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みえないものを、みる視点。

道具とは結果のためにあるのか?

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最近,デンマークの子供がこういう新しいヴィークルに乗っているのを見ることが増えてきた.ちょっと乗ってみたい.この乗り物,移動するために乗るのじゃなくて,逆に乗りこなす楽しさから移動することを促しているのが面白いと思う.

 

さて,一般的に「道具」は「結果」を導くために存在するといわれるが,ヴィゴツキー研究者のホルツマンによると,「道具」と「結果」は同時に起こるらしい.幼児は,話すという手段のために言葉をマスターしているわけではない,「発達のための環境」と「発達そのもの」を同時に(つまり道具も結果とともに)創造しているのだ,と.

 

最近の(一般的な,というか支配的な,というか)デザインプロセスでは,何かをデザインする時,結果を想定して道具を使うというロジックで組み立てられることが多いし,道具なんて重要ではない,と言った考えを持つ人も多々いそうだ.でも,音楽の世界でミュージシャン同士の即興的なセッションがしばしば名曲のプロトタイプになるように,クリエイティビティを刺激するのは道具との相互関係であり,もっと言えば「遊び」の面も無視できるものではない.その意味では創造の場において道具の役割を矮小化してしまうのは,結果の多様さの可能性を減らしてしまうとも言える.

 

そんなホルツマンの理論などを1年前までは都市大の岡部先生と定期的な議論をコツコツ続けていたのだが,僕のせいで中断していて悲しい.帰国したら真面目にアウトプットに繋げていきたいところだ.

 

幼児が自分たちが誰であるかと同時に,誰でないか(どのような人になろうとしているか)に,同時に関わるしかたを見ているのであり,これこそが発達のプロセスなのである.幼児は養育者とともに,発達環境を創造する.その環境が自分のことを成すことを支え,今ある自分でありながら,自分がなりつつあるものへとなることができるのだ.幼児は話し方を知る前に話せるし,幼児に話しかけられることばや周囲の語りの創造的模倣は完全に受け入れられる.学習のプロセスと学習の生産物は協働で作られる.協働活動を通して,幼児と養育者,兄弟などは学習が先導する発達環境を創造し,この弁証法の実践を通して学習と発達の統合体を創造する.

 

もし思考し,話すことがことが持続的な社会的完成活動でないなら,子供は話し手としてパフォーマンスできない(そして話すことを学ぶことも出来ない).そこでもし話すことが考えることの完成活動ならば,もしこの活動が社会文化的空間における持続する創造であるなら(つまり精神が社会の中にあるなら)「完成する人」は考えている人である必要はないということになる.他者が完成してもよい.そうすると,私たちは考えていることを,わたしたちは完成しながら話すというのと,私たちが考えるというのには差がなくなる.

思い起こそう,思考は言葉によって表現されるのではない!片言を言う赤ちゃんと話すことができる養育者が創造する会話(言語ゲーム)では,赤ちゃんと他者がともに完成を実践することで,社会的な完成活動が持続するのである.赤ちゃん期を過ぎても,人々が話しているとき,しているのは起こっていることを創造しているのだ.そのとき相互理解とよばれるものは,この活動に参加することによって可能になる.セラピーでは自分の内的人生を語ることが治療的となるのは,それが社会的に完成される活動だからであり,社会的に完成される程度に応じて治療となる.決して精神の内定状態を伝達されるからではない.言語によって創造するー他者を完成する,そして他者によって完成される―ことは幼児だけでなく大人にとっても,私たちがなりつつあるものを創造する持続的なプロセスであり,発達する活動の道具であると同時に結果なのだ.

 

「遊ぶヴィゴツキー生成の心理学へ」より

(強調は上平によるもの)

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