先月の11月18日のこと。研究室の学生が進めている立体インフォグラフィックスの実験を授業の中でやってみた。この取り組みには、単にインフォグラフィックスを立体化する、というのではなくて、見るだけの状態を越えて、作っていく過程を組み込むことで、ある特定の情報をより自分事として捉えることができるのではないか、という問いがある。
プリンタとカッティングマシンを併用して60部の設計図を複製する。それを履修生達は自分でチマチマと組み立てていく。
指示に沿って折っていくと、上のような立体が出来上がる。リズミカルに並んだ折り目の中に、1年生が入学してから4年生となって卒業していく間の月日が、階段のメタファで表現されている。さて、この立体を作ってみて大変面白いのが、これ自体は極めて客観的な事実で、同じものなのに、学生達は自分が今どこにいるかを勝手に投影して、それによって感じ方が大きく変わることだ。
4年生は残された時間を突きつけられて強烈な衝撃を受ける。3年生は自分の軌跡を感じて焦りを感じると言う。2年生は遠くまで来た感じを受けてなんだかしみじみすると言う。そして研究室に遊びに来た1年生にも見せてみたところ、「別に何とも思わない」と言う。そして、みんな登ってきた階段に自分の過ごしてきた日々の出来事を重ね合わせている。(ちなみに僕自身も学生ではないので、この図の中にいないから全く刺さらない)
この違いは、以前からよく講演などの機会でも説明していることで、僕らはどう考えても入力した情報をそのまま受け取っているわけではなく、過去の経験を反映したものを見ているということである。それはまるで、プロジェクターから投影された光が、スクリーンという支持体によってうけとめられることで像を結ぶことに喩えれば、そのスクリーンは大きさも反射率も向きもそれぞれ個別につくられているようなものだ。
授業のスライドより。
実験の目的は、ただの文字情報の場合と、自分で手間暇かけて組み立てていく情報の場合でどのくらい感じ方が違うのか、また経験している立場が違うことでどのくらい感じ方が違うのか、だったのだが、取ったアンケートからもはっきりと違いが浮かび上がって面白かった。
そして、ある学生は、不器用ゆえにキレイに折れず、あちこち歪んだ立体になるのが、まるですっきりとは進んでいない自分の困難な道のりを表しているようだ、と語った。別の学生は、踊り場にあたる長期休暇は立ち止まって考えるために必要なのであって、そこでどれだけ力を蓄えるかなのだなと考えた、と語った。
この立体はシンプルに事実だけを表しているのだけど、だからこそスクリーンのようにそれぞれの経験を投影するのだろうし、想像させる「余地」ってのは大事なのだな、と改めて思う。
そしてもうひとつ。現在を含めて今後の情報過多時代には、主語の大きな、だれにでもわかりやすい情報というのは存在しなくなり、特定の文脈を持った特定の誰か(例えば、上の立体で言えば、自分で組み立てた学生という当事者)に刺さるということしかありえないのではないか。上の立体を見て顔を見合わせながら叫び声を上げる4年生達の反応を見ていると、そんなことを考えさせられる。コミュニケーションをデザインする、というのは当たり前になっている前提を含めて設計していく必要がありそうだ。