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みえないものを、みる視点。

オンライン演習でのチェックイン/チェックアウト

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 前期授業が終わりに近づいている。強制的なオンライン授業、受ける側だけでなくする側も初めての経験ながら、なんとか無事に終了することができそうだ。オンラインではやはり限界があるなという感覚と、逆に効果的なこともあるなという感覚、いろんな気づきがあったが、仮想的な「場」の感覚を醸成するための工夫については、毎週強く考えさせられた。

 その中で僕が特に気付かされたのが、ワークショップでよく使われるメソッド、「チェックイン/ チェックアウト」の意味である。今日はその話を書いてみようと思う。

 

チェックイン/ チェックアウトとは
 チェックイン/チェックアウトとは、通常は、ホテルへの宿泊や飛行機搭乗の際に、顧客が到着し、そのサービスに入る手続きのことを指す。この言葉をメタファとして、ワークショップでは、参加者がその場の本題に入っていく際(チェックイン)、また出ていく際(チェックアウト)に、自分の状態や心理を調整するための技法として取り入れられている。

 

 「技法」と書いたが、特にスキルが必要なものではない。時間を少々とって、車座になり、例えば「今の気分は?」とか「今日は何を期待してここに来ましたか?」などの参加者それぞれの状態を簡単に共有する程度のことである。
 なので、基本的にはやろうと思えば誰でもできる。ワークショップに参加したことがある人は、ファシリテータがわざわざチェックインと言ってなくても、それに近い導入を取り入れていたことを思い出す人も多いと思う。

 

 ではなぜ「場に入る」ために、わざわざそんな儀式的な行為が必要なのか。ワークショップ設計所の小寺氏は「チェックインは、存在確認なのだ」と書いているが、まさしく僕もそう思う。

ws-plan.pro


 人々が一か所にただ集まっていても、それぞれがお互いの存在を受け入れているとは限らない。また、よく知っている間柄だったとしても、人の気分は毎日すこしづつ異なっている。他者の心のありようやプレゼンス(存在感)は、それほど自明なものではない。

 

 したがって、これからいっしょに何かをやるぞ、というときに、お互いの様子を確認し合い、お互いの存在を受け入れる態度を示し合うことは、当たり前のことに見えて実はとても重要なプロセスだ。逆に言えば、場作りのプロは、だれもが暗黙にしがちなところにまで丁重に気を配っていることが、プロたる所以なのだろう。

 

オンラインこそ、そんなきりかえが必要だ
 翻って、オンライン授業はどうか。受講生たちは同じ場所にすわったまま、デスクトップの上だけでビデオ会議システムに出たり入ったりを繰り返す。多くの場合、マイクもビデオもオフにしたままだ。なので、システムの中でアイコンが並んだり、視聴者数が表示されていたとしても、そのインタフェースの向こうに実際に生きた人がいることを、「直接」感知できるわけではない。


 しかし、演習に際しては、オフラインであろうがオンラインであろうが、目的のために力を合わせ、気持ちを分かち合う「仲間」となることが求められる。オンラインでは同じ場にいるはずの他者の心の機微を全く感じれないからこそ、その場に入る際には、意識的にお互いに「ああ、こんな人がいるな」と存在を確認し、受け入れ、それによる気持ちの切り替えを行う儀式が必要なのである。

 

オンライン授業で取り入れる
 そんなわけで、演習では毎回、最初と最後に必ずチェックイン・チェックアウトを試してきた。みんなにそれぞれ発言してもらうと時間かかるため、タイミングを揃えて一言チャットに書いてもらうという方式である。感覚としては、みんなで「しまっていこー!」「おー!」をやっているようなものである。
 いろんなお題を試したが、お題を毎回考えるのもなかなか難しいので、2年生の演習ではそれぞれで教員やTAで出題を分担しあった。


僕が出題した中でのお気に入りは、以下の3つ。

 

■第1回チェックイン(初回)

「いまの気分を、顔文字ひとつだけで表してください」

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■第10回チェックイン(演習終盤)
「あなたは、先生の代わりに授業始まりの掛け声をするとします。みんながラストスパートに向かって「超」やる気を出すために、どんな言葉を叫びますか?」

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■第11回チェックアウト(次回が最終回)

「ラストスパートに向かって、他のチームのみなさんに盛大な励ましの声援を!」

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 こんなふうに一瞬でタイムラインが埋め尽くされる(キャプチャは一部分)。

一斉にコメントすることによって、お互いのキャラクターが目に見える存在となり、結果的にみんなが同じ状況の中で相互に励まし合っている感覚がうまれる。(テキスト越しでもみんなの熱気や感情は感じるものであり、僕ですらそれなりにゾワゾワする)

 ZoomもMeetもチャットが毎回リセットされるため、こういった一瞬起こったムードもクラスの土壌につなげにくいのが難点だが、その点、我々はDiscordを使っているので、専用チャンネルをつくっておけば、ログが残る。こんな風にキャプチャも取って共有できるし、いつでも見直して元気になることもできる。

 

おわりに
 オンライン演習でのチェックイン/チェックアウトの事例を紹介した。実空間ではキャンパス内に教室の外側の空間が存在することで、ドアを介して内側に「入る」という感覚はあった。さらに時間になったら教員が現れたり去っていくことで、無意識的に授業のオン/オフの切り替えが起こっていたように思う。しかし、そういった手がかりがない場合には、相互の存在の感じ方や場の雰囲気の生まれ方に対して、もっと気を払い、小さな工夫をすることが求められている。

  

【ベネッセ連載】プログラミング「で」学ぶほうがいい

ベネッセの連載7月分。今回は編集部の要望でプログラミングに関する記事です。デザイン思考とつなげて解説してみました。

プログラミング学習は、上の子が小学校入りたての頃には自分の勉強も兼ねて自宅で定期的にやってましたが、だんだん抽象度が高まってくると四則演算が関係して理解の壁があるのと、ぼくが忙しすぎてやむなく一時中断してしまいましたが、そろそろ再開したいところ。

 

benesse.jp

「付箋を貼って進めていくアレ」は、ただ付箋を貼っているわけではない

先日、興味深いまとめ記事をみた。

グループで討論して付箋をペタペタ貼っていくようなワークは、現在広く行われているが、「はたしてあれは効果があるのか、最後に完成したものは写真映えはするが、終わったあとに何も得るものは無いし、 残るのは、みんなで何かすごいものを作り上げた、という達成感だけ」とある人が疑問を呈し、それに対するやりとりが行われている。

togetter.com

川喜田二郎が編み出したオリジナルな「KJ法」では、断片から意味を抽象化して発想(アブダクション)を導く手段として小さな紙片、今でいう付箋(ポストイット)がよく使われる。そして、この人が多くの人に盛大に突っ込まれているように、図解化をおこなった次に叙述化のフェーズがあることはよく見落とされることである。

 しかし、参考写真にかかれている「見出し(表札)」をみると、そもそもこれはワークの大事なポイントを外しているように思われる。やり方を間違ってながら、「得るものがない」と思ってしまうことは大きな問題だろう。

 

そこで、うちの2,3年生たちも同じようなところでハマっているようなので、デザインの前段階としてこの手のワークを行う場合のポイントについて手短に解説してみようと思う。

 

例えば、なんでもいいのだけど、机の上を調べ、そこで色鉛筆と消しゴムをみつけたとする。こんな感じだ。

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まずこの事実に対して、「色鉛筆がある。そして消しゴムがある」と、それぞれとりあえずそのまま捉えて、その仲間をきめるためにカテゴリとして「文房具」という表札をそれぞれ付箋に書く、としよう。

 

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 こういった要領で、見つけたことや、各自がおもいついたアイデアをどんどん付箋に書いて貼っていくことは、一応作業としては成立してしまう。たくさん付箋があれば、それぞれ仲間ごとに整理整頓は進んでいくから、いっしょに取り組んだという達成感もあるかもしれない。だが、分類の作業が終われば、おそらく「結局、何もわかりませんでした」という結論になるだろう。整理しただけでは、いや整理することが目的になってしまうがゆえに、やがて行き止まってしまう。この例は、間違った方法(カテゴリ分け)である。

 

では、どうするのか。もう一度写真を解像度を上げて、「よく」みてみよう。

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色鉛筆は、たくさんある。よくみると一律の長さではなく、黄緑は長くて赤やピンクは短い。つまり使い手がよく使う色に応じて長さが変わっている。ということは、たとえば僕が使った色鉛筆群と、あなたの使った色鉛筆群では、色ごとの減り方が異なり、その減り方には使い手の個性が無意識のうちに映しだされている・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

そして、もう一方のMONOの消しゴム。購入したままの状態ではなく、まんべんなく角が丸まっている。つまり使う人は、ゴシゴシこすって消すときに、字が消えやすいように、角になっている部分を使って字を消しているわけだが、4つともカドが使われてしまい、このあとには生理的快感のない長いマンネリがつづく・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

この2つは、かたちも素材も違うけれども焦点の合わせ方によっては、よく似ている。(本当は他にも机上には色々なものがあるとして)それは、決して「文房具」というカテゴリによるものではなくて、もともと新品のときにあったものが使いこんでいく中で消耗して減っていく様子が「見える」ことに、なにか近しい意味が見いだせる、ということによる。

 

そして、ここまでわざわざ言語化しなくても、我々のもつ「直観」は、その近縁性をキャッチすることができる。ゆえにこの2つはなんだかよくわからないけども、なんとなくひっかかり、意識の水面下で引きよせあうのである。

 

 

それを付箋に描くとこうなる。

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それぞれどこまでが「事実」か、どこからが独自の「解釈」かは、明確にわけて書く。解釈は人によって多角的に行われるものであるし、いろいろな視点があるからこそ、みんなで同じものをみて、あれこれ気づきを重ねていくことに意義が生まれるものである。

そしてそれらを一行で圧縮した見出しをつける。通常の質的調査では、こんなふうに頭がねじ切れるほど頭をフル回転させて、気づきを重ねて調べていく。そうして作り出した言葉には、ちゃんと重みがある。実際に何かをデザインする際に、手がかりとなりうる。

 

 こんなふうに、2つの例をよく見比べてみれば、同じ付箋を使ったワークをやっているように見えても、そこで行われていることは大きく異なることがわかる。上の例では、単にみたものを名詞にあてはめ、カテゴリに入れるという機械的な「作業」をしているのに対して、下の例ではものごとの状態をよく見たうえで、さらに人との関わりの観点から意味を取り出し、さらに見出しで抽象度を高めている。決して付箋の「数」は問題ではない。

 

「付箋を貼って進めていくアレ」は、付箋を使っていると言っても、本当はただ付箋を貼っているわけではないのだ。こういった考え方は、一般的によく使われる演繹や帰納といった論理的なものではなく、発想(アブダクション)と呼ばれるちょっと違う考え方をしなくてはならない。だから論理でしか考えていない人ほどトラップにハマりやすいし、それを知識として押さえた上で、取り組んでいくことが大事だ。KJ法は、そこがどうしてもモヤるという人が多いが、論理だけでは捉えられない直観性をベースにしているからこそ、半世紀たっても古びないのだろうと思う。

 

まあ、そもそも当たり前のように付箋を使うこと自体がどうなんだ、とか、限られた期間の中でこんな負荷のかかる仕事に比重をかけるべきか、という議論は昔からあるのだけども、それはまた別の機会に。

 

参考資料

2年生の演習(コンテンツデザイン)で以前使っていたKJ法の資料を公開しておきます。よろしければお使いください。

 

 

 

 

【ベネッセ連載】わたしたちの身体は、すわりっぱなしに耐えられない

みなさん、肩こりや腰痛に悩まされてませんか。私は肩こりがひどくて困っています。ベネッセでの連載、第二弾です。人間のからだは、座りっぱなしで生きられるようにできていないので、オンライン学習やリモートワークではもっと積極的に体のことを考えましょう、という話です。
これは頭の中にあったのですぐ書けたのですが、次はいつになるか。
 
 

オンライン研究室の挑戦 / 作り手側の立場になってわかること。

 オンライン授業について。先日書いた1,2年生の大規模演習の記事はわりと読んでいただけたようだが、今回は4年生の研究室のことを書いてみようと思う。ここ3年ほど7〜10名程度でちょうどいい人数から、本年度は13名の学生を引き受けることになり、久しぶりの大所帯、かつオンラインでの研究室活動という難題が加わっている。

 

 4年生たちといっしょに使っているツールは、リアルタイムコミュニケーション用のDiscord+非同期コミュニケーション用のScrapboxという組み合わせ。(結局2〜4年生全部がDiscordになった)。卒業研究はグループワークではないので、いまのところコラボレーション用ツールは検討中だけど、これからStrap(β版)に期待しているところ。

 

さて、 みんなやる気のある学生たちだから、こんな状況でもなんとか自分たちでできる範囲で研究を進めてくれているが、研究の初期は他者とたくさんディスカッションしてリサーチクエスチョンを固めていくことがとても大事なので、いかんせんゼミの時間だけでは時間が足りない。どうしようかなぁ、とミーティングしながらおもいついたのが、「トーク番組」を自分たちでやってみる、という方法である。

 

 オンライン授業の受講生は、とにかく言葉を発する機会が少ないし、何かしながらの作業になりがちで、集中しにくい。その一方で授業する側は、喋る文脈に全神経をつかい、集中力がはね上がる。準備に準備を重ねてちょっとでもアクシデントあれば汗がだらだら流れるような緊張がつづく、そんな非対称性がある。

 

 そういった真剣さは、おおいに学ぶ経験へと直結する。自分が実際に「つくる側」に回ってみると、自然な文脈の中で話題を深堀りしていくために、他者の話を傾聴することがいかに大事か、テレビの司会者やラジオDJ、Youtuberらの話術テクニックがいかにすごいか、よく見えてくるはずだ。ということで、みんなが話せるゼミの機会だからこそ、全員でトーク番組的なスキルを学んでみよう、と提案した。

 

2回ほど僕を交えてパイロット版を行う。初回のテーマは、「笑い×デザイン」。笑いに詳しいメンバーが出演する。

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 そうして感覚を掴んだのちに、3〜4人で1組になり、ゲスト役、司会者、コメンテータを割り振り、司会者とコメンテータが協力してゲストの研究テーマを深掘りしていく。そんな役割分担で全員のトーク番組を収録することを事前課題とした。(ちなみに大学の学期は5/11からだったが、3,4年生はすでに配属が決まっていることもあり、フライイングして4月から進めている)途中で、ある学生が壁紙やオープニング映像、BGMをつくってくれて、某国民的トーク番組のテイスト、というかパロティで統一された。

 

そして期限の5/13(正式な初回授業日)・・・。全員がピシッと収録も編集も済ませてきた、さすが4年生。僕の方でまとめてyoutubeに限定公開して、内部で見れるようにする。

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  視聴者に広くみてもらうことではなくて、周りに手伝ってもらいながら自分の問いを深めることと、番組の形式をかりて「自分たちでやってみる」ことが主目的なので、とりあえず研究室メンバーがみれれば問題ない。(もし見たいという方いらっしゃったら連絡ください)

 

 そして肝心のトークの話題の掘り下げは、僕がいなくても学生たちだけで脱線しないでちゃんと深められるのかなぁ、と不安だったけど、全部の回が素晴らしくて夜な夜な視聴しながら思わず感動した。みんなすごいよ。さすが4年生。なにより普通に僕一人が中心に応答していると最低1ヶ月はかかるところが、分担したことで全員分の堀りさげが同時に行われた。圧倒的時間短縮。

 

 学生たちの真剣さの混じったトークを聴きながら、いろいろと考える。このテーマを探すプロセスの悶々とする時期が、自分も知らない自分の未来を探っている感じがあって一番楽しいし、不確実な、いまこの時代に生きる一人の若者のかけがえのないリアルさが記録されているように思う。

 

 これを2月の卒業前にも、4年間を振り返ってもらって収録してみるといいかもしれない。30年ぐらい保管しておけば、きっと素晴らしいタイムカプセルになる。それまでyoutubeがあるといいのだが。

 

 

 

ベネッセのメディアに寄稿しました

ベネッセ コーポレーション自社メディア「教育情報サイト」に、子供向けのオンライン学習についてのコラムを寄稿した。

benesse.jp

 

そして、転載されてYahoo!ニュースにも掲載。ちょっと嬉しい。

headlines.yahoo.co.jp

内容は、本文内にある問いに対して、僕なりの考えを書いたもの。

さて、そんな当たり前を冷静に捉え直してみると、奇妙なことに気付くのではないでしょうか。小学校や中学校の授業で習う程度の知識は、実はインターネットの中にたくさん溢れています。書店では工夫を凝らした映像やワークブックなどの教材も売られています。今の時代、学習しなければならない内容は、先生だけが持っているわけではなくて、勉強しようと思ったらわりと手が届く距離にあるはずです。それなのに、私たちはわざわざインターネット回線をつないだ狭い画面を通じて、旧来の学校で何を学ぶことを求めるのでしょうか?

 

だんだんと学校再開される県も増えており、オンライン学習も新鮮味のない話題になりつつある気もするが、そもそもの問いは普遍的だろう、ということで、whyとwhatを中心に書いた。ご笑覧ください。

 

 

Discordで構築する(ネトゲより楽しい)オンライン協調学習環境のデザイン

5/11から大学のオンライン授業が始まった。ここまでいろんな実験や準備を重ねてきたので、「とうとうこの日が」となんだか感慨深い。全国の大学がオンライン授業実施に突入しており、それぞれでできることが模索されているのだけど、組織ごとにいろんな問題を乗り越えていかなければならない。どの大学も関係者は死ぬほど頑張っているが、それでも容赦無くトラブルは起こる。

www3.nhk.or.jp

幸いながら僕の勤務先は情報学部ということもあり、教室だけに依存しない学習環境には積極的に取り組んできた。これは同僚が優秀な方々なのも大きい。例えば松永学部長は自ら全学18000人が同時に使うシステム運用の陣頭指揮に当たっているし、教育工学が専門の望月先生は、3月末にはいちはやくオンライン授業の知見をまとめたガイドを公開し、全国の大学でひろく参照された。

 

www.nikkei.com

加えて、うちの場合はデジタルカルチャーに詳しい学生たちが多いのも助かっている。僕なんかはむしろ学生に教えてもらっているぐらいだ。というわけで、比較的スムースにオンラインに移行できているほうだと思うが、僕のほうでも、いくつか試行錯誤しながら取り組んでいることを書いておきたい。特に意識しているのは、学習者側のレディネス(準備状態)と、授業に参加しようとする態度の部分。自分自身の経験をもってみても、ここに尽きる気がする。学生の立場で言えば、オンライン授業は普通に受けているだけでは喋る機会が極めて少ないので、受け身にならざるを得ない。しかし、受け身になってしまえば、学ぶ面白さは生まれない。

 

1)「情報表現演習」1年生全員必修(240名/6展開)

メインは教科書代わりの自作授業教材サイト(音声や動画埋め込み)。なるべく通信量を減らし、スマホからもみれるような設計にしている。集合と解説はGoogle Meet(ほぼ音声)で課題提出はClassroom。初回は全く問題なく完了した。

 学生には積極的にチャットをつかって質問し、反応してもらうようにしている。音声中心のガイドで自分のMacで教材に向かう、というのはけっこう好感触のよう。ただ、チャットで「だんだん提出物が集まっています」とか状況をこまめに伝えるのは、進行遅い学生はかなりあせってパニックになってしまったそうで、配慮したいところだ。meetのチャットログは残らない(=どこかに意識的に残さないと欠席者が追えない)のも課題と言える。

 

2)「基礎演習D」2年生選択必修(170人/4展開)

こちらもメインは、教科書代わりの自作教材サイト(Youtube埋め込み)。作り方などの解説は小分けにして動画を埋め込んでいるが、これがとてもしんどい。30分ほどの動画つくるのには半日以上かかるのだ・・・。2コマなのでそれを2〜3つづつ載せていくことになる。GWには妻と子供を拝み倒し、妻にカメラを回してもらい、子供をポケカで買収して出演してもらい、撮影に1日。編集に1日。むちゃくちゃ大変だが、学習者側は一時停止しながら操作していけるので、かなり作業やりやすくなったとおもう。

 

そして演習なので、グループワークになる。オンライン上に協調学習を促進するような環境をどうつくるか?(これが最大の難問で、多くの先生たちが頭を抱えているところだと思う)いろいろ試した結果、Discordを導入。もともとゲーム実況につかわれてるもので、ゲーマーの学生たちにとっては思わず笑ってしまう選択だ(例えて言えば、ニコニコ動画でレクチャーやるようなもの)。メイン画面を紹介。(クリックで拡大します)

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 zoomもteamsもmeetも、真面目なUIだし、なによりもトンネル抜けた先に個室があるような、閉鎖的な空間である。

 その点、Discordは、ゲームカルチャーが反映されていて、全体がゆるい雰囲気でつくられ、遊びゴコロも多い(画面のウェルカムメッセージ参照)。学生たちがいまこの場に集まっていて、わらわらと小部屋と全体会場を行き来したり、隣同士で「これでいいのかな」と相談する感覚。我々教員がするっとグループに割り込んで「どうよ?問題ない?じゃ終わったら報告においで!」と去っていく感覚、となりのクラスの進行の様子を見に行ってアシスタントと気軽にだべったり、「わー、K先生はまだたくさん学生の相手している!うちはもう学生返しちゃったけど、もっとちゃんとフィードバックしなきゃ!」など、普段の教室で起こっているのと同じ体験が、ほんの1クリックで実現できてしまう。この自分と隣人、さらに自分の教室と隣の教室の全貌を見渡せる体験は、他のどのツールにもなかった。最高だ。

 

 黙って聞く講義のスタイルと違って、オンライン型の演習で学ぶべきお手本や競合関係にあるものは、ゲームなのかもしれない、と思っている。オンラインゲームの中では、遠隔で楽しくコミュニケーションとったり、画面内のアバターを介して協力し合ったりすることが、ごくあたりまえにできている。それとおなじようにオンライン演習でも、参加者が自分から積極的に参加しようとする態度や、いっしょに取り組む中で楽しさを生み出すような学習者体験(Learner Experience)を作っていく必要がある。

 

 そんなわけで、いろいろな工夫を試みている。学籍番号+呼んで欲しいニックネームで登録してもらい、学生をニックネームで呼んでネットコミュニティ感を高めたり、個人課題でもパーティ組んで横の関係をつくれるようにグループにしたり。クラスのアイコン揃えると統一感もでる。まあまだ導入なので、3週目のグループワーク始まってからが本番なのだが・・・。

 

 Discordは、ボイスチャットは100名以上も可能で、ビデオ通話は25名まで、画面共有GoLIVEは50名まで(いまのところ臨時で増えている)ということで、小規模のクラスであればほとんど問題ない。音も抜群によくて疲れも少ない。マイナス点として通信はあまり安定してないようなのと、セキュリティはちょっと心配ではある。臨時で増えている制約緩和はいつまでだろう?

www.4gamer.net

 

 というわけで、表題の「Discordで構築するネトゲより楽しいオンライン協調学習環境のデザイン」でオンラインセミナーやってみようかな、と思っている。いまは自分も必死なので、そのうち。

 

僕にDiscordを教えてくれた某友人にも期待されているようなので!

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 3年生のプロジェクトと4年生の卒業演習でもまた別の実験してるので、後半をご期待ください。余力があれば書きます。

 

Discord公式ブログ

Discordを授業に使う方法

 

市谷さんのDiscord記事が面白いです。

note.com

 

インタビューが掲載されました

そういえば、ひさしぶりにインタビューを2つ受けました。取材されたのは2月です。

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1つめは、日本グラフィックコミュニケーションズ工業組合連合会という印刷会社の集まりが出している機関紙。2020年3月号のGCJパーソンズというコーナーに取り上げられました。

www.gcj-page.or.jp

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もう一つが、専修大学校友会誌Adonisという雑誌。専大のOB向けに編集されているもので、2020年春号 No.91 専大「知」探訪というコーナー。プレジデント社に委託して作っているそうで、しっかり仕事してくださる記者さん達でした。適当に与太話していただけなのに、それをまとめて読める記事になったのはびっくり。

 

www.senshu-u.ac.jp

 

その後を追跡してみて、見えたもの。(フィールドミュージアム2019より)

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今年もフィールドミュージアムのプロジェクトを終えることができた。12月中旬、コ・デザインワークショップの直前に、提携している小学校がインフルで学級閉鎖になり、あやうく中止になるところだったが、なんとかリスケして乗り切ることができた。(今思えば、まだあの程度で大騒ぎして・・・平和だったなぁ)

 

そんな今年の成果をまとめた冊子である。

冊子には例年のように(間に合わせの)コラムを寄稿したのでここに転載。

 

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その後を追跡してみて、見えたもの。

text by kamihira takahito

 

 たまには親としての目線を含めて書いてみようと思う。

 発表会に連れて行った子供二人は成果物をとても楽しんでおり、親の立場からも大学生達の頑張りは満足できるものだったのだが、上の子が工作物を持って帰りたいと言い、僕が預かることになった。

 よくあることなので、それほど気にも止めず適当にカメラのバックの中に入れた。「まあどうせ明日には作ったことも忘れるだろう」と思ったことは内緒だ。そしてそのまま研究室に放置していた。すると、珍しく息子が「あの○○、持って帰ってきた?」としつこく聞く。翌日も、その翌日も。くりかえし、くりかえし。「ごめん、持って帰ってくるの忘れた」とその度に謝るハメになったのは僕の方である。


 2週間ぐらいそのやりとりを続け、僕はようやく持って帰った。工作物は、大きなレンズの下敷きになり折れ曲がり、両面テープには細かいゴミが付着し、まさにゴミにしか見えないものになってしまっていた。

 それでも本人にとっては、かけがえのないものだったようで、大変喜び、「お母さん、これ僕が作ったんだよ」と大声で妻に自慢している。そうか、自慢しかったのか・・・・。なるほど。
 と思ったところ、それが目的というわけでもなく、さっそくパーツに分解し始めた。クリップで紙切れを綴じたりしながら、ずっと遊んでいる。どうやらカラフルなクリップに一目惚れしていたらしい。もしかして、そのクリップが欲しかったということか・・・。
 と思ったところ、そういうわけでもなく、工作物に書かれていたキャラクターを真似して描いている。いっしょに作ってくれたお姉さんたちのことを忘れたわけではないようだ。会場で体験したおもちゃの背後にある科学の話をしたのも、一度や二度ではない。


 その後も、彼はいまだに宝箱の中に入れて大事に持っている。ガラクタの集積に見える宝箱の中には、数年前に出展した学生がくれたトカゲのペンダントもまだ入っていた。
 大学生たちにとって、会場で接した親子の方々との接点は、ほんの何分かでしかない。子供が心底楽しいと思える体験を提供したとしても、終わってしまえば、その後の行動を知る由もない。

 今回、偶然ながらおもちゃのその後を追跡して観察する機会を持ち、子供が持ち帰り、二転三転しながらも大事に残すことを知った。みんながそうだとは限らないが、学生たちが必死に試行錯誤を繰り返したカガクおもちゃは、大事な何かのきっかけをつくっているのだ。短い体験だとしても、すぐに消え去ってしまうものではない。


 このプロジェクトは、もうかれこれ10数年以上続き、僕らはたくさんの親子連れと接してきた。ミュージアムにおける一期一会の大学生との短い出会いの中で、それぞれの親子は何を試み、何を残すのだろう。

 そして視点を変えれば、同じ問いが立ち上がる。教室での一期一会の我々との短い出会いの中で、CDの履修者たちは何を試み、何を残すのだろう。学んだことを自分で要素に分解して宝箱に入れ、必要な時には思い出して使ってくれるだろうか。あるいは単位さえ取れば後は放置されるだろうか。

 僕らもまたそんな葛藤を抱え、自分の命を費やした貴重な時間が蒸発してしまわないように、試行錯誤を続けている。