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みえないものを、みる視点。

バウハウス映画祭「マックス・ビルー絶対的な視点」トークショー&コラム執筆

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1)経緯

今年はバウハウスが設立されて100年ということで、世界各国でそれを記念したイベントが開催されている。日本でもバウハウス映画祭が企画され、「マックス・ビルー絶対的な視点」が上映作品の一つとしてチョイスされている。去年出会ったスイス人のエーリッヒが撮影したドキュメンタリー映画だ。その時の経緯はこちらのエントリで書いた。

kmhr.hatenablog.com

今回の映画祭にあたって僕に声がかかった理由は、たぶんエーリッヒが推薦してくれたんだろうと思う。エーリッヒと約束した通り、ちょっとだけ協力したという記録を残しておきたい。

 

2)アフター・トークショーに出演。

12/1の上映後、東京芸大デザイン科教授の藤崎圭一郎先生と対談。藤崎先生は日本で数少ないデザイン評論家で、デザインを言葉にすることにかけては天下一品の鋭い視点を持っておられる方だ。配給会社の方に「誰と対談したい?」と聞かれて僕から先生を指名させていただいた結果、快諾してくださり、無事に実施することができた。

 映画の日ということもあって、こんなマニアな映画なのに、会場はほぼ満席。来場者の皆さんが満足できるお話になったかはわからないけれども、少なくとも僕は準備とアフターアフタートーク含めて藤崎先生とたくさんお話できてとても楽しかった。

 

3)パンフレットに寄稿。

今回の映画祭にあわせて、立派なパンフレットが作成された。そのコンテンツとして「マックス・ビルー絶対的な視点」について長文コラムを寄稿した。5000字程度ということでそのくらいで書いたら、実際にパンフ見てみると、だいぶスペース空いていて、削らないでもっと書けばよかった。

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せっかくなので転載しておきます。興味ある人どうぞ。

なお、僕の文章はタダみたいなものですが、他の執筆陣は、深川雅文氏(巡回展「来たれ!バウハウス」監修者)、五十嵐太郎氏(建築批評家)、池田祐子氏(京都国立近代美術館学芸課長)、藤村龍至氏(建築家)、光嶋裕介氏(建築家)となっていて、全体を読んで理解が深まるパンフになっていると思います。

 

※しばらく経って読んでみるとだいぶ読みづらいので、一部改変した上で公開しておきます。

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「全方位のデザインに挑み続けた信念の理由」

上平 崇仁 Takahito KAMIHIRA

 

 

 本映画で初めてマックス・ビルを知った人にとって、「ビルが日本で神格化されている」という作中の日本人の証言は、にわかには信じられない話だろう。しかしながら、それほど過言でもない。向井周太郎氏や森典彦氏をはじめ、ウルム造形大学に学んだ日本の若者達は帰国後に大学で教壇に立った。80~90年代頃、それらの人々を通してデザインの教えを受容し、憧れをかき立てられた筆者らの世代は、ビルの名前を綺羅星のようなバウハウスのマイスターらと同じように、近代デザイン史における伝説的な人物として受けとめたからである。

 

 ビルは、次元にとらわれない数多くの美しい作品を制作しただけでなく、バウハウスとウルム造形大学という歴史上重要なデザイン学校に橋を渡した。その後も名門美大で教鞭を取り、造形に関する論考を記した。加えて政治家として国会議員まで務めるという、わたしたちを取りまく環境をあらゆる方面からデザインし続けた人だった。そして何よりも多彩かつ一貫した活動を通じて、バウハウス以来の芸術と技術を統合するというテーゼにひとつの答えを出した人であった[1]。そんな人がビル以外にいようか。確かに、目の前に実際に現れ、直接触ることができるような存在では無かったのである。

 

 本映画「マックス・ビルー絶対的な視点」は、そんなビルの生涯を追った貴重なドキュメンタリーである。ビルの作品が周囲の環境や、見る角度によってさまざまな姿をみせるように、不世出の巨人であるビル自身も、激動する時代の渦中でさまざまなアーティストたちとの関わり合いを通して学び、成長していったことが証言と共に示されていく。

 

 とは言え、歴史は誰かによって語られなければ存在しないし、記録されなければやがて語りも蒸発してしまう。ビルの人生最大の幸運は、本作の語り部である、アンゲラという40才年下の伴侶を得たことだろう。晩年のビルとプライベートを共にした彼女の視点を中心にビルの人柄が描き出され、同時に美術史家としての彼女の専門性によって、作品資料や記録映像は丹念にアーカイブ化され、的確な言葉で解説されていく。

 

 アンゲラは未亡人となった後、本作の監督であるエーリヒ・シュミットと出会い、結婚した。そうしてビルの資料や映像は、エーリヒの手によって伝記映画として結実することとなった。この映画は監督の成果だけでなく、生涯をビル研究に捧げ発信し続けてきたアンゲラの仕事の集大成でもある[2]。それゆえ、本作はアンゲラに捧げられている。

 

 映画内で取り上げられているように、ビルは多くの造形作品を残した。欧州だけでなく、その中のいくつかは現在の日本においても接することができる。代表的なものとして、箱根彫刻の森美術館に常設されている「パビリオン・スカルプチャー」。そして今も販売されつづけているユンハンス社の時計シリーズが挙げられる。いずれも時代を超越した簡素な造形美を持ち、人々に長く愛されているものばかりである。

 

 しかし、ビルが逝去していつの間にか四半世紀が過ぎ、今となっては若い世代がビルの名前を知る機会も減ってしまった。そんな中で、いまこの映画祭における機会を通してビルの仕事を再考することには、単に歴史を回顧するだけではない重要な意味があることを指摘しておきたい。

 

 それは、ビルによって見出された創造活動における数学的思考は、極めて現代的なテーマでもある、ということである。近代デザインは、産業革命期の工業化する生産手段に反応することで産声を上げた。そして今日では、猛スピードで世界中を駆け巡る情報環境に反応するかたちで、さらに進んだ思想を必要とするようになっている。デザインとテクノロジーの融合する領域の先駆者として知られるジョン・マエダ(Publicis Sapient CXO)は、そんな状況においてデザインの主要フィールドが変わりつつあると問題提起し、これまでの近代デザインの流れを汲む領域を「クラシカル(古典的な)デザイン」と呼び、対照的な領域として「コンピュテーショナル(計算論的な)デザイン」を位置づける[3]。コンピュテーショナル・デザインは、これまでのような造形素材から離れ、操作することには明確な終わりもない。デザインのパワーはテクノロジーと一体化して増幅され、アルゴリズムとして大規模かつリアルタイムに世界を繋げて動作していく。マエダは、これからのデザイナーは、そんないっそう抽象化していくデザインの考え方をよく解釈し、学んでいかなければならない、とする。

 

 そのデザインにおけるアルゴリズムの重要性をいち早く予見したのが、本作にも登場しているカール・ゲルストナー[4]であり、そのゲルストナーに影響を与えたのがビルだった。ビルは言う。「音楽はリズム、音、振動、組み合わせによって構成される。振動と音は数学的な区切りによって互いに結びつけられる。これで気づいたんだ。絵でも彫刻でも数学に戻らなければいけない」。この言葉を具現化している初期の重要な作品「1つのテーマによる15のバリエーション」(1935-1938)は、造形要素のコンビネーションによる数学的規則性をベースに変化する画面の律動を探求した連作である(ご存じない方は、是非上記タイトルを手元の端末で画像検索してみて欲しい)。

 

 ビルは螺旋状に配置された多角形にルールを設けながら、その制約を逆に発想源とすることを試み、図法的な論理と人間の直感の相互作用の中に美を見出した。さまざまな姿に展開されるアルゴリズムとその働きによって具体化されていくプロセスこそを、いち早く芸術の主題としたのである。現象の背後にあるビルの軽やかな思考は、まさしく計算論的なデザインの源流でもある。

 

 ビルは、そうして創造の起点に数学的思考を用いながらも、目的として「美」を生み出す姿勢には徹底的にこだわる。しかしながら美は主観的な経験でもあるため、しばしば論争を生んでしまう。ビルが作中で苦しそうに述懐するウルム離校の契機となったのも、主にそれを巡るものだった。

 

 ビル排斥を主導したトーマス・マルドナードは、産業社会の課題が高度化していく中では美的側面はデザイナーが考慮すべき数多くの側面の一つにすぎず、デザインの解も直感や経験値に頼るのではなく「科学的に操作」すべきであるとした。それに対してビルは、科学の有用性は認めつつも、芸術を通した豊かな経験によって育まれる美的側面こそが重要であり、芸術を軽視するならば造形大学の意味すら見失う、と反論した。そして、今では機械が計算処理などの単調な仕事を引き受けてくれるのだから、我々は創造の仕事に注力すべきだとし、本当に必要なのは「美学の議論」であり、「様々な芸術」であり、「様々な芸術を日常生活に組み込む仕事」だと主張する[5]。だが、そうした信念は、合理的なデザインのありかたを求めた一派には受け入れられることはなかった。

 

 半世紀が過ぎ、ビルが立たされた岐路は、今の時代にも同じような様相を見せる。急速に変化し、複雑化し続ける社会の中でのデザインの基礎的能力の考え方。そして急速に進化するAIに対して残される人間の役割。それらによって映し出されているジレンマは、今後の私たちに対しても、まったく同じ問いを突きつけるようである。最後には創造が残ると主張し、実際に社会の全方位にわたる創造に挑戦し続けたビルの信念は、いまだからこそ重い。

 

 

参考文献

[1]向井周太朗 現代デザイン理論のエッセンス―歴史的展望と今日の課題 ぺりかん社 1971

[2] Thomas Angela. Max Bill: No Beginning, No End, Scheidegger and Spiess 2018

[3]John Maeda: Design in tech Report https://designintech.report/

[4] Karl Gerstner:  Designing Programmes: Programme As Typeface, Typography, Picture, Method 1964

[5]高安啓介「マックス・ビルバウハウス待兼山論叢 芸術学篇 51 P.1-17 2017