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みえないものを、みる視点。

〈読書メモ〉ナラティブ・アプローチ

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パートナーとして関わっているACTANTは、ロンドン芸大セントマーチンズの大学院でNarrative Environmentsという先進的な専攻を修了したデザイナーが3人もいるという非常に珍しいメンバー構成であり、いろいろ話しを聞いているうちに僕の中にもナラティブへの関心が湧いてきた。

物語構造とかは20年ほど前にたくさん勉強したのだが、そういえばエスノグラフィーの真似事をしているわりには、ナラティブとストーリーテリングの違いもよく分かっていない。自分の中の何かが騒ぐので、ナラティブとデザインをつなぐ勉強をちょっとづつ進めている。先日読んだ本は衝撃だった。

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「ナラティブアプローチ」 野口裕二(編) 勁草書房 2009
第1章 エスノグラフィーとナラティブ 小田博志

 

(以下引用)

2002年3月、フランクフルトの書店で、私は「われらに内なる他者」という新刊を見つけて手に取った。著者はダン・バルーオンというイスラエル社会心理学者である。パレスチナ紛争をテーマにしてナラティブアプローチの視角から書かれていた。
バルーオンはもともとナチ戦犯の子孫の研究をしていた。その延長で生まれたのが「自省と信頼のために(To Reflect and Trust )」というグループワークであった。最初のグループは、ナチ戦犯の子孫8人とホロコースト生還者8人の計16人からなり、彼らは互いに人生の物語を語り、相手の物語に耳を傾けた。そしてその相互理解を基盤にして対話を行った。その後、そのやり方を南アフリカ北アイルランドパレスチナなどより最近の紛争の当事者にも広げるようになった。バルーオンによると、このやり方がボトムアップな平和構築のプロセスに繋がっていくのだという。ナラティブには、紛争の当事者間の関係性を変える力があるのだというのである。
(p40)


<中略>

そのNHKの番組(NHKスペシャルイスラエルとパレスチナ遺族たちの対話」)は、2004年3月27日に放映された。その番組に対話集会の実際が収録されていた。その集会には23人が参加していた。全て紛争によって肉親を失ったイスラエル人かパレスチナ人である。ひとりひとりが、肉親を亡くした時のことを語ってゆく。その個人的な経験の語りを聴くことで、互いのステレオタイプな他者像(「パレスチナ人=テロリスト」、「イスラエル人=侵略者」がゆらぎ、互いを"人間として"みるプロセスが動き始める様子がまさに映し出されている。集会の最後に、会の代表で自らも息子を殺されたHさんがこう語る。

「私たちはいつも紛争になると"イスラエル側"、"パレスチナ側"という言い方をします。私は"第三の側"をつくることを提案します。”第三の側”は私たちです。私たちは双方をつなぐ側の代表です。私たちはみな痛みを持つ兄弟です。私たちはみな苦しみを持つ兄弟です」

ナラティブの現場では、新しい関係性が生じる。私たちは人の話に引き込まれた時、「時が経つのを忘れる」とか「我を忘れて聴き入った」という実感を持つ。人の話に「引き込まれる」という表現と、非線形システムにみられる「引き込み(entrainment)」現象でとは違ったことではない。ここでは、物語を語り/聴く人々のあいだで生じる「物語的引き込み(narrative  entrainment)」によって、他者像の根本的な変化がみられることに注目しておきたい。遺族の会の対話集会において、最初は互いに「イスラエル人=侵略者」、「パレスチナ人=テロリスト」といったステレオタイプ化されたネガティブな「他者」像を抱いていた。ところが、互いの物語を聴いた後では、それが具体的な名前と顔を持ち、自分たちのかわらぬ感情のある〈他者〉へと変わった。そしてそれに伴ってHさんが「第三の側」と呼ぶ新しい関係性が生まれたのである。これは当事者たちにとって「和解」の体験であろう。それは「パレスチナ問題の解決」といったような大文字の和解ではない。まあそれでイスラエルによるパレスチナの占領という構造的な問題が解決されるわけでもない。ほんの小さな湧き水である。だが大河も小さな湧き水から始まる。
(p42)強調は引用者

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永久に分かりあえなさそうな両者が対話によって変化していくという、実に壮大な挑戦の話。冗長に見えてもこういったプロセスを踏むことが、お互いの先入観を崩していく・・・ということよりも、当事者による「語り」が、それだけのパワーを内包している、ということに驚かされた。人類はコミュニケーションのためのテクノロジーやメディアを進化させてきたが、むしろコミュニケーションの原点であるシンプルな語りの中にこそ可能性があることを改めて思い出させてくれる。