Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

音に潜む共通のイメージを探る

 

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グラフィックデザイン」の授業は、前半のインフォグラフィックス編が今週で終わって、後半のイメージコントロール編に入った。視覚言語の中でも、インフォグラフィックスのように要素の意味性が強いものと比較して、もっと潜在的なイメージの共通性によって成される、いわゆる伝統的なグラフィックデザインが対象としてきた領域である。

 

上の画像は、ずっと使い回しているイントロダクションのスライドより。

左側にある「言葉」と右側にある「図形」は両方とも全く意味のない適当なものであるが、両者の感覚的なイメージを繋いでみるとどうなるか、という問題。ほぼ全員が言葉と図は並行ではなく、クロスして繋がる、と答える。意味がなくても、言葉と図に対して全員が同じ共通性を感じる(ガギグゲゴ ≒ ギザギザした形態、パピプペポ ≒ くるくるした形態)というのは、一見不思議ではあるけども、種明かしすれば音のイメージと図のイメージが重なるのは、実は我々の身体が持っている尺度が限られていることに因る・・・という理由を読み解くことが可能である。ヴィジュアルをデザインするということは、そういった潜在的に含まれている要素も含めて、適切に設計していかなくてはならない。

 

さて、パピプペポといえば。ちょうど先日読んだPPAPに関する言語的な解説がなかなか興味深かったので、ついでに昨日の授業でも少し触れてみた。

 

sasakiarara.hatenadiary.com

「P」という口唇破裂音の連続は、ヨーロッパ諸語であると特に顕著に、子どももおとなも大好きな響きだ。「ピーターパン」や「パイドパイパー」などのキャラは、Pの連続を意図的につくることで、響きをよくしている。

Peter Piper picked a peck of pickled peppers.

という有名なマザーグースの早口言葉があるけれど、この早口言葉は「言いにくい」のではなく「口にして心地よい」という意味の早口言葉の代表格。

 呪文などにも、たとえば「アブラカタブラ」など、口唇破裂音「B」がいいリズムで繰り返されるものが多い。

http://sasakiarara.hatenadiary.com/entry/2016/11/01/125822

Pen-Pineapple-Apple-Pen という言葉には、頭文字のPだけでなく、音の連続性を崩すAppleの裏の音にもpが含まれている。一見意味のないように思われている簡単な言葉の中にも、我々が意識しない領域で高度な設計が含まれていることに感心する。世界中で流行するのには、ただの言葉遊びではなくてちゃんと「口にすると気持ちいい」体験である、という共通性があるのだ。

 

こういった発音自体が持つ効果をいち早く言語化したのは佐藤雅彦氏だったように思う。氏は20年以上前に「濁音は強い」という法則を自分で見抜いて、そういった方法論を駆使したCM(例えば「バザールでござーる」)を作った、というのはよく知られている話である。

「だんご3兄弟」にも同じ方法が見える。

youtu.be

今久しぶりに聞いてみたら、ラストのあたり、濁音がくりかえしくりかえし迫ってくる感覚が強烈なパンチのように効いていてちょっと怖かった。この中毒性、当時の子供たちがみんな夢中になったわけだ・・・。

 

みんな忙しくなって深く考える時間も無くなってきている時代だからこそ、こういった潜在的な部分を活用していくことは、一層重要になりつつあるのかもしれない。

 

身の丈にあった問題を通して、デザインを学ぶ

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先日の演習の時に同僚と雑談していて、気になったことをメモ。

最近は「デザイン思考」ブームも一段落しているが、いろんな分野でデザインを学びたい人はまだまだとても多い。そういった状況の中で教育者側が初心者向けのデザインの授業を持つ時に、デザイナ—たちが職業の中で確立して来た「知識」を教えることが中心になってしまいがちなところがある、ということについて。

 

デザイナーが教壇に立つ場合も教育の専門家ではないことが多いわけで、専門の知識を伝えることについて何か問題があるのかに気がついてない人も多い。

 

部外者からはセンスと思われているデザインも実はさまざまな形式知の固まりである。例えばグラフィックデザインの場合で言えば、色使いの基本や書体の文字詰め、画面の力学など、洗練された画面を構築するセオリー。それから、デザイナーたちが手がけたデザイン事例。こういったものはお手本として具体的な例が示されているので紹介しやすいわけだ。

 

しかしながら、そういうどこかの誰かが生みだして形式化した知識を解説することから入ると、結局初心者にとっては自分との距離がありすぎてそれほど身になることはないだろう・・・と僕は思うのだ。逆にすごい事例であればあるほど、自分のできることとは別の世界の話になっていく。

 

(先日、デザイン思考の入門書を本屋でみかけてパラパラめくってみたら、スーパーデザイナーのすごい仕事ばかりを紹介していて、おもわず笑った)

eb.store.nikkei.com

 

デザインの対象はどこにでもある。ならば自分が当事者として向かい合える問題やその経験を起点にした考え方を検討してみるほうが、見えてくることは多いんじゃないか。

 

一般大でいろんな学生向けにグラフィックデザインの授業を担当している自分としては、取り組む問題と自分の距離感は最重要だと思っていて、基本的に「まずやらせてみて、そこで出てきたものを共有しながら考えていく」という作戦をとっている。

 

というわけで自分の取り組みを描いてみる。

例えば初回のオリエンテーション後の「Footwork」という課題。

あなたが今後(卒業後含む)深めていきたいことをふまえた上で、あなたにとって何らかの意味があると思われる本を一冊購入してください。新品でなくても、古本でも全く構わない。
 購入場所、書籍のジャンル、価格帯、考えてから買いに行くか/行ってから考えるか、は自由。条件が悪い場合は,それを解決するための作戦を自分で考え,すべて自分の判断で行動すること。
 そしてどのような要素や過程からその本を購入しようとする価値判断が生まれたのかを記録し、A4一枚の中に、他の人に伝わるようにまとめてください。あなただけが持っているその一連の体験を他者に伝えるためには、一枚の紙の中にどう表せばよいでしょうか?

 

買う本は別になんでもかまわなくて、「自分で身銭切って何か買う、という個人的なストーリーをフリーフォーマットで描く」ということなのだけど、できるだけ制約をゆるめて取り組ませることで、履修者が100人ほど居れば解答には様々なバリエーションが生まれる。でもその中でも似た表現のクラスタがみつかる。Word派、手書き文章派、漫画派、マインドマップ派、フローチャート派・・・など。

 (トップ写真参照)

 

それらを書画カメラで見ながら紹介していくと、同じ問題文に普通に答えただけのはずなのに、それぞれの解答に大きな伝わり方の差が生まれていることが学生達にも見えてくる。そしていろんな表現方法を比較しながら見ていくと、自分まで届く/届かない要因として、いろんなことがわかってくる。

 

例えば、


・同じ手書きでも筆圧や字の大きさで読みやすさが大きく変わること

・どこから読むのかわからないものは混乱すること

・キレイにレイアウトしすぎたものは、揃いすぎている故に読みとばされること

・思考の揺れや戸惑いなども表現次第で表せること

インパクトがあっても肝心の中身がないと、もの足りないこと

・全体を包むメタファを取り入れているのは統一感が生まれていること

・ぎっしり書いても圧迫感が生まれるので、適度な余白が大事なこと

・ちょうどいい情報量にするために、何を描き、何を省略するかの見極めが大事であること

・漫画形式のものや自分のキャラクターを取り入れて記述しているものに思わず読ませる力があるのは、絵の力だけでなく1人称視点のストーリーがあるからであること。

・構造化しているものは、程よいまとまりによってほどけるように読めること


・アプリケーション操作のスキルが高くても、読ませる力とは全く関係ないこと

・仕事に対して丁寧にとりくんでいるか、は描かれたことから表出されていること

・たとえ絵は未熟でも、中身が充実していれば十分に魅力を持つこと

・表現することそのものではなく、それがどう伝わるかが大事であること...

 

などなど。

 

こんな風に、初心者でもじゅうぶんに出来る課題を通して、(グラフィック)デザインの基本として大事なことを見出していくことはできる。ここでの僕の仕事は、学生がおぼろげながら試みようとしたことを目を凝らしながら見抜いて、意味づけていくことである。そうして学生達の解答をさばきながら即興的な講義にしていく。これだと学生達は決して聞き漏らすまいと、真剣な顔でちゃんと聞いてくれるw

 

そして人間は頭の中に新しい組み替えが起これば、それをだれかに喋りたくなる。たまに対話もさせるけど、自分の言葉で整理させるために、学生達にはその場で「自分の課題はどう見えて、自分でどう評価したか」「他人の課題や教員のコメントを受けてどう考えたか」「次にうまくやるためにはどういう作戦をとるか」をミニレポートとして記述する。

 

そして次の課題ではちょっとづつ条件が変わり、特定の状況で言葉が通じない外国人に図だけで伝える、という課題、ダメなものを自分の観察眼でピックアップして作り直す課題・・・という風に学んだことをつなげながら進めていく。導入段階の課題は、いろんな制約の中で自分で編み出して以来ずっと同じようなやりかたをしているけど、基本は「自分が当事者として関わる問題をやってみて、それを共有して学ぶ」スタイルだ。

 

同僚と話していたのは、そういった即興性の高いレクチャーは教員にも難易度高いのではないかということだったのだけど、うーむ、そうなのかな。でもデザインは実践知だからこそ、なにから学ぶか、は重要だろう。あたらしく発見できることは身近にあるはずだし、初心者が足元を踏みしめながら進めていくためには、問題への「手触り」を無視してはいけないはずだ。それもまた理解のためのデザインに他ならないのだから。

 

インプロビゼーションとアイデア発想ワークショップ :いま、この瞬間の世界と向かい合うことの意味

 2008年に演劇インストラクターの倉持さんと実施したインプロワークショップのブログ記事が、今でも結構読まれているようです。その後自分で実施するようになってその頃よりは言語化できるようになってきましたので、自分で行っている取り組みを中心に書いた記事をアップしておきます。2014年1月に学内の紀要に書いた資料です。

 

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インプロビゼーションとアイデア発想ワークショップ
—いま,この瞬間の世界と向かい合うことの意味—

上平崇仁 KAMIHIRA Takahito

 

要旨:

デザインのように人間の創造性が関わる営みにおいては,単発のアイデアよりも,対象が変わっても新鮮なアイデアを生産し続けられる良質な方法や考え方を体得できるかが重要である.そこで,我々の思考を水面下で支えている身体の位置づけについて再考するために,演劇分野で行われてきたインプロビゼーションを取り入れたトレーニングとその応用事例としてのワークショップを紹介する.

デザイン教育におけるインプロの効果として,1)発想トレーニング,2)チームビルディング,3)寸劇の場面描写スキル,の3つを上げ,特に1)の発想トレーニングとして,ブレーンストーミングとの深い関係性を追いながら,デザインにおけるアイデア発想における身体性,その学びがもたらす意味について考察する.

 

1. はじめに

もっとも身近にありながら,しばしば見落とされてしまうことの一つに,我々の持つ"身体"がある.熟考してもなかなか答えが出なかったことが,散歩の最中に突然ひらめいたり,思考から消えていたことが急に思い出せたりすることが示すように,身体活動が思考回路に与える影響は実は非常に大きい.そしてまた,身体があることは我々の経験の前提でもある.人間の思考は意識だけで成り立っているわけではない.我々が意識できていることの水面下には膨大な無意識が存在していると言われるが,意識できたこと,意識できてないこと含めて我々の中に蓄積されているさまざまな経験は,すべて我々の身体の五感のフィルタを通して形成されたものである.

 しかし,そこまで重要なものでありながら,我々は自分の身体のことをよく知らない.現代のデジタル化が進む学習や仕事の環境において身体性の意味は省みられることは少なく,自明のものとして扱われがちなところがある.そして今日も多くの人が長時間モニタに表示される情報と向かい合ったまま,一日の多くの作業を行っている.

 デザインのように人間の創造性が関わる営みにおいて,よりよい方法論を明らかにしていくうえで,我々の思考を水面下で支えている身体の位置づけについて焦点をあて,再考してみることには意義がある.例えば,アイデアの発想の方法について学ぶ場合でも,身体的な運動を通した発想を試してみることで,座って行う場合と,身体を動かしながら行う場合で発想のスピードが大きく違うことを体感的に知ることになる.通常の思考回路からの切り替えを通して,我々が普段の行動で意識できていないことが存在することを知るきっかけとなる.そのような体験は,個別の発想法を知ることよりも,発想するとは一体どのようなことなのかについての視点を大きく変える可能性がある.

 そのヒントを与えるものとして筆者が関心を持っているものに,インプロビゼーションがある.ここでは,インプロビゼーションを取り入れたトレーニングとその応用事例としてのワークショップを紹介しながら,デザインにおけるアイデア発想における身体性,その学びがもたらす意味について考察していく.

 

2.インプロビゼーションとは

 インプロビゼーションとは,その場その場で行われる「即興」のことである.通常インプロと略されるが,言葉を分解していくと,"イン"は否定語であり,"プロ"は「前もって」,ビゼーションは「見る」ということをそれぞれ意味している.つまり「前もって見ない」,逆に指向しているのは「いまこの瞬間にある同時性を大事にする」ということである.音楽の分野においては,事前に用意された楽譜などによらず演奏者がそのステージの中で作曲または編曲しながら演奏を行う即興演奏として知られており,演劇の分野では,事前に台本を準備せず,俳優らが刻々と変わっていく状況の中で演技を行い,アドリブだけでストーリーが紡がれていく即興劇ひとつのジャンルとして確立している[1].はたして前もって万全にシナリオが練られてないものが面白いのか,という疑問はよく聞かれることであるが,即興演奏も即興劇も,ライブならではのさまざまな相互作用によって刻々と変化することが魅力であり,まったく先の読めない展開をステージ上の役者と観客席の間で文脈を共有するスリリングな楽しみがある.これらによく似たところで言えば,お笑い芸人のアドリブ芸がある.次々と起こる出来事を受け止めつつ,いかにシャープに反応していくか,そのタイミングの中で生み出される創造性を感じられるからこそ,見ている方の面白さも増幅するのである.

インプロは,英国のキース・ジョンストンによってうみだされ,彼に影響を受けた人々によって世界中に広められてきたが,近年になって彼らによって生み出された各種のトレーニング方法は,演劇という専門分野から大きく越境するようになった.それらは,しなやかな発想力やコミュニケーション力を養うための学びとしても非常に有効であることが知られ始め,ピクサー社をはじめ,企業の組織風土開発[2][3]に取り入れらているほか,スタンフォード大など,デザイン教育の文脈でも多くの大学で取り入れられている[4].

身体表現であるインプロと人工物を中心としたデザインの学びは一見繋がらないように思われるかも知れない.しかしそんなことはなく,深いところで密接に関係しているのである.デザイン教育においてインプロを取り入れる効果としては,以下の3点に要約することができる.

 

1) 発想トレーニングとして

上述したように,インプロでは"その場その場"で発想することが必要になる.事前の準備が役に立たず,状況の中で臨機応変に行動していくことが必要とされるため,硬直した思考を解きほぐし,ワークショップの中で自然に発想の訓練をおこなうことが出来る.デザインにおいて頻繁に行われるブレーンストーミングの意味を再考し,そこに通底している発想のメカニズムを知り,よりよいブレストのための条件を理解することができる.

また,複雑化するデザインの問題に対処するために,個人の創造性を越えて組織で立ち向かう必要性が生まれているが,自分一人ではなく周囲との相互作用の中で発想を生み出す体験を通して,チームの力を有効に利用して発想を生み出すためには,どのような要因があるのかの根源的な部分が理解できる.

 

2)チームビルディングとして

ゲームを通して自然に身体が温まり,さらにメンバー間で一体になるレゾナント(共鳴)を体験することで身体的な一体感を感じることが出来る.また,失敗を許容しつつ受け入れる雰囲気をつくることで,初対面時のバリアを解していくことができる.これらはグループワークを行う際の,初対面者同士の抵抗感や緊張を無くすためのアイスブレイクとしても機能し,チームの関係づくりに大きく作用する.

 

3)寸劇の場面描写スキルとして

ユーザの体験を描くために,製品やサービスを使用するシーンを寸劇的に演じることは現代のユーザエクスペリエンスデザインにおいて一般的なスキルとなっている.特に,製品の利用の流れを確認したり,演じ落とす中で気付きを生かしていくための手法はアクティングアウトとも呼ばれている.インプロは身体をメディアとした表現でもあるため,インプロを行うことで,寸劇を行う際のメンバー間での間合いのあわせ方や,身振りなどを活用してリアリティをもった場面を演じるスキルにつながる.

 

 

3. インプロのメニュー

インプロは,本番の舞台で演じられるだけでなく,基礎トレーニングのためのメニューが何百種類も生み出されている[5].いずれも実行するのは特別に難しいものではなく,子供心に還るようなゲーム感覚で楽しく行えるものである.ただし,複数人で協力して行わなければゲームが成り立たないため,進めるためにはお互いの心理状態を理解しながら頻繁にコミュニケーションを取っていく必要がある.インプロから得られる学びを深めるためには,むやみに数を行うことよりも,一つ一つを体験した上でそこで行われたことの意味をふりかえりつつ,よく解釈してみることが重要である.

基本的なメニュー,例えば,向かい合ってお互いが鏡に映った人として動く「ミラーリング」や,架空のボールをパスしていく「イマジナリーボール」,否定しないで話を膨らます「YES&YEAH」などからも学べることは非常に多い.

 

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 写真1:8の字歩き

自分の型を持ちつつ,他者との出会いと別れをつくりだす準備運動.ただ歩くだけからアイコンタクト/笑顔/ハイタッチ/スキップ/フリーズ,と徐々に難易度があがっていく.

 

 

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 写真2:ミラーリング

二人がペアになって向かい合い,お互いが鏡像になるように動く準備運動.

模倣するためには相手の動きをよく観察し,動きに即応することが必要であり,お互いが呼吸や表情をあわせていかなければならない.間合いが同期し始めるとお互いの姿が徐々に自然に感じられるようになる.

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写真3:手拍子回し

10名程度で円陣をつくり,拍手を回していく.拍手は1回,2回,3回

と徐々に1拍づつずらしながら叩いていく.徐々にスピードをあげていくことで,全員の呼吸と音が共鳴し始め,緊張感とともに不思議と心地よい一体感が生まれる.

 

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 写真4:イマジナリーボール

架空のボールをパス回ししていく.ボーリング玉とバスケットボール,ピンポン球が同時に行き交う.重さの違いをジェスチャーだけで感じとり,受け渡ししながらも次第に冗談を交えたアドリブ的な動きが出るようになる.

 

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写真5:サンキューゲーム

3~4名で,ジェスチャーだけで状況を繋げていくゲーム.一人がつくったあるポーズに対して,次の人が関係するポーズを取り,二人で成立するシーンを作り,連鎖させながら展開していく.単独のものから関係性を加えることで新しい文脈をつくりだす発想力が試される.

 

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写真6:YES &YEAH

一人が,荒唐無稽な話を振る.話を振られた側は,決して否定せず,「そうなんです!(YES!)」と肯定した上で,かつ話を広げたセリフを返す.会話として繋がったら「YEAH!」とお互いにハイタッチ.たとえいまいちの返しであっても,相手からの笑顔のハイタッチが最高のフィードバックであり,外すことを気にせずに挑戦するという好循環を生み出す源泉であるということに気付くことができる.

 

以下の表は,ある社会人向けワークショップの参加者(大手電機メーカデザイナー)が,参加者の心理的な変化に関心を持ったことから,参加者に自主的にアンケート調査を行ったものの抜粋である.時系列順に5段階評価で点数化し,回収した15名のデータをもとに平均値がグラフ化されている.

 

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図1 インプロWSの感情曲線

 

集計された感情曲線では,ワークショップの進行に合わせて,徐々に積極性がアップしていくことが示されている.

この参加者は,集計したデータを元に

1)それまで順調に上昇した積極性が,自由な動きを要求されることで一旦下がり,以降,徐々に回復.

2)否定的意見の発話は,より積極性を下げる

3)今回,積極性の最高到達点,互いに肯定的に振る舞い,且つ,ハイタッチを交わす,グループの人数は7名前後.

4)インプロにより活性化されたグループも,人数が増えすぎるとモチベーション低下を招く.
の4点を後日のふりかえりにおいて報告した.

 

 4. インプロと発想

 

発言の狙いを外したり,失敗したりして他人から蔑まれることは誰もが避けたいものであり,インプロの開始当初の動きは恐怖心が勝ってしまうため,ぎこちないことが多い.しかし,身体がほぐれてゲームが進んで行くにつれて,失敗を許容する雰囲気が自然発生的にうまれ,参加者達は自分を防衛する必要がないことに心を許しはじめるようになっていく.徐々にゲームの中でのやりとりは速度としなやかさが増し,発話には自然な意外性が多く含まれるようになっていく.インプロのゲームには,集団で発想していく際の本質的なことが豊富に埋め込まれている.グループでの相互作用のダイナミズムの中で,発想が生まれるために必要な条件やセットアップしておくべきことが体験的に学べていく,という点において大変興味深い.

 

例えば,最もポピュラーな発想法であるブレーンストーミングは,簡潔な4つの原則で知られている.いわゆる,「1.自由奔放,2.批判厳禁,3.質より量,4便乗発展」である.誰でも理解できるレベルの言葉であるがゆえに,なぜこの言葉が原則として掲げられているのかピンと来ない人も多い.しかしながら,この4つの原則の意味するところの本当の深さは,インプロ体験を通して初めて理解することができると思われる.このキーワードをひとつずつ解釈してみよう.

 初めに,自由奔放について.「自由に発言せよ」と言われたところで意識的にそれが出来る人はほとんどいない.すなわち,自由になるためには他人に対しての遠慮や自尊心,恐怖心など自分の周辺にあるさまざまな束縛からまず自己を解放しなくてはならないわけである.そして自己を解放するためには,どんなものであろうと許され,認められるようなポジティブな雰囲気が不可欠となる.そんな難しい条件を揃えた場がお膳立てされることは難しいことであるが,不思議なことにインプロのゲームの場の中では,ごく自然に,ごく当たり前にそれらが形成されていく.仮にジョークが寒くても所詮ゲームの中なのだし,失敗はお互い様,とどんな発言でも受け入れて笑顔で反応することが,相互に許容し合うというメッセージをメンバー全員が身体から発することになり,結果的に自由奔放を支える状況を形成するわけである.

 そして次に「批判しない」.そのためには,聞いた瞬間に自分の評価軸だけで良し悪しを判断することを止めなければならない.が,これも即座に出来る人は少ない.評価してしまうことが癖になっていればいるほど,思ったことはついつい言わずにいられないものである.しかし,これも会話の主客が転換する体験を持てば,大きく視点は変わるだろう.YES&YEAHゲームでは,どんな突拍子もない発言でも,聞いた側が肯定し,それに上乗せしていくことで話はいくらでも繋がっていく.そこから導けることは,言葉を発した人にとって他愛もない言葉からでも,他者の視点からはいくらでも新しい解釈,そしてひらめきを生む可能性がある,ということである.発想するということは,発言者が責任を取る必要はなく,そこからどのように「返し」を生み出すか,聞いた側の発想こそが実は重要であり,これらのゲームは,その反応の仕方に自分の態度が反映されるということ,その中関係性の中にこそ創造性があるのだということに気付かせてくれる.批判的な視点は何かを止めるためのブレーキとして必要になる場面もあるが,何かの新しいことの起点になるわけではない.発想する際に批判を加えるのは,アクセルとブレーキを同時に踏むようなものである.

 つぎに「質より量」.前の段落と関連するが,批判がブレーキだとすると,発散的思考がアクセルである.アイデアを生み出す際には,まずは発散的に量を沢山出す中で思いがけないヒントが生まれるものであり,質は数の中から選別されて育っていくものである.最初から省エネ的に出るものではなく,無駄から生まれていくという意味で,失敗を許容してつぎつぎ進めていこうというポジティブな雰囲気がアイデアの母体となると言える.

 最期に,「便乗発展」.サンキューゲームでは他人のポーズを肯定し,そこに便乗しつつも違った解釈を加えることで新しいシーン,新しい接続がつぎつぎと生まれていく.つまり,アイデアは単独で存在しているものではなく,何かと何かの関係として存在しているものだであることを示している.何かに便乗して発展させることは,目の前にあるものの文脈を捉え直すことでもあり,そういう姿勢は,新しい関係性を生み出すエンジンとなる.ブレストとはインプロは,人間の持つ創造性を活かした同根のものであるがゆえに,4つのキーワードは深く繋がったものとなるのである.

 

 また一方で,発想における"態度技法"としての面も欠かすことが出来ない.チームの中の存在として発想していくために,自分はどのように関わるのかの心的な状態を,インプロによって体験的に理解できることは大きい.発想するためには,他者の発言や投げかけに対して即応するという張り詰めた緊張感と,自身の内的な世界にアクセスするリラックス感という,相反するような状態を保つことが必要であることを知ることができるだろうし,そしてチーム内で共鳴し合うような心地よさを発見することが出来るだろう.

 こういった身体的な経験を持つことによって,会議のように多くのことに縛られた状態で行うブレストは,発想するという目的において根本的に違うということや,言葉だけを一人歩きさせずに,本当に新しい発想を生み出すためには,よりよい条件の中で行わなければ本来の意義を成さないということにも気づくこともできるのである.

 ただし,インプロを通しても,その人自身の中に無いことから新しいことを生み出すことはないことには留意しておきたい.当然であるが,知らない言葉や概念がひとりでに湧き出てくるわけではないのである.インプロは,その人の中にすでにあるもの,眠っているものを掘り起こし,融合させる手伝いをするのみである.

 

 5. デザインワークとの接続

インプロを体験したあとは,その感覚を忘れないうちにアイデア発想のブレストを行ってみると,一層その変化を体感することが出来る.参加者の多くも,発言のしやすさ,発言の受け止め方,動きの豊かさなど,その前後での明らかな違いに驚くことになる.

身体をつかったブレストは,ボディ・ストーミングと言う名称が付けられている.実際に身体を使って何かをやってみることで,ものごとを観察・理解し,発想していく方法であり,インプロの時の感覚とは非常に親和性が高い.発想において身体は重要なリソースになることを体現するようなメソッドである.

 

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図8:ボディ・ストーミング

「荷物以外の体験を持ち運ぶペーパーバッグ」というお題でアイデアをかんがえるため,自分たちのカバンを用いてさまざまなシーンを演じている.インプロの後なので,チームでの議論が加速し熱気が高まっていく.

 

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図9:プロトタイプの発想とプレゼン

模造紙を用いて手短にプロトタイプを作成する.写真はつり革をつかってあごを乗せて寝やすくなるペーパーバッグというアイデア.電車の中での様子を演じる中で生み出された.

 

 

6. まとめ

 ここまで,インプロとその応用事例を紹介しながら,アイデア発想における身体性について見てきた.他者とかかわりながら身体を動かす体験は,さまざまな先入観で縛られがちな発想に対する新しい見方を提示してくれる.発想とは,けっして神がかり的に行われるものではなく,地道な基礎トレーニングで育てていく方法として捉えていくために,ここまで述べてきたインプロの示唆する知見は大いに参考となる.

 また,アイデア発想は属人的なものと見なされがちであるが,キース・ソーヤーが明らかにしたように,創造性とは個人の単独で為されているわけではなく,他者との相互関係の中に埋め込まれているものである[6].デザインの意味が,これまでの専門家による個人的職能を越えて,社会における人々による問題解決のための方法としてとして広く使われるようになるためには,こういった実践の中にある知見の積み重ねが必要であると言える.

 

 最期になるが,もうすこしだけ付け加えておきたい.現代人の生活の周辺が情報化されるに伴って,いつでもアクセスできる情報が格段に増えた.しかし,そのことは逆に我々が接する「今,この瞬間」に対する認識を弱まらせているところがないだろうか.あとで見るために撮りためられた写真,前もって練られたシナリオの通り再現される予定調和なプレゼンテーションなど,前後の時間軸が広がったゆえに僕らは,その場・その状況で真剣に立ち向かわなければ立ち上がってこない貴重な何かを失いつつある.そういう日々の体験に対する異議申し立てとして,そしてまた,今この瞬間に我々が生きる意味をふたたび問いかけるものとして,インプロが持つ思想は示唆的な気がするのである.

 

(2014.1 情報科学研究所所報No.82)

 

 

 

参考文献

[1]インプロ―自由自在な行動表現 キース・ジョンストン 而立書房 2012

[2]インプロする組織 高尾隆,中原淳 三省堂書店 2012

[3]日常を変える!クリエイティブ・アクション プラクティカ・ネットワーク編 フィルムアート社 2006

[4]スタンフォード・インプロバイザー ─ 一歩を踏み出すための実践スキル  パトリシア・ライアン・マドソン (著), 野津 智子 (翻訳)   東洋経済新報社 2011

[5]インプロゲーム―身体表現の即興ワークショップ 絹川 友梨 晩成書房 2002

[6]凡才の集団は孤高の天才に勝る―「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア キース・ソーヤー (著) 金子 宣子 (翻訳)ダイヤモンド社 2009

デザイン態度論

10月15日(土)のこと。2016年度の産業技術大学院大学人間中心デザインプログラム、デザインリテラシー編で「デザイン態度論」を担当してきた。

 

人間中心デザインプログラムは、社会人向け専門職大学院のデザインスクールとしては、今のところ日本で唯一の人間中心設計 / UXデザインを体系的に学ぶことができる専門課程であり、履歴書の最終学歴として書ける大学院の学位(履修証明)になること、公立(公立大学法人)のため学費が安いこと、志気の高い人が集まった濃いネットワークが出来ることなど、いろんな点で結構な人気のようだ。入試が先着順のため今年は募集開始なんと数分で枠がうまってしまったそうである。

aiit.ac.jp

僕は2010年からデザインの発想論を担当していたが、今年はプログラムディレクターの安藤先生の依頼で、「デザイン態度論」という科目を持つことになった。

多様なチームメンバーと共にデザインに取り組む場合には、自分自身のクリエイティビティを越えて組織を創造的にしていくために、メンバーとの関係構築に関する視点は重要である。本講義で扱う「態度」とは、模範的なふるまいという狭義の意味ではなく、チームにおけるマインドセットの醸成や、デザイン参加者へのエンパワーメント(権限委譲)など、デザインを行う上で背後から意思決定を支えている価値観や考え方を包括した概念である。

「デザイン態度論」シラバスより

自分で上のような概要を書いておきながらなんだが、もちろんそんな理論は僕自身も持った経験はないw。しかし態度に関する理論はたしかに重要でありながらあまり言語化されることがないこともまた事実。欧州ではそういった議論や研究もすでにあるようで、英国では「Design Attitude」という本が昨年出版されている。

デザイン・アティテュード(design attitude)とはデザイナーが持つ,デザイン行為に伴う態度や行動規範である。そこでは,マネジャーの持つ意思決定態度(decision attitude)との対比として,構造が不明確な問題の解決に対して効果的な志向であるとされる(Boland & Collopy2010)

プロフェッショナルとしてのデザイナーの持つ
デザインの志向の実証的研究に向けた理論的基盤の検討

 

日本でも立命館の八重樫先生が理論研究を進めているようだ(さすが!)けれども、いろんな方向から議論を起こしていかなければ、ということで引き受けることにした。最近は他人事としてすませちゃいけない、我々の責任だ、と感じることも増えてきた。

 

しかしながら・・・・一日に朝からまとめて4コマ。大学で毎日授業がある僕にとっては、そんな準備時間がとれるわけもなく、ここのところ綱渡りの日々だった。

 

講義の内容は完全なる自己流だけれども、分野の「キワ(際)」に生息している者として、4つの視点に整理してそれぞれを解説していくという方法を取った。以下4つを説明していく。

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1)人間のメカニズムの視点

ヴィゴツキー系の状況論や社会的構成主義の学習観を援用しながら、「人は皮膚の外側を使って考える(有元・岡部)」とか「人はみな教えられると思考停止する(佐伯)」とかの固定観念をひっくりかえす話。学習系の論客が身近にたくさんいるお陰で、僕も詳しくなってしまったのだけど、いわゆるお勉強マインドに揺さぶりをかける「つかみ」としてコンパクトにまとめた。

 

"関わり合い"の中で行われる行為、として、紹介した柔道の三船十段の映像。

www.youtube.com

柔道の「柔よく剛を制す」という理念は、状況や制約を最大限に活用するという意味でデザインにも通じる(と僕は思っている)。この映像の4分過ぎの解説はとても深い。

三船十段は、柔道の根本を象徴するのは「球」であると説いてるのであります。球は倒れたためしがない。絶対に倒れない。
それはいくら転んでも中心を失うことがないからであります。球は動きそのものに無理が無く、変化も極めて早いのであります。また球は、無抵抗であります。それは相手の攻撃に対しては無限の力をふまえているのであります。
引かば押せ、押さば引け、とは古くから武道の極意として言われたことであります。球を原理として、"中心帰一"を信条とする十段は、これを「引かば回れ、押さば斜めに」と分かりやすく説いているのであります。そして十段は、「人間は修練によっては、変幻自在、あらゆる変化に応変できる身体の構造を持っており、進歩も無限、球の境地になり得る」と、今なお日々の修練を積んでいます。

 

あらゆる変化に応変できる「球」の構えがあれば、きっとどんなデザインの問題にも対応できる。

 

 

2)デザインにあたってどのように構えるかの視点

今では広く知られている「マインドセット」という概念は、キャロル・ドゥエックによって体系化された。彼女は、行動やその成果には本人の"心の持ち方"が何より大きな影響を与えていることに気づき、自分の能力は変わりうると捉える人々のスタンス「拡張的知能観(Growth-mindset)」・能力は変わらないと捉える人々のスタンス「固定的知能観(fixed-mindset)」の二つの枠組みを提唱したのである。

この時間では、その話につなげて、マインドセットは個人的なものと社会規範的なもの(≒日本人の文化特性)によって重層化されていることを意識して解説した。さらにマインドセットを揺さぶる実践として、インプロビゼーションのワークショップと解釈をみんなで体験的に行う。

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これまでインプロのファシリテーションは何度もやってきているので、最近はだんだん余裕が出てきて、ただ楽しくメニューをこなすだけでなく、受講生達が夢中で実践している経験を一歩踏みとどまって考えさせ、対話で意味づけしていくような進行が出来るようになってきた。詳細な内容は以下のエントリを参照。「4.インプロと発想」の節がオススメ.

kmhr.hatenablog.com

 

 

3)デザインしていくことの捉えかたの視点

どういった信念に立って進めるかの、いわゆるデザインアプローチの解説。

クラフト的なデザインの時代から、ユーザ中心デザイン、協働のデザイン(CoDesign)、当事者デザイン、と整理しつつ、社会が複雑化するにつれて、従来の生産の型だけでは対応できないデザインの問題も増えてきていること。デザイナ—の役割もどんどん変わっていること。共同体の中でデザインすることで、時間はかかるし面倒なことも増えるが、自分一人では実現できない持続的なデザインもできるかもしれない、といったようなことなど。人間中心デザインアプローチの他にも色々な考え方があることを、あえて人間中心デザインの履修生に問う。

 

 

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4)創造をとりまく環境の視点

デザインを産み出すメタデザインとしての「場」の話。関わり合いのダイナミズムを使ったデザインの可能性として、リビングラボを紹介。

初公開の立体インフォグラフィックス&ロールプレイでラボを企画していくゲーム。複雑なリビングラボの概念を、遊びながら理解していけるように、飛び出す絵本のような仕掛けと質問が埋め込まれたカードキットを開発した。とりあえず、これまでどこにもないスタイルとは言えると思う。

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(学生2人がこのキットを準備するために、僕に代わってたいへんよく働いてくれた、心から感謝)

 

まだまだ欠点多いし、初の試用だったのでどうなるかとても不安だったが、履修者のみなさんの進め方を見ていると、僕にもいろいろなことが見えてみた。特に安藤先生は自分の研究につながる何がひらめいたらしく、カードセットを睨みながらじっと考え込んでいた。彼によるとつくっている本人より観察者の方が冷静に分析できるらしい。「上平さん、たぶん俺の方がなんかわかったよ!・・・でもまだ言語化できない」そうな。

 

へろへろになりながら長丁場を終える。とりあえず珍しい経験の連続技でゆさぶりをかけ続けたことで、履修者のみなさんには今学んでいることがちょっとは相対化されたようで、いろいろと感じ取って頂けたようだ。とりあえず嬉しい。

 

ただでさえ過労気味な毎日なので、引き受けるんじゃなかった・・・と、ここ数日思っていたが、安藤先生がむちゃ振りしなれば、この講義が生まれることはなかったわけだし、それがさらに彼を刺激することもなかったわけだ。これも相互作用による創造なのだな、と気付かされた。

 

そして履修者の方々と酒飲みながら、なぜ安藤先生がこの科目を作りたかったか、なんだかわかった気がした。実務に役立つノウハウじゃなくて、それ以前にデザインにおいてどのように構えるか、そこで自分たちの立ち位置を相対化しつつどのようなアプローチをとるか、を問う機会はとても少ないのだよな。それこそが実は大事なのに。その辺を客観的に説明できる人も少ないのかもしれない。

次のどこかでの機会のために、もうすこし言語化しておきたい。

 

あと、自分の感想として。「態度論」なんて抽象的な議論でも、ビジュアルコミュニケーションデザインを拡張することに手応えを持てたことがちょっと嬉しかった。情報過多の現代において、いかに「閲覧するだけ」の状態を越えてビジュアルのデザインが能動的な活動に関与していくことができるか、は今の自分の大きなテーマなのである。講義のスライドで話の全体像の構造を示し、フロアマップ的に念入りに位置づけしながら進めることで、どこの話をしているのかに迷う人は減るし、立体インフォグラフィックスも目の前で自分で組み立てることでただ見るだけよりは大きな関心を持ってもらえたようだ。僕の最近の関心はどんどんふわふわした領域に移動しているけど、図やツールなどのきっちりと具体化されたデザインに落とし込むことについては、やっぱりそこが説得力に繋がっているはずだから、こだわっていきたいものである。

 

階段のへりを掴め

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授業終わりに学生達に頼んで、階段をおりるところをビデオ撮影した。

階段を下りるとき、爪先が階段のへりからはみ出していることとは普通は意識されない。我々は目で一段したの段差の見当をつけながら、階段のへりを掴みながら歩いているのだ。これは注意しながら歩いてみるとよくわかるが、靴の裏ごしに、靴を履いていても足の指がちゃんと機能していることを感じることができる。

 

人間は、環境の中に埋め込まれた価値を無意識に発見し、行為するという。階段のヘリは階段を下りるときにとても大事であって、そういうわけでここに付けられているゴムは滑り止めの役割だけでない。掴むための手がかり・・・じゃなかった、足がかりでもあるのである。

 

ムラ社会の合意形成プロセス

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先日の、報告会の時に南部さんから聞いた昔の寄り合いの話。昔の日本人は何日も朝も夜も合意をとるために延々話し合っていたという。狭い世間でお互いが生きていくためには、その決めていくプロセスにある手間暇が納得につながっていたのだろうし、大事だったのだろうね。

そしてそういう場の話し合いは、今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところでは喩え話、すなわち自分たちの歩いてきたこと、体験したことにことよせて話すのが他人にも理解してもらいやすかったし、話す方も話しやすかったに違いない。そして話のなかにも冷却の時間をおいて、反対の意見がでたら出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考え合い、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄り合いというものに権威のあったことがよくわかる。
対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合わせ覚えが入っていた。こうして村の伝承にささえられながら自治が成り立っていたのである。このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つ、ということは、確かに村里生活を秩序あらしめ結束を固くするために役だったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍を与えていた。

「忘れられた日本人」宮本常一著 岩波新書

 



見知らぬ人にお願いする、という行為

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先日、子供を連れて行った藤子F不二雄ミュージアムの屋上にて。

アニメでおなじみの土管の前でドラえもんと記念撮影するための列が伸びているのだが、みんな後ろの見知らぬ人にカメラを渡してシャッター押すのをお願いしている。誰かに頼まれて自分がまずやり、次に後ろに居合わせた人にお願いすることのパスが暗黙の了解になっているのが興味深かった。

 

こういった見知らぬ人と協力し合う風景を日本で見るのはとても珍しい。このことを学生達に話したら、ディズニーランドなんかでもこういった行為が慣例的になっているらしい。日本人は他人への信頼度が低い(他人に決して迷惑をかけないことが美徳)ということを知って以来、こういったパスの連鎖は苦手なのかと思っていたけど、特定の文脈になればできるのか。

 

 

 

 

メディアのエコロジーとデザイン思考 ―参加型デザインから望ましい情報社会を構想する

昨年度フィンランドで御世話になった岡田先生とのつながりで、情報通信学会への登壇の機会をいただきました。頑張ってきます。

 

www.jsicr.jp

日時:2016年11月4日(金)13:00~16:50
会場:関西大学梅田キャンパス(大阪市北区鶴野町1) 4階多目的室
主催:公益財団法人情報通信学会関西センター
参加費:無 料

開催主旨:

 ここ数年、デザイン領域の拡張とともに、ポスターなどグラフィックのデザイン、商品のデザインといった、かたちのあるモノのデザインから、コミュニケーション環境、ユーザーエクスペリエンス、インターフェイスなど、モノではない対象のデザインが注目されている。
 今年度の関西大会では、こうした「デザイン思考(design thinking)」について情報社会を考える上でどのように適用できるのか、来場者自身がワークショップ実践を通じて再考する機会を提供したい。ゲストには長年、情報化と日常生活の問題にデザイン思考のアプローチから取り組んでこられたカリハンス・コモネン氏をフィンランドから招き、講演頂いた上で、出席者には実際に参加型デザインの方法を取り入れたワークショップを体験してもらい、デザイン思考を具体的にどのように取り入れることができるのかを体験して頂くことをめざす。

 

開催内容:

 フィンランド、アールト大学芸術デザイン建築学部メディアラボ、ニューメディアと日常生活研究グループのディレクターを長年務めてこられた、カリハンス・コモネン氏をお招きし基調講演に登壇いただき、休憩を挟んで「関西の文化アイデンティティを生かしたメディアシステムのデザイン」と題したワークショップを実施する。
 大会では初の試みとして、本ワークショップで来聴者全員にグループワークに参加してもらうものとする。ワークショップの冒頭では、専修大学ネットワーク情報学部教授で、2015年度にデンマークコペンハーゲンIT大学にて客員研究員として滞在し、参加型デザインの研究と実践に携わってこられた上平崇仁氏に、デザイン思考や参加型デザインに関わる上でのヒントについてお話いただく。また、アールト大学メディアラボに交換留学生として学んだ経験を持つ九州大学芸術工学院の大学院生数名に、ファシリテーターとして加わってもらい、会場内のグループがメディアシステムを具現化していく作業を一緒に考える上での手助けをお願いする。
 グループワークののち、各グループからその成果について概要を報告してもらい、ゲストのコモネン氏や上平氏からコメントを頂いた上で、全体ディスカッションをおこなって,ワークショップのまとめとする。このようなプロセスでデザイン思考の応用の一端を実際に体験することで、今後こうした方法論を取り入れた研究や実践が広がりを見せ、関西地域のより望ましい情報化への一助となれば幸いである。

 

 

ACTANTでの共有会とオープニングパーティ

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9/29(木)夜は、ACTANTの事務所移転のオープニングパーティと国際会議の共有会に参加。木村さんがカナダのモントリオールにて開催されたリビングラボのカンファレンスOpen Living Lab Days 2016の参加報告、僕がPDC2016の参加報告をした。

openlivinglabdays.com

Open Living Lab Days 2016の報告はとても興味深かった。カナダではショッピングモールが全部リビングラボになっているところがあるそうで、モールの中で障害者の擬似的体験したりして問題発見したりしているそうだ。自分たちの組織だけでなく、こういう組織を越えて連携しながら実験していくことが弱いのが日本の課題か。

 

いずれのカンファレンスも貴重な世界的な動向でありながら日本人はほとんど参加していないので、この辺の知識を必要としている人もいるだろうな、と思うとちょっともったいない気もする。

 

ACTANTのオフィスが広くなったので、2月頃にでもNarratology(物語論)とデザインの関係を考えるイベントを企画したいな、と思った。実は単に僕が学びたいからなのだけど。

乞うご期待。南部さん、木村さん、是非やりましょう!

 

 

クリエイティブシティコンソーシアムでの公開ディスカッションに参加した

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9/27の午後、クリエイティブシティコンソーシアムという組織で進めているプロジェクトである、フューチャーワーク・ワーキンググループの公開ディスカッション「欧州におけるリビングラボの調査研究報告と日本におけるオープンイノベーションの可能性」に登壇してきた。

creative-city.jp

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昨年度、東急電鉄社とコクヨ社の委託を受けて、デンマークを中心にいくつかのリビングラボを取材し、それをどう日本社会にいかすか、の調査レポートを書いたのだが、その報告会である。ITUの安岡さんと二人で議論し、主に彼女が文章を書き、僕が図版やレイアウトなどを担当したのだけど、良い感じにお互いの長所が補完し合い、とても立派な報告書ができたのだが、事実上お蔵入りになっていたところ、やっと終わることができた。せっかく書いたので公開できるといいのだけど。

 

リビングラボに関しては、いろいろ見て、調べて、たくさん議論して考えた結果、自分の関心はリビングラボであるかどうかはどうでもよく、リビングラボという名前がつかなくても、そこに「問いを見つける」「どんどん試す」「いっしょにつくる」などの豊かな共同体をつくることができればそれで十分だな、と考えている。