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みえないものを、みる視点。

『三人称を超えて 」ー デザイン概念の輪郭をさぐる試み

経済産業省主催で、地域版高度デザイン人材調査研究の一環として、4回連続のオンラインイベントが開催されました。

3/4には、この第4回イベント

事例からひも解く!地域と共創するデザイン人材とは?
vol.4「これからの地域デザインの在り方」

というタイトルで、プログラムの一つとして私もトークしてきました。

loftwork.com

 上記プログラム上では「基調講演」となっていますが、そんなにたいしたものではなく、15分程度の前座的トークです。ただ、事務局のロフトワークさんと経産省の担当者さんから、個別事例じゃなくて研究者らしく抽象度の高い話をしてほしい、というオーダーを頂き、そういう方向性を意識した話になっています。誰かの参考になるかもしれませんので、スライドを公開しておきます。

 

speakerdeck.com※タイトルをクリックすればSpeakerdeckのサイトに飛び、全画面で見れます。

 

ここで2つした話題のうち、後半の「三人称を超えて」というトピックは、おそらく今後議論になってくるような気がしています。別の場所でちゃんと文章にしようと思っているところなので、ここで一旦話したことを元に加筆して、ここでプロトタイピングとして再構成してみようとおもいます。

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「三人称」を超えて、という話をします。いきなり語学の時間に習った言葉が出てきて戸惑うかもしれません。

 

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現在、デザインは社会のあちこちで取り組まれていますが、多くの分野において、その成果を測るための「数字」は重要な指標のひとつです。たとえば製品であれば販売台数、アプリであればダウンロード数/ユニークユーザ数、広告であればコンバージョン率など。個別の人々の奥底に潜んでいる共通性を探り当て、たくさんの人が共感したり、使用したりすることでその時代を動かしていく。「デザイン経営宣言」(経産省,2018)に見るように、"競争力を上げる"ためにそんなデザインの力は活用されてきましたし、事業者にとっての死活問題となってきました。これらは資本主義経済の中で運用される以上は、前提と言っていいことです。

 

一方で、この枠組みでは、視点がマクロ(巨視)になるため、実際に社会で生活している人々を抽象化して扱うことになります。そこで事業者は、ユーザ、消費者、ターゲット、顧客など、一括して人々につけるさまざまなラベルを用意してきました。つまり三人称の「They(彼ら)」です。これは逆の立場でも同じであり、人々の側からは事業のなかにいる人の顔は見えません。双方が「They」と「They」で捉える関係性になると言えるでしょう。

事業をスケールさせていくためには、三人称の視点は不可欠なものですが、必然的に「客観」的な立ち位置が起点となります。そこには、どうしても距離が生みだされるため、内側にいる個々の人々の利用文脈や感情に焦点をあわせる術がない。そんな構造に問題意識を感じたデザイナーたちは、それを乗り越えるために、対象となる人々をモデル化して狙いを定め、不確実性を削るための手法、例えばHCD(人間中心設計)の各種手法を生み出して来ました。仮想的であっても似顔絵や名前をつくったりするのは、なんとか距離を近づけ、実際の人をイメージしようとする渇望からです。

 

三人称の視点は、デザインの概念と深く結びついています。
例えば「お弁当」を想像してみましょう。お店で売られている「お弁当箱」や「お弁当のレシピ本」は、ほとんどの人がデザイン(されたもの)だと考えるでしょう。一方で、その弁当箱をつかって家族が子供に作ってあげるような、ある日の「お弁当そのもの」は通常はわざわざデザインと呼んだりしません。工業製品の弁当箱よりも、誰かのために心をこめてつくったお弁当自体の方が、ものづくりとしては意味がある気がするのですが、そうではないのでしょうか。デザインは「意味を与える」もの、と定義されたりもするのに、不思議なことですね。

 

大勢の人(They)になんらかの「よさ」の共感を呼びおこし、人々に通底する一種の共通感覚を刺激すること―言いかえればミーム的な拡散力―を持つことが、一般的には優れたデザインとされますし、その「型」の持つ普遍的な強さが、専門家が評価する場合にも重視されます。そして逆に、再現性がまるで無いような、その場限りで蒸発してしまうような即興的な行為や、労働集約的な手作りの行為に対しては、多くの人は「デザイン」という語を当てません。


ここで疑問が生まれるかもしれません。では一点物のプロダクトはデザイン(されたもの)ではないのでしょうか。例えば、オーダメイドのドレス、特注のテーブル、特製のリハビリ道具などは、当事者にとって量産品にはない特別な体験を提供しています。それは不特定多数には向かわないごく限定的なものではありますが、その持ち主を別の日にも手助けしてくれる、という小さな再現性が認められます。したがって、やはりデザイン(されたもの)と言えそうです。またそこにしかない希少なエピソード的体験と切り離せないと考えれば、その伝播においては、やはり一種の「型」をもったストーリーがあり、それが語りによる共感を通じて拡散しています。こうした拡散力とデザインという言葉が結びつきやすいのは、近代デザインの概念が産業革命以降のモダニズムの価値観の中で発達したことと大きな関係があるのでしょう。

 

ここからが本題です。手書きの「お手紙」はどうでしょうか。特定の人と人のコミュニケーションは、わたし(一人称)からあなた(二人称)のあいだで成り立ちます。拡散することを求めてはいませんし、むしろそれは目の前にいる大事なあなた(You)への一期一会のメッセージの価値を貶めるものでしょう。ここで、相互に顔の見える関係性で行われる行為は、「デザイン」よりも「ケア」のほうがよほど近いとも言えます。ケアは相手(YOU)を「気遣う」とか「思いやる」という、再現性が無いからこそ関わり合う人の間で相互に意味が発生する行為です。YOUとYOUの関係の中で成り立つ感情は、事前に計画さえ得ない、生活者自身にゆだねられた余白なのかもしれません。手作りのお弁当をデザイン(されたもの)と感じにくい理由はそこにあるのでしょう。


とは言え、「ケア」もデザイン以上に曖昧な言葉で、内容もないまま可変的に使われる「プラスチック・ワード」という言葉のひとつに数えられるぐらいです。したがって先程の試みをケアに置き換えようとするのも、無理のある話なのかもしれません。

 

これほど情報があふれる世の中ですが、探しものはなかなか見つからないもので、わたしたちはまだまだ適切な言葉を求めて努力しなければならないようです。そして万人が納得するような適切な言葉がみつかるのは、それが制度化され、魅力もすでに消え失せてしまった頃なのでしょう。ここではデザイン概念の輪郭らしきものを少々指摘するにとどめます。

 

 

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そんなデザインする行為も、人々がそれぞれの地域の中で実践していくためには、「学び」の側面が切り離せなくなります。では、学びとは、どのように起こるのでしょうか。近年の学習観では、学びとは固定的な知識を注入して自分の中に溜め込むようなものではなく、主体的な活動とともにあり社会的に構成されるものとされます。人は身近にいる他者との共感を通じて社会を学ぶのです。

 

これをモデルにしたものとして、認知科学者の佐伯胖先生は、「学びのドーナツ理論」を提示しています。学び手(I)外界の見え方を広げ,理解を深めていくときには、必然的に、二人称世界(YOU)〈人物,道具,言語,教材〉との関わりを経由する。さらにYOUとなる他者は「第一接面」と「第二接面」の両面に接するとして、単に内輪で共感し合うだけではなく、「外側」に広がる世界に接続する存在でもある。2つの円を重ね、身近な他者(YOU)しか持てない2つの接面の不可欠さを主張したものです。

 

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地域の中でデザインする場合、すでに確立した産業のように三人称的に捉えるのではなく、顔が見えるYOUとYOUの関係を起点にしたものに再解釈し直すことが重要になるのではないでしょうか。 

職種としてのデザイナーだけでなく、何らかのかたちでデザインする人は、前述したようなさまざまな「葛藤」(※スライド参照)「が混ざり合うエリアにたち、地域に生きる個別の人と関係をむすびながら、社会文化や自然環境とを媒介する存在であるはずです。さきほどの「お弁当」の例で言えば、それぞれの地域にある、旬な食材に目を向けることから。その最高の味わい方を育くみ、共に愉しむところから。

 

それは外側(デザインモデル / ビジネスモデル)から内側を決めるのではなく、内側から自然と外側の姿が立ち上がっていくようなありかたです。

 

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逆に、デザインする人自身が学び手になることもあるでしょう。自然界に対してはたらきかける第一次産業(農業,林業,漁業)などは、他種(動植物)とともに生きる中で成り立っています。そういった専門家を介することで、知らなかった豊かな自然界の見え方や生き方を学ぶことになるはずです。

 

こうして、YOUとYOUの双方がともに喜びを見いだすことができれば、そこには共感をもった関係性がうまれるでしょう。お互いのあり方は変化していき、活き活きとしたコミュニティにつながっていくはずです。イリイチの言葉でいえば、「コンヴィヴィアリティ」(共愉)です。

(以下略)