Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

アラスカで見た人形に、デザインの本質を見た気がした

f:id:peru:20190414105127j:plain

Tea doll.  Fairbanks, Alaska,USA 2009


_______

 

 これは2009年の夏、私がアラスカのフェアバンクスという街に一ヶ月ほど研究で滞在した時、現地の人形コレクターの女性の家で見せてもらった古い人形です。一見して年季の入った手作りのもので、21世紀の今の目から見ると、お世辞にもかわいいものとは言えません。しかし説明を聞くと、この古ぼけた人形がまるで変わって見えてきます。


 まず彼女に、「持ってごらん」と言われ、私は手に人形を持ちました。ずっしりと重みが伝わってきます。どうやら中は通常の人形のように綿が詰まっているわけでは無さそうです。うろたえていると、「嗅いでごらん」と言われ、私は鼻を近づけてみました。なんだか爽やかな匂いがします。この人形の中には綿ではなく、なんとお茶の葉が詰まっているのでした。

 

 なぜでしょうか?そのコレクターの説明によると、これをつくったイヌー族というカナダ先住民の生活文化が背景にあります。イヌー族は元々、夏はカリブーの群れを追い、冬はアザラシや魚を追うために移動するという一カ所に定住しない生活を古くから続けていました。定住しないということは移動しつづけるということです。住処ごとまとめて長距離を移動する際には、荷物を制限しなければなりません。そこで家族が極寒の中を団結して移動するためには、どんな小さなよちよち歩きの⼦供もふくめて全員が荷物を分担して運ばなければならないという厳しい掟があったのだそうです。

 

 しかしながら、何かの荷物を運ぶことを小さな子供にお願いしても、完遂することはなかなか難しいでしょう。休憩の途中で忘れてしまえば大事なものを紛失してしまうかもしれません。そこで、⼦供たちが意識せずとも雪道の中で自分のものとして大事に抱きかかえて運べるように、人形の中にお茶の葉が仕込まれているのでした。これだと子供は喜んで自力で持つことができますし、隊列の⼀員として立派に役割を担うこともできます。


 後日調べてみたところ、人形にお茶の葉を詰めるというのは単発のアイデアというわけではなく、かなり古くから遊牧民であるイヌー族の中で広まっていた文化のようです。Tea dollという名前もつけられています。

f:id:peru:20190414110114p:plain

www.saltscapes.com

No one knows exactly when the tea doll tradition began. Madeleine Michelin, 68, of Sheshatshiu, had a tea doll as a child and remembers many stories of her mother and grandmother also playing with the dolls. The Smithsonian Institute collection contains several dolls obtained in the early 1880s from Innu people who traded at the Hudson's Bay Company post at Old Fort Chimo, Labrador.

 

 彼らは決してデザインを学んでこれを作ったわけではありません。また商売を意識して作ったわけでもありません。だからこそ、私は人形を抱きながら思わず感動しました。

 

 厳しい生活の制約の中で、生きる原点のようなところに人々の知恵が宿るのだと。もしかしてこれが本当のデザインと呼ばれるものなのではないか、と。これまで私は数え切れないほどのさまざまなプロダクトを見てきましたが、現時点でこの薄汚れた不格好な人形こそが人生の中でもっとも感動を受けたデザインだ、と思っています。


 さて、この人形におけるデザインを、いくつかの視点から解釈してみましょう。まず、ここで行われていることは、荷物の制限という視点から、ぬいぐるみの内部というスペースに気付き、そこを活用したということです。つまり「なんらかの困りごとを捉え直し,よりよい解を生み出している(問題の発見と問題の解決)」と解釈できそうです。先に紹介したハーバート・サイモンやジョン前田など多くの人が,デザインとは問題解決である、と捉えています。特定の問題に対処して解決する、それによってよりよい現実を描き出すというのは、前後が明確で非常に分かりやすいと言えます。


 その一方で、それだけでもない気がしないでしょうか?問題解決という視点では、たしかにこの人形は荷物のスペースの問題を解決しています。しかし、単純に問題を潰しただけでは、マイナス点がゼロになることはあっても、プラスになること、つまり我々が心地よい感覚を感じることはないはずです。もし、我々がこの人形に「極寒の地に生きるたくましさ」や「対等に役割を持つようにする優しさ」などのストーリーを意識的に感じるのであれば、そこには問題解決だけでは説明の付かない、なんらかの要素があることは明らかです。そこで、もうひとつの解釈として、デザインとは「意味を与えることである」という言い方がされています。デザイン理論家のクリッペンドルフや、彼に影響を受けたベルガンティなどの理論です。つまり別の見方をすれば、この人形を作った人は、「抱きしめて慈しむ玩具」から「みんなの大事なもの」へと、人形の意味を変え、それによって子供を「よちよち歩きの危なっかしい子」から「濡らさず大事に運んでくれる運び手」へ変えています。意味を変えることで、共同体の中での役割を新しく生み出しているわけです。

 


 この解釈から見えるように、「問題発見・問題解決」と「意味づけること」は決して別々のことではなくて、どこから見るかの「見方」の違いです。実際にこの人形の中にはどっちも含まれていることがわかるでしょう。良いデザインはふたつの見方を両立しています。


 この二つの視点、「問題解決」および「意味生成」の視点は、よくデザインの本で言及されていることです。ここからもう一段階進めてみましょう。私は、これに加えて、そのデザインをする「主体」は誰なのか、が重要になると考えています。デザインが産業に取り入れられた高度成長期以降、前述した通り、いつの間にかデザインはデザイナーがするものという職能的な意味に変化してしまいました。しかし、この人形は、市井の人々によって作られたものです。そして経済的な価値とも無縁のものです。それを強調するために、私は意図的にこの古ぼけた人形を例示しています。この事例からは、あり物を消費するのではなく、よりよく生きるために生活を自分たちのアイデアで変えていく、そんな主体的な活動を読み取ることができます。それもまたデザインの姿であり、我々一人一人が発揮していくべき知恵であるはずです。

「ひとは誰でもデザイナーである。ほとんどどんな時でも我々のすることはデザインだ。デザインは、人間の活動の基礎だからである。ある行為を望ましい予知できる目標に向けて計画し整えるということが、デザインのプロセスの本質である」

ヴィクター・パパネック

 _________

とある原稿のプロトタイプバージョンです。

 

僕がよく講演で紹介するこの人形の話。エスキモーがつくった人形だと長年思いこんできて、そう話してきたのですが、ネットでよく調べてみたところ、カナダ先住民のイヌー族の文化だそうで、イヌー族はイヌイットではないことが強調されてます。というわけで、ちょっと事実誤認があったので訂正しておきます。