろんな人々が協力してくださいました。(アトラエの竹田さん・木下さん、黒崎BASEの河西さん、ありがとうございました!)

 

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(学生たちの発表資料より)

 

さて、僕はと言えば、あまり指導らしいこともしてない気がしますが、このプロジェクトを進める学生たちの間近で、去年自分の本を書いていました。その終盤で、こんなことを書いています。

 

だからこそ、社会全体の大事な役割は、一人でも多く前者の可能性を信じ、そこに賭けて行動できる、そんな「豊かさ」を持つこと。そして、ときどき失敗はあるかもしれないけれども、きっとそれよりも大きな喜びを分かちあうことができるに違いない、そう思える経験が積める場、そんな学びが埋めまれた場を増やすことだと思います。

「コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に」P317 上平崇仁

 

受け取る人それぞれにふくらみが生まれるように、かなり抽象度高めに書いたところでしたが、それでも本の核心のメッセージを含んだものではありました。「あまえん坊ど」をつくった学生たちはこの文章を読んだわけではなかったけれども、僕が節々で発していたぼんやりした言葉に呼応して、彼ら/彼女らなりのやり方で、見事に具体化してくれたように思います。まさにいっしょに進めながら相互作用として起こったことなので、それが一番嬉しいことです。

 

 クラウドファンディングは以下のページから。

ご支援どうぞよろしくおねがいします。

camp-fire.jp

態度リサーチ#7 / 音楽療法と言わないミュージックファシリテーターに、介護の場で音楽を活かすことについて聞く

音楽は、現在形で味わうだけでなく、遠い過去の自分と接続して内的な変化を起こしたり、共にいる他者と接続して心を共振させたりする不思議な力を持ちます。しかし、その音楽を"療法(セラピー)"として用いる場合、治癒する/される、それぞれの側に分断的なニュアンスがうまれがちです。それに対して、さまざまな関係性を生成する資源として音楽を捉え、介護の場を中心に"場作り(ファシリテーション)"を実践されている柴田氏に、ご自身の取り組みとその背後にある態度の話を聞かせていただきました。

ゲスト:柴田 萌氏(ミュージックファシリテーター/ 株式会社リリムジカ代表)

 

 

lirymusica.co.jp

「フィールド演習」:新しい学びの実験を始めました

今年から、新カリキュラム3年生向けの新しい演習「フィールド演習」をはじめている。われわれは長年、学生起案型のプロジェクト演習を続けてきたけれども、それに安住することなく、時代の動きに合わせたもうひとつ先を展望した新しい学びを作っていこうという試み。演習企画とチーフは僕で、ここ最近の研究で得た知見を全投入している。

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1. なにをやっているのか

教材サイト(学内google site)より。

 

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テーマは、"Designing with Other Beings" この世界に存在している「人間以外のものたち」と、自分(学習者)がコラボすることによって、なにかのはたらきを持つものをつくってみる。また、それがはたらくことによって何が起こるかをよく観察する、というもの。

 

我々が渦中にある「気候変動」や「パンデミック」は、人間だけでこの地球環境がつくられているわけではないことを強く突きつける。テーマからわかるように、こっそりとマルチスピーシーズ人類学や存在論的デザインのエッセンスを混ぜつつ、学部生が必要以上に身構えず、身の丈でトライ&エラーができるような内容にしている。

 

 

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そして4つのプログラムの教員4人による共同運営。ちなみにコース必修なので人数も多い。履修者計、150人超。上のテーマをそれぞれのプログラムで同時進行し、時々ミックスしながら進めていく。

 

 

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デザインの学生だけでなく、「フィジカルコンピューティング」「ITビジネス」「メディア・コミュニケーション」と多様な学生たちが同じテーマに別々の解釈と専門性を持ち、交流しながら制作に取り組んでいくところがポイントである。そして手前味噌ながらも、(日本においては)けっこう先進的な取り組みなのではないかと思う。

 

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 2. 演習の様子

いくつか写真を紹介。

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5月12日。上の写真は課題ガイダンスは屋外にて青空教室。クラス全員がスマホGoogle Meetに入って音声配信していて、こう見えて実はオンラインとのハイブリッドである。(一度やってみたかった)一年で一番いい季節なので、柔らかい朝の日差しと爽やかな風、鳥の声が気持ちいい。

 

5月19日。学内フィールドワーク。いまや廃墟となっているキャンパスの外れにある「万葉植物園」を歩く。万葉植物園は万葉集にちなんだ植物を植えたもので、古典文学と植生をつなげる試みでもある。

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学生たちは整備された都市とは全くちがう空間に投げ込まれることで、先週のキレイに整えられたキャンパス内の中庭との違いを肌で感じることになる。自然は強烈な生命力に溢れており、ここではむしろ我々のほうが邪魔者だ。

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道をふさぐ倒木に絶句しつつも、乗り越えて歩いていく。それがこの演習内の課題。山の中にしか見えないけれども・・・生田キャンパスの中である。

・自然の中で様々な草花・木・虫を観察してみると繁殖を止めないように生命活動をしていることがよくわかった。
・「自然は緑」と言っても緑にもたくさんの色の種類があり、よくみると黄緑だったり濃い緑だったりして面白かった。
・街で繁殖している植物たちもきっと子孫を残そうと必死に活動しているはずだ。
・風が吹くことは自然界の植物にとって種を遠くに飛ばすための移動手段
・雨上がりの森は自然の色が映えて見える、空気も澄んでいる

(学生のフィールドノートより)

他の先生は、あんなところに行くのは危ないんじゃないかと眉をひそめていたけど、僕はこの思い通りにならなさが大事なんだ、と押し切った。「そういやなんでかわからないけど、授業で倒木を乗り越えたなぁ」ってのは10年ぐらい経っても忘れないよね。

 

 

5月19日。ビデオレターをみんなで見る。

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まさしく課題テーマそのもののプロジェクトをすでに実践されている方々、

1)独ベルリンのスタートアップ、Dycleの松坂愛友美さんと佐藤チヒロさん、
2)花人の山本郁也さん
3)調布みつばちプロジェクトの児島秀樹さん

から素敵なメッセージをいただいた。(ありがとうございます!!)

本当は講演に来ていただきたいところだが、こんな情況でもあるので、ビデオレターという非同期のかたちに。

ideasforgood.jp

 

fumiyayamamoto.com

gmsengawa.com

5月26日。フィールドワークから見つけた多様な対象をみんなでmiroに共有し、そこからひとつにしぼってアクタントマッピングキャンパスを描いてみる。

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ACTANTの南部さんが紹介していたワークシートをアレンジして使ってみた。(画像はの僕が作ったサンプル)

「アクタント マッピング キャンバス」は、利害関係者を人間だけに限らず、ノンヒューマン(地球や動物といった自然環境)まで広げて描けるようにカスタマイズされている。通常、ステークホルダーマップは円で描かれることが多いが、これまで、人間やデジタルテクノロジー以外の要素は円の外側に置かれ、事業の骨幹からは除外されてきた。このキャンバスではノンヒューマンな要素も人間と同様の扱いとして円の内側に配置して、ビジネスの検討をスタートする。自然環境への細やかな共感を促し、環境負荷が低く、かつ実行可能なプランを導き出すことが主要な目的となっている。

人間中心のデザインでいいんでしたっけ?01:アクタント マッピング キャンバス|ACTANT_FOREST|note

 

6月2日。アクタントマッピングキャンパスで注目したところを起点にアイデアシートを描き、プログラムを超えて少人数ブレストする。

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教室移動や相手を探す時間を省くためにオンラインミーティングを取り入れてみたら、むしろ初対面の気まずさが減って話し合いは盛り上がったらしい。写真は、Macでmeetにつないで、スマホで文字起こししつつ、アイデアシートを練っていく学生・・。教室にいながらこれが当たり前にできるとは、なかなかすごい時代になった。

 

3. 利用しているデジタルツールなど

対面演習だけど、Discordも併用した仮想教室をつくっている。また各プログラムの学生が乗り入れて全員がフィールドノートやワークシートを共有できる仕組みをつくっている。

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個人チャンネルをつくると活動が可視化されてなかなかよい。G Suitesだけだと学生間の横のつながりや他クラスの学習の様子がみえないので、演習としてはものたりないのだ。

 

また フィールドノーツは、CodiMDというオンラインのメモサービスを利用。 みんなmarkdownで毎週の活動をまとめている。まだ試行錯誤ながら、時々教員の想定をはるかに超えて面白い記録を書く学生が現れてきた。

↓この学生さん(フィジカルコンピューティング・プログラム)の観察力と資料探してつきとめていく探究心、マジすごい。読みながら思わず変な声が出た。

note.field-lab.balog.jp

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こんな感じで現在進行形で、6/2からだんだんプロトタイピングにはいろうとするところ。学生たちも迷いながらも、この謎な取り組みの意義に反応してくれていている(と思う)。

 

やはり、プロジェクトのような「ゴールを決めてから、「やる」という順番の組織的な活動と違って、個人ワーク中心なので、「やってみてから、ゴールを決める」ことができることをもっと体感してほしいかな。

 

ちなみに、この演習は2単位だけども、プロジェクトの繁忙期と重ならないように通年科目として変則運用している。なので夏休みを含んで11月までかけて試行錯誤や運用の観察をつづけていくことになる。面白い活動が起こりそうで楽しみだ。

 

 

 

須永剛司 ✕ 上野学 特別対談「現象学とデザイン」

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5/27(木)の夜、若手のみなさんが集まる読書会のメンバーを母体にしたオンラインイベントを企画しました。情報デザインの第一人者の須永剛司先生(元東京芸大教授)とオブジェクト指向UIデザインを理論化し、常に一貫した鋭い言説で知られるデザインコンサルタント上野学さん(ソシオメディア)が語り合う、という歴史的な対談です。

 

須永剛司先生の「デザインの知恵」、上野学さんの「Modeless&Modal」もみんなで読んでいたので下準備はバッチリ!・・・のはずが、お二人のリクエストで何か中心となるお題があったほうが話しやすい、とのことで僕がチョイスしたのが「現象学とデザイン」。難解そうなテーマながら、二人は我々にもわかるような易しい言葉で丁寧に話してくださり、交わされるやりとりに参加者一同心から酔いしれ、目からポロポロと鱗を落とした夜でした。あまりに深夜に興奮しすぎたせいで、みんなよく入眠できなかったようです。

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参加してくださったグラフィックレコーダーの清水淳子さんから図の公開の許諾を頂きましたので、ここで公開しておきます。

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もっと拡大してみれるPDFはこちらにあります

図を丁寧に見ていくと、どんな対談がおこなわれたの概要はつかめるとおもいます。清水さんの視点を通した表現ですので、文字による議事録とは位置づけが違うものですが、このグラレコは出てきた「キーワード」と流れの中では見えにくい「話題の接続」はしっかりと明記されている一方で、抽象的なものは抽象さを保ったまま描かれており、(参加者は)自分の解釈と照らし合わせた再解釈ができるようにバランスよく描かれていることに気付かされます。その絶妙な切れ味は、まさしく名人の寿司職人が刺身を一瞬でスッと切るような、自我意識に先立つかたちで身体が反応していく即興的行為ならではです。熟考してあれこれ検討しているとこんな鮮やかさな記述にはならないものですね。ありがとうございます。

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今回はインフォーマルな場ということもあり事前非公開でしたので「参加したかった」と悔しがる声も数多く聞こえてきそうですが、須永先生と上野さんも楽しんでくださったようですので、またいつかリアルでも機会があるかもしれません。

 

須永先生、上野さん、お忙しいところありがとうございました!

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■須永剛司『デザインの知恵』フィルムアート社2019

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■上野学・藤井幸多『オブジェクト指向UIデザイン』技術評論社2020

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■対談の中で触れられた本

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PodCast 態度リサーチ#6 / 心地よくない地で感じる心地よさについて、南極観測隊員に聞く

態度リサーチVol.6を更新。人類の多くは都市部にすみ、人工的に快適な住環境を形成しようとしてきました。その一方で「いま自分がここで生きている」という実存の感覚は、厳しい自然環境の中の方が強く湧き上がるのかもしれません。地球上においてもっとも過酷な環境のひとつである南極大陸に、第60次南極観測隊員として滞在した金森晶作さんに、自然と対峙しながら生きる態度についてお話を伺いました。
ゲスト:金森晶作(第60次南極観測隊員 / とかち鹿追ジオパーク専門員)
 

 

冒頭にアラスカつながりで話題に出した、永久凍土の研究者の吉川さんについての記事はこちら。

kmhr.hatenablog.com

13年前にパイロットから聞いた、機械と人間の関係の話。

自動運転のことを調べていて、昔聞いたことを思い出したのでweb archiveから救出。

たしか妻の実家の周辺の方々とバーベキューしたときのことだ。もう13年前か。

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パイロットから聞いた、機械と人間の関係の話。

 

BBQでお会いしたベテランのパイロットの方の話が興味深かった。今のジャンボ機が自動操縦であることは知識では知っていたが、実際に操縦している人から聞いたのは初めてだ。

「コンピュータ化が進んで、いろいろ葛藤はあるよね。これまでは3人必要だったのが2人で済むようになって、そんで人間は何しているかというと『どこかおかしくないかを見張る』ってことが中心なんだから。」

「操縦する人間のモチベーション的にどうなんだろうね。それに操縦のカンはいざというときに必要になるとしても、ストックされ続けるわけじゃなくて、人間、使わないで居ると大事な能力はどんどん無くなっていくからね」


ボーイング社とエアバス社ではインタフェースの設計思想が全く違っていて、ボーイングの方はまだ最終的な決定権は人間にあるように作られているけど、エアバスは逆に人間の意思決定が介在させないように作られている(ような気がする)。喩えで言うと、『危ない、と思ったときには車のハンドル切らないで、手を離せ』と。最初からエアバス操縦している人なら混乱は少ないかもしれないけど、パイロットはみんな他のメーカのとか古いのとかもずっと乗ってるわけだからねぇ。経験長いほどギャップ有るよねぇ」

「じゃあボーイング社のような(人間が最終的な判断する)方がいいかというと、それも一概には言えなくて事故原因としては圧倒的にヒューマンエラーの方が多い。安全性の優先という意味ではエアバスのような考えもある」

「ヨーロッパ(エアバス)とアメリカ(ボーイング)の機械に対する考えの違いや、それが生み出された文化的な背景を強く感じる。乗っているとその違いがよくわかるよ。日本人が作ってもまた違うんだろうけどね」


そこから話は零戦や桜花に移り・・・ふむふむと聞いているうちにあっという間に時間切れに。
貴重な話で楽しゅうございました。



Airbus A380 - cockpit | p a n o r e p o r t a g e | g i l l e s v i d a l
エアバスコクピットを360度ぐるぐると見渡せる。なんという計器の数。

■Airbus A340の組み立てを340秒で一気に見る

PodCast:態度リサーチ#0〜#8をまとめて聴く

上平が試験的にお送りするPodCastです。何かをデザインする際には、知識や技術だけでなく、ものごとにどう向き合うかの、"態度"の側面も重要です。しかし、態度とはいったい何なのか、分かるようでなかなかつかみどころがありません。そこで、デザインとは一見馴染みのない分野の方に話を聞き、なにかに対峙する際に通じる微かな線を見つけることによって、態度の観点を浮かび上がらせてみようとする試みです。(三角をクリックすると視聴できます)

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#0|はじめに

 このPod Castで何を試みようとしているかについて、試しにひとりで喋ってみました。音声データの作り方も手探りですが、何よりも一人で楽しそうに喋るのが難しいですね。

 

#1|学び得ぬものをいかに学ぶか、について人類学者に聞く(を一人でふりかえる)

 3/2に行った上記トークショーの記事は全文書き起こししてあり、こちらで読めます。
初回が欠番になってしまうと、なんだかコンプリートできずに気持ち悪かったので一人で振り返って語ってみました。

ゲスト:比嘉夏子氏(人類学者)

 

#2|"構え"は何を決めているのか、について剣士に聞く

 武道で言う「構え」は、攻め方のスタイルを示しますが、相手とのかけひきの中で自分の向き合い方を探り続けるという意味で、態度に似ています。剣道の場合、構えは何を決めているのでしょうか。

ゲスト:齊藤実氏(剣道家

 

#3|万物がつながっているとはどういうことか、について僧侶に聞く

 さまざまなものごとが分断化していく現在の状況において、「連関的に世界を捉える」という意味で仏教は重要なことを示唆しています。そして仏陀の教えが時代や社会背景によって大きく変容している点では、近年のデザイン概念が普及していく過程にも重なるように思われます。私たちの生きている世界は、仏教の観点からどのように解釈できるのでしょうか。僧侶としての一面も持つ安藤昌也氏に話を聞いてみました。

ゲスト:安藤昌也氏(浄土真宗僧侶)

 

#4|花を殺しつつ、生かすことについて、花人に聞く

 野に咲く花は、自然の生態系の中で咲いているに過ぎません。そんな花を日本人は古くから愛し、人間を超越した存在として居室内に取り入れてきました。花を活ける行為は「殺しつつ、生かす」ものであり、罪深さを抱えた"祈り"と共にあります。この葛藤に対峙し続ける、花人の山本郁也さんに話を聞かせていただきました。花人とは、「花」と「人」の関係について哲学する人です。

ゲスト:山本郁也氏(花人)

 

#5|計算できるものと計算できないものについて、数学者に聞く

さまざまな高度なシステムが人間の頭脳を超えて自動的に計算していく時代です。しかしどこまで行っても計算し得ない領域があり、それこそが私たちがこの世界に生きる根源的なことでもあるようにも思われます。数学とアートを創造することによって止揚する試みを行う巴山氏に、「計算できること」と「できない」ことについて話を聞かせていただきました。

ゲスト:巴山竜来氏(数学者)

 

 

#6|心地よくない地で感じる心地よさについて、南極観測隊員に聞く

人類の多くは都市部にすみ、人工的に快適な住環境を形成しようとしてきました。その一方で「いま自分がここで生きている」という実存の感覚は、厳しい自然環境の中の方が強く湧き上がるのかもしれません。地球上においてもっとも過酷な環境のひとつである南極大陸に、第60次南極観測隊員として滞在した金森晶作さんに、自然と対峙しながら生きる態度についてお話を伺いました。
ゲスト:金森晶作(第60次南極観測隊員 / とかち鹿追ジオパーク専門員)
 

 

#7|音楽療法と言わないミュージックファシリテーターに、介護の場で音楽を活かすことについて聞く

音楽は、現在形で味わうだけでなく、遠い過去の自分と接続して内的な変化を起こしたり、共にいる他者と接続して心を共振させたりする不思議な力を持ちます。しかし、その音楽を"療法(セラピー)"として用いる場合、治癒する/される、それぞれの側に分断的なニュアンスがうまれがちです。それに対して、さまざまな関係性を生成する資源として音楽を捉え、介護の場を中心に"場作り(ファシリテーション)"を実践されている柴田氏に、ご自身の取り組みとその背後にある態度の話を聞かせていただきました。

ゲスト:柴田 萌氏(ミュージックファシリテーター/ 株式会社リリムジカ代表)

 

#8|個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞く

anchor.fm

先日開催された東京オリンピック2020の男子サッカー競技はスペインに敗退しましたが、試合後のインタビューである選手が、「彼ら(スペイン)はサッカーをしているけれど、僕らは1対1をし続けているように感じる」という言葉を残しました。デザインのプロジェクトも同じかもしれません。目的を見据えて個々の役割を超えて組織全体で取り組むことは重要なことですが、職務の壁を壊しつつ有機的に連携していくことは日本人の共通する弱点でもあるようです。個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞いてみました。
ゲスト:飯田義明氏(サッカー研究者/全日本大学サッカー連盟理事)

 

 

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夏頃までに時々アップしていきます。全部で10本ぐらいのインタビューを予定しています。

 

このポッドキャストの背景に関する解説記事はこちら。

kmhr.hatenablog.com

 

『三人称を超えて 」ー デザイン概念の輪郭をさぐる試み

経済産業省主催で、地域版高度デザイン人材調査研究の一環として、4回連続のオンラインイベントが開催されました。

3/4には、この第4回イベント

事例からひも解く!地域と共創するデザイン人材とは?
vol.4「これからの地域デザインの在り方」

というタイトルで、プログラムの一つとして私もトークしてきました。

loftwork.com

 上記プログラム上では「基調講演」となっていますが、そんなにたいしたものではなく、15分程度の前座的トークです。ただ、事務局のロフトワークさんと経産省の担当者さんから、個別事例じゃなくて研究者らしく抽象度の高い話をしてほしい、というオーダーを頂き、そういう方向性を意識した話になっています。誰かの参考になるかもしれませんので、スライドを公開しておきます。

 

speakerdeck.com※タイトルをクリックすればSpeakerdeckのサイトに飛び、全画面で見れます。

 

ここで2つした話題のうち、後半の「三人称を超えて」というトピックは、おそらく今後議論になってくるような気がしています。別の場所でちゃんと文章にしようと思っているところなので、ここで一旦話したことを元に加筆して、ここでプロトタイピングとして再構成してみようとおもいます。

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「三人称」を超えて、という話をします。いきなり語学の時間に習った言葉が出てきて戸惑うかもしれません。

 

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現在、デザインは社会のあちこちで取り組まれていますが、多くの分野において、その成果を測るための「数字」は重要な指標のひとつです。たとえば製品であれば販売台数、アプリであればダウンロード数/ユニークユーザ数、広告であればコンバージョン率など。個別の人々の奥底に潜んでいる共通性を探り当て、たくさんの人が共感したり、使用したりすることでその時代を動かしていく。「デザイン経営宣言」(経産省,2018)に見るように、"競争力を上げる"ためにそんなデザインの力は活用されてきましたし、事業者にとっての死活問題となってきました。これらは資本主義経済の中で運用される以上は、前提と言っていいことです。

 

一方で、この枠組みでは、視点がマクロ(巨視)になるため、実際に社会で生活している人々を抽象化して扱うことになります。そこで事業者は、ユーザ、消費者、ターゲット、顧客など、一括して人々につけるさまざまなラベルを用意してきました。つまり三人称の「They(彼ら)」です。これは逆の立場でも同じであり、人々の側からは事業のなかにいる人の顔は見えません。双方が「They」と「They」で捉える関係性になると言えるでしょう。

事業をスケールさせていくためには、三人称の視点は不可欠なものですが、必然的に「客観」的な立ち位置が起点となります。そこには、どうしても距離が生みだされるため、内側にいる個々の人々の利用文脈や感情に焦点をあわせる術がない。そんな構造に問題意識を感じたデザイナーたちは、それを乗り越えるために、対象となる人々をモデル化して狙いを定め、不確実性を削るための手法、例えばHCD(人間中心設計)の各種手法を生み出して来ました。仮想的であっても似顔絵や名前をつくったりするのは、なんとか距離を近づけ、実際の人をイメージしようとする渇望からです。

 

三人称の視点は、デザインの概念と深く結びついています。
例えば「お弁当」を想像してみましょう。お店で売られている「お弁当箱」や「お弁当のレシピ本」は、ほとんどの人がデザイン(されたもの)だと考えるでしょう。一方で、その弁当箱をつかって家族が子供に作ってあげるような、ある日の「お弁当そのもの」は通常はわざわざデザインと呼んだりしません。工業製品の弁当箱よりも、誰かのために心をこめてつくったお弁当自体の方が、ものづくりとしては意味がある気がするのですが、そうではないのでしょうか。デザインは「意味を与える」もの、と定義されたりもするのに、不思議なことですね。

 

大勢の人(They)になんらかの「よさ」の共感を呼びおこし、人々に通底する一種の共通感覚を刺激すること―言いかえればミーム的な拡散力―を持つことが、一般的には優れたデザインとされますし、その「型」の持つ普遍的な強さが、専門家が評価する場合にも重視されます。そして逆に、再現性がまるで無いような、その場限りで蒸発してしまうような即興的な行為や、労働集約的な手作りの行為に対しては、多くの人は「デザイン」という語を当てません。


ここで疑問が生まれるかもしれません。では一点物のプロダクトはデザイン(されたもの)ではないのでしょうか。例えば、オーダメイドのドレス、特注のテーブル、特製のリハビリ道具などは、当事者にとって量産品にはない特別な体験を提供しています。それは不特定多数には向かわないごく限定的なものではありますが、その持ち主を別の日にも手助けしてくれる、という小さな再現性が認められます。したがって、やはりデザイン(されたもの)と言えそうです。またそこにしかない希少なエピソード的体験と切り離せないと考えれば、その伝播においては、やはり一種の「型」をもったストーリーがあり、それが語りによる共感を通じて拡散しています。こうした拡散力とデザインという言葉が結びつきやすいのは、近代デザインの概念が産業革命以降のモダニズムの価値観の中で発達したことと大きな関係があるのでしょう。

 

ここからが本題です。手書きの「お手紙」はどうでしょうか。特定の人と人のコミュニケーションは、わたし(一人称)からあなた(二人称)のあいだで成り立ちます。拡散することを求めてはいませんし、むしろそれは目の前にいる大事なあなた(You)への一期一会のメッセージの価値を貶めるものでしょう。ここで、相互に顔の見える関係性で行われる行為は、「デザイン」よりも「ケア」のほうがよほど近いとも言えます。ケアは相手(YOU)を「気遣う」とか「思いやる」という、再現性が無いからこそ関わり合う人の間で相互に意味が発生する行為です。YOUとYOUの関係の中で成り立つ感情は、事前に計画さえ得ない、生活者自身にゆだねられた余白なのかもしれません。手作りのお弁当をデザイン(されたもの)と感じにくい理由はそこにあるのでしょう。


とは言え、「ケア」もデザイン以上に曖昧な言葉で、内容もないまま可変的に使われる「プラスチック・ワード」という言葉のひとつに数えられるぐらいです。したがって先程の試みをケアに置き換えようとするのも、無理のある話なのかもしれません。

 

これほど情報があふれる世の中ですが、探しものはなかなか見つからないもので、わたしたちはまだまだ適切な言葉を求めて努力しなければならないようです。そして万人が納得するような適切な言葉がみつかるのは、それが制度化され、魅力もすでに消え失せてしまった頃なのでしょう。ここではデザイン概念の輪郭らしきものを少々指摘するにとどめます。

 

 

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そんなデザインする行為も、人々がそれぞれの地域の中で実践していくためには、「学び」の側面が切り離せなくなります。では、学びとは、どのように起こるのでしょうか。近年の学習観では、学びとは固定的な知識を注入して自分の中に溜め込むようなものではなく、主体的な活動とともにあり社会的に構成されるものとされます。人は身近にいる他者との共感を通じて社会を学ぶのです。

 

これをモデルにしたものとして、認知科学者の佐伯胖先生は、「学びのドーナツ理論」を提示しています。学び手(I)外界の見え方を広げ,理解を深めていくときには、必然的に、二人称世界(YOU)〈人物,道具,言語,教材〉との関わりを経由する。さらにYOUとなる他者は「第一接面」と「第二接面」の両面に接するとして、単に内輪で共感し合うだけではなく、「外側」に広がる世界に接続する存在でもある。2つの円を重ね、身近な他者(YOU)しか持てない2つの接面の不可欠さを主張したものです。

 

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地域の中でデザインする場合、すでに確立した産業のように三人称的に捉えるのではなく、顔が見えるYOUとYOUの関係を起点にしたものに再解釈し直すことが重要になるのではないでしょうか。 

職種としてのデザイナーだけでなく、何らかのかたちでデザインする人は、前述したようなさまざまな「葛藤」(※スライド参照)「が混ざり合うエリアにたち、地域に生きる個別の人と関係をむすびながら、社会文化や自然環境とを媒介する存在であるはずです。さきほどの「お弁当」の例で言えば、それぞれの地域にある、旬な食材に目を向けることから。その最高の味わい方を育くみ、共に愉しむところから。

 

それは外側(デザインモデル / ビジネスモデル)から内側を決めるのではなく、内側から自然と外側の姿が立ち上がっていくようなありかたです。

 

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逆に、デザインする人自身が学び手になることもあるでしょう。自然界に対してはたらきかける第一次産業(農業,林業,漁業)などは、他種(動植物)とともに生きる中で成り立っています。そういった専門家を介することで、知らなかった豊かな自然界の見え方や生き方を学ぶことになるはずです。

 

こうして、YOUとYOUの双方がともに喜びを見いだすことができれば、そこには共感をもった関係性がうまれるでしょう。お互いのあり方は変化していき、活き活きとしたコミュニティにつながっていくはずです。イリイチの言葉でいえば、「コンヴィヴィアリティ」(共愉)です。

(以下略)