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みえないものを、みる視点。

アラスカで見た人形に、デザインの本質を見た気がした

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Tea doll.  Fairbanks, Alaska,USA 2009


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  これは2010年の夏、私がアラスカのフェアバンクスに一ヶ月ほど研究で滞在した時、現地の人形コレクターの女性の家で見せてもらった人形です。一見して年季が入った手作りのもので、21世紀の今の私たちの目から見ると、お世辞にもかわいいものとは言えません。しかし説明を聞いてみると、この古ぼけた人形が一変して見えてくるのです。

 

 まず彼女に、「持ってごらん」と言われ、私は両手で人形を受け取りました。ずっしりと重みが伝わってきます。どうやら通常の人形のように中に綿が詰まっているわけでは無さそうです。うろたえていると、「嗅いでごらん」と言われ、私は鼻を近づけてみました。なんだか葉っぱのような、爽やかな匂いがします。この人形の中には綿ではなく、なんと〈お茶の葉〉が詰まっているのでした。

 

 それはなぜでしょうか?彼女の説明によると、これをつくったカナダ先住民のイヌー族の生活文化が背景にあります。イヌー族は北米最後の遊牧民として、夏はカリブーの群れを追い、冬はアザラシや魚を追うために移動する、一カ所に定住しない生活を古くから続けていました。住処ごとまとめて長距離を移動するためには、自分たちで運べるだけの荷物に制限する必要が生まれます。そこで家族が極寒の中を団結して移動するために、どんな小さなよちよち歩きの⼦供もふくめて全員が荷物を分担して運ばなければならない、という厳しい掟があったのだそうです。

 

 また、お茶はもともと彼らの生活の中にあったものではありません。お茶の葉の原料となるチャノキは、カナダの周辺には自生しておらず、交易によって入手していた貴重な嗜好品でした。おそらくカナダが英国の植民地だった時代、英国人によって持ち込まれたもので、毛皮などと物々交換することによって入手していたのでしょう。お茶の葉は乾物で湿気を嫌うため、保管する場所にも気を使う必要があります。

 

 そんな大事なお茶の葉を運ぶことを、小さな子供にお願いしても完遂するのはなかなか難しそうです。単なるモノをずっと持ち続けるのは大人でもツラいものですし、休憩の途中で忘れてしまえば紛失してしまうかもしれません。

 

 そこで⼦供が、雪道の中で大事に抱きかかえて運べるように、自分のものとして決して忘れないように、この人形の中にはお茶の葉が仕込まれているのでした。たしかに、これだと乾物のお茶の葉を保管するのにも良い環境となり、子供は荷物だと意識せずに自力で抱きかかえて運び、隊列の⼀員として立派に役割を担うこともできます。つまり、小さな子供を内側から力づけ、過酷な旅に貢献できるようにするためのひとつの仕組みでもあるわけです。



 後日調べてみたところ、人形にお茶の葉を詰めるというのは単発のアイデアというわけではなく、かなり古くから遊牧民であるイヌー族の中で広まっていた文化のようです。Tea dollという名前もつけられています。

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www.saltscapes.com

No one knows exactly when the tea doll tradition began. Madeleine Michelin, 68, of Sheshatshiu, had a tea doll as a child and remembers many stories of her mother and grandmother also playing with the dolls. The Smithsonian Institute collection contains several dolls obtained in the early 1880s from Innu people who traded at the Hudson's Bay Company post at Old Fort Chimo, Labrador.

 

 彼らは決してデザインを学んでこれを作ったわけではありません。また商売を意識して作ったわけでもありません。だからこそ、私は人形を抱きながら思わず感動しました。

 

 厳しい生活の制約の中で、それをなんとかしようとするところにこそ人々の知恵が宿るのだと。もしかして、それが生きる原点としての本当のデザインと呼ばれるものなのではないか、と。私はこれまで私は数え切れないほどのさまざまなプロダクトを見てきましたが、現時点でこの薄汚れた不格好な人形こそが人生の中でもっとも感動を受けたデザインだ、と思っています。


 さて、この人形におけるデザインを、いくつかの視点から解釈してみましょう。まず、ここで行われていることは、荷物の制限という視点から、人形の内部というスペースに気付き、そこを活用したということです。つまり「なんらかの困りごとを捉え直し,よりよい解を生み出している(問題の発見と問題の解決)」と解釈できそうです。先に紹介したハーバート・サイモンやジョン前田など多くの人が,デザインとは問題解決である、と捉えています。特定の問題に対処して解決する、それによってよりよい現実を描き出すというのは、前後が明確で非常に分かりやすいと言えます。


 その一方で、それだけでもない気がしないでしょうか?問題解決という視点では、たしかにこの人形は荷物のスペースの問題を解決しています。しかし、単純に問題を潰しただけでは、マイナス点がゼロになることはあっても、プラスになること、つまり我々が心地よい感覚を感じることはないはずです。もし、我々がこの人形に「小さい子にも相応の役割を持たせ、共同体に貢献できるようにする優しさ」や、「極寒の地で足を踏みしめながら自分の意思を持って歩き始める小さな子供のたくましさ」などのストーリーを意識的に感じるのであれば、そこには問題解決だけでは説明の付かない、なんらかの要素があることは明らかです。


 そこで、もうひとつの解釈として、デザインとは「意味を与えることである」という言い方がされています。デザイン理論家のクリッペンドルフや、彼に影響を受けたベルガンティなどの理論です。つまり別の見方をすれば、この人形を作った人は、人形を「こども自身が慈しむ玩具」から「みんなにとっての大事な茶筒でもある玩具」へと意味を変え、それによって子供を「よちよち歩きの子」から「抱きしめて大事に運んでくれる運び手」へ転換しています。ものの中に見出される意味自体を変えることで、共同体の中での役割を新しく生み出しているわけです。


 ひとつの人形から見出されるこれらの複数の解釈から見えるように、「問題発見・問題解決」と「意味づけること」は決して別々のことではなくて、どこから見るかの「見方」の違いです。実際にこの人形の中にはどっちも含まれていることがわかるでしょう。良いデザインはふたつの見方を両立しています。


 この二つの視点、「問題発見/解決」および「意味」の視点は、よくデザインの本で言及されていることです。ここからもう一段階進めてみましょう。私は、これに加えて、そのデザインをする「主体」は誰なのか、が重要になると考えています。デザインが産業に取り入れられた高度成長期以降、前述した通り、いつの間にかデザインはデザイナーがするものという職能的な意味に変化してしまいました。

 

 しかし、この人形は、市井の人々によって作られたものです。そして経済的な価値とも無縁のものです。それを強調するために、私は意図的にこの古ぼけた人形を例示しています。この事例からは、あり物を消費するのではなく、よりよく生きるために生活を自分たちのアイデアで変えていく、そんな主体的な活動を読み取ることができます。それもまたデザインの姿であり、我々一人一人が発揮していくべき知恵であるはずです。

 

「ひとは誰でもデザイナーである。ほとんどどんな時でも我々のすることはデザインだ。デザインは、人間の活動の基礎だからである。ある行為を望ましい予知できる目標に向けて計画し整えるということが、デザインのプロセスの本質である」

ヴィクター・パパネック

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とある原稿のプロトタイプバージョンです。

 

僕がよく講演で紹介するこの人形の話。アラスカで見たのでエスキモーがつくった人形だと長年思いこんできて、そう話してきたのですが、ネットでよく調べてみたところ、正確には、カナダ先住民のイヌー族の文化だそうで、イヌー族はイヌイットではないことが強調されてます。というわけで、ちょっと事実誤認があったので訂正しておきます。