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みえないものを、みる視点。

「コンヴィヴィアル」の言葉の意味

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未だ影響を持つイヴァン・イリイチの名著、「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)が出版され、もうすぐ50年経とうとしている。イリイチの思想はなかなか読み解くのが難しく、多くの人は、彼のいう「コンヴィヴィアリティ」や日本語訳された「自立共生」という言葉を知っていても、そこでいったいどんなことを主張していたのか、なかなか理解しきれない。特に表面に出ない「限界づけられた道具手段」の含意は、ちゃんと本を読まないとつかめない。

 

本の内容については、以下の要約サイトの解説がすばらしい。

www.syugo.com

すなわち、本書におけるイリイチの議論の焦点は、コンヴィヴィアルな社会を可能にするために道具の効率性に対して課される限界を明らかにすることにある。人々がそれを使って生き生きと創造的な仕事をすることのできるような道具、人間をその道具に使われる奴隷にしてしまうような道具ではない道具、そのような道具の構造の探求が、本書の主題なのである。

 

この記事の扉写真の「人類の希望」(1984年出版)という本にて、イリイチ自身が話し言葉で詳しく解説しているということを知り、アマゾンマーケットプレイスから取り寄せてみた(200円)。イリイチが来日した際の講演や対談(なんと宇沢弘文と!)などを収録したもの。

 

 以下、『人類の希望』からの引用。この本に興味持つ人が多かったので重要な部分を写してみる。

 

自転車は、ボールベアリングなしには存在しません。モーター化された道路の乗り物、あるいは自動車はボールベアリングなしには存在しません。10年前まで私は政治的に悪しき社会で使われているという理由から、自動車、つまりボールベアリングが使われている自動車は、悪しき社会的影響をもたらしていると考えていました。
ところが、ゴルツやシューマッハーや宇井さんと同じく、ちょうど私もそんな単純なものではないということを理解するに至りました。


<中略>


私は、乗り物の最高速度に対して、非常に厳密な限界をもうけることで初めて、モーターで動く乗り物が、自転車にボールベアリングを使用する人々を差別しないで走れるのだと気づきました。
ところで、自転車速度を超えて移動する人が、誰もいない社会を主張することは、決して過去に戻るというものではありません。そうした社会はかつて実在したことがないのです。

 

<中略>

 

私はボールベアリングのように、素晴らしく近代的であって、しかも、過去に知られていたものを超えて、しかし、社会的な差異を増大させないものを、ある社会のために命名するその名を見つけるざるをえませんでした。 そしてスペイン語でいう、「コンビビエンシアリダード(conviviencialidad)」こそが、その命名にもっともふさわしいと思ったのです。
それは一緒に生活するアートと言う意味です。ですから私が使う用語、コンビビエンシアリダードは、中央集権化やヒエラルキーや搾取を必ず押し付ける近代技術を極力排除する社会のための用語です。この意味で、産業主義にコンヴィヴィアリティを、あるいは産業的道具にコンヴィヴィアルな道具というものを対置させているわけです 。

私は工業のない社会について述べているのではありません。私が申し上げているのは、特権がある社会は特権者に都合の良い社会で、コンヴィヴィアルな道具を使用するあらゆる平等な可能性を後退させられているのです。そんな産業的道具が支配していることに反対することを、私は申し上げたいのです。
私は自動車に反対しているのではありません。社会がそうしたものをできるだけ少なくするように、と奨励しているだけなのです。(P27)

 

 

 

 

質疑応答―コンヴィヴィアリティとは
Tools for Convivialityと題するあなたの本が日本でも訳されてますが(邦訳:「自由の奪回」)、コンヴィヴィアリティとは何でしょうか?その言葉について説明してくださいませんか。

 

ええ、喜んで。現代の英語で"convivial"と言えば、通例では「ちょっと酔いが回った宴席気分」と言うくらいの意味で使われています。それは私も充分承知しております。 しかしスペイン語の"conviviencial"は、もっとずっと強い意味の言葉です。1つの谷戸に住む隣人たちを結びつけてきた歴史的な絆、自分たちの「入会地」、「共有地(Commons)」を守ってきた隣人たちの絆、それがもともとの意味です。

共有地と言うのは術語です。それにあたるうまい日本語があるのかどうか、私には分かりません。イギリスの領主たちによる「共有地の収容(explropriation of the commons)」、「共有地の囲い込み(enclosure of the commons)」が史上有名ですが、その「共有地」のことです。日本語では、どういうのでしょう。そして「コンヴィヴィアリティ」とは1つの谷戸に住む隣人たちが共有地を守ることを可能にしていた、そうした絆を本来意味するのです。
ですから、これも歴史上の一種の述語です。私はそれを法的なものであると同時に生態学的なものと理解し、私自身の言葉としました。 南アメリカの古いスペイン語では、この述語は環境の「有用化価値」(utilization  value)に対する入会権、請求権を指し示していたからです。環境の有用化価値とはなんでしょう。それは市場や官僚によるコントロールの枠外で、自らの「サブシスタンス(※生存)」のためにこそ、環境を利用することが許されるべきだと言う請求権を意味しています。


<中略>


ところでスペイン語の"conviviencial"には、以上のものとは少し違う、より新しい意味も加わってきています。"este sñor es muy conviviencial"といった場合、つまり「この紳士は大変コンヴィヴィアルだ」と言った場合、きわめてスペイン語的な意味で、尊敬を込めた意味で、彼が大変「つましい」(frugal)人だ、「しぶい」(austere)人だと述べたことになります。そしてこの「しぶさ」(austerity)という言葉は、伝統に従えば実は「友情」(friendship)の基礎を表してもいるのです。
なぜか。今説明します。この場合の「しぶさ」とは、私とあなたの間柄をみだすもの、私とあなたの間に介在してくる余計なものを一切認めないと言う性格、特徴を表現しているのです。したがってスペイン語で"amistad"と呼ばれる至福の状態、人世の無上の喜びの基礎となりうるわけです。つまり「友情」の基礎なのです。英語で"austerity"と言っても、なかなかこの感じが伝わってこないので困ります。


<中略>

 

あなたが今あげた本で私が試みたのは、モノの持ちすぎ、過度の所有の志向に異を唱えることでした。英語でもうまく表せないのですが、あの本では、私たちがある種の生産手段から身を離そうとするときに必要となる基礎的なルールを取り扱ったつもりです。先程申し上げた「しぶさ」を不可避的に破壊してしまうような生産手段、あるいは古い言葉で言えば不可避的に「疎外」(alienate)をもたらすような生産手段から いかに身を離すか。そして社会の「疎外」を不可避的に生むものに、道具が、生産手段が変わってしまうのは、それがどのような特徴を持っている時なのか。そんなことを探求したのが、あの本です。(P139)

 

おお、ここまで丁寧に解説しているとは。「コンヴィヴィアリティのための道具」よりずっと明確に語っている。やはり、Designs for the Pluriverseと同じような匂いを感じる。

道具(イリイチがいう道具[tools]には、都市間高速輸送、ジェット機、テレビのような機械から学校や病院などの制度や仕組みも含まれる)の側からの限界点や制約として人間社会の側に働きかけ、その構造のありかたを問うところは、アルトゥーロ・エスコバルが、存在論的デザインのあり方に懸けていることと、かなり似ているように思う。南米の中からの視点で書かれているDesigns for the Pluriverseにも、やまほど"convivial"という単語はでてくるんだけど、ここでイリイチが説明しているように、南米スペイン語のニュアンスを含んで考える必要がありそうだ。

賢人たちの思想は深い。日々勉強だ。