Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

冗談を冗談で終わらせないで、実行する力

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Mária Filep (Debrecen) and Dr. László Magas (Sopron) open the border gate - which has already been "opened" half an hour before by several hundred East-German refugees without any protocol.

 

世界史に疎くてあまり知らなかったことだが、世界の歴史を変えた「汎ヨーロッパ・ピクニック計画」(1989年8月19日)の経緯がとても興味深い。

1989年、ソ連の共産圏から逃れいち早く新政権の樹立に成功したハンガリーでは、民主化運動が活発になっていた。そんなある日、オットー・ハプスブルクオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子)が大学の講義のためにハンガリーを訪問した。その日の歓迎会で、ハンガリー鉄のカーテンによる分断から解放されたことを特別に祝おうじゃないか、とある人が冗談を言ったところ、その冗談に乗るかたちで出席者から色んなアイデアが出てきた。 

その中から、オーストリアハンガリーの国境地帯でたき火をしてバーベキュー・パーティを行い、ハンガリー人とオーストリア人が、国境のフェンスを囲んで食べ物を交換し合うことで、ヨーロッパの東西を分断するフェンスが、地理や歴史(オーストリアハンガリーは20世紀初頭まで同じ国家だった)を無視している事実を世界に示そう、という案が出たのである。

この話で夕食会は盛り上ったが、その時はパーティの席での冗談であった。メサロシュが夕食会の10日後に、民主フォーラムの会議の席上でこの話をした時も、多くの出席者は冗談と受け止めたが、フィレプ・マリアという女性は、これを本格的に実行することをメサロシュに提案し、2人で準備を始めた。

汎ヨーロッパ・ピクニック - Wikipedia

 

最初は身内の小集会と考えられてきた「ピクニック」の企画は、あらゆる地域の人々が集まって将来の欧州統合について語り合う大集会「ヨーロッパ・ピクニック」として実施されることになりました。人々は、ショプロンの郊外にある、戦後40年開かれることのなかった国境の門に注目し、これを開放させることを考えたのです。

この門を開けるよう援助を求められた当時の政治改革相ポジュガイ・イムレは、それを断らず、「これは単なる会議を装いながら、白昼堂々東ドイツ市民を脱走させ、鉄のカーテンを無意味なものにする絶好のチャンスである」と考え、内務省に門を少しの間だけ開けるよう要請しました。主催者側は、これと同時に、東ドイツ人のキャンプやホテルに連絡を付け、「ピクニック」に行けば西に出られる」と伝えたのでした。 

ヨーロッパピクニック計画

 

かくして、ショプロンの街でピクニックは実行された。結果的に、この日だけで東ドイツから600人以上が脱出に成功したという(上の写真)。

http://www.eu-alps.com/x15-st/do-2015/623/5623f1132.jpg

これはピクニック計画のポスター。鉄条網を切断するシンボリックなバラの花が素晴らしい。

 

これを機にハンガリー国内で難民化していた東ドイツの市民が公然と脱出できるようになり、やがてベルリンの壁崩壊に繋がっていった・・・という歴史的実話。まるでよく出来た映画のようだ。

 

フィレプ・マリアは、もともと建築家だったらしい。酒の場の冗談を冗談で終わらせないで、ソ連に消されるリスクを負いながらも実行に向けて動いていくというのは、なかなかできることではない。

 

1989年の夏というと、僕が高校2年の時か。

僕が田舎で何事もなく過ごしていたあの時期に、急速に時代がうごいていたんだなぁ・・・と訳も無く感慨深くなる。

 

3年前のベルリンの壁訪問記。

kmhr.hatenablog.com