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みえないものを、みる視点。

デザインすることはGiveすること:Xデザイン学校アドバンスコース講演より

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11/9(木),DMM make AKIBAを拠点に行われているXデザイン学校アドバンスコースで講演してきた.

聴講者は社会人向けのアドバンスコースの受講生ということで,主宰の浅野先生,山崎先生からはまだ一般的ではない領域を「探求する」ための議論点や考える手がかりを求められているため,その周辺を言語化していくことは,僕自身にとっても挑戦である.

それにCoDesignの概要については,7月に行われたGKでの講演の際のスライドを公開してある.だから今回は,もう一歩踏み込んでデザインの分野ではあまり議論されていないことと接続してみようと頑張ってみた.デザインを開いていくために,人々の力はどのように発生するのか,そして育てられうるのかが,今回の講演の主な内容である.

スライドを公開しておきますのでご笑覧ください.例によって許諾を得てない画像等は一部カットしてあります.

 

 
あらためて見てみると,なんだかずいぶんと青臭い話になってしまった.浅野先生によると「響く人と響かない人に,はっきり分かれる話だね・・・」とのこと.もちろん人間そう簡単にいい方向ばかりに動機づけられるようにはできておらず,現実的には困難なことはよくわかっている.でも講演の中で取り上げた実話にあるように,相互に信頼しあえる社会になって欲しいな,と願いたい気持ちもあるわけで.
 
もう一つ「贈与」のことをずっと考えていて思うのが,こういったストーリーを狙ってデザインすると,受け取り方によっては非常に浅ましい印象にもなってしまうということ.しかしながら協働のデザインの裏で働いている心の集団志向性や,なんらかの利他性を伴うようなデザインは,そういった微妙な感情が生まれることを理解した上で,倫理面にも配慮しつつも,いずれそこに踏み込んで考えていかざるを得ないだろうとも思う.なぜなら,人類はずっと協働しながら生き延びてきたのであって,裏切られる悔しさよりも,他人と協力し合うことで得られる喜びやその成果の方がずっと大きいことを心のどこかで知っているはずだから.
 
 
 
 
 

民藝運動が持っていた「将来への志向性」

https://www.meiji.ac.jp/press/list/la_sciende/6t5h7p00000ib39h-img/poche3_shoei.jpg

 

先日,ACTANTの南部さんと話している際,昭和初期の民藝運動と近年のデザインの民主化の潮流との関係の話になった.その時彼から薦められた鞍田先生(明治大)の本が面白かったので,ちょっとメモ.

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民俗学と民藝の関係というのは,たいへん興味深い点であり,もうすこしだけ当時の議論を紹介しておきましょう.いま引用した論考で主張されている内容は,昭和16年(1941)に東京帝国大学人類学教室で行われた講演要旨ですが,その前年に行われた柳田国男との対談をふまえたものです.いうまでもなく柳田は我が国の民俗学を確立した人,対談は柳の支援者である式場隆三郎の司会で行われました.

式場:[前略]つまり民俗学という学問は,過去を知るための学問なのですか.それとも現在あるいは将来につながる学問ですか.

柳田:それはもちろん,民俗学とは過去の歴史を正確にする学問です.だから将来のことはわたくしどもの学問の範疇ではないんです.[中略]

式場:そうすると,たとえば民俗学というようなものには,直接的な文化的行動性というようなものはないんですね.

柳田:ええ,そういうものはないんです.今の歴史には将来のことを論じたり,現代人の心得方を論じたりしているものがあるけれど,あれはわれわれから見ると,歴史という学の方法に入るものではない.[中略]われわれは事実を正確に報告するだけで充分です.

柳:つまり民俗学は経験学として存在するのですね.
式場:すると民俗学というものはわれわれの民藝とは大部ちがったものですね.柳先生いかがですか.

柳:僕の方は経験学というよりも規範学に属していると思います.かく在るあるいはかく在ったということを論ずるのではなくて,かくあらねばならぬという世界に触れていく使命があると思うのです.そういう点は民藝と民俗学は違います.

柳田:それははっきり違う.われわれのほうにそうしたものはない.

柳:だから民藝の方でゆけば,価値論が重きをなして,美学などに関係するようになってくる.

柳田:結局そういうことになるでしょうね.

(民藝と民俗学の問題 柳田國男柳宗悦:対談)
月刊民藝第13号,1940 26-27頁

規範や価値の追求の有無という点で民俗学と民藝は決定的に相違します.先に示した民藝の2つの基本要素はまさにそうした価値や規範に関わるものといってよいでしょうが,ここであたらめて確認しておきたいのは,とりわけそのうちの現代性こそが民藝の価値・規範追求の駆動力となっているということです.現在を論じ,そうして将来を志向することこそが,民藝の本旨です.

 

「民藝のインティマシー—「いとおしさ」をデザインする 
鞍田崇 明治大学出版会2015  p51-52

 

ふむ,不勉強でよく分かってなかったが,民藝運動は人々の普段づかいの民具の中にある「用の美」を見出しただけでなくて,その奥には「現在から将来への志向性」があったのか.そこは確かにアーツ&クラフツ運動にあったように,「デザイン」として現代に引き継がれている思想と一致している.

 

 

トライ&エラーから見出す体験

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10/22(日)は,ここ半年ほど進めてきたサイエンスミュージアムでの研究室ワークショップ「ヒコーキが飛べる理由を試して考えてみよう」を実施.研究室の4年生,F君の卒業研究でもある.CoDesignは相互の信頼関係づくりから,ということで彼は毎週ミュージアムが開催している実験工房のスタッフとして出入りを重ね,インストラクター講座を受けて資格までとってしまった.その成果でさすがに余裕のあるファシリテータぶりだ.

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当日は台風が近付くかなりの悪天候.それでも事前予約してくださった親子のみなさんはちゃんと集まってくださった.感謝.家族みんなでノリノリで工作を楽しんでいるw 

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事前に用意したバルサ材(レーザカッターで切り出したもの)に,紙を加工して羽を接着する.みんな楽しそうに工作していたが,この子の創造力には驚かされた.この子はその場にあるパーツをどんどん流用しつつ,自分で工夫を重ねて作っている.凄いね.

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 負けじと,お母さんたちも不思議なヒコーキをつくる.

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鳳凰をイメージしたヒコーキだそう.こういうのも,尻尾をなびかせながら優雅に飛んでしまうから不思議だ.

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あまり最初は知識を与えず,自分でトライ&エラーを重ねながらなぜ飛ばないのか,どうすれば飛ぶのかを発見していくというのが,このワークショップの狙いである.ワークシートではどのように飛んだかを記録して,プロトタイピングの軌跡が見えるように繋げていく.

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半分ほど過ぎたところで,共有と振り返り.上手に飛ばせているお父さんに,施した工夫を解説してもらう.この方はエンジニアらしく実験からポイントを見抜く眼力が半端無い.

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 終盤になると,いつのまにかお父さんお母さんの方が童心に戻って夢中になっている.やたらとよく飛ぶ機体を作れて,息子さんに自慢しているお父さんw

f:id:peru:20171023220456j:plainトライ&エラーを重ねる中で,だんだんと「ある程度の重さ」と「浮き上がる」力のバランスが取れた時にキレイに飛ぶことが見えてきた.機首には角度を下げるための重りがあった方がちゃんと飛ぶのだ.

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最後は全員によるレース(冒頭の写真)で盛りあがったあとで,物理学者の小田切先生による「ヒコーキはなぜ飛ぶのか」の解説.小田切先生とは同じ学部の同僚で,この企画をいっしょに立ち上げたのだが,全く専門も違う彼とこんな形でコラボ出来るとは思わなかった.このワークショップは,デザインだけでも物理だけでも成り立たない.プリミティブなヒコーキの模型は,専門領域をつなぐ「バウンダリーなオブジェクト」でもある.

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最後は小田切先生が引用した朝永振一郎の名言.

なかなか良い感じでまとまった.

 

とりあえず参加者へのアンケートもまずまずで,彼の研究題目「コミュニティの力を援用した親子向け科学学習キットの作成」にも大きな成果となったように思う.実はこのワークショップの背後には,場所としてのサイエンスミュージアム,そこに乗り入れている複数の科学教育のボランティア団体,専修大学など,いくつかのコミュニティが存在して,それらをF君が繋ぐことで実現されている. F君もまた境界線上の存在だ.最近はこんな「それまで接点の無かったコミュニティが繋がっていく」実践的な活動が面白い.

 

日本デザイン学会当事者デザインセッション資料

10月13日に函館で開催された,2017年度日本デザイン学会秋季大会 企画テーマ討論会「共創・当事者デザイン」で指定討論者として参加してきました.上平のスライドと配付資料を公開しておきます.

 

 

配付資料A4両面一枚(上のスライド4ページ目)はこちらからダウンロードできます.

 

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個別の持ち時間は10分間,「事例ベースで」というオーガナイザーの依頼だったので,ふたつの事例(マウンテンバイクの草創期,阿久根市のイワシビル)について,あまり触れられない視点(When, Where)から解説してみました.

 

当初話題にするつもりだった「当事者デザイン」の枠組みに関しては配付資料としてまとめてあります.以前作った表を整理してちょっとバージョンアップしました.当時者デザインは自分含めてまだみんなよくわかってない言葉ですが,近年世界的に起こっている潮流やデザインの主体の変化と併せて理解できる資料を共有することで,読む人の視点が少しでも広がればと思って公開します.最近の「当事者研究」や「中動態の世界」などと重ねて読み解きたいところでしたが,また別の機会にでも挑戦してみます.

 

 

 

 

 

デンマーク滞在中に読みたかった本

最近,デンマークに留学している学生達のブログを見つけることがある.日々新鮮な気づきを書いているのを読むと,自分もいろいろ思い出して懐かしい気持ちになってしまう.そんなわけで,彼らに向けて,僕がデンマークにいる時に読んでおけば良かったなぁ,と思った本を一冊紹介したい.

 

それは,内村鑑三「デンマルク国の話 信仰と樹木をもって国を救いし話」.

今から100年以上前,1911年に東京で行われた講演録.なんでバイキングの国があんな福祉国家に変貌したのかの経緯をわかりやすく解説している.(Loneからもらったデンマークの歴史の本でも,同じように敗戦を「Great Defeat」と位置づけてそこから開始されていたから,解説されているリアル版「木を植えた男」のダルガスの話しは,本当の話なんだろう)

 

特にユトランド半島に滞在中の某君,某さんは,あのあたりに広大に広がる木々に思いを馳せることができると思う.無料ですぐ読めるのでオススメ.

 

https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51eSoHqxdBL._SY346_.jpg

 

www.amazon.co.jp

青空文庫(Web)ではこちら

内村鑑三 デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話

しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。デンマーク人の精神はダルガス植林成功の結果としてここに一変したのであります。失望せる彼らはここに希望を恢復しました、彼らは国をけずられてさらに新たに良き国を得たのであります。しかも他人の国を奪ったのではありません。己れの国を改造したのであります。

 

8歳児といっしょにデザインする

後期演習が始まって3週目.今年も2年生のCD演習で小学生とのCoDesignプロジェクトに取り組んでいる.今年は校長先生の助言でパートナーがこれまでの6年生から2年生に変更となって,なんと8歳児とコラボ!現在,学生達はいろいろリサーチしながらインプット活動をしているところで,軽く写真を紹介してみる.

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10月某日.フィールドワークで2年生の教室にお邪魔する.こどもたちの熱烈な歓迎をうけて,そのあふれ出るエネルギーに呆然とする大学生.彼らもかつては同じ年代だったはずなんだけどね.

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こども達はまったく人見知りしないで大学生と仲良くなろうとしている.僕ら教員(=親世代)にはそんなに近寄ってこないのでw,あまり接することがなく格好いい大学生のお兄さんお姉さん世代に憧れがあるんだろう.

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連携する科目は生活科.生活科をなめてはいけない.この「おもちゃづくり」の単元は,そうは言ってないけど事実上デザインを実践しているのだ.おもちゃの楽しさから科学の学びに繋げる「カガクおもちゃ」の開発が今回のテーマである.

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中休み.大学生は子供達の求めに応じて全力でいっしょに遊んでいる.背の高いHくんは女の子にモテモテだ.こんなにモテる経験をすれば,この子達のために頑張ろうという気持ちが芽生えてくるもの.

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このクラスは大学生が来てくれたということで,急遽児童各自が演し物(コントや手品など)を発表するお楽しみ会が開催された.どうやらこの担任のS先生はとても優れた先生で,憧れの世代のお兄さんお姉さんが教室に来てくれたこの瞬間が,こどもたちにとって「だれかに表現を伝えたい」と本気になれる状況であることをすかさず見抜き,即興的にストーリーテリング的な学びを作り出しているようだ.素晴らしい.

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そして同じ日の午後は学内で専門家を招いて環境教育のワークショップ.こちらは鏡で上下の視点を変えるミラーハイク.木漏れ日の下が良いらしい.

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自分で意識的に環境を区切り,視点を観察するフォトフレームというワーク.

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10月某日.宙と緑の科学館の協力で.生田緑地の地層と植物を観察するフィールドワーク.なんてことない自然の風景だったものが,専門家のトークが入るだけで意味が変わり,とてもロマン溢れるものに転化するのは不思議.まさに「知識は装着すると見え方が変わる最強のAR(by稲見先生)」だ.

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電子望遠鏡で太陽観測.ちなみにこの宙と緑の科学館(の前身である青少年科学館)において大平貴之氏は小学生の頃、当時の解説員に解説席まで招きいれてもらい機械の操作を体験させてもらったことが,プラネタリウムへ情熱を燃やすきっかけになったという.そんな縁でここには世界最高クラスのプラネタリウムMEGASTAR Ⅲ FUSIONが設置されている.

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FIELD MUSEUM展の会場となる科学館内部.

さていい成果がでますように.

 

今和次郎を考現学に向かわせたこと

先日開催されたデザイン学会の「デザイン研究の記述」研究会で,デザインにおける態度の議論になった際,加藤先生(慶応SFC)が「今和次郎は観察して記録を残す際に,同時に態度のことも詳細に記述しているんだよ」ということを教えてくださった.今和次郎が残したスケッチは素晴らしいが,彼がどんなモチベーションで街や人々の観察に取り組んでいたのかはそういえば知らない.彼の著作をちゃんと読んでないことに気付いて文庫本を読んでみた.

すると,確かに興味深いことが書かれている.

それは大正12年(1923年)の震災の時からであった.しばらく私たちは,かの死の都から逃げ出してしまった芸術家達と同じようにぼんやりしていた.しかし,私たちはその時の東京の土の上にじっと立ってみた.そこに見つめなければならない事柄の多いのを感じた.


<中略>


私が目に見えるいろいろなものを記録することを喜んだのは,このころからである.そこで人々の行動,あらゆる行動を分析的に見ること,そしてそれらの記録のしかたについてくふうすること,そんなことが,あの何もない荒れ地の私を促したのである.


<中略>


現代文化人の生活ぶり,その集団の表面にあらわれる世相風俗,現在のそれを分析考査するのには,その主体と客体との間に,すなわち研究者と非研究者の間に,あたかも未開人に対するそれのように,患者の医者に対するそれのように,あるいは犯罪者に対する裁判官のそれのように,われわれ(調査者)が一般人のもつ慣習的な生活を離れて,常に客観的な立場で生活しているという自覚がなかったならば,あまりに寂しいことのような気がするのだ(つまりかかるたぐいのはっきりした意識がないと,いわゆる役人式の調査になる).それで我々は各自,習俗に対する限りのユートピア的なある観念を各自の精神のうちにもち,そして自分としての生活を築きながら,一方で世間の生活を観察する位置にたちうるのだ,と告白をしたくなるのである.その境地があればこそ,われわれと現代人とは水と油の関係に立ってわれわれは現代人のそれを客観することが可能となる.


<中略>


その我々の研究態度をわかりよく言えば,眼前の対象物を千年前の事物と同様にキューリアスな存在としてみているかのようなのである.実にかかる境地こそ私たちの仕事をして特殊なものたらしめる中心的な基盤であると言っていいだろう.

考現学入門」 ちくま文庫 P364

 ふむ,彼の場合は,よく言われるような「共感」とかじゃないのだな.あくまで対象と距離を保つことで未知なるものに接するような研究態度を生んでいるということのようだ.そのようなマインドセットこそが,当たり前のことを当たり前にしない視点を可能にしているのだと.

 

それにしても今和次郎考現学に向かわせたのは,震災のショックだったとは知らなかった.今眼の前にあるものがどれだけ儚いか,そして破壊された街を急速に再生させていく人々の活動の姿がどれだけ蒸発してしまいやすいか,に彼は気付かされたのだろう.

 

このエピソードを読んで,僕はウルム造形大学のことを思い出した.学内に残されているアーカイブの入り口には,ウルム造形大が開学する前(1950年頃)のウルムの街の様子がこれでもか,と大きく描かれている.

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連合軍によるウルム爆撃によって,市街地の8割以上は破壊されつくされたという.その廃墟からインゲ・ショルらは未来の学校づくりを始めたと書かれていた.今となっては見えにくいことだが,伝説のデザインスクールの出発点は,破壊され尽くした終戦後の瓦礫であり,そこから這い上がる活動だったのだ.

 

街の破壊は人々に大きなショックを与える.でも引き起こされる環境の変化はどこかで誰かのあたらしい視点を生む切っ掛けとなる.絶望の中でも一部の人々は立ち上がり,新しい再生を始めるのだということに気付かされる.

『Designing for Service』の翻訳出版プロジェクトがスタート

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 イギリスで今年の2月に出版された『Designing for Service』の翻訳出版をめざすクラウドファンディングのプロジェクトが動いているようだ.この本はServDesというサービスデザインを研究している欧州の研究コミュニティが中心になってまとめたもので,いわゆる現場向けの方法論ではなくて新しいデザイン領域としてのサービスやそのあり方を言語化することに焦点を当てている.僕はスウェーデンで会ったMalmo大のanNaが「寄稿したよ」と出版直後にFacebookで紹介していて知って,すぐ,Facebookページで日本人向けに紹介した.

 

アカデミア発のものなので,内容があまりキャッチーじゃないと思われるかもしれないが,サービスデザインの今後に示唆を与えるとても良い本だと思う.こういったちゃんとしたデザイン研究の本を日本語にする取り組みはすばらしいので応援したい.

 

北欧型CoDesignという意味では,anNaとmetteによるFabrikkenを実験場にしたInfrastructuringの概念や実践は必見.またデザイン理論という意味では,3章の「Designing vs Designer:どのように組織的なデザインの物語をデザイナー(という専門的職能)からデザインすること自体に焦点を移すか」の章もとても興味深い.

 

なぜかあまり関心を持たれていないみたいなので,微力ながらここでも宣伝に協力してみる.

 

下記プロジェクトページを参照.

greenfunding.jp

 

20年前のデザイン入門書に驚嘆する

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最近,嶋田厚さんの評論が面白くて古本を買い集めて読んでいる.この「現代デザインを学ぶ人のために」は,嶋田氏による編集で1996年に世界思想社から出版されたデザインの入門書.僕はこの頃大学院生で,この本のタイトルは知ってはいたが,表紙からして古めかしすぎてセンス良さそうに見えないし(失礼),まったくもって読みたいとは思えなかった.でも今の時代に改めて読んでみると,みんな好き放題に持論を語っていて,その主観的な言いきり方がめっぽう面白い.例えば寄稿者は,安藤忠雄勝井三雄黒木靖夫,須永剛司,宮崎清,向井周太朗,山口勝弘・・・,など第一線の方々ばかり.

 

 さすがというか,どの論者も主張していることは先見性(いや普遍性か)が高く,暗黙になりがちなところを鋭く突いていて,デザインがその後大きく拡張していった2017年の今読んでみても古さを感じさせない.それどころか,彼らは若者向けだからこそ,産業的な要請に安易に迎合せず,本来の意味で「デザインとは何か」を問いかけ,自分の経験を通して見出した視点を提示することを重視していたんだ,ということに思い至って思わず姿勢を正したくなった.こんな硬派な入門書は今の時代には存在しない.

 

以下,いくつかメモ書きを抜粋.(強調は上平によるもの)

 

若い人達に対して言いたいのは,それぞれの人間がそれぞれ違うわけですから,その異なる人間が各自自分はどうあるべきか,ということを考えて生きるべきなんではないでしょうか.それを考えることをこれまでの学校教育は小学校の時からつぶしてきたわけです.

30年間,建築をつくりつづけてきてきたわけですが,その間ずっと考えてきたのは建築を通して社会のあり方に批評の精神を持ち続けたいと言うことでした,建築はこうありたいということ,社会はこうあって欲しいということを,建築を通して社会に問い掛けたいと思ってきました.

建築をつくることを通して,人間が生きることを考え続ける中で,問題を提起した建築ができるのではないか.それはきれいな建築をつくるということとはまったく別のことで,新しい「対話」を求めるということは,ぶつかりあうということでもあり,スムーズに流れていくのとは異なり,ぎくしゃくする.まっすぐの道ではないわけです.回り道をしながらその中で考え,考える中で新しい発見がある.ですから若い人に言いたいのは,できるだけ回り道をして自分で考えよ,ということです.結局まっすぐいくところには何もないということです.
ーー「住吉の長屋から」安藤忠雄

 

 

表現してしまうことが,アイデアや思考の減少に結びつくのではなく,それが思考の増大に繋がっているのである.思考を常に頭の外に出すこと,つまりメンバーと思考を共有することによって、デザインプロセスは創造的になり,飛躍的に楽しくなる.参加者一人一人が,自分の考えたことを独り占めしないのは,脳の細胞一つ一つが情報の所有という意図を持たないことと同じことである.全体として働くモノであるという点では,教室も脳もまったく同じだと考えることが.創造する集団には大事なのである.ひとりの人が自分のアイデアや発想を,所有し独占するところに,耐久力のある本当のオリジナルは生まれないことを,デザインの実践家である教師はよく知っている.オリジナルは,生まれたばかりのアイデアや発想を鍛え.それを組み上げて精緻化するーそんな努力のずっと後に実を結ぶものであるからである.

 

そう考えると,「学び」を知ることと「デザイン」を行うことはどうやらメビウスの輪のようにもともと繋がっていたものなのかもしれない,というイメージが浮かんでくる.その輪の上に我々はたまたま乗ってしまったのである.輪の上では境目のない,「学び」と「デザイン」を走り抜けることが出来る.走っているメンバーには,学びとデザイン,つまり「知ること」と「行うこと」がもともとひとまとまりの行為であったことが身をもって感じられたに違いない.

そのメビウスの輪が,これからの時代のデザインという活動が持つであろう役割とその姿を示唆しているように思われてならない.それはデザインの活動とそこでの思考方法があたりまえに持っている「行うことを通して知る」というプロセスを,デザイン以外の様々な分野にトランスファーしていくことである.「かたち」をつくるデザインの仕事は,良い「かたち」を社会に提供するだけではない.今後,かたちをつくるプロセスそのものを広く社会活動に提供するように拡張していくことが,デザインの役割となっているのではないだろうか.作り出される「ものごとのかたち」のみではなく,それを生産し,使用し,廃棄していくさまざまな「社会活動のかたち」づくりにも貢献することのできるデザイナーが今育ちはじめている.
ーー「デザインの教室」須永剛司

 

 

 

ここまで言えばもうおわかりでしょう.あらゆるデザイナーはあなた方にとって敵なのです.自分自身の価値観をぐらつかせてしまう敵かもしれないのです.しかしその敵は,あなたが代理人として認めて使おうしてきたから生まれてきたのではないでしょうか.そして同時にあなた方も誰かの代理人かもしれないのです.いやあなた方も代理人の役割をして生きているはずです.

あなたは,代理人たちの作り出したデザインによって自分自身のアイデンティティがおびやかされていると思っている.しかしその自分も他人のアイデンティティを侵している存在であることに気付かざるをえないのです.

 人間がデザインしながら生きていると言うことは,デザインが行われている環境の問題に深く関わっていると思うのです.近代というのは,技術が,組織化されたシステムによってデザイン化されていく前提に立っていたのです.そういう環境の具体的な現われが,企業の中から発生してゆく密室的なデザイン環境の問題だったわけです.工業デザインから建築に至るもののデザインというのは多かれ少なかれ,そういうデザイン環境の中から生み出されて来ていたのです.
こういうシステムから生み出されるデザインは,つねに生産者と消費者の関係を前提としてもっていたのです.
ーー「人間はデザインしながら生きている」山口勝弘

 

 

 では,「人間生活のあるべき姿」を構想するのに,私たちはどうしたらいいのでしょう.
「あるべきこと」はつねに「あること」と対極を成しています.「あるべきこと」は,「あること」をしっかりと観察し,それにさまざまな観点からの考察を加えることのなかから,はじめて構想されていきます.「あるべきこと」はけっして空から降ってきてくれるものではありません.「あるべきこと」は私たち自身が「あること」をしっかりと直視し,「あること」を総合的,批評的に検討することによって,私たち自身がいわば発見していくべきものなのです.また「あること」に満足している状態からは,現実の人間生活に内包されているさまざまな問題を発見することはできないし,ましてや「あるべきこと」も見えてはきません.こうして「あるべきこと」を意味する「当為」の世界は,同じ哲学の世界において「存在」と呼ばれる「あること」への洞察・内省を通して,ようやく想起されてくるのです.
ーー「人心の華」宮崎清

 

 

4大学合同夏合宿@函館

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9月9日〜12日に,北海道函館にて研究室の夏合宿に行ってきた.

軽く写真を紹介.

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9月11日(日)はこだて未来大学にて,早朝から4大学合同卒業研究発表会.集まったのは,はこだて未来大原田研究室,北海道情報大安田ゼミ,千葉工大安藤研究室.専修大上平研究室から,合計で36人.午前中は全員で自分の研究の口頭発表と教員のコメント.

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お昼は北海道の初秋の気持ちいい風を受けながら,未来大の芝生の上で.

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午後は大学ごとにポスターセッション.それぞれの研究内容を濃く議論する.他大学の学生や先生相手に議論するのはとても勉強になるし,自分たちの大学の立ち位置や強みを再認識することになるので貴重な機会だ.

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長丁場の一日が終わって,解放感でいっぱいのうちの学生達.

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翌12日(月)は.合同アクティビティ.4大学の学生を混ぜたチームを作り,一日かけて函館の街で食材を見つけ,自分たちの料理をつくってパーティをする.この日のミッションは,予算はチームメンバー×1000円という条件での「カレー作り」!.もちろんデザインを学んでいる学生たちなので,字義通りに普通のカレーをつくれって意味ではないな,ことは理解している.

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どのチームもちゃんと自分たちで「カレーとは何か」「この場でつくる意味は何か」をよく考えた結果,オリジナルな料理に取り組んだようで,とても盛りあがっている.

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料理をつくる一方で,数名は一日をどのように動いたか,どのように食材を手に入れたか,そして何を試みたのかのプロセスを記述する.

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このチームは(北海道先住民の)アイヌ民族に着目し,「アイヌの人々がカレーを食べるなら」というコンセプトでトド肉(エタシペ)入りのオリジナルなカレーをつくった.ちゃんと北方民族資料館でアイヌ文化を取材して,ランチョンマットの文様から盛りつけまで隅々まで仕掛けをつくっている.題材の制約を受け入れつつも自分たちで拡張していく姿勢が素晴らしい.

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 みんなで乾杯してパーティ.ここは他チームの余った食材をつかって即興的にたくさんのメニューをつくった.この合同アクティビティの中には不確実な中でのいろんな意思決定やチームワークが埋め込まれていたが,参加した学生達にとってもいい経験になったよう.

 

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そして帰る前には地元の美味しいモノを・・.函館といえば,もちろんイカ!このハリは東京では味わうことが出来ない.昨年は記録的な不漁だったそうで心配していたが,今年はなんとか捕れているようで,普通の値段で食べることができた.

学生だけでなく僕自身も先生達との充実した議論の時間を持てて,美味しいモノが食べれることが出来てなかなか有意義な4日間だった.