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みえないものを、みる視点。

20年前のデザイン入門書に驚嘆する

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最近,嶋田厚さんの評論が面白くて古本を買い集めて読んでいる.この「現代デザインを学ぶ人のために」は,嶋田氏による編集で1996年に世界思想社から出版されたデザインの入門書.僕はこの頃大学院生で,この本のタイトルは知ってはいたが,表紙からして古めかしすぎてセンス良さそうに見えないし(失礼),まったくもって読みたいとは思えなかった.でも今の時代に改めて読んでみると,みんな好き放題に持論を語っていて,その主観的な言いきり方がめっぽう面白い.例えば寄稿者は,安藤忠雄勝井三雄黒木靖夫,須永剛司,宮崎清,向井周太朗,山口勝弘・・・,など第一線の方々ばかり.

 

 さすがというか,どの論者も主張していることは先見性(いや普遍性か)が高く,暗黙になりがちなところを鋭く突いていて,デザインがその後大きく拡張していった2017年の今読んでみても古さを感じさせない.それどころか,彼らは若者向けだからこそ,産業的な要請に安易に迎合せず,本来の意味で「デザインとは何か」を問いかけ,自分の経験を通して見出した視点を提示することを重視していたんだ,ということに思い至って思わず姿勢を正したくなった.こんな硬派な入門書は今の時代には存在しない.

 

以下,いくつかメモ書きを抜粋.(強調は上平によるもの)

 

若い人達に対して言いたいのは,それぞれの人間がそれぞれ違うわけですから,その異なる人間が各自自分はどうあるべきか,ということを考えて生きるべきなんではないでしょうか.それを考えることをこれまでの学校教育は小学校の時からつぶしてきたわけです.

30年間,建築をつくりつづけてきてきたわけですが,その間ずっと考えてきたのは建築を通して社会のあり方に批評の精神を持ち続けたいと言うことでした,建築はこうありたいということ,社会はこうあって欲しいということを,建築を通して社会に問い掛けたいと思ってきました.

建築をつくることを通して,人間が生きることを考え続ける中で,問題を提起した建築ができるのではないか.それはきれいな建築をつくるということとはまったく別のことで,新しい「対話」を求めるということは,ぶつかりあうということでもあり,スムーズに流れていくのとは異なり,ぎくしゃくする.まっすぐの道ではないわけです.回り道をしながらその中で考え,考える中で新しい発見がある.ですから若い人に言いたいのは,できるだけ回り道をして自分で考えよ,ということです.結局まっすぐいくところには何もないということです.
ーー「住吉の長屋から」安藤忠雄

 

 

表現してしまうことが,アイデアや思考の減少に結びつくのではなく,それが思考の増大に繋がっているのである.思考を常に頭の外に出すこと,つまりメンバーと思考を共有することによって、デザインプロセスは創造的になり,飛躍的に楽しくなる.参加者一人一人が,自分の考えたことを独り占めしないのは,脳の細胞一つ一つが情報の所有という意図を持たないことと同じことである.全体として働くモノであるという点では,教室も脳もまったく同じだと考えることが.創造する集団には大事なのである.ひとりの人が自分のアイデアや発想を,所有し独占するところに,耐久力のある本当のオリジナルは生まれないことを,デザインの実践家である教師はよく知っている.オリジナルは,生まれたばかりのアイデアや発想を鍛え.それを組み上げて精緻化するーそんな努力のずっと後に実を結ぶものであるからである.

 

そう考えると,「学び」を知ることと「デザイン」を行うことはどうやらメビウスの輪のようにもともと繋がっていたものなのかもしれない,というイメージが浮かんでくる.その輪の上に我々はたまたま乗ってしまったのである.輪の上では境目のない,「学び」と「デザイン」を走り抜けることが出来る.走っているメンバーには,学びとデザイン,つまり「知ること」と「行うこと」がもともとひとまとまりの行為であったことが身をもって感じられたに違いない.

そのメビウスの輪が,これからの時代のデザインという活動が持つであろう役割とその姿を示唆しているように思われてならない.それはデザインの活動とそこでの思考方法があたりまえに持っている「行うことを通して知る」というプロセスを,デザイン以外の様々な分野にトランスファーしていくことである.「かたち」をつくるデザインの仕事は,良い「かたち」を社会に提供するだけではない.今後,かたちをつくるプロセスそのものを広く社会活動に提供するように拡張していくことが,デザインの役割となっているのではないだろうか.作り出される「ものごとのかたち」のみではなく,それを生産し,使用し,廃棄していくさまざまな「社会活動のかたち」づくりにも貢献することのできるデザイナーが今育ちはじめている.
ーー「デザインの教室」須永剛司

 

 

 

ここまで言えばもうおわかりでしょう.あらゆるデザイナーはあなた方にとって敵なのです.自分自身の価値観をぐらつかせてしまう敵かもしれないのです.しかしその敵は,あなたが代理人として認めて使おうしてきたから生まれてきたのではないでしょうか.そして同時にあなた方も誰かの代理人かもしれないのです.いやあなた方も代理人の役割をして生きているはずです.

あなたは,代理人たちの作り出したデザインによって自分自身のアイデンティティがおびやかされていると思っている.しかしその自分も他人のアイデンティティを侵している存在であることに気付かざるをえないのです.

 人間がデザインしながら生きていると言うことは,デザインが行われている環境の問題に深く関わっていると思うのです.近代というのは,技術が,組織化されたシステムによってデザイン化されていく前提に立っていたのです.そういう環境の具体的な現われが,企業の中から発生してゆく密室的なデザイン環境の問題だったわけです.工業デザインから建築に至るもののデザインというのは多かれ少なかれ,そういうデザイン環境の中から生み出されて来ていたのです.
こういうシステムから生み出されるデザインは,つねに生産者と消費者の関係を前提としてもっていたのです.
ーー「人間はデザインしながら生きている」山口勝弘

 

 

 では,「人間生活のあるべき姿」を構想するのに,私たちはどうしたらいいのでしょう.
「あるべきこと」はつねに「あること」と対極を成しています.「あるべきこと」は,「あること」をしっかりと観察し,それにさまざまな観点からの考察を加えることのなかから,はじめて構想されていきます.「あるべきこと」はけっして空から降ってきてくれるものではありません.「あるべきこと」は私たち自身が「あること」をしっかりと直視し,「あること」を総合的,批評的に検討することによって,私たち自身がいわば発見していくべきものなのです.また「あること」に満足している状態からは,現実の人間生活に内包されているさまざまな問題を発見することはできないし,ましてや「あるべきこと」も見えてはきません.こうして「あるべきこと」を意味する「当為」の世界は,同じ哲学の世界において「存在」と呼ばれる「あること」への洞察・内省を通して,ようやく想起されてくるのです.
ーー「人心の華」宮崎清

 

 

4大学合同夏合宿@函館

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9月9日〜12日に,北海道函館にて研究室の夏合宿に行ってきた.

軽く写真を紹介.

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9月11日(日)はこだて未来大学にて,早朝から4大学合同卒業研究発表会.集まったのは,はこだて未来大原田研究室,北海道情報大安田ゼミ,千葉工大安藤研究室.専修大上平研究室から,合計で36人.午前中は全員で自分の研究の口頭発表と教員のコメント.

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お昼は北海道の初秋の気持ちいい風を受けながら,未来大の芝生の上で.

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午後は大学ごとにポスターセッション.それぞれの研究内容を濃く議論する.他大学の学生や先生相手に議論するのはとても勉強になるし,自分たちの大学の立ち位置や強みを再認識することになるので貴重な機会だ.

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長丁場の一日が終わって,解放感でいっぱいのうちの学生達.

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翌12日(月)は.合同アクティビティ.4大学の学生を混ぜたチームを作り,一日かけて函館の街で食材を見つけ,自分たちの料理をつくってパーティをする.この日のミッションは,予算はチームメンバー×1000円という条件での「カレー作り」!.もちろんデザインを学んでいる学生たちなので,字義通りに普通のカレーをつくれって意味ではないな,ことは理解している.

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どのチームもちゃんと自分たちで「カレーとは何か」「この場でつくる意味は何か」をよく考えた結果,オリジナルな料理に取り組んだようで,とても盛りあがっている.

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料理をつくる一方で,数名は一日をどのように動いたか,どのように食材を手に入れたか,そして何を試みたのかのプロセスを記述する.

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このチームは(北海道先住民の)アイヌ民族に着目し,「アイヌの人々がカレーを食べるなら」というコンセプトでトド肉(エタシペ)入りのオリジナルなカレーをつくった.ちゃんと北方民族資料館でアイヌ文化を取材して,ランチョンマットの文様から盛りつけまで隅々まで仕掛けをつくっている.題材の制約を受け入れつつも自分たちで拡張していく姿勢が素晴らしい.

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 みんなで乾杯してパーティ.ここは他チームの余った食材をつかって即興的にたくさんのメニューをつくった.この合同アクティビティの中には不確実な中でのいろんな意思決定やチームワークが埋め込まれていたが,参加した学生達にとってもいい経験になったよう.

 

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そして帰る前には地元の美味しいモノを・・.函館といえば,もちろんイカ!このハリは東京では味わうことが出来ない.昨年は記録的な不漁だったそうで心配していたが,今年はなんとか捕れているようで,普通の値段で食べることができた.

学生だけでなく僕自身も先生達との充実した議論の時間を持てて,美味しいモノが食べれることが出来てなかなか有意義な4日間だった.

 

「チーム分け」にはどんな工夫してますか?

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考え方のトレーニングとして,「あたりまえのことを切り替える方法」にはどんなものがあるかを考えていた.ふと頭に浮かんだのが「チーム分け」のことである.学習者を小グループに分ける「組み分け」は,教員にとっては日常的なタスクだ.普通にくじ引きしたり,近くの人でまとめたりと,みんな自分なりの方法でやっている.人力で分けるのは面倒だし不公平になることもあるので,Webサービスを使う人も居るだろう.

でも,教育者側が指示して分けるということは学習者にとっては逆らいようのない権力であるし,コンピュータで機械的に分けられるのも気持ちの良いものではない.そういった結果を従順に受け入れることは結果的に「やらされてる感」に繋がっていく.例えば,自分たちの意思で集まった場合と強制的に分けられた場合は,正直グループに対する帰属意識や責任感も全く違うことになるはずだろう.なので僕自身はチーム分けの際にほんの少しでも「自分で選んだ」という能動性を持たせられないか,ということをよく考えている.

それに加えて,ちょっと変わったやり方にするなどして,組み分けに頭を絞るのは教員やファシリテータにとって結構いい頭のトレーニングになるのかもな・・・と思ったので以下,僕がこれまでやったことをいくつか書いてみる.

 

1)トランプを選ぶ

数字の側を伏せて選ぶ.普通のクジと同じ「運」になってしまうのだけど,どのカードを選ぶかは自分で選ぶことが出来るところにはちょっとだけ自分の意思が入る.数字とマークそれぞれ扱えるので,いろんなケースに使えるので汎用性が高い.そういえば以前,トランプのカードをIllustratorで模写するという実習の際に「引いたカードを責任もって模写する」というミッションにしたことがある.カードの中にはスペードのAとか複雑なものも入っているので,全員同じものをやるよりは盛りあがった.

 

2)レゴのパーツを選ぶ

人数分のレゴのパーツを用意.事前に適当なグループに分かれるように揃えておく.学習者にはパーツを見た上で「自分で」選ばせる.形に着目するか色に着目するかでだいぶ傾向がわかれる.メンバーが集まったら,パーツを合体させる儀式(ほんのちょっとの体験だが,けっこう大事)

 

3)ドリンクを選ぶ

ずっと昔,新入生オリエンテーションの際に実施した.入り口で全員に何十種類かの缶ジュースを選ぶ.何も知らない新入生たちは,これがまたいい感じに全員飲みながら机の上に目立つように置いてくれていて,さあ組み分け,という時に「実はね」と種明かしすると,ただのドリンクが一瞬で別の意味を持つ記号に変化して面白かった.だれも知らない状態で例えばドクターペッパーを選んだ仲間,というのはなんだか運命のような仲間になれそうだ.

 

4)パズルをあわせる

3の次の年の新入生オリエンテーションだったかな.メンバーがちょっとづつ集まっていく過程をもっと「里見八犬伝」みたいな感じで楽しめないか,というコンセプトでやった.120人全員がひとつのピースを事前に渡して,わらわらと周囲と試行錯誤しながらながら手持ちのピースをあわせて行く.そして10のピースが合体して一枚の絵になる.絵にはそれぞれメンターの先生の顔が描かれており,チームによって召喚される.そうして自然に12の班が完成する

 

5) チャートを選ぶ

ワークショップで受付する際に,チャートが書かれた用紙を渡す.

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テーブル事にA〜Dの属性の人が,なるべく均等に配分されるように座席を作っておき誘導するという仕掛け.

 

 とりあえずいくつか事例を示してみた.どこまで時間とれるかは状況によるが,参加者側としてはだれと組むか.それは誰によって決められたことなのかは大きくモチベーションが左右されるものなので,適当に考えないで工夫してみるのは意味のあることだと思う.

 

あなたは,「チーム分け」に,どんな工夫してますか?

 

 

 

異文化の眼を通してこそ,見えてくる価値

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8/31は住んでいるマンションでワールドカップ予選のパブリックビューイング

ハリルホジッチ監督の采配は素晴らしかったが,考えてみれば自国を代表する選手を束ねる役割に外国人の監督が招かれているのは興味深い.彼がやっている仕事は,たぶん日本人同士では見えにくい選手の価値や連携する力を他者の視点で見抜き,それらを引き出した組織を組み立てることなんだろうと思った.

先日書いた「デザインと土着性」のことを思い出す.

一方で、同じ時期に見たデンマークの学生たちがコソボに行って現地で協働でプロジェクトに取り組んだ事例では、現地のフィールドワークを地元民がサポートしており、外部者の価値観を活かしつつ、当事者の抱える問題の目線で消化されていたように思う。現地民がデザインパートナーとしてホームに招き入れている形式だったからこそ、他者視点を発揮できているということだろう。

 

この日までハリルホジッチ監督のことはよく知らなかったけど,彼がユーゴスラビア人だと知って,いまごろになってかなり関心が湧いてきた.

 

 ユーゴスラビアの名作映画「アンダーグラウンド」(僕にとっての永遠のマスターピース

www.eiganokuni.com

研究を再起動する

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風が爽やかになり,季節が急速に秋に向かいつつあるのを感じる.夏休みに書いていた論文を先日投稿して,今日から後期に向けて動き始めた.さっそく後期の計画を立てはじめているところ.

 

さて,我々にとって秋になると言うことは科研費(国が支援する科学研究費助成事業)申請の季節ということでもある.すっかり忘れていたが,昨年度に落ちた基盤研究の申請書の審査結果が開示されていることを思いだして,久しぶりにログインして見てみた.

 

科研費を申請する場合,通常は自分の研究テーマに応じて学術的な分野に分けられた応募領域をえらぶのだが,僕の場合,今はデザイン分野の知というより,学際的な知に対する関心が強いので,「デザイン学」として申請するより越境して闘うことに挑戦したいな,という思いで「特設分野研究」というホットなトピックが扱われるところに申し込んでみた.ちなみに申請書は問題の学術的意義や研究組織,予算計画などA4にギッシリ15ページも書かなくてはならず,相当に骨が折れる仕事である.そして審査委員となる他分野の研究者が納得するレベルの論理構成で書かなくてはならない.

 

というわけで昨秋に書いたものに対して,審査結果開示の通知が8月末.

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審査結果は70件中採択5件で,採択率はわずか7.1%!通常の細目ではほぼ採択率30%が標準的なので,実に狭き門だった・・・.がっくり.

 

その下にはおおよその順位も記されていた.僕の審査の結果は「A」で,どうやらかなり上位,通常の採択率であれば当確だったぐらいには評価して頂いた模様.大学院まであるガチの研究室でもない私大教員にしてはまあ健闘した方かな,とちょっと自信になった.科研費データベースで採択された題目を調べてみると,否の付け所が無く,かつ必要性の高そうな題目(医学とかセキュリティとかロボットとか)ばかりだ.まあ,こんなラインナップの中ではデザインみたいに不確実な知を扱う研究は厳しいよなー.なんで僕はなんでこんな激戦区に挑もうと思ったんだろうかw 変化球の研究は成果に幅を持たせるものではあるけれど,国の予算が厳しく限られているときには当然見送り対象になる.ここでは縁がなかったけど,まあハードな申請書を書くことで自分の問題意識とそれをどうやって実践したいのかはかなり言語化できたし,勉強になったからよしとしよう.

 

 

 

 

 

上書きされていく記憶と,されない記憶

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帰省した折に,実家近くに古民家をリノベーションしたゲストハウスがオープンしたという噂を聞いてちょっと見に行ってみた.目的地に着くと,我々この地域の小学校に通った者は忘れられない思い出の「角のたばこ屋」が,とても上品な家に生まれ変わっているのが見えた.入り口にあるタイルでできた柱が昔のまま残されていることがとても嬉しい.この文字を眺めていると,入り口を入って正面に店主のおばちゃんが鎮座していて,そこから左側に折れると右手の方にアイス売り場が,左手の方に駄菓子がボトル売りされてたっけなぁ・・・と古い記憶が懐かしく蘇ってくる.

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内部の様子.フルにリノベーションされており,ピカピカである.コミュニティのイベントに貸し出したり,地域の寄り合いにつかったり,という使い方を想定されているそうだ.そして団体で宿泊するために借りることも出来るようにする予定とのこと.

どなたが運営されているのか興味があったのだが,向かいのガス屋さんの奥様でもあるKさんを中心に運営されているそうだ.入り口にある「き」を図案化した暖簾のロゴも自分でデザインされたそう.ここの場所にあったタバコ屋は,ずっと昔に閉められて女主人も亡くなり空き家になっていたのだけど,紆余曲折あってそこにコミュニティ向けの場所を作ろうという企画が持ち上がり,いろんな人の協力を得てようやく無事に実現されたという話を聞かせて頂いた.

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庭にはピザ釜やバーベキューできそうな空間がある.これは楽しく使えそう.こういう場所を演出する素材は手に入りやすいのと.いろんなものが寄贈されて集まってくるのは,田舎ならでは.

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運営されているKさんご夫婦とおばあさん.母を運転手にしてここに連れて行ってもらったら,なんとこのおばあさんとは古くから知る友人だったようで,さすが地元.「だいたいが知り合い」という狭さに笑う.

 

母と運営者の方々が昔話や近況交換する様子を見ながら,こういったリノベーションした寄り合い場所は,関わる人々のいろんな記憶がまだらに重なっていく不均質さ具合が面白いと思った.地図上の場所は上書きされても,我々のように古い繋がりを持つ者は,ここにもう一つの意味を重ねることができる.逆にここがコミュニティの中心地となることで,これから新しい活動を行う人達によって蓄積されていく記憶もある.この二つの層が不均質だからこそ,コミュニティが撹拌されるのだ.

 

実際,この「きてん」が出来てから時々イベントが開催されることで,普段訪れないような人もこの地域にやってくるようになり,「より処」としてすこしつづ機能し始めているようだ.まだ始まったばかりとのことでこれからいろんな取り組みを試していくそうで楽しみである.

 

上平は「きてん」を応援しております.

 

 

タイムスリップしたような温泉体験

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帰省した時に実家近くの温泉に行ってみた.旅館併設のキレイなところではなく,いちばん鄙びた地元民向けの「共同湯」を目指す.写真のとおり,ここは昭和の香りがそのまま今でも残っている.

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共同湯の内部は木造だ.こういう本気の昭和感は都会ではもうなかなか味わうことができなくなってしまった.GRのレトロフィルターでさらにノスタルジックさを演出してみる.

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温泉の湯船はこんな感じ.家族風呂ともそんな変わらないようなサイズだが,強烈な硫黄臭は,温泉に来たという高揚感を持たせてくれる.

まだ人が少ない時間だったこともあり,源泉が薄まっておらずもの凄く熱かった.水風呂と熱い湯に交互に何回か入るとトリップするというのを試して見たくて,トライしてみるが・・・イマイチわからなかった.

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しかし実に良い湯だった.母が「小さいとき,手にしもやけが出来ると父にここに連れてきてもらった.ここの湯につかるとすぐ治ったんだよね」と言ってたが,確かに肌がすべすべになった(ような気がする).そういえばここは西郷さん愛好の湯でもあり,「全国名湯百選」に選ばれているという,評価の高い温泉でもあったのだ.

 

温泉はお風呂に入って身体洗ったり温まったりするだけじゃなくて,上がった後に涼む体験がまた良い.この温泉街がいいのは畳の上で扇風機で涼みながらいろんな人に会って会話できるところだ.ジャーニーマップ的に言えば,利用客のイン・サービスの中で2回目の感情の盛り上がりが存在するというか.

決して人為的に手間暇かけて成されているわけじゃないけど,コミュニティに重要な「縁側」的な機能がごく自然に存在しているところが素晴らしいと思う.

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薩摩川内市ボンネットバスが狭い街道を走る.白黒にすると今月の写真だとは思えなくなるね.

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ボロボロに朽ち果てた電車が展示されていた.温泉ついでに写真撮りに来たのだけどなかなか撮れない写真が撮れて満足だ.

onsen.unknownjapan.co.jp

 

 

 

高校生向け1DAY デザインワークショップを実施

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8/6(日)に,高校生を対象にした1DAY デザインワークショップを実施した.実施に至った経緯として,今の日本には高校生が情報デザイン周辺のことを学びたいと志望する以前に,そのようなことに思い至るきっかけすら少ないという事情がある.そこでわれわれの学部でも高校生に対してデザインを学ぶ機会を積極的につくってみようということで,試しに1日がかりのワークショップをやってみることになったというわけだ.

参加者は課程連携の高校生と,公募で集まった高校生達で計16名.高校生向けのデザイン教育については,先日も書いたように今後の必修化に向けて内容を充実させるためにもいろんな方向から検討されるべきだと思うので,まずは自分の事例を公開してみることにする.

 

1.題材について

1日まるまる使って企画して良いという好条件だったので,アイデア提案だけでなくてちゃん"ゴールまで進めた達成感"(目的1)を感じれる内容にすることをめざした.そして高校生がデザインしてみることを楽しめるものは何か・・・・を念入りに検討した結果,研究室の学生達の助けをかりながら「Tシャツ」という題材を探り出した.今の高校生達には,クラスTシャツ文化というのが広く根付いているんだそう.自分たちに馴染みがあり,作り手と使い手の立場を経験しているものだからこそ,改めてそれをフレーミング(違う枠組みで捉え直すこと)してみることに意味がある(目的2).

T シャツは形状から来た名前なので,ここでは会話を生み出す"Cシャツ"という造語をつくってみた.設定としては,無人島で高校生達を集めたプロジェクトのキャンプが開催されるとして(つまりクラスやクラブ活動などの所属コミュニティを外した一期一会の場で),Tシャツを媒介してどんなコミュニケーションを起こすことができるか,が主な課題ということになる.簡単そうに見えてもけっこう奥は深い.

 

2.一日を4つのフェーズに分割する

今回のワークショップは,優秀な個人の発想力や表現力に認定を与えることが目的のひとつでもあった.とは言え固定観念を外すためにはチームで考えることも大事なので,最初はグループワークでリサーチをはじめて,最後は個別ワークで終わるようにした.オーソドックスなデザインプロセスではあるが,僕はデザインのトレーニングにおいては「因果関係をつなげる視点を持つ」(目的3)ことが不可欠な条件だと考えているので,

このワークショップは「モノをリユース(再利用)して新しく価値を作りだすこと」を大きな目的としていますので,可能な限り新しく新品を買うのではなく,自分の家に眠っているもので使えそうなものを見つけるか,もしくは身近な人たちから譲り受けてもらえればとおもいます.(実はデザインは,素材をみつけることからもう始まってます)

という指令を事前に出した.どこからともなく素材が用意されているのはよろしくない.

 

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そういうわけで4つのフェーズに分ける.説明するときに気を付けたのは,4つのフェーズで「抽象的な世界」と「具体的な世界」を往き来することを意識させたこと.しばしばデザイン思考系ワークショップでも「プロセスを学んで、手続きにそって作業していけば答えにたどり着く」ような誤解が生まれるのだけれども,普通に横に進んでいくような図だと,ベルトコンベアみたいに目の前の流れだと思い込んでしまうんじゃないかと思うのだ.

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8ページの冊子をつくった.グラフィックにもこだわりたかったが,それよりも準備することが山ほどあり,間に合わせのレイアウトで何とかした.

冊子データはSlideShareで公開.

 

 

僕のワークショップに参加したことがある人は,ストーリー仕立てのイントロとか最後のページのチームメンバーのサインとか,いろんなところにこれまでの経験を使い回しというかノウハウを投入しているのが分かるかもしれない.どさくさに紛れて観光大使を任命されている阿久根市にある阿久根大島をアピールしておいた.

 

1.「しらべる」フェーズ

集合してグループ分けして題材の説明の後,まず「しらべる」ことに取り組む.

1)自分たちの経験を相互にインタビューする

2)ちょうどオープンキャンパスが開催されているので,学内をフィールドワークして人々が何をどのように着ているかを観察する.

という二つの方法で気づきを集めていく

 

せっかくの他校生と話す機会なので昼食時には楽しく会話して欲しいな,ということでチームで食事しながら学食の中で観察し続けることを指示.なお,これは初対面同士という,今回の題材にある無人島キャンプでのコミュニケーションを疑似的に体験することでもある.題材がリアルな状況の中で重なるはず.

 

2.「ねらいをさだめる」フェーズ

オープンキャンパスが開催されている10号館から移動して,ネットワーク情報学部の演習室が集まる1号館へ.そして午後の部「ねらいをさだめる」フェーズが開始.みんなフィールドワークをやってみたら想像以上に面白かったようで,いろいろと各自で発見したことを報告してくれた.

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気付いたことを単位化しつつ,ホワイトボードで一覧化して考え始める.

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だんだん打ち解けてきて,どのチームも意見を交わすのが楽しくなってきているようだ.

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高校生もいろんな視点だしているのだね.ポストイットがとても面白かった.

ここでの抽象化はやろうと思えばどんどん深くはまってしまうので,手短に整理しつつ個人の中で気になったことをピックアップして題材にするという方法にした.

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準備したワークシートにあわせてコンセプトを絞り込んでいく.リサーチから気付いたことを使って,特定のシーンを決めることがポイントである.

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吹き出しを貼りあわせて,想定される会話のシミュレーションしてみる.

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ダメ出しを受ける.

ねらいをさだめつつ,どんな風につくるかのアイデアスケッチをはじめる.

 

3.「つくりながら考える」フェーズ

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いよいよ本制作.卒業研究で外来植物をつかったデザインワークショップを進めている上平研究室のOさん(4年)が布に関する着色や加工についての説明をする.

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各自,アイデアに従って,プロトタイピングして考えていく.フリーハンドで本制作する場合は,FABRIER(ファブリエ)という樹脂顔料を使って描画する.

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またはIllustratorをつかってアイロンプリントのデータをつくる.Illustratorの使い方も教える必要があるので,受講生16人に対して在学生アシスタント10人を動員,それでも大変だった・・.

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 わっせわっせとアイロンでプリントする.ちゃんと定着させるのは結構難しい.

そしてあっという間にタイムアップ.

4.「みんなで共有」フェーズ

全員でコンセプトと制作物のプレゼンテーションをする.終盤はちょっとバタバタしたけども,ちゃんとリサーチからコンセプトを決めてから表現したことが生きていて,単なる飾りつけではない成果物になった.みんなとても面白い.

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こちらは,何箇所かにプリントされた図柄をつかってゲームのような形式でグループ分けができるというアイデア.この生徒さんは午前中のリサーチの時点からいい視点を持っているな,と思っていたが,やっぱり制作物も面白かった.

 

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 僕がいちばん感心したのはこの生徒さん.背面にもユニークな仕掛けがあるのだが,首元に首飾りのようなビジュアルで,その人が「呼ばれたいニックネーム」がプリントされているというもの.最初はインスタのアカウントで考えていたそうだが,自分でよく考えた結果,キャンプという非日常の場においては,目の前で会って名前を呼ぶ,ということが一番のコミュニケーションの原点ではないか,と思い至ったそう.シンプルなアイデアだけれども見落としがちなことだし,安易にSNSと繋げないで「いま,ここ」にある対面の会話の価値を何より大事にすべきだ,という主張は傾聴に値する.

 

経験値の少ない高校生のデザインでも,ちゃんと思想が込められたものは美しいし,彼らがそういうことに挑戦する機会を社会の中でもっと用意することが大事だろうと改めて思った.

 

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完成したものは,ビニールバッグに入れ,表面にステッカーを貼ってパッケージにして持ち帰る.(中に入っているTシャツはダミーです)

コルクの製品タグにはDesigned by _____と参加した生徒の氏名が刻印されている.ロゴは学生のSさん(3年)がデザインし,タグ作りはY君(2年)が担当してくれた.つくったものをそれっぽいかたちに位置づけることも,けっこう大事.

 

最後にはTシャツ着て屋外でカメラマンによる写真撮影する.そこからポストカードに印刷して持ち帰るというのまで企画してたけども.これはさすがに時間不足で断念.

 

最後に使うはずだったが使わなかったスライドより.

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デザインとは何か,なんてなかなか説明しても伝わらないものだけど,実際にやってみた直後だと,こう言った抽象的な言葉もちょっと腑に落ちたりするもの.デザインとは単に見た目や印象の話しではなく,how it works(どう動作するか)だ,というのはこのワークショップでも全く同じことである.(※how it worksを「どう機能するかだ」と訳してるサイトが多いが,機能という言葉だとだいぶニュアンス変わる気がするのであえて直訳にする)

 

まとめ

もうちょっと制作環境を整えないと,つくりながら考えるところの密度は高くならないが,リサーチを取り入れることで「ただ好きなモノをつくる」にはならず,「状況を考えながらつくる」ことに繋がっているとは言えそうだ.

とりあえず,1)「ゴールまで行く達成感」,2)「リフレーミングする」,3)「因果関係をつなげる視点を持つ」という当初の目的3つについては,わりと達成できたのではないかと思う.材料や制作環境などの準備に必死でアンケートをとりそびれたのが大きな反省点で,ワークショップを通して高校生が何に気づき何を考えたかを把握するためにも次はちゃんとデータ取っておかなければ,と思った.

 

 

 

 

デザインと土着性

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2年前にロンドンでRCAの修了展を見に行った時、国境を越えた学生チームでデザインにとりくむことの難しさを知った。プロのように経験値でカバーできない学生の場合は、同じインターナショナルなチームだとしても、みんながアウェーの状態でやるか、どこかにホームを決めて行うかでは、だいぶ条件が違ってくる。

みんながアウェーの中で、文化的な背景や価値観が異なるチームメンバー(例えばほとんどが外国から来た留学生)が協働でデザインする場合、問題対象にただちに入り込めるわけでもなく、それぞれの先入観を早い段階で壊すのは極めてむずかしい。そして解決案もメンバーの価値観の最大公約数的なところに落としてしまいがちである。やっている当人達にとっては母国語や文化差を越えて議論し創造することに多くの学びがあることは否定しないが、残念ながらアウトプットはそうなってしまう例をたびたび見る。

一方で、同じ時期に見たデンマークの学生たちがコソボに行って現地で協働でプロジェクトに取り組んだ事例では、現地のフィールドワークを地元民がサポートしており、外部者の価値観を活かしつつ、当事者の抱える問題の目線で消化されていたように思う。現地民がデザインパートナーとしてホームに招き入れている形式だったからこそ、他者視点を発揮できているということだろう。

この対照的な二つの事例を見比べて、僕は「言語」のなりたちを連想した。大抵の人類はどんな僻地でもコミュニティの中で独自の言語を自然に発達させて文化の継承を行っているが、1世紀ほど前に人為的に作り出されたエスペラント語は、結局一般層まで普及することはなかった。文化という土壌をもたない自然言語は存続しえないということだ。同じようにデザインという営みにも地域固有の文化という土壌が必要であり、土着性のようなものは大きいんじゃないか・・・というのがその時の感想だった。

そして先日、とあるインターナショナルな大学連合のプロジェクト成果の展示を見に行った際に、再び考えさせられることになった。成果物の一つに、避難所向けの救援物資と情報のプラットフォームを提案したものがあった。そのデザイン過程で、イタリア人は宅配ボックスのようなメンタルモデルを元に、ピッピッピと数字を入力して物資を受け取れるという「無人の端末機」のアイデアを提案し、日本人はコンビニのようなメンタルモデルを元に、中に何があるかショーケースのように見えていて「人が受付して物資を渡す」というアイデアを提案したという。基本的にいろんなことを自力でやるヨーロッパと、スタッフが過剰なほど親切に対応する日本というのは、なんというか「あるある」であるが、結局双方譲らず最終的な統合に失敗したようで、成果物はふたつのアイデアを無理矢理組み込んだ折衷案になっていた。成果物には隔てる壁のようなものがつけられ、そこには国境を痛烈に感じさせた。

 

さて、どちらがより妥当な答えなのだろうか?災害はどこでも起こりうる。だからこのプラットフォームは地球上どこでも必要になる可能性がある。とはいえ、日本の被災地で使うなら、コンビニモデルなんだろう。セルフレジすら普及しない日本において無人端末機を災害時に設置しても、シニア層を中心にわからないとクレームが頻発しそうだ。逆にスタッフの親切さが望めないヨーロッパではなんとかしてしまうのかもしれない。

だからこの場合、使う場所と対象者を決めないことには進めようがない。でもこのプロジェクトはイタリアでもなく日本でもなくシリコンバレーでデザインしているから、どっちもアウェーということになり、自分たちの能力の問題というよりも環境的な要因でケンカになりやすい,というわけだ。

もちろん文化差を乗り越えて素晴らしい解に到達している事例もあるから、すべてに言える話というつもりはないが、デザインを行う際には、多様性を組み込めばより幅広い問題に対応した解を導けるというものではなくて、基本として「どこで」「だれが」などのつかう場所の条件については考える必要があるはずだ。そこでメンバー間の意見の差異を文化的なコンテクストとして整理することや、それらを考慮した上で最終的な成果物は特定の地域向けにローカライズしたほうがいいのか、はたまたしないほうがいいのか、という問題は、短時間の集中的な仕事の中で決められることでもないよなぁ、と思った。

 

まとまってないけど、自分のためのメモ。

抜け落ちている視点もたくさんあると思うので、感想など聞かせてもらえると嬉しいです。