Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

”人間は、コントロールへの情熱をもってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく”

https://image.honto.jp/item/1/265/0275/2256/02752256_1.png

 
幸せはいつもちょっと先にあるー期待と妄想の心理学 
ダニエル・ギルバート 早川書房 2007

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(引用)
人間は、コントロールへの情熱をもってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく。生まれてから去るまでのあいだにコントロールする能力を失うと、みじめな気分になり、途方に暮れ、絶望し、陰鬱になることがわかっている。死んでしまうことさえある。

ある研究で、地域の老人ホームの入居者に観葉植物を配った。半数の入居者には自分で植物の手入れと水やりを管理するように伝え(高コントロール群)、あとの半数の入居者には職員が植物を世話すると伝えた(低コントロール群)。6ヶ月後、低コントロール群では30%の入居者が死亡していたのに対して、高コントロール群で死亡したのはわずか15%だった。追試研究によって、コントロールする感覚が老人ホームの福利にいかに重要かが確かめられたが、同時に予期せぬ不幸な結果を招いた。

その研究では、学生志願者を募って、入居者を定期的に訪問させた。高コントロール群の入居者には訪問してほしい日にちと滞在の時間を自分で決めさせ(次の木曜に1時間ばかり来てちょうだい)、低コントロール群の入居者にはそうしなかった(では次の木曜に1時間ばかりおじゃまします)。

 

2ヶ月後、高コントロール群の入居者は低コントロール群の入居者より幸せで、健康で、活動的で、とる薬の量がすくなかった。この時点で研究を終了し、学生の訪問も終わった。数ヶ月後、高コントロール群だった入居者の死亡率が極端に多い、と聞かされて、研究者達は愕然とした。悲劇が起こってしまってからよく考えれば、原因ははっきりしていた。決定権を与えられ、コントロールすることで良い効果を得ていた入居者達は、意図しなかったこととは言え、研究が終わったとたん、そのコントロールを奪われてしまったのだ。

(p41)

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Xデザイン学校のレクチャーの準備のために、一行目の太字の部分を引用するために読み返してみた。随分まえに読んで衝撃を受けたのがこのエピソード。以後、研究室でも何かのフィールドに関わる時には、下手に影響与えると、終わり方次第ではこういう反動が起こりやすそうだということには気をつけている。

 

 

 

 

独裁者は民衆がつくりだす

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 ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く (岩波新書)

 

熱狂的なトランプ支持者はアメリカの都市部ではなく、地方都市にいる。どんな人々がトランプを支持しているのか、どんな期待を抱いているのかについて、統計からは見えてこないリアリティのある声が、新聞記者による丹念な取材で記録されている。トランプは没落しつつある白人達の絶望と怒りを自覚させ、鋭い暴言を繰り返しながらそれを焚きつけていった。読んでいるとアメリカはもはや別々の国に分断されてしまっているのだな、ということと、独裁者を望み作りだしているのは、本当に普通の人々なんだな、ということを思わされる。

 

闘うべき共通の敵(アメリカの場合でいえば、不法移民や自由貿易)を描き出されると、人々は問題意識に共感する。敵を倒せば問題が解決すると素朴に思い込んでしまう。そして敵を倒すために結束し、高揚感に浸る。

 

こういったことは、遠い場所の話しではなく、実際に身近な場所でも簡単に起こりうることだからこそ怖い。今では忘れられているかもしれないが、以前、日本の地方自治体でも実際に独裁者が誕生した。

 

ある地方の街において、閉塞感にあえぐ人々は改革を求めて、鋭い物言いをする政治家を選ぶことになった。彼が使った方法は、(共通の敵としての)「公務員叩き」だった。彼は地元民にうっすらと横たわっていた不公平感や、行政への不信感を激しく煽った。実際には新規産業をつくって市全体の雇用や税収を増やすような未来のビジョンを示しているわけではないのに、ぼんやりとした不満の正体のようなものをえぐり、人々の目の前に差し出した。多くの人がそれまでの鬱憤をもとに「それは許せない」と共感し、特権階級を引きずりおろすことが自分たちの役割だと思い込んだ。特に善良な農村部のお年寄りたちは、そうすることで自分たちの不満は解消され、よい社会が訪れると錯覚した。熱狂的に支持する側と冷静に反対する側に分断され、家族でさえも対立させた。議会とも激しく対立して市政は混乱した

 

先のアメリカの問題とも結構似ている。

 

「あのどこにでもあるような街でも、たった一人の人間が刺激するだけでこんな風になっちゃうのか」と遠くから絶句したことと、ゴタゴタを経て同じ学年だったN君が新しい市長になるまでのハラハラは、たぶん一生忘れない。

 

Duppy know who fi frighten

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以前、ジャマイカ人から「Duppy know who fi frighten」という諺を教えてもらったことがある。日本語に訳すと、「幽霊は、誰が恐がりかを知っている」。

意味分かる?と聞かれたので、僕は一生懸命考えた。そして、「幽霊は信じてない人には見えなくて、怖がる人の前にだけ現れる、という意味かな」と返事し、「恐怖心があると、何でもないものが恐ろしいものに見えてくる、という『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』って似た諺が日本にもあるよ」と付け加えた。

 

そうしたら「まったく違う」という。どうやら、脅す側は、弱い奴を標的として選んでいる、という意味で、すなわちつけこまれないために「弱みをみせちゃだめだ」という教訓として使われているんだそうだ。

言葉は、それを用いる社会によって発達していく。例えば一人称代名詞は、英語ではすべて「I」だし、なのに、日本語では、僕、俺、私、自分、小生、わし、おいら、など世界的にも特異なのは、そういった自我の使い分けが他者との関係の中で必要とされる社会だからだ。さらに言葉の中でも特に諺は、世代を超えて磨かれた教訓や知識の結晶でもある。諺はその国の文化を映す。

 

欧州でそういうことに気付いたこともあって、いろんな国の人に出会うたびに諺を話題にして聞いていたのだが、ジャマイカとかハイチとか、カリブの国々は陽気そうに見えるけども、この強く生きていくことを言い聞かせるような短いフレーズから、生きるか死ぬか、やるかやられるかの生存競争が厳しいということに気付いて驚いたことを思いだす。諺の意味をよく考えることは、それを語り継ぐ文化の土壌が見えるからこそなんだか興味深い。

〈読書メモ〉良くしようとするのはやめたほうがいい

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横浜コミュニティラボのMさんのfbで知った小冊子。この「良くしようとするのはやめたほうがいい」という、ギクリとさせられるタイトルだけで読みたくなって取り寄せてみた。我々は深く考えることもなく「よくする」という言葉を使いがちだ。内容は横浜寿町の福祉センターで長年相談員として勤められた村田由夫さんの講演録をベースにしたもので、ドヤ街のアルコール依存症患者たちと関わり続けた当事者による経験談として大変興味深かった。

 

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(以下引用)

この良くするってことはね、やっぱりどうあがこうとも、ある側面では、相手を支配したり管理したりっていうことですよ。で、これに対して、パワーレスというか、そういうこと(相手を良くすること)はできないんだ、ということを受け入れる、認めるってのは非常に大事なことのような気がするのです。

<中略>

もう一つ、AA(※アルコホリックアノニマスというアルコール依存症の人達のミーティング)の人達が使っているステップは、12まであるんですが、全部過去形で書かれている。例えばですね、「無力であるということを認めた」とか「自分が回復するんだっていうことを信じるようになった」とか。それから、あるいは「自分自身の間違いを、気がついたならば、直ちに認め改めるようにした」とか「この方法を、苦しんでいるアルコール依存症の人達に伝えるように努力した」とかですね。ぜんぶ過去形で書かれている。

 

なんで過去形なのか、考えてみると、この場合の過去形というのは、個人の気づきですよね。だからこの方法は強制じゃないんです。こうしろとかああしろ、とかの強制ではない。

<中略>

アルコール依存症の人達の状態というのは、薬物依存だとか摂食障害の方々だとかあるいはギャンブル依存なんかの人もそうなんですが、どんな意見でも,他人が自分のために心配してくれるような内容の話は、一切耳に入らないみたいですね。それがどんなに善意からでた言葉でも(善意というのはまあ「カッコ」付きですけどね)耳に入らない。

<中略>

そのかわり、私はこうだったっていうこと、他人のことじゃなくて自分自身がこうだった、っていう風な話、これはね、ふっと耳に入ることがある。

<中略>

ところがその、他人の、正直なその人自身の話だけにはふっと反応するんです。そういう力だけはかろうじて残しているんですね。死の瀬戸際まで。不思議ですね。

<中略>

で、そういう話を聞いた仲間が、同じようなことをしていたとフッと気がついて、段々段々、自分を取り戻してくる、そういう力みたいなものが沸いてくるんですね。これはなんというのかな、人を変えようとか、良くしようとかする中からでてくるんじゃなくて、みんな無心に自分のことを話し、人の話を聞いてくる中から,生まれてくるんですね。

 

(引用ここまで)

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「よくする」ってのは確かにそう言う一面があることには同意する。それにしても、まったく聞く耳を持たない人が、「その人自身の話だけにはふっと反応する」ってのは実に興味深い。当事者による語りがそれぞれの感情を重ね合わせるというのは、数日前に書いたイスラエル人とパレスチナ人の対話ワークショップで起こっていることと、とても似ているように思う。

kmhr.hatenablog.com

 こういう話を読むと、原始的な人間の心は、個人から切り離されてない主観的な言葉に動かされるのだな、と思うし、若者がサーチエンジン検索よりSNS検索や口コミを重視するという傾向とも辻褄が合う。

 

人は見たいものを見るし、自分に都合の悪い情報は遮断してしまう。なにかの情報を客観的に「伝える」ことにはどうやら限界がありそうだが、そんな中でもコミュニケーションの原始的なかたちである、わかちあいが生まれる「対話」にこそヒントがあるのかも知れない。

 

 

デザインは死ぬか

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かのブックディレクター・幅允孝氏による企画監修ということで楽しみにしていた「デザイン イズ デッド(?)」を読了。このタイトルには、やはりエンブレム問題が大きな影を落としていて、クエスチョンマークにはデザイン行為をシニカルに語るようになってしまった世の中の人々に対する幅氏からの問いかけが掲げられている。

この本を企画したきっかけは、乖離するデザインの作り手と受け手の間に結び目をつくることが両者の関係を作り直す唯一の方法だと思えたからだ。

<中略>
2000年代、商品の価値をあげる付加価値としてデザインが世の中に行き渡ったのを境目に、デザインは「普通に、そこにあるもの」になった。デザイナーを介さず作られれているものが世の中にないことを皆が知るようになり、デザインコンシャスではないこともデザインの一部になった。そんなデザインの過渡期だからこそ、(残酷だが)いちど「今までのデザイン」には天寿をまっとうしてもらい、新たなデザインに対する考え方を興していくべきだと思える。(まえがきより)

 

そういうわけで、独特のコンテンツとエディトリアルデザインである。この雑多な感じは雑誌というかMookというか。仕事柄たくさんデザイン関係の書籍を読んでいる僕でも、こんな構成の本を始めて読んだ。なにしろ、デザインを解説する冒頭の事例が「孤独のグルメ」w。そして「エンブレム問題から現代のグラフィックデザインを逆照射する」(室賀清徳)、「デザイン批評はいかにして可能となるか」(藤崎圭一郎)、「デザインは社会を変えることはできるのか?」(加島卓)など、専門家達がちゃんと考えるべき問題に対してのシャープな論考があるかとおもえば、後半では業界をまったく知らない人々へデザインを解説するためのゆるいコンテンツが続く、という謎な目次。(ちゃんとそれぞれの章を解釈すれば、コンセプトはしっかり通っているのだけど)。問題意識には共感するし、途中までは大変興奮しつつ読んだけれども、申し訳ないが徐々に尻すぼみしていくように感じた。特に(略)

僕自身はデザインが死んだ(か死んだような状態になってしまった)という見方はピンと来ない。たしかに旧来のグラフィックデザイン業界はエンブレム問題でダメージを受けたと思うが、JAGDA会員からも抜けてしまったし、その時期ちょうど日本にいなかったせいもあってそこまでのリアリティは感じなかったからかもしれない。でもあの閉鎖性は、どこかのタイミングでいずれ表出して問題になったのではないのかな。そもそも「作り手」「受け手」という二元論を持ち出している時点でうーん・・・だしそんな視点で見ているからそう見えるんだよ、と思う。

非の打ち所がないような解をさっそうと差し出して人々を熱狂させる「魔法使い」はもう今の時代には存在しないのかもしれない。でも代わりに、一般の人々にデザインに向き合う責任を生んだはずだし、むしろやっかいなことだらけの現代の状況の中で、プロが率先して人々に示すべきデザインの必然性は高まっているんじゃないだろうか。

 

 

 

ビール工場を見学する

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2/12(日)、家族で生麦にあるキリンビールの工場見学に行ってきた。三ヶ月前に予約しなきゃ行けないという、なかなかプレミアムな体験である。

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この日は工場は休みで、ラインもひっそり。でもこういったアングルでベルトコンベアのはり巡られた全景を見渡すのはなかなかそそるね。

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発酵の仕組みコーナー。地味な発酵のプロセスをインタラクティブな仕掛けで見せていて、子供達は大喜びだ。これは子供向けのツアーなのだけど、そもそもこの子達はビールを飲んだこと無いわけだし、わかりやすく説明したところで、ちゃんと残るのかは謎である。

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最後は大人全員がおまちかねの死因、じゃなかった試飲!生ビールを一人三杯まで飲める(もちろん無料)。3種類から選べるのだが、特にできたての「一番搾りプレミアム」は絶品だった。

 

以前、なんでドイツもデンマークもベルギーもビールとても美味しいのに日本のビールはあんなに普通なんだろう、とおもっていたが、よく考えれば比較対象が間違っている。専門のビアバーで飲むできたて生ビールと、普通の居酒屋の生ビールを比べてはいけない。

 

ひとしきり味わって満足したあとで、もう一つ疑問が湧いてきた。なんで日本の大手メーカーのビールはピルスナーばかりなのだろう。いちばん万人受けする味だろうからビジネスの視点では合理的なんだろうけど、もうちょっと多様性が欲しいな、と思う。ウイスキーも焼酎も日本酒もワインも、気分に合わせてチョイスすることが楽しいのに。

 

kmhr.hatenablog.com

 

 

 

〈読書メモ〉ナラティブ・アプローチ

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パートナーとして関わっているACTANTは、ロンドン芸大セントマーチンズの大学院でNarrative Environmentsという先進的な専攻を修了したデザイナーが3人もいるという非常に珍しいメンバー構成であり、いろいろ話しを聞いているうちに僕の中にもナラティブへの関心が湧いてきた。

物語構造とかは20年ほど前にたくさん勉強したのだが、そういえばエスノグラフィーの真似事をしているわりには、ナラティブとストーリーテリングの違いもよく分かっていない。自分の中の何かが騒ぐので、ナラティブとデザインをつなぐ勉強をちょっとづつ進めている。先日読んだ本は衝撃だった。

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「ナラティブアプローチ」 野口裕二(編) 勁草書房 2009
第1章 エスノグラフィーとナラティブ 小田博志

 

(以下引用)

2002年3月、フランクフルトの書店で、私は「われらに内なる他者」という新刊を見つけて手に取った。著者はダン・バルーオンというイスラエル社会心理学者である。パレスチナ紛争をテーマにしてナラティブアプローチの視角から書かれていた。
バルーオンはもともとナチ戦犯の子孫の研究をしていた。その延長で生まれたのが「自省と信頼のために(To Reflect and Trust )」というグループワークであった。最初のグループは、ナチ戦犯の子孫8人とホロコースト生還者8人の計16人からなり、彼らは互いに人生の物語を語り、相手の物語に耳を傾けた。そしてその相互理解を基盤にして対話を行った。その後、そのやり方を南アフリカ北アイルランドパレスチナなどより最近の紛争の当事者にも広げるようになった。バルーオンによると、このやり方がボトムアップな平和構築のプロセスに繋がっていくのだという。ナラティブには、紛争の当事者間の関係性を変える力があるのだというのである。
(p40)


<中略>

そのNHKの番組(NHKスペシャルイスラエルとパレスチナ遺族たちの対話」)は、2004年3月27日に放映された。その番組に対話集会の実際が収録されていた。その集会には23人が参加していた。全て紛争によって肉親を失ったイスラエル人かパレスチナ人である。ひとりひとりが、肉親を亡くした時のことを語ってゆく。その個人的な経験の語りを聴くことで、互いのステレオタイプな他者像(「パレスチナ人=テロリスト」、「イスラエル人=侵略者」がゆらぎ、互いを"人間として"みるプロセスが動き始める様子がまさに映し出されている。集会の最後に、会の代表で自らも息子を殺されたHさんがこう語る。

「私たちはいつも紛争になると"イスラエル側"、"パレスチナ側"という言い方をします。私は"第三の側"をつくることを提案します。”第三の側”は私たちです。私たちは双方をつなぐ側の代表です。私たちはみな痛みを持つ兄弟です。私たちはみな苦しみを持つ兄弟です」

ナラティブの現場では、新しい関係性が生じる。私たちは人の話に引き込まれた時、「時が経つのを忘れる」とか「我を忘れて聴き入った」という実感を持つ。人の話に「引き込まれる」という表現と、非線形システムにみられる「引き込み(entrainment)」現象でとは違ったことではない。ここでは、物語を語り/聴く人々のあいだで生じる「物語的引き込み(narrative  entrainment)」によって、他者像の根本的な変化がみられることに注目しておきたい。遺族の会の対話集会において、最初は互いに「イスラエル人=侵略者」、「パレスチナ人=テロリスト」といったステレオタイプ化されたネガティブな「他者」像を抱いていた。ところが、互いの物語を聴いた後では、それが具体的な名前と顔を持ち、自分たちのかわらぬ感情のある〈他者〉へと変わった。そしてそれに伴ってHさんが「第三の側」と呼ぶ新しい関係性が生まれたのである。これは当事者たちにとって「和解」の体験であろう。それは「パレスチナ問題の解決」といったような大文字の和解ではない。まあそれでイスラエルによるパレスチナの占領という構造的な問題が解決されるわけでもない。ほんの小さな湧き水である。だが大河も小さな湧き水から始まる。
(p42)強調は引用者

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永久に分かりあえなさそうな両者が対話によって変化していくという、実に壮大な挑戦の話。冗長に見えてもこういったプロセスを踏むことが、お互いの先入観を崩していく・・・ということよりも、当事者による「語り」が、それだけのパワーを内包している、ということに驚かされた。人類はコミュニケーションのためのテクノロジーやメディアを進化させてきたが、むしろコミュニケーションの原点であるシンプルな語りの中にこそ可能性があることを改めて思い出させてくれる。

〈読書メモ〉多層的な参加の構造

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「ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門」フィルムアート社(2015)より。

原点の題名は、Education   for Socially Engaged Art: A Materials and  Techniques handbook (2011) 著者の多くの実践経験を元に、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの光と影を、教育学・社会学・哲学などの理論を幅広く参照しながら、批評的な視点で考察した本。

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以下引用

 

B|多層的な参加の構造

「参加」は包括的な言葉であり、芸術の周辺ではその意味を見失いやすい。単に展示室に入ればそれは参加になるのだろうか?それとも作品の制作に関わる時に限って参加者になるのであろうか?自分自身が芸術作品の制作過程のまっただ中にいながら、関わることを拒否する場合には、それは参加していると言えるだろうか?
「参加」には先に議論したように、SEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)と同じ問題がある。
<中略>
高度に洗練されたSEAの中には、鑑賞者のエンゲイジメントのレベルに従って多様な参加の層を提供しているものがある。参加の層を以下のように試験的に分類してみよう。


1)名目的な参加(Nominal Participation)
来訪者や鑑賞者は、内省的に、受動で孤立したかたちで作品を凝視する。


2)指図された参加(Directed Participation)
来訪者は作品作りに貢献するためにシンプルな課題をこなす。例えばオノヨーコの〈Wish Tree〉


3)創造的な参加(Creative Participation)
来訪者はアーティストが設定した構成に基づき、作品の要素となるコンテンツを提供する。例えばアリソン・スミス〈The Muster〉


4)協働の参加(Collaborative Participation)
来訪者はアーティストとコラボレーションや直接対話を通して作品の構成やコンテンツを展開させる責任を共有する。例えばキャロライン・ウラードの〈Our Goods〉

「1:名目的な参加」と「2:指図された参加」は、たいてい一度きりの出会いで終わる。一方で「3:創造的な参加」と「4:協働の参加」は、より長期間にわたって展開する傾向がある。1と2のレベルの参加を組み込んだ作品の方が、3または4を特色とする作品よりも多かれ少なかれ思い通りに行くが、魅力的になるとは限らない。


それでも、参加レベルの区別を心にとどめておくことは重要だ。それは少なくとも以下の3つの理由からだ。第一に、その区別は、ある参加の枠組みにおいて可能なゴールの範囲を明確にするのに役立つ。第二に、後述するように、それは作品の意図がどの程度実現したかを評価するときに参照する枠組みをつくりだす。第三に、ある作品に要する参加のレベルを考慮することはその作品がコミュニティ体験をつくりだすときの手法の価値判断と密接に結びついている。

参加のレベルに加えて、個々人が個別のプロジェクトにどのような気持ちで参加するのかを認識することも同じく重要である。ソーシャルワークの場合、ソーシャルワーカーが交流する個人やコミュニティの傾向は、以下の3つのグループに分類される。

1:積極的に喜んで活動にたずさわる人々=自発的(Voluntary)
例えばフラッシュモブのようなタイプ

2:強要されて、または命令によってたずさわる人々=強制的(Non-Voluntary)
例えば高校の1クラスの生徒が活動家のプロジェクトとコラボレーションする

3:公共空間で、偶然(アートプロジェクトだという)状況をあまりよく知らないで遭遇する人々=非意図的(involuntary)

(P49-52)

<中略>


目的が明確に設定されていれば、きわめて限られた時間内のエンゲイジメントでも、実りあるものに出来る。コミュニティ・プロジェクトにおける問題の多くは、予想される時間的な投資に対して非現実的なゴールが設定されることによって起こる。SEAプロジェクトは、アーティストに対して著しく多大な時間と努力を要求しがちだ。
(P56)

 

引用ここまで。


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アートをデザインに読み替えれば、CoDesignとほとんど共通する話だ。建築だけでなく現代アートでも社会に開かれていく動向があるのがなかなか興味深い。

 

たしかにこの本は、理論書でもなくハウツー本でもない。「むしろ彼は、人々とエンゲージするアートを実践する上で、教育学や社会学、コミュニケーション論、現代思想など、人と人の関わりを軸とする研究分野における多くの成果からSEAにいかせるであろう知識や情報を共有することに力を注いでる。そしてそれを表現の自由への制約や足かせとするのではなく、アーティストの活動を理論的も実践的にも支えるものにしようとしているのだ」(訳者あとがきより)

こういったアカデミア発の書籍のスタイルは参考になる。

 

そして、積読を消化したちょうどのタイミングで、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」展が開催されることを知った。

会期:2017年2月18日(土)〜3月5日(日)
開館時間:11:00〜20:00 (最終入場19:00)
休館日:なし
会場:アーツ千代田3331
観覧料:一般1000円/大学生以下500円(要学生証)

​http://sea2017.seaexhibition.site/

近年、アートの新しい潮流として注目されている「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」は、現実社会に積極的に関わり、人びととの対話や協働のプロセスを通じて、何らかの社会変革(ソーシャル・チェンジ)をもたらそうとするアーティストの活動の総称です。本展では、とくに3・11以降顕著となった、社会への関わりを強く意識した日本人アーティストの活動に注目し、アイ・ウェイウェイ、ペドロ・レイエス、パーク・フィクションなど海外の代表的な作家やプロジェクトとともに紹介。東京を舞台に5つのプロジェクトも実施します。日本で初めての本格的なSEAの展覧会としてご期待ください。

http://www.art-society.com/researchcenter/wp-content/uploads/2017/01/SociallyEngagedArt.jpg

 

 

 

 

2017年度Xデザイン学校がまもなく募集開始

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社会人向けデザインスクール、Xデザイン学校の2017年度学生の応募受付が2/10から開始されます。2年目の今回は、ベーシックコースとアドバンスコースに分かれるそうです。

 

■ベーシックコース(UXデザインを基本とした実践に役立つ基本スキルを身につける)

出願期間 2月10日(土)-20日(月)(先着順)


■アドバンスコース(スタートアップ/新規事業創出のための次世代デザインを探求する)

出願期間 2月10日(土)-20日(月)(書類選考)

 

詳細は公式ウェブサイトへ

www.xdlab.jp

 

上平はアドバンスコースで、「オープンデザイン」を担当予定です。

 

そして母体のコミュニティでもあった情報デザインフォーラムは草の根的な活動も10年近くなり、次のフェーズに向かうためにXデザイン学校が運営することになりました。今後はXデザインフォーラムという名称になります。(しばらくは併置するそうです)第1回Xデザインフォーラムは、5月のゴールデンウィーク頃に開催予定です。

ブログの方向性を再考する

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最近拙ブログも読者が増えてきて、小さな話題にしてもらうことも増えてきた。とても有り難いことだし、わざわざ読みに来て下さっている方々の期待には応えたいと思う。そして、加藤研に触発されて毎日書こうと言っておきながら・・・・考えてみれば結構ブログに時間をつっこんでいることにも気付く。

 

僕の場合、一記事に1000〜2000字で、本が10万字とかだそうだから50~100記事で一冊の本になる計算になる。授業がない時期こそ集中して本や論文を書かなければならない(汗)のにブログを濃くしている場合でもないので、力の配分は考えないといけない。

 

目標は中原先生。彼のブログは大変面白いし勉強になるが、なんと朝の出勤前の20分だけで書いているという。「もったいぶらずどんどんブログに出して損はない」と言い切る姿勢は、励まされる。でも、超人にしかみえない彼ですら、毎日書かないとそのスピードでは書けなくなるんだそうだ。

www.nakahara-lab.net

とりあえず、これからも読者受けは意識しない方向で、でも自分の学習とそれをスライドさせたコンテンツづくりの「一石二鳥」はしっかりねらいます。「オブザベーション」と「BOOK」のカテゴリを中心に無理のない範囲で書いて行きたいと思います。Facebookページでの配信は間引きます。