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みえないものを、みる視点。

デザインと土着性

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2年前にロンドンでRCAの修了展を見に行った時、国境を越えた学生チームでデザインにとりくむことの難しさを知った。プロのように経験値でカバーできない学生の場合は、同じインターナショナルなチームだとしても、みんながアウェーの状態でやるか、どこかにホームを決めて行うかでは、だいぶ条件が違ってくる。

みんながアウェーの中で、文化的な背景や価値観が異なるチームメンバー(例えばほとんどが外国から来た留学生)が協働でデザインする場合、問題対象にただちに入り込めるわけでもなく、それぞれの先入観を早い段階で壊すのは極めてむずかしい。そして解決案もメンバーの価値観の最大公約数的なところに落としてしまいがちである。やっている当人達にとっては母国語や文化差を越えて議論し創造することに多くの学びがあることは否定しないが、残念ながらアウトプットはそうなってしまう例をたびたび見る。

一方で、同じ時期に見たデンマークの学生たちがコソボに行って現地で協働でプロジェクトに取り組んだ事例では、現地のフィールドワークを地元民がサポートしており、外部者の価値観を活かしつつ、当事者の抱える問題の目線で消化されていたように思う。現地民がデザインパートナーとしてホームに招き入れている形式だったからこそ、他者視点を発揮できているということだろう。

この対照的な二つの事例を見比べて、僕は「言語」のなりたちを連想した。大抵の人類はどんな僻地でもコミュニティの中で独自の言語を自然に発達させて文化の継承を行っているが、1世紀ほど前に人為的に作り出されたエスペラント語は、結局一般層まで普及することはなかった。文化という土壌をもたない自然言語は存続しえないということだ。同じようにデザインという営みにも地域固有の文化という土壌が必要であり、土着性のようなものは大きいんじゃないか・・・というのがその時の感想だった。

そして先日、とあるインターナショナルな大学連合のプロジェクト成果の展示を見に行った際に、再び考えさせられることになった。成果物の一つに、避難所向けの救援物資と情報のプラットフォームを提案したものがあった。そのデザイン過程で、イタリア人は宅配ボックスのようなメンタルモデルを元に、ピッピッピと数字を入力して物資を受け取れるという「無人の端末機」のアイデアを提案し、日本人はコンビニのようなメンタルモデルを元に、中に何があるかショーケースのように見えていて「人が受付して物資を渡す」というアイデアを提案したという。基本的にいろんなことを自力でやるヨーロッパと、スタッフが過剰なほど親切に対応する日本というのは、なんというか「あるある」であるが、結局双方譲らず最終的な統合に失敗したようで、成果物はふたつのアイデアを無理矢理組み込んだ折衷案になっていた。成果物には隔てる壁のようなものがつけられ、そこには国境を痛烈に感じさせた。

 

さて、どちらがより妥当な答えなのだろうか?災害はどこでも起こりうる。だからこのプラットフォームは地球上どこでも必要になる可能性がある。とはいえ、日本の被災地で使うなら、コンビニモデルなんだろう。セルフレジすら普及しない日本において無人端末機を災害時に設置しても、シニア層を中心にわからないとクレームが頻発しそうだ。逆にスタッフの親切さが望めないヨーロッパではなんとかしてしまうのかもしれない。

だからこの場合、使う場所と対象者を決めないことには進めようがない。でもこのプロジェクトはイタリアでもなく日本でもなくシリコンバレーでデザインしているから、どっちもアウェーということになり、自分たちの能力の問題というよりも環境的な要因でケンカになりやすい,というわけだ。

もちろん文化差を乗り越えて素晴らしい解に到達している事例もあるから、すべてに言える話というつもりはないが、デザインを行う際には、多様性を組み込めばより幅広い問題に対応した解を導けるというものではなくて、基本として「どこで」「だれが」などのつかう場所の条件については考える必要があるはずだ。そこでメンバー間の意見の差異を文化的なコンテクストとして整理することや、それらを考慮した上で最終的な成果物は特定の地域向けにローカライズしたほうがいいのか、はたまたしないほうがいいのか、という問題は、短時間の集中的な仕事の中で決められることでもないよなぁ、と思った。

 

まとまってないけど、自分のためのメモ。

抜け落ちている視点もたくさんあると思うので、感想など聞かせてもらえると嬉しいです。