Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

オンライン研究室の挑戦 / 作り手側の立場になってわかること。

 オンライン授業について。先日書いた1,2年生の大規模演習の記事はわりと読んでいただけたようだが、今回は4年生の研究室のことを書いてみようと思う。ここ3年ほど7〜10名程度でちょうどいい人数から、本年度は13名の学生を引き受けることになり、久しぶりの大所帯、かつオンラインでの研究室活動という難題が加わっている。

 

 4年生たちといっしょに使っているツールは、リアルタイムコミュニケーション用のDiscord+非同期コミュニケーション用のScrapboxという組み合わせ。(結局2〜4年生全部がDiscordになった)。卒業研究はグループワークではないので、いまのところコラボレーション用ツールは検討中だけど、これからStrap(β版)に期待しているところ。

 

 みんなやる気のある学生たちだから、こんな状況でもなんとか自分たちでできる範囲で研究を進めてくれているが、研究の初期は他者とたくさんディスカッションしてリサーチクエスチョンを固めていくことがとても大事なので、いかんせんゼミの時間だけでは時間が足りない。どうしようかなぁ、とミーティングしながらおもいついたのが、「トーク番組」を自分たちでやってみる、という方法である。

 

 オンライン授業の受講生は、とにかく言葉を発する機会が少ないし、何かしながらの作業になりがちで、集中しにくい。その一方で授業する側は、喋る文脈に全神経をつかい、集中力がはね上がる。準備に準備を重ねてちょっとでもアクシデントあれば汗がだらだら流れるような緊張がつづく、そんな非対称性がある。

 

 そういった真剣さは、おおいに学ぶ経験へと直結する。自分が実際に「つくる側」に回ってみると、テレビの司会者やラジオDJ、Youtuberらの話術テクニックがいかにすごいか、自然にみえる会話をするために、他者の話を傾聴することがいかに大事か、よくわかるはずだ。ということで、みんなが話せるゼミの機会だからこそ、全員でYoutuber的なスキルを学んでみよう、と提案した。

 

2回ほど僕を交えてパイロット版を行う。初回のテーマは、「笑い×デザイン」。笑いに詳しいメンバーが出演する。

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そうして感覚を掴んだのちに、3〜4人で1組になり、ゲスト役、司会者、コメンテータを割り振り、司会者とコメンテータが協力してゲストの研究テーマを深掘りしていく。そんな役割分担で全員のトーク番組を収録することを事前課題とした。(ちなみに大学の学期は5/11からだったが、3,4年生はすでに配属が決まっていることもあり、フライイングして4月から進めている)途中で、ある学生が壁紙やオープニング映像、BGMをつくってくれて、某国民的トーク番組のテイスト、というかパロティで統一された。

 

そして期限の5/13(正式な初回授業日)・・・。全員がピシッと収録も編集も済ませてきた、さすが4年生。僕の方でまとめてyoutubeに限定公開して、内部で見れるようにする。

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  視聴者に広くみてもらうことではなくて、周りに手伝ってもらいながら自分の問いを深めることと、番組の形式をかりて「自分たちでやってみる」ことが主目的なので研究室メンバーがみれれば問題ない。(見たいという方いらっしゃったら連絡ください)

 

 そして肝心のトークの話題の掘り下げは、僕がいなくても学生たちだけで脱線しないでちゃんと深められるのかなぁ、と不安だったけど、全部の回が素晴らしくて夜な夜な視聴しながら思わず感動した。みんなすごいよ。さすが4年生。なにより普通に僕一人が中心に応答していると最低1ヶ月はかかるところが、分担したことで全員分の堀りさげが同時に行われた。圧倒的時間短縮。

 

 学生たちの真剣さの混じったトークを聴きながら、いろいろと考える。このテーマを探すプロセスの悶々とする時期が、自分も知らない自分の未来を探っている感じがあって一番楽しいし、不確実な、いまこの時代に生きる一人の若者のかけがえのないリアルさが記録されているように思う。

 

 これを2月の卒業前にも、4年間を振り返ってもらって収録してみるといいかもしれない。30年ぐらい保管しておけば、きっと素晴らしいタイムカプセルになる。それまでyoutubeがあるといいのだが。

 

 

 

ベネッセのメディアに寄稿しました

ベネッセ コーポレーション自社メディア「教育情報サイト」に、子供向けのオンライン学習についてのコラムを寄稿した。

benesse.jp

 

そして、転載されてYahoo!ニュースにも掲載。ちょっと嬉しい。

headlines.yahoo.co.jp

内容は、本文内にある問いに対して、僕なりの考えを書いたもの。

さて、そんな当たり前を冷静に捉え直してみると、奇妙なことに気付くのではないでしょうか。小学校や中学校の授業で習う程度の知識は、実はインターネットの中にたくさん溢れています。書店では工夫を凝らした映像やワークブックなどの教材も売られています。今の時代、学習しなければならない内容は、先生だけが持っているわけではなくて、勉強しようと思ったらわりと手が届く距離にあるはずです。それなのに、私たちはわざわざインターネット回線をつないだ狭い画面を通じて、旧来の学校で何を学ぶことを求めるのでしょうか?

 

だんだんと学校再開される県も増えており、オンライン学習も新鮮味のない話題になりつつある気もするが、そもそもの問いは普遍的だろう、ということで、whyとwhatを中心に書いた。ご笑覧ください。

 

 

Discordで構築する(ネトゲより楽しい)オンライン協調学習環境のデザイン

5/11から大学のオンライン授業が始まった。ここまでいろんな実験や準備を重ねてきたので、「とうとうこの日が」となんだか感慨深い。全国の大学がオンライン授業実施に突入しており、それぞれでできることが模索されているのだけど、組織ごとにいろんな問題を乗り越えていかなければならない。どの大学も関係者は死ぬほど頑張っているが、それでも容赦無くトラブルは起こる。

www3.nhk.or.jp

幸いながら僕の勤務先は情報学部ということもあり、教室だけに依存しない学習環境には積極的に取り組んできた。これは同僚が優秀な方々なのも大きい。例えば松永学部長は自ら全学18000人が同時に使うシステム運用の陣頭指揮に当たっているし、教育工学が専門の望月先生は、3月末にはいちはやくオンライン授業の知見をまとめたガイドを公開し、全国の大学でひろく参照された。

 

www.nikkei.com

加えて、うちの場合はデジタルカルチャーに詳しい学生たちが多いのも助かっている。僕なんかはむしろ学生に教えてもらっているぐらいだ。というわけで、比較的スムースにオンラインに移行できているほうだと思うが、僕のほうでも、いくつか試行錯誤しながら取り組んでいることを書いておきたい。特に意識しているのは、学習者側のレディネス(準備状態)と、授業に参加しようとする態度の部分。自分自身の経験をもってみても、ここに尽きる気がする。学生の立場で言えば、オンライン授業は普通に受けているだけでは喋る機会が極めて少ないので、受け身にならざるを得ない。しかし、受け身になってしまえば、学ぶ面白さは生まれない。

 

1)「情報表現演習」1年生全員必修(240名/6展開)

メインは教科書代わりの自作授業教材サイト(音声や動画埋め込み)。なるべく通信量を減らし、スマホからもみれるような設計にしている。集合と解説はGoogle Meet(ほぼ音声)で課題提出はClassroom。初回は全く問題なく完了した。

 学生には積極的にチャットをつかって質問し、反応してもらうようにしている。音声中心のガイドで自分のMacで教材に向かう、というのはけっこう好感触のよう。ただ、チャットで「だんだん提出物が集まっています」とか状況をこまめに伝えるのは、進行遅い学生はかなりあせってパニックになってしまったそうで、配慮したいところだ。meetのチャットログは残らない(=どこかに意識的に残さないと欠席者が追えない)のも課題と言える。

 

2)「基礎演習D」2年生選択必修(170人/4展開)

こちらもメインは、教科書代わりの自作教材サイト(Youtube埋め込み)。作り方などの解説は小分けにして動画を埋め込んでいるが、これがとてもしんどい。30分ほどの動画つくるのには半日以上かかるのだ・・・。2コマなのでそれを2〜3つづつ載せていくことになる。GWには妻と子供を拝み倒し、妻にカメラを回してもらい、子供をポケカで買収して出演してもらい、撮影に1日。編集に1日。むちゃくちゃ大変だが、学習者側は一時停止しながら操作していけるので、かなり作業やりやすくなったとおもう。

 

そして演習なので、グループワークになる。オンライン上に協調学習を促進するような環境をどうつくるか?(これが最大の難問で、多くの先生たちが頭を抱えているところだと思う)いろいろ試した結果、Discordを導入。もともとゲーム実況につかわれてるもので、ゲーマーの学生たちにとっては思わず笑ってしまう選択だ(例えて言えば、ニコニコ動画でレクチャーやるようなもの)。メイン画面を紹介。(クリックで拡大します)

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 zoomもteamsもmeetも、真面目なUIだし、なによりもトンネル抜けた先に個室があるような、閉鎖的な空間である。

 その点、Discordは、ゲームカルチャーが反映されていて、全体がゆるい雰囲気でつくられ、遊びゴコロも多い(画面のウェルカムメッセージ参照)。学生たちがいまこの場に集まっていて、わらわらと小部屋と全体会場を行き来したり、隣同士で「これでいいのかな」と相談する感覚。我々教員がするっとグループに割り込んで「どうよ?問題ない?じゃ終わったら報告においで!」と去っていく感覚、となりのクラスの進行の様子を見に行ってアシスタントと気軽にだべったり、「わー、K先生はまだたくさん学生の相手している!うちはもう学生返しちゃったけど、もっとちゃんとフィードバックしなきゃ!」など、普段の教室で起こっているのと同じ体験が、ほんの1クリックで実現できてしまう。この自分と隣人、さらに自分の教室と隣の教室の全貌を見渡せる体験は、他のどのツールにもなかった。最高だ。

 

 黙って聞く講義のスタイルと違って、オンライン型の演習で学ぶべきお手本や競合関係にあるものは、ゲームなのかもしれない、と思っている。オンラインゲームの中では、遠隔で楽しくコミュニケーションとったり、画面内のアバターを介して協力し合ったりすることが、ごくあたりまえにできている。それとおなじようにオンライン演習でも、参加者が自分から積極的に参加しようとする態度や、いっしょに取り組む中で楽しさを生み出すような学習者体験(Learner Experience)を作っていく必要がある。

 

 そんなわけで、いろいろな工夫を試みている。学籍番号+呼んで欲しいニックネームで登録してもらい、学生をニックネームで呼んでネットコミュニティ感を高めたり、個人課題でもパーティ組んで横の関係をつくれるようにグループにしたり。クラスのアイコン揃えると統一感もでる。まあまだ導入なので、3週目のグループワーク始まってからが本番なのだが・・・。

 

 Discordは、ボイスチャットは100名以上も可能で、ビデオ通話は25名まで、画面共有GoLIVEは50名まで(いまのところ臨時で増えている)ということで、小規模のクラスであればほとんど問題ない。音も抜群によくて疲れも少ない。マイナス点として通信はあまり安定してないようなのと、セキュリティはちょっと心配ではある。臨時で増えている制約緩和はいつまでだろう?

www.4gamer.net

 

 というわけで、表題の「Discordで構築するネトゲより楽しいオンライン協調学習環境のデザイン」でオンラインセミナーやってみようかな、と思っている。いまは自分も必死なので、そのうち。

 

僕にDiscordを教えてくれた某友人にも期待されているようなので!

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 3年生のプロジェクトと4年生の卒業演習でもまた別の実験してるので、後半をご期待ください。余力があれば書きます。

 

 

support.discord.com

 

市谷さんのDiscord記事が面白いです。

note.com

 

インタビューが掲載されました

そういえば、ひさしぶりにインタビューを2つ受けました。取材されたのは2月です。

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1つめは、日本グラフィックコミュニケーションズ工業組合連合会という印刷会社の集まりが出している機関紙。2020年3月号のGCJパーソンズというコーナーに取り上げられました。

www.gcj-page.or.jp

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もう一つが、専修大学校友会誌Adonisという雑誌。専大のOB向けに編集されているもので、2020年春号 No.91 専大「知」探訪というコーナー。プレジデント社に委託して作っているそうで、しっかり仕事してくださる記者さん達でした。適当に与太話していただけなのに、それをまとめて読める記事になったのはびっくり。

 

www.senshu-u.ac.jp

 

その後を追跡してみて、見えたもの。(フィールドミュージアム2019より)

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今年もフィールドミュージアムのプロジェクトを終えることができた。12月中旬、コ・デザインワークショップの直前に、提携している小学校がインフルで学級閉鎖になり、あやうく中止になるところだったが、なんとかリスケして乗り切ることができた。(今思えば、まだあの程度で大騒ぎして・・・平和だったなぁ)

 

そんな今年の成果をまとめた冊子である。

冊子には例年のように(間に合わせの)コラムを寄稿したのでここに転載。

 

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その後を追跡してみて、見えたもの。

text by kamihira takahito

 

 たまには親としての目線を含めて書いてみようと思う。

 発表会に連れて行った子供二人は成果物をとても楽しんでおり、親の立場からも大学生達の頑張りは満足できるものだったのだが、上の子が工作物を持って帰りたいと言い、僕が預かることになった。

 よくあることなので、それほど気にも止めず適当にカメラのバックの中に入れた。「まあどうせ明日には作ったことも忘れるだろう」と思ったことは内緒だ。そしてそのまま研究室に放置していた。すると、珍しく息子が「あの○○、持って帰ってきた?」としつこく聞く。翌日も、その翌日も。くりかえし、くりかえし。「ごめん、持って帰ってくるの忘れた」とその度に謝るハメになったのは僕の方である。


 2週間ぐらいそのやりとりを続け、僕はようやく持って帰った。工作物は、大きなレンズの下敷きになり折れ曲がり、両面テープには細かいゴミが付着し、まさにゴミにしか見えないものになってしまっていた。

 それでも本人にとっては、かけがえのないものだったようで、大変喜び、「お母さん、これ僕が作ったんだよ」と大声で妻に自慢している。そうか、自慢しかったのか・・・・。なるほど。
 と思ったところ、それが目的というわけでもなく、さっそくパーツに分解し始めた。クリップで紙切れを綴じたりしながら、ずっと遊んでいる。どうやらカラフルなクリップに一目惚れしていたらしい。もしかして、そのクリップが欲しかったということか・・・。
 と思ったところ、そういうわけでもなく、工作物に書かれていたキャラクターを真似して描いている。いっしょに作ってくれたお姉さんたちのことを忘れたわけではないようだ。会場で体験したおもちゃの背後にある科学の話をしたのも、一度や二度ではない。


 その後も、彼はいまだに宝箱の中に入れて大事に持っている。ガラクタの集積に見える宝箱の中には、数年前に出展した学生がくれたトカゲのペンダントもまだ入っていた。
 大学生たちにとって、会場で接した親子の方々との接点は、ほんの何分かでしかない。子供が心底楽しいと思える体験を提供したとしても、終わってしまえば、その後の行動を知る由もない。

 今回、偶然ながらおもちゃのその後を追跡して観察する機会を持ち、子供が持ち帰り、二転三転しながらも大事に残すことを知った。みんながそうだとは限らないが、学生たちが必死に試行錯誤を繰り返したカガクおもちゃは、大事な何かのきっかけをつくっているのだ。短い体験だとしても、すぐに消え去ってしまうものではない。


 このプロジェクトは、もうかれこれ10数年以上続き、僕らはたくさんの親子連れと接してきた。ミュージアムにおける一期一会の大学生との短い出会いの中で、それぞれの親子は何を試み、何を残すのだろう。

 そして視点を変えれば、同じ問いが立ち上がる。教室での一期一会の我々との短い出会いの中で、CDの履修者たちは何を試み、何を残すのだろう。学んだことを自分で要素に分解して宝箱に入れ、必要な時には思い出して使ってくれるだろうか。あるいは単位さえ取れば後は放置されるだろうか。

 僕らもまたそんな葛藤を抱え、自分の命を費やした貴重な時間が蒸発してしまわないように、試行錯誤を続けている。

 

 

 

「上平少年、デザインに目覚める」の巻

 年末に実家に帰った時に、子供の頃のネタで大学でコントやったよという報告を母親と兄にしたら、さすがに40年も前のことなので、すっかり忘れているようだった。言われた方は覚えていても言ったほうはきれいに忘れる、というのはそんなものかもしれない。ということで、思い出してもらうために台本を掲載してみる。

 

以前掲載した「情キャリでコント」5本のうち、最初のものです。

着席している学生がいきなり立ち上がって参加するという仕込み付き。

 

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#1「上平少年、デザインに目覚める」の巻

ナレーション=熊崎さん

兄=川上くん

母=鈴木さん

 

 

ナレーション(ここは1980年頃の鹿児島県阿久根市―。上平君の自宅にて、とある休日のこと)

 

崇仁「兄ちゃん!兄ちゃん!」(ドンドン、ドンドンと扉を叩く)

兄(川上)「なんだよ、崇仁」(席からやってくる)

上平「あ、兄ちゃん、北関東のヤンキーにしか見えないけど、鹿児島でいつも一緒にあそんでくれた2つ上の優秀な兄ちゃん」

兄「家の中で誰に解説してるんだよ!」

崇仁「まあいいや、えーと今扉に鍵かかってるんだ、鍵開けてよ」

兄「おお、そうか、って見えてるんじゃなかったんかい!」(鍵を開けてドアを開ける仕草)

崇仁「ありがとう、入れた」

兄「お前、オヤジの工作道具持ち出して、何してるんだ?」

崇仁「いや−、この鍵、外から開けられないじゃないか」

 

ナレーション(ちなみに上平家の勝手口の鍵は、「あおりどめ」と呼ばれるこんな

古風な鍵が付いていました。)#スライドは、鍵の画像

 

兄「そうだよね、こんな家泥棒は入らないだろうけど・・・かといって開けっ放しにすると、ネコのヤスが入って来るし」

崇仁「閉めたら閉めたらで、今みたいに扉叩いて誰か中から呼ばなきゃいけないしね。それをなんとかしようってことさ、さ、プロトタイプができたよ」

兄「お前小学生のくせにプロトタイプって言葉知ってるのかよ」

崇仁「いや知らんけど。というわけで外から、この紐を、ゆーっくり引くと・・・ほら、カチャッと」

兄「おお、開いた!スゲー!」

崇仁「兄ちゃん、兄ちゃん! 俺が中で鍵締めて三角座りして待ってるから、外から鍵開けてみてくれない?」

兄「ああ、いいよ」

(座ってドキドキして待つ上平。紐を引っ張る兄)

カチャと開く鍵 #スライドは、鍵が開く画像

崇仁「いやったぁ!!!超、嬉しい!
この喜びを誰に・・・母ちゃん!母ちゃん!」

 

母(鈴木)はーい、(席で返事して教卓にくる)

「なんだい、崇仁」

兄「崇仁が、外側から鍵開けられるようにしたよ」

母「おー、そうなの。ふむふむ、で、この紐が通っている穴はどうしたの」

崇仁「え、ここ?ここは父ちゃんの工具箱からキリ持ってきて、一生懸命穴開けた」

(おどろく母、兄)

母「ドアのこんな目立つところに穴開けて・・・まったくお前は・・・!」

母、思い切り平手打ちすると見せかけて、頭を撫でる。

崇仁「ごめんなさい」身をすくめる

母「いいのよ!こんなドアの傷ぐらい。いずれお前達も家を出て行くんだし。それよりも、生活の中の不便なことを、たった一つ穴を開けるだけで変えられるって、それを思い付いてやれるのが、頭が柔らかいって事だよ。お前は兄弟より頭は悪いけど、きっとクリエイティブなことを考える才能があるよ!」

崇仁「ありがとう、母ちゃん!」

 

ナレーション(そうして素直な上平少年は、いろんなものを発明したりすることに夢中な少年になったのでした。こんな風に、いつも叱らず挑戦することを褒めてくれた母親のおかげでしょう)

 

(完)

 

 

kmhr.hatenablog.com

 

 

2019年の終わりに

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2019.9.5 札幌円山動物園にて・・・札幌市立大福田研/東海大富田研/専修大上平研合同ワークショップより

 

・ 今年も早かった・・・. 今年の空き時間は基本的に全部単著に捧げた。もう20万字も書いたので、この苦労が報われるといいのだけど、なにやら不穏な雰囲気が。でも書いているうちに自分でもやもやしていたことが言語化できし、何人かに読んでもらってコメントもらったので、なんだかもう満足してしまった。春休みの間にさっさと終わらせたいところ。

 

・そして単著と同時に、大学生向けの「シン・デザインの教科書」(多摩美の矢野先生と中村先生とのプロジェクト)、中高生向け読み物の「デザインなぞなぞ」(某ライティング事務所とのコラボ)2冊を進行中。両方とも思い入れがあるのでとても楽しいのだけど、なかなか大変だ。

 

・共著で書いた、とても実験的な論文をParticipatory Design Conference2020(参加型デザイン会議)に投稿。最近の関心ごとでもある、More than Humanとの協働をめぐる論考である。共著者たちの、これまでの科学的な論文の書き方に挑戦するような、新しい執筆スタイルを模索する姿は、とても勉強になった。おそらく採択で、参加できることになりそう。コロンビアで開催ということで初南米楽しみ。

 

・このブログの有料版(年8000円強)の赤を解消すべく、google adsenseに挑戦してみたが・・・(当たり前だが)実に儲からない。無料版から広告を消すために有料版にしたはずが、手動で再び広告を貼る。僕は何をやっているんだろう。

 

・そろそろ本年度も終わりだが、だんだん2020年度の学生たちとの活動が動き始めた。元気な学生たちと一緒に考えることができるのは嬉しいこと。今年も挑戦していきたい。

 

・その前に、小さなお知らせ。

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本年度、上平研究室の学生たちが学内でグループ展を開催します。


みなさま、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます!
 

 

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2019年の活動


■研究

1月)紀要論文「高等学校における情報デザイン教育のための冊子制作」専修大学情報科学研究所所報,93,1-8 (2019-01-31) 

 

3月)作品論文「Designing Ours『自分たち事』をデザインする」出版プロジェクト 永井 由美子, 江口 晋太朗, 上平 崇仁, 鹿内 麻梨子, 富田 誠, 富田 真弓
2018 年 24 巻 1 号 p. 1_68-1_73
 

7月)学会発表「多角的な「問い」を生成するためのロールプレイイング型発想ツールの提案」 鈴木モカ、上平崇仁 第66回日本デザイン学会全国大会 名古屋市立大

 

9月)「当事者」をとらえるパースペクティブー3つのデザインアプローチの比較考察を通して デザイン学研究「共創・当事者デザイン」特集号 第26巻2号 100号 pp34-39

安岡美佳、上平崇仁 他:企画テーマ討論会「共創/当事者デザイン」 デザイン学研究「共創/当事者デザイン」特集号 第26巻2号 100号 pp6-25

11月) 上平崇仁「全方位の環境形成に挑み続けた創造者の信念ー映画「マックス・ビル絶対的な眼」によせて バウハウス映画祭パンフレットへの寄稿

 


■講演・トークなど

2月)産業技術大学院大学人間中心デザインプログラム「デザイン態度論2019」

3月)「ビジネス」×「デザイン」の可能性 
専修大学経営研究所・情報科学研究所合同研究会

6月)「デ=デザインを考えてみよう」はこだて未来大ヒューマンインタフェースでの特別講演

7月)「マイ・キャリア」専修大学情報キャリアデザインでの講演

11月)Xデザイン学校公開講座「デザインの学びにおけるデザイン人類学の可能性」武蔵野美術大学デザインラウンジ

12月)バウハウス映画祭「マックス・ビル絶対的な眼」トークイベント登壇(藤崎圭一郎×上平崇仁)

12月)「デザイン教育における真正性とは」VIVIVITクリエイティブ教育セミナーBiblio vol.2 株式会社ビビビットオフィス 27階 セミナールーム

 

■イベント企画

1月)フィールドミュージアム展2019 かわさき宙と緑の科学館

6月)トークイベント「バウハウス100周年記念事業とワイマールバウハウスミュージアム」株式会社ビズリーチ

11月)トークイベント「政策をデザインする」インターナショナルデザインリエゾンセンター(東京ミッドタウンデザインハブ)

 


■委員など

WIT Award 2019審査委員

国際会議4D conference 実行委員

 

バウハウス映画祭「マックス・ビルー絶対的な視点」トークショー&コラム執筆

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1)経緯

今年はバウハウスが設立されて100年ということで、世界各国でそれを記念したイベントが開催されている。日本でもバウハウス映画祭が企画され、「マックス・ビルー絶対的な視点」が上映作品の一つとしてチョイスされている。去年出会ったスイス人のエーリッヒが撮影したドキュメンタリー映画だ。その時の経緯はこちらのエントリで書いた。

kmhr.hatenablog.com

今回の映画祭にあたって僕に声がかかった理由は、たぶんエーリッヒが推薦してくれたんだろうと思う。エーリッヒと約束した通り、ちょっとだけ協力したという記録を残しておきたい。

 

2)アフター・トークショーに出演。

12/1の上映後、東京芸大デザイン科教授の藤崎圭一郎先生と対談。藤崎先生は日本で数少ないデザイン評論家で、デザインを言葉にすることにかけては天下一品の鋭い視点を持っておられる方だ。配給会社の方に「誰と対談したい?」と聞かれて僕から先生を指名させていただいた結果、快諾してくださり、無事に実施することができた。

 映画の日ということもあって、こんなマニアな映画なのに、会場はほぼ満席。来場者の皆さんが満足できるお話になったかはわからないけれども、少なくとも僕は準備とアフターアフタートーク含めて藤崎先生とたくさんお話できてとても楽しかった。

 

3)パンフレットに寄稿。

今回の映画祭にあわせて、立派なパンフレットが作成された。そのコンテンツとして「マックス・ビルー絶対的な視点」について長文コラムを寄稿した。5000字程度ということでそのくらいで書いたら、実際にパンフ見てみると、だいぶスペース空いていて、削らないでもっと書けばよかった。あと一部文章の繋がりがおかしいところを発見した。悔しい・・・。

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せっかくなので転載しておきます。興味ある人どうぞ。

なお、僕の文章はタダみたいなものですが、他の執筆陣は、深川雅文氏(巡回展「来たれ!バウハウス」監修者)、五十嵐太郎氏(建築批評家)、池田祐子氏(京都国立近代美術館学芸課長)、藤村龍至氏(建築家)、光嶋裕介氏(建築家)となっていて、全体を読んで理解が深まるパンフになっていると思います。

 

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「全方位の環境形成に挑み続けた信念の理由」

上平 崇仁 Takahito KAMIHIRA

 

 

 本映画で初めてマックス・ビルを知った人にとって、「ビルが日本で神格化されている」という作中の日本人の証言はにわかには信じられない話だろう。しかしながら、それほど過言でもない。向井周太朗氏や森典彦氏をはじめ、ウルム造形大学に学んだ日本の若者達は帰国後に大学で教壇に立った。80~90年代の頃、それらの人々を通してデザインの教えを受容し、憧れをかき立てられた筆者らの世代は、ビルの名前を綺羅星のようなバウハウスのマイスターらと同じように近代デザイン史における伝説的な人物として受けとめたからである。

 

 ビルは、次元にとらわれない数多くの美しい作品を制作しただけでなく、バウハウスとウルム造形大学という歴史上重要なデザイン学校に橋を渡した。その後も名門美大で教鞭を取り、造形に関する論考を記した。加えて政治家として国会議員まで務めるという、わたしたちを取りまく環境をあらゆる方面から創造し続けた人だった。そして何よりも多彩かつ一貫した活動を通じて、バウハウス以来の芸術と技術を統合するというテーゼにひとつの答えを出した人であった[1]。そんな人がビル以外にいようか。確かに、目の前に実際に現れて触ることができるような存在では無かったのである。

 

 本映画「マックス・ビルー絶対的な視点」は、そんなビルの生涯を追った貴重なドキュメンタリーである。ビルの作品が周囲の環境や見る角度によってさまざまな姿をみせるように、不世出の巨人であるビル自身も、激動する時代の渦中でさまざまなアーティストたちとの関わり合いを通して学び、成長していったことが示されている。とは言え、歴史は誰かによって語られなければ存在しないし、記録されなければやがて語りも蒸発してしまう。

 

 ビルの人生最大の幸運は、本作の語り部であるアンゲラという40才年下の伴侶を得たことだろう。晩年のビルとプライベートを共にした彼女の視点を中心にビルの人柄が描き出され、また美術史家としての彼女の専門性によって、作品資料や記録映像は丹念にアーカイブ化され、的確な言葉で解説されていく。アンゲラは未亡人となった後、本作の監督であるエーリヒ・シュミットと出会い、結婚した。そうして、ビルの資料や映像はエーリヒの手によって伝記映画として結実することとなった。この映画は監督の成果だけでなく、生涯をビル研究に捧げ発信し続けてきたアンゲラの仕事の集大成でもある[2]。それゆえ本作はアンゲラに捧げられている。

 

 映画内で取り上げられているように、ビルは多くの造形作品を残した。欧州だけでなく、その中のいくつかは現在の日本においても接することができる。代表的なものとして、箱根彫刻の森美術館に常設されている「パビリオン・スカルプチャー」や、今も販売されつづけているユンハンス社の時計シリーズが挙げられる。いずれも時代を超越した簡素な造形美を持ち、人々に長く愛されているものばかりである。しかし、ビルが逝去していつの間にか四半世紀が過ぎ、今となっては若い世代がビルの名前を知る機会も減ってしまった。そんな中で、いまこの映画祭における機会を通してビルの仕事を再考することには、単に歴史を回顧するだけではない重要な意味があることを指摘しておきたい。

 

 それは、ビルによって見出された創造における数学的思考は、極めて現代的なテーマでもある、ということである。近代デザインは産業革命期の工業化する生産手段に反応して産声を上げた。そして今日では猛スピードで世界中を駆け巡る情報環境に反応するかたちで、さらに進んだ思想を必要とするようになっている。デザインとテクノロジーの融合する領域の先駆者として知られるジョン・マエダ(Publicis Sapient CXO)は、そんな状況においてデザインの主要フィールドが変わりつつあると問題提起し、これまでの近代デザインの流れを汲む領域を「クラシカル(古典的な)デザイン」と呼び、対照的な領域として「コンピュテーショナル(計算論的な)デザイン」を位置づける[3]。コンピュテーショナルデザインは、これまでのような造形素材から離れ、操作することには明確な終わりもない。デザインのパワーはテクノロジーと一体化して増幅され、アルゴリズムとして大規模かつリアルタイムに世界を繋げて動作していく。マエダは、これからのデザイナーは、そんないっそう抽象化していくデザインの考え方をよく解釈していかなければならない、とする。

 

 そのデザインにおけるアルゴリズムの重要性をいち早く予見したのが、本作にも登場しているカール・ゲルストナー[4]であり、彼に影響を与えたのがビルだった。ビルは言う。「音楽はリズム、音、振動、組み合わせによって構成される。振動と音は数学的な区切りによって互いに結びつけられる。これで気づいたんだ。絵でも彫刻でも数学に戻らなければいけない」。この言葉を具現化している初期の重要な作品「1つのテーマによる15のバリエーション」(1935-1938)は、造形要素のコンビネーションによる数学的規則性をベースに変化する画面の律動を探求した連作である(ご存じない方は、是非上記タイトルを手元の端末で画像検索してみて欲しい)。

 

 ビルは螺旋状に配置された多角形にルールを設けながら、その制約を逆に発想源とすることを試み、図法的な論理と人間の直感の相互作用の中に美を見出した。さまざまな姿に展開されるアルゴリズムとその働きによって具体化されていくプロセスこそを、いち早く芸術の主題としたのである。現象の背後にあるビルの軽やかな思考は、まさしく計算論的なデザインの源流でもある。

 

 ビルは、そうして創造の起点に数学的思考を用いながらも、目的として「美」を生み出す姿勢には徹底的にこだわる。しかしながら美は主観的な経験でもあるため、しばしば論争を生んでしまう。ビルが作中で苦しそうに述懐するウルム離校の契機となったのも、主にそれを巡るものだった。

 

 ビル排斥を主導したトーマス・マルドナードは、産業社会の課題が高度化していく中では美的側面はデザイナーが考慮すべき数多くの側面の一つにすぎず、デザインの解も直感や経験値に頼るのではなく「科学的に操作」すべきであるとした。それに対してビルは、科学の有用性は認めつつも芸術を通した豊かな経験によって育まれる美的側面こそが重要であり、芸術を軽視するならば造形大学の意味すら見失う、と反論した。そして、今では機械が計算処理などの単調な仕事を引き受けてくれるのだから、我々は創造の仕事に注力すべきだとし、本当に必要なのは「美学の議論」であり、「様々な芸術」であり、「様々な芸術を日常生活に組み込む仕事」だと主張する[5]。だが、そうした信念は合理的なデザインのありかたを求めた一派には受け入れられることはなかった。

 

 ビルが立たされた岐路は、半世紀が過ぎた今の時代にも同じ様相を見せる。急速に変化し、複雑化し続ける社会の中でのデザインの基礎的能力の考え方。そして急速に進化するAIに対して残される人間の役割。それらによって照らし出されるジレンマは、今後の私たちに対しても同じ問いを突きつけるようである。最後には創造が残ると主張し、実際に社会の全方位にわたる創造に挑戦し続けたビルの信念は、いまだからこそ重い。

 

 

参考文献

[1]向井周太朗 現代デザイン理論のエッセンス―歴史的展望と今日の課題 ぺりかん社 1971

[2] Thomas Angela. Max Bill: No Beginning, No End, Scheidegger and Spiess 2018

[3]John Maeda: Design in tech Report https://designintech.report/

[4] Karl Gerstner:  Designing Programmes: Programme As Typeface, Typography, Picture, Method 1964

[5]高安啓介「マックス・ビルバウハウス待兼山論叢 芸術学篇 51 P.1-17 2017

 

 

 

 

 

デザインの学びからみた「デザイン人類学」の可能性

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11月8日(土)、武蔵野美術大学デザインラウンジにて開催された、Xデザイン学校公開講座エスノグラフィーとデザインを考える」にて登壇の機会をいただいた。社会人向けデザインスクールのXデザイン学校にはここ数年、あまり世の中で語られてないことについて投げかける「変化球担当」としてお声がけいただいている。そんな暴投まがいの僕の球を、校長の山崎先生をはじめ一般のみなさんも大変熱心に聞いてくださるので、僕としても貴重な言語化の機会と位置付けて毎回真剣に取り組んでいる。上の写真は山崎先生の開始挨拶の時。まだちらほら空き席みえるけど、その後満席になった。感謝です。

 

というわけで、今年選択したテーマは「デザイン人類学」。海外では盛んに議論されているものの、日本にはほとんど紹介されていない学問分野である。 この日は多くのイベントが開催されていて、聞きたかったけど聞けなかったという声も頂いたので、スライドだけでも大意がつかめるように、言葉を多めに記述したスライドを公開することにする。この言葉にご関心お持ちの方、ご笑覧ください。

 

 (SpeakerDeckのサイトに行くと全画面で見れます)

デザイン人類学は境界領域でみんな手探り状態なので、もちろんこのスライドの内容もおおまかな見取り図しか示せてない。でも最近人類学をバックグラウンドにした方でデザインに関心を持っている人はとても増えているので、面白いコラボレーションが生まれるといいな、と思う。興味を持たれた人類学界隈のみなさま、ぜひ研究会をしましょう。

 

口頭で触れた、iPhoneの開発秘話「THE ONE DEVICE」の該当部分引用はこちら。

 知るのは不愉快な事実だが、それでもきちんと咀嚼したほうがいい事実である。我々のデバイスの原料は、原始的な道具を手に、死の危険と隣り合わせの環境で働く鉱員によって供給されている。iPhoneを構成する元素の多くは、iPhone所有者の多くが数分と耐えられないであろう環境下で掘り出されている。

 

ブライアン・マーチャント. THE ONE DEVICE ザ・ワン・デバイス (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1215-1222). Kindle 版.

 

 私は初代iPhoneの開発プロジェクトに関わった人にインタビューする時、必ず聞く質問があった。自分たちがこの世界に解き放ったデバイスについて、今どんな印象を持っていますか、という質問だ。驚いたことに、ほぼ全員が似たような愛憎半ばする気持ちを抱いていた。デバイスのあまりの普及ぶり、アプリのあまりの使われぶりに畏敬の念を抱くと同時に、常に注意を引き付けてしまうというマイナス面にほぼ全員が触れたのである。一緒に食事をするカップルが会話もせずにそれぞれのデバイスを凝視する姿は嘆かわしい限りだと。

 

ブライアン・マーチャント. THE ONE DEVICE ザ・ワン・デバイス (Japanese Edition) (Kindle の位置No.5838-5843). Kindle 版.

 

ショーンによる「リフレクションのはしご」

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リフレクションのはしご

 

 「省察する(リフレクション)」とは、簡単に言えば自分の行った行為を「ふりかえって」「見直す」ことです。哲学者のドナルド・ショーンは、省察を二つに分けています[5]。「行為の中の省察(reflection in action)」と「行為にもとづく省察(reflection on action)」です。

 

 まず、「行為の中の省察(reflection in action)」は、何かをする中でふと頭に浮かんだことや、感じ取ったことを自分の中で「吟味」のまな板の上に乗せること、とされます[6]。実践の現場の中では、常にマニュアル通りにはいかないような予想外の出来事や矛盾する出来事に出会います。その葛藤の中でまずやってみて「感じ」をたしかめたり、どうもぴったりこないなどの感覚を元にその原因を探りながら、その場をとっさの判断で切り抜けていくような、そんな実践の知のことです。

 

 デザイン研究者の須永剛司は、それをシンプルに「じゃない感」と呼んでいます[7]。デザイナーは、たくさんのアイデアスケッチを描きますが、決して頭の中に降ってきたアイデアを描き写しているわけではありません。彼らは何かをまず描いて表出すると同時に、描いたものを見て「なんだか・・・違う」という違和感を感じ取ります。スケッチするという行為の中で対話を繰り返しているのです。これを描いたんだけどこれじゃない、そのパラドックス的な感覚こそが「まだ知らない次のもの」に向けて自分のアイデアを発展生成するための原動力となる、ということです。


 この「行為の中の省察」は、本来誰でも行っていることですが、臨機応変さが求められる仕事に就いている人々は、特にそのような柔軟な考え方を自分の中で血肉化しているものです。ショーンは、そんな人々を知識を豊富に蓄えた従来型の専門家像と対比して「省察的実践家」と呼びました。

 

 しかし、ショーン自身が指摘するように、「行為の中の省察」を繰り返していると、仕事に熟達するにつれて徐々に場当たり的な行為となり、それは少しづつ自分の姿を固定化していきます。自分の担当外のことは一切見ようとしない、自分はこうだからと自分の枠を決めてしまう、慣れた自分のやり方だけを信じて他者のやり方を認めない、などのいわゆる「老害」になっていくわけです。

 

 そこで意識的にふりかえり、学んだことを棄てて再び編み直す機会を持つために、「行為にもとづく省察(reflection on action)」が位置付けられています。実践の中で、自分の中や他者からの視点を通して生まれた意味を解釈し、言葉にしていくことで、次の行為の中で使うことができるということです。ショーンは、省察の段階をはしごの上り下りに見立てています[8](久保、他2013を参考に一部改変)[9]。また実践のなかで省察する行為を意図的に行わないと、人は省察しなくなるとしています。

 

 

  • [5]『省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考』ドナルド・ショーン  鳳書房2007(原書は1983)
  • [6]『ビデオによるリフレクション 実践の多義創発性を拓く』佐伯/刑部/苅宿 東京大学出版会2018 
  • [7]『実践するデザイナーたちのデザイン知とはなにか?』須永剛司、永井由美子 デザイン学研究特集号 21(3), 4-12, 2014
  • [8]『省察的実践家の教育 プロフェッショナルスクールの実践と理論 』ドナルド・ショーン  鳳書房2017 P157(原書は1987)
  • [9]久保研二、木原成一郎「教師教育におけるリフレクション概念の検討—体育科教育の研究を中心に—」広島大学大学院教育学研究科紀要第一部台62号2013 pp.89-98

 

 

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先日、こんな原稿を書きながらショーンの本の当該部分を探していたんだけど、「行為の中の省察(reflection in action)」の説明はしつこく書いているけれども、「行為にもとづく省察(reflection on action)」については、ショーンはぼんやりとしか記述していないのだよね。

そうしたら、体育教育の文脈だけど、「リフレクションの梯子」をもとに図解している方の論文を発見!僕も図に起こしてみた。

 

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以下は、図版まわりの説明について、『省察的実践家の教育 プロフェッショナルスクールの実践と理論 』より引用。

 

 

あるレベルの活動において物事がうまくいかないとき、つまりある人が、行き詰まったり、理解していなかったり、誤解されていると感じるとき、省察のはしごの段を昇り降りすることで下位のレベルで経験したような行き詰まりや誤解をめぐるコミニュケーションが可能となる。

 

基本的にデザインする事は(これまで見てきたように)、それなりの、それ自体独自の〈行為の中の省察〉のプロセスである。1段階あがると、デザインすることについての省察は叙述のかたちをとる。例えば、「私はそれらの小さな形を集めて、より大きなL字型教室を形成した」のように。そして「それは1年生と2年生をつなげるが・・・・どちらが私には教育的にしたかったことなのだろうか」というように、叙述は評価に結びつくかもしれない。また叙述がアドバイスや批判と一体となっている場合もある。「屋根の形について現時点では心配することは無い」、「ひどいーそれでは全体の構想が全く台無しになってしまう」、などのように。さらに「君は建物の形を斜面の輪郭に合わせようとしてきたけれども、しかし斜面はねじれているのだ」のように、叙述がデザインすることの中に暗黙にふくまれている〈行為の中の知の働き〉についての言及となることもある。

 2段階上がって叙述についての省察においては、コーチは例えば、次のように自問するだろう。「『もっと大きくできれば、もっと満足いくものになりますね』と学生が言うとき、それは何を意味してるんだろうか」。また、あるいは「ペトラの大きな問題は、デザイン課題についての彼女自身の捉え方について、一体何を語っていることになるんだろうか。そこから読み取れる彼女のフレームは一体どのようなものなのだろうか」。学生の側では「回廊について、『小さなやり方の中の大きな事』と叙述することで、コーチは何を言いたいのだろうか」と問うだろう。学生は省察を質問へと向け、あるいはクイストのアドバイスに従って新しいデッサンを試みるだろう。コーチあるいは学生は、自分がした叙述に対して相手が構成した意味についても省察するだろう。例えばクイストは、ペトラが実演の全体から引き出したものはなんだろうか、そして学生が後に壊すことができる秩序を押し付けるアイデアをつかんだのかどうかと、自問するだろう。

 最後の第4段階では対話を行う人々は、対話それ自体について省察することになる。こちらは、私的であれ公的であれ、問題の理解の共有により近づいたのか、それともお互いの意味の理解を検証したのかどうか、問う。省察にあたって、コーチらが自分のコミニュケーションの取り組みに満足していなければ、「おそらく、現場を訪れるべき時だ」とか、「おそらく、異なった種類のデッサンに挑戦した方が役立つだろうと言うように、新しい戦略や手段を試みるかもしれない。

 学習の進行においては、省察のはしごを昇る形をとる必要は無い。語ることと聞くこと、実演することと模倣することにおける総合的で固有な〈行為の中の省察〉の作業は、高いレベルの省察に頼らずともうまく進むだろう。しかしながら、コーチと学生が行き詰まってしまったとき、梯子を登ったり降りたりする能力は、意味付けの収斂を探求する際に新しい可能性を切りひらくのである。

 とりわけ重要なのは、省察のはしごの昇り降りに取り組むことは、教示者のメッセージの価値について、学生が疑うことへの反応をもたらすもたらすと言うことである。(p157-158)