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みえないものを、みる視点。

「付箋を貼って進めていくアレ」は、ただ付箋を貼っているわけではない

先日、興味深いまとめ記事をみた。

グループで討論して付箋をペタペタ貼っていくようなワークは、現在広く行われているが、「はたしてあれは効果があるのか、最後に完成したものは写真映えはするが、終わったあとに何も得るものは無いし、 残るのは、みんなで何かすごいものを作り上げた、という達成感だけ」とある人が疑問を呈し、それに対するやりとりが行われている。

togetter.com

川喜田二郎が編み出したオリジナルな「KJ法」では、断片から意味を抽象化して発想(アブダクション)を導く手段として小さな紙片、今でいう付箋(ポストイット)がよく使われる。そして、この人が多くの人に盛大に突っ込まれているように、図解化をおこなった次に叙述化のフェーズがあることはよく見落とされることである。

 しかし、参考写真にかかれている「見出し(表札)」をみると、そもそもこれはワークの大事なポイントを外しているように思われる。やり方を間違ってながら、「得るものがない」と思ってしまうことは大きな問題だろう。

 

そこで、うちの2,3年生たちも同じようなところでハマっているようなので、デザインの前段階としてこの手のワークを行う場合のポイントについて手短に解説してみようと思う。

 

例えば、なんでもいいのだけど、机の上を調べ、そこで色鉛筆と消しゴムをみつけたとする。こんな感じだ。

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まずこの事実に対して、「色鉛筆がある。そして消しゴムがある」と、それぞれとりあえずそのまま捉えて、その仲間をきめるためにカテゴリとして「文房具」という表札をそれぞれ付箋に書く、としよう。

 

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 こういった要領で、見つけたことや、各自がおもいついたアイデアをどんどん付箋に書いて貼っていくことは、一応作業としては成立してしまう。たくさん付箋があれば、それぞれ仲間ごとに整理整頓は進んでいくから、いっしょに取り組んだという達成感もあるかもしれない。だが、分類の作業が終われば、おそらく「結局、何もわかりませんでした」という結論になるだろう。整理しただけでは、いや整理することが目的になってしまうがゆえに、やがて行き止まってしまう。この例は、間違った方法(カテゴリ分け)である。

 

では、どうするのか。もう一度写真を解像度を上げて、「よく」みてみよう。

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色鉛筆は、たくさんある。よくみると一律の長さではなく、黄緑は長くて赤やピンクは短い。つまり使い手がよく使う色に応じて長さが変わっている。ということは、たとえば僕が使った色鉛筆群と、あなたの使った色鉛筆群では、色ごとの減り方が異なり、その減り方には使い手の個性が無意識のうちに映しだされている・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

そして、もう一方のMONOの消しゴム。購入したままの状態ではなく、まんべんなく角が丸まっている。つまり使う人は、ゴシゴシこすって消すときに、字が消えやすいように、角になっている部分を使って字を消しているわけだが、4つともカドが使われてしまい、このあとには生理的快感のない長いマンネリがつづく・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

この2つは、かたちも素材も違うけれども焦点の合わせ方によっては、よく似ている。(本当は他にも机上には色々なものがあるとして)それは、決して「文房具」というカテゴリによるものではなくて、もともと新品のときにあったものが使いこんでいく中で消耗して減っていく様子が「見える」ことに、なにか近しい意味が見いだせる、ということによる。

 

そして、ここまでわざわざ言語化しなくても、我々のもつ「直観」は、その近縁性をキャッチすることができる。ゆえにこの2つはなんだかよくわからないけども、なんとなくひっかかり、意識の水面下で引きよせあうのである。

 

 

それを付箋に描くとこうなる。

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それぞれどこまでが「事実」か、どこからが独自の「解釈」かは、明確にわけて書く。解釈は人によって多角的に行われるものであるし、いろいろな視点があるからこそ、みんなで同じものをみて、あれこれ気づきを重ねていくことに意義が生まれるものである。

そしてそれらを一行で圧縮した見出しをつける。通常の質的調査では、こんなふうに頭がねじ切れるほど頭をフル回転させて、気づきを重ねて調べていく。そうして作り出した言葉には、ちゃんと重みがある。実際に何かをデザインする際に、手がかりとなりうる。

 

 こんなふうに、2つの例をよく見比べてみれば、同じ付箋を使ったワークをやっているように見えても、そこで行われていることは大きく異なることがわかる。上の例では、単にみたものを名詞にあてはめ、カテゴリに入れるという機械的な「作業」をしているのに対して、下の例ではものごとの状態をよく見たうえで、さらに人との関わりの観点から意味を取り出し、さらに見出しで抽象度を高めている。決して付箋の「数」は問題ではない。

 

「付箋を貼って進めていくアレ」は、付箋を使っていると言っても、本当はただ付箋を貼っているわけではないのだ。こういった考え方は、一般的によく使われる演繹や帰納といった論理的なものではなく、発想(アブダクション)と呼ばれるちょっと違う考え方をしなくてはならない。だから論理でしか考えていない人ほどトラップにハマりやすいし、それを知識として押さえた上で、取り組んでいくことが大事だ。KJ法は、そこがどうしてもモヤるという人が多いが、論理だけでは捉えられない直観性をベースにしているからこそ、半世紀たっても古びないのだろうと思う。

 

まあ、そもそも当たり前のように付箋を使うこと自体がどうなんだ、とか、限られた期間の中でこんな負荷のかかる仕事に比重をかけるべきか、という議論は昔からあるのだけども、それはまた別の機会に。

 

参考資料

2年生の演習(コンテンツデザイン)で以前使っていたKJ法の資料を公開しておきます。よろしければお使いください。