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みえないものを、みる視点。

【オンライン授業】先生が顔を出す必要は、どこまであるのか?

オンライン授業でよく議論になることに、「先生の顔は出したほうがいいのか、出さなくてもいいのか」がある。学生にアンケートで聞いてみても、「顔があったほうがいい気がするけど、別にどっちでもいい」という答えが多いようだ。教員の側も自分の顔を積極的に見せたいわけでもないので、出さないですむならそれでもいいか、と非表示にしまう場合も多いだろう。僕自身、前期はどの授業でもあまり顔を出さない方向ですませた。でも、最近いくつか気になる情報を得て、考え方を改めることになった。

 

1)佐伯先生の有名な論文、「そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」に、ヒトが文化を伝承する際の特徴的な手続きが引用されている。人間はよくわからないことでも、目を見て、目の前でされることを信じてしまうらしい。

 

Gergely & Csibra によると,ヒトが他の動物と明白に異なることは,「文化」の中できわめて効率よく社会的な伝承が行われていることにあるという.そこではさまざまな行動様式が,伝承する側も伝承される側も,因果関係も機能的関係も不明瞭なまま,また,特定の集団のメンバーにとっての適応的な意味も不明であるにもかかわらず,「こうすることになっている」という行為系列が,いわば「盲目的に」伝承されているという点であるという(Gergely & Csibra, 2006).Gergely らによると,大人が子どもに対して①相手の目を見て,②手元が相手によく見えるようにして,なんらかの作業を行う,③作業の終了後に再度相手の目を見る(簡単な言葉で表せば「ミテネ・ヤルヨ・ホラネ」というメッセージで「お手本」の動作を示す)ということで,子どもは無条件に,その作業の意味を考えることなく模倣する,というのである.Gergely らは,このようなコミュニケーション様式を「教示伝達的顕示(OstensiveCommunicative Manifestation:OCM)」と名付けた.

 

(強調は引用者)

 

 佐伯『そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」組織科学 48 vol.2, 38-49, 2014

https://doi.org/10.11207/soshikikagaku.48.2_38

 

よくわからなくても盲目的に信じてしまう、というのが実に興味深い。そんなことが頭に引っかかっていたところ、先日興味深い映像を見た。

 

2)Netflixが作った「監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影/The social dilemma」は、SNSのダークサイドを描き出したドキュメンタリーである。主要なIT企業がいかに我々の内面的な欲求をハックして中毒にしているかについて、多くの専門家への取材とともに映像化している。

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なかなか攻めた内容で、映像内では『もしサービスを無料で使っているのなら、そのサービスの顧客はあなたではなく、広告主。あなたは、商品。』みたいな、企業からは口が裂けても言えないようなセリフが続出する。

 

主要登場人物のトリスタン・ハリスの主張には、僕は以前から注目していた。それで2年前につくった高校の情報デザインの教材「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」では彼のメッセージを受けて、誰もが知っておくべきリテラシーとして、デザインの作為性の問題を扱ったのだけど、まあ、今回はその辺の話は置いといて。

 

ドキリとされられたのが、映像内でフェイクニュースを主張する(危ない)人々が、揃いもそろって、みな「どアップ」で「カメラ目線」なこと。そして「画面を指差す」のだ。要するに、グリフィスらが確立した映像手法としての「クローズアップ」であり、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグの古典的なポスター名作I Want You for U.S. Armyで画面の向こうから名指しされるような「指差し」である。

 

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 そういえば日本で人気のYoutuberたちも、みなカメラに顔を大写しにしてカメラ目線で喋っている。

 

我々はメディアを介した向こう側から呼びかけられても、まるで現実がそうであるかのように錯覚する。それに抗えないのは、視線をあわせることで協働してきた長年の人間の進化上の特性によるんだろう。

 

この古い脳の中には、現実の世界とメディアの世界を区別するための切り替えスイッチは存在しない。人は社会的行為者が自然な物体を模したものに対して、あたかも実際に社会的であるかのように、実際に自然であるかのように反応する。人形は考えてみれば人間とはあからさまに異なっているだけれども、私たちの古い脳を騙す程度には人間にちかい。他のことに気を取られたり、自動的な反応に身をまかせたりしているときはなおさらだ。

『人はなぜコンピュータを人間として扱うか―メディアの等式の心理学』

 

そして視聴者は、よくわからないまま、そして作為性を見抜けないまま盲目的にメッセージを信じてしまうのだ。

 

 ということは、目を見て喋らないかぎり、どんなに学問的に正しいことを言おうが、一生懸命説明しようが、学生たちが普段見ているYoutuberほどは信じてもらえない、ということになる。これはなかなか衝撃だ。

 

 自分の喋っていることもひとつの主張にすぎないのだし、と他人事にように開き直ることもできるかもしれない。だが、せめて大学教員としての責任と学術的な裏付けを持った上で正しいと思うことを伝えなければ、学生たちは他の(怪しい)ことを信じてしまうだけだ。結局のところ洗脳合戦だとしても。

 

というわけで、ささやかな試みとして、ワイプで顔を出し、カメラのレンズ部を注視して、画面の先にいる学生を意識しながらしゃべることにした。(画面ではなくレンズを見ると目があってかなり怖い)

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使っているのは、mmhmmという配信用アプリ。

もちろん恥を感じるけども、どうやら恥ずかしいと言って逃げている場合でもない。真剣に届けようとしないと、誰にも届かない宙を舞うだけのレクチャーになってしまうだろうから。

 

www.mmhmm.app

www.netflix.com