Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

【コ・デザイン執筆裏話#1】秘技・文末ゆらし!日本語を書く際の不思議なテクニック

執筆を通してたくさんのことを学んだので、何回かにわけて執筆の裏話を書いていこうと思う。

 

 ____

 

いまふりかえって真っ先に思い出すのは、文体や漢字/ひらがなのひらき方によってニュアンスが変わる、日本語ライティングの面白さである。僕自身はこのブログにしても論文にしても、普段は「である」(常体)で文章を書いている。そのほうが圧倒的に書きやすし読み慣れている。とはいえ、ほとんどの読者にとっては、「ですます」(敬体)のほうが親しみやすさや丁寧さを感じて支持されるようだ。そのへんを考慮して『コ・デザイン』本は、多くの人に読んでもらうために「ですます」で書くことを選択した。

 

ところが。

「ですます」で長い文章を書くのは、ものすごく難しい。とにかく冗長かつ単調になりやすいのだ。ブログやnoteを書いている人は、経験したことがあるだろう。その原因は日本語の文末のバリエーションが極めて少ないことにあるようだ。〜〜です。〜〜ます。〜〜です。〜です。のようにちょっと気を抜くと文末が「す」だけで揃ってしまい、単調になる。単調さは全体のリズムに直結し、読者は眠くなる。続けて読めなくなり、そっと本を閉じる。

 

どうしたものか・・・。

まず、僕が取った経験的な方法は、「なるべく同じ文末を続けない」ことである。「〜〜です」に頼らず、「〜〜でしょう」「〜〜でした」「ではありません」などの話し言葉のような変化をつけていく。それに加えて、非常に短い文章をいれて、破調のアクセントをつくる。そんな工夫を重ねつつ、文章を綴っていった。

 

しかし、それでもなんだか全体の冗長さは消えない。ニホンゴ、ムズカシイネ。そんな思いを抱きながらせっせと駄文を書き進めていたある日のこと、大学内で仲俣暁生氏(編集者/文筆家)と雑談する機会があった。その時に悩みを相談したら、あっさりと「常体と敬体は混ぜていいんだよー。逆にどう混ぜるかが作家の腕なんだよ」と笑顔でアドバイスを下さった。

なるほど。混ぜていいのか!学校では、普通は「常体と敬体は混ぜてはいけません」と習う。下手な人が混ぜてしまってとても違和感があるものを読むこともあるが、たしかに小説家は上手に両者を混ぜている。しかし相当な文章の腕が必要とされるようで、混ぜ方が怖くてなかなか踏み込めず、途方にくれていた。

 

そんな頃に一冊の新書が発売されたことを知る。それが、瀬戸賢一先生の「書くための文章読本」だった。

f:id:peru:20201230184558j:plain

瀬戸先生はメタファーや日本語レトリックの研究で知られる一流の言語学者である。ふつうのライターが書くような内容であるはずがない。

 

解説はこちら。

これまでになかった画期的な「日本語論」を展開。そして文末を豊かにすることで、文章全体が劇的に改善する実践的技巧を示した、本当に役に立つ、まったく新しい文章読本!
日本語の文章で力点が置かれるのは圧倒的に文末。文末は、文の全体に書き手の意思を伝え、情報の核を据えるところ。そして、もっとも記憶に残りやすい。だから文章におけるパンチの効かせどころだと著者は説く。ところが日本語では最後に動詞がくるので、付け足しがしにくく、その大切な文末が弱い。さらに「です」「だ」などが連続して単調になりがちだという弱点もある。これらをどう解決するか。
『日本語のレトリック』『メタファー思考』などのベストセラーがある言語学者向田邦子筒井康隆井上ひさしなどの名文を引いて丁寧に構造を分析し、わかりやすく解説。プロの文章テクニックが身につき、伝わる文章が書けるようになる、まさに「書くための」文章読本。また引用されたバラエティに富む名文で、日本語の美しさや豊かさ、作家の技が堪能できる。実践的でありながら楽しい1冊!

 

 いやもう、この本はむちゃくちゃ勉強になった。なんせ文豪の名文の実例を豊富に引用しながら、どこにどんな工夫があるのかを丁寧に解説しているのだ。内容は、「踊る文末」「読者との問答」「過去の表し方」「(文章表現の中での)視点の置き所」などなど。

書くことは対話することです。話すことがそうであるように。これはことばの本質に根ざします。書こうが話そうが、伝達は受け手がいることを前提とし、ときに自分自身のみが受け手であってもかまいません。この節では、文章の中に対話的要素を取り込む手段を探ります。範囲は文末から文全体に広がります。聞き手=読者を表現のなかに取りこむ点でレトリカルなくふうの中心だと思ってください

瀬戸賢一. 書くための文章読本(インターナショナル新書) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1310-1314). Kindle 版.

 

この本を読んで、日本語にどんな制約や特徴があり、具体的にどんな時にどう変化をつければ文章に律動感や躍動感がうまれるのかがよく理解出来た。

買ったのが2月。そこから書き上げるまでに1ヶ月。全部は修正できなかったけど、書き換えられそうなところにはいろいろ工夫を入れた。たとえば、「まえがき」の冒頭。映画で言えばイントロの数秒である。

 

「手作りのアップルジュース、試飲できます」
そんなキャッチコピーに釣られ、ある夜、私は家族とともにそのイベントのブースの前まで行ってみました。眩しい灯りの下で、列になった人たちが賑やかに作業しているのが見えます。みんなで手分けして包丁を手にとり、カゴの中のりんごのヘタや汚れ部分を取り除いています。次の人たちは、それを適当な大きさに切り刻んでいます。どうやら作業しながらも、少しずつ列が進んでいるようです。列の先頭にはビア樽ぐらいの大きな絞り器があり、数人がかりでそのレバーを一生懸命に回しています。そうして絞りだされてきたジュースを紙コップで受けとった人は、列から離脱しています。一連の流れを眺めてみると、要するに、このブースでは完成物をふるまうのではなく、つくるための材料や道具を人々に提供し、列に並んだ参加者たちが自力でつくることを「手作り」と称しているのでした。

 

冒頭は、いきなり読者の意表をつくように、とあるエピソードの描写から始まる。数年前の出来事なので、「過去」である。なので普通に書けば「〜た」が連発されてしまうことになる。そこをまずカメラごと過去に入り込み、現在形の「す」で書いていく。さいごに過去形の「た」で現在に舞い戻る。

 

 (なお、導入をエピソードから始める場合、そこに全体を予感させる寓話的な「余白」が必要になるだろう。このアップルジュースの話は、本を書くずっと以前、一緒に酒を飲んでいる時に安藤昌也先生に話したら、彼が非常におもしろがっていたことを覚えていた。これなら「つかみ」になるだろう、と冒頭に使うことを決めた次第。一人では面白さには気づけない)

 

つづく「まえがき」の中盤。

仲違いするかもしれない。裏切られるかもしれない。誰かと協働する中で起こりうるネガティブな面を考えると、誰もが他者と手を結ぶことには及び腰になりがちです。協働することの意義を見いだすためには、そんなリスクを抑えて希望が見えるような、広い視座を得なければなりません。学問は、そのためにあります。

 モノローグ的な部分に常体を入れ、韻を踏むことでリズムをつくる。最後は短い文で言い切る。こんな感じで、敬体を基本としながら、あちこちに常体を混ぜ、文章の長さを調節している。

 

試しに知人に聞いてみたら、「(そんな工夫がされていることに)まったく気が付かなかった」と言われた。よしよし。インタフェースは自然であればあるほど気づかれない。取り入れた工夫はまあまあうまく働いていると言えるだろう。

 

なお、このブログ記事の文章にも、執筆を通して学んだ工夫が施されている。あなたは気づくだろうか?

上平は「秘技・文末ゆらし」のテクニックを手に入れた!

 

 

kmhr.hatenablog.com