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Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

子供向けプログラミング教育に思う

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次期学習指導要領(2020年開始)では、小学校からプログラミング教育が必須化するそうで、僕の所属する情報学部でもいろんな方向から議論が活発に交わされている。早いなと思われるかも知れないが、先進国はどこもすでに積極的に進めていて日本はかなり対応が遅れている状態と言っていい。僕自身もこの問題については関心があるので、子供と一緒に勉強会を始めた。

目的は3つあって、1)子供の学習、2)それの参与観察、3)僕自身の学習である。今半年ほど経過して、Viscuit→Scratch lite → Scratch と進んできたところ。Scratch lite がもの足りなくなってきたようなので(インタラクティブなものをつくるには機能に限りがある)、年明けぐらいに小学生向けのScratchに変えた。Raspberry Piとも繋げてみようかとおもったが、まだちょっと無理があるといった感じの習熟度合いだ。

 

というわけで、進めてきた様子と感想を。

基本的なルールはそれほど難しくないので、となりの画面でお手本を見せながら、おなじように組み合わせてつくっていくことは、だいたい出来る。XとかYとかマイナスとか演算とか難しい概念はよくわかってないので代わりに入力してあげたりもする必要はあっても、隣に使いこなしている人がいれば、見よう見まねで自分で変えて遊んだりしながら、それなりにできてしまう。

しかしながら、お手本通りのことができても「そこから自分でどんなことをするか」を構想していくことの方がずっと難しいようである。操作を覚えるより目的をつくるほうが難しいというのは、大学生の場合(うちの学部の1年生向けの演習)でも同じ傾向がある。工作のときには、自分で「こういうものをつくりたい」という発想はわりと出来ているので、経験が浅いうちはコンピュータにやらせることのイメージが繋がりにくいのかも知れない。

 

そういうわけで、半年経ってみて、こどもたちにプログラミングを教えるという試みは、このままでは結構悲惨なことになってしまうんじゃないかな、と心配がわき上がってきてしょうがない。

 

うちは情報学部だし、それなりに覚悟して入って来ている学生が多くて学部でもかなり教員リソース割いてプログラミング教育に力いれているけど、それでも半分ぐらいが挫折してしまう。全ての小学校で必須にしていくというのは、どういう到達目標を設定するのだろう。もしかして、参考の問題をもとにいくつか「書いてみる」ことだけをゴールにするのだろうか。

 

ゲーム開発や電子工作、ものづくりなど、心からトライ&エラーを楽しむこととセットであつかうならば、大きな可能性があると思う。ただ、それは失敗や挑戦を奨励するということを必要とするし、学習者はそれぞれの個別の関心の方向に向かっていく。高度に発達した学びは、遊びと見分けが付かない。それはワークショップなら出来ると思うが、一斉学習という環境で実施できるのだろうか。

 

そして、教材はおそらく伝統的なコンピュータサイエンス系の先生方がつくるのだろう。そうだとすると、そこでは論理的に考えることを重視する気がする。これに対してはviscuit開発者の原田さんによる反論がたいへん興味深かった。

devroom.viscuit.com

 なにが嫌かというと,動かす前にじっと考えて正解を探す,という行為はまったくプログラミングの本質ではないにも関わらず,そのパズルを解く教育をすることがプログラミング教育だと思われてしまっているということです.そんなしょぼいレベルはコンピュータに任せて,人間はもっと上のレベル,コンピュータに何をやらせるか,を考えられるようにするべきなのです.

一部の人は反発するだろうけれども、重要な指摘だと思う。挫折しそうなこどもたちも、動かしながら理解できるものであれば、成果は全く違うのではないか。

 

最後に、もっとも大きな問題は、今の小学校教員はいろんな雑務で多忙すぎて、プログラミングや情報表現を新しく学ぶとしても時間的な余裕があるわけじゃないということ。2020年までは、もうすぐだ。

 

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今年の僕の研究室のOさんが開発した、プログラミング初学者向けボードゲーム。これもパズル的な思考回路の枠内に収まる学習ではあるのだけど、問題を仲間達と議論しながら、協調的に考えることで考え方に慣れていく、ということを狙っている。

あなたを将棋のコマで喩えると

身辺雑記

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最近、うちの6歳児が将棋を覚えたので時間があるときに対戦するようになった。もちろん覚えたてなのでまだ弱いのだけど、日に日に投了するまでの時間がかかるようになってきている。やばい。

 

さて、僕は子供の頃あそんだっきりで、あまり将棋のコマの意味を考えたことがなかったけど、何十年かぶりに指してみると、それぞれのコマが動きの制約というかたちで「個性」を持っているのがとても興味深くて、自分にとって一番好きなコマは何かを考えていた。

 

僕の場合は「角」だ。歩のように着実に進むことは出来なくても、ナナメの動きで盤面を自在に移動する。だれでもできるような目の前の仕事には役立たなくても、他のコマが真似できない角度から一気に切り裂き、状況を変化させていく。願わくば自分もこういう役割でいたい。

 

Xデザイン学校での講演:CoDesignApproachの今日的意味

CoDesign

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2/18(土)、社会人向けデザインスクール、Xデザイン学校 @Yahoo!本社において、本年度担当しているパートのレクチャーをしてきた。山崎先生、浅野先生からのオーダーは、なんと「おまかせ」(!)。それを知った時の僕の気分はたとえて言うなら、ベテランの鮨名人二人が、カウンターで「ふっふっふ」と笑みを浮かべながら待っているのを前にした、場末の職人のそれである。しかしながら、鮨というサービスは、職人の一方的なもてなしではなく客との相互構成的なものだ。山内先生に倣うなら「闘争」だ。せっかく二人が聞いてくださる、しかも最前列で。という機会なのでXデザイン学校の今後の指針にちょっとでも参考になるような話が出来ればな、と思いながら準備してみた。題目は「CoDesignApproachの今日的意味、およびXデザイン学校との関係」。

 

章立ては、

1:CoDesignの概念を整理する
2:成り立つ条件と環境要因
3:人々が協働するために—「信頼」の観点から
4:未来の学校体験の可能性
5:「社会をよくするデザイン」をめぐって

 

スライドをいくつか抜粋して掲載してみる。僕がスライドをslideshareで公開していない理由はいくつかあって、1つ目は、著作権的な意味。引用した画像や写真は、授業での利用は許されても一般公開は許されない(著作権法35条の2)わけで、公開のための許諾取るのが面倒ということ。2つ目は、僕のスライドは図版中心で、あまり文字を書かないで喋るスタイルなので、それだけ見たところで結局あまりわからないだろう、ということ。そして3つ目は「粗隠し」で、4つ目が「出し惜しみ」なのだけど、先日編集者のAさんにお会いした際に、どんどん公開しちゃったほうが得ること多いはずだよ、と助言もらってそれもそうだな、と思うので、101枚のスライドのうち、11枚をとりあえず掲載。

 

 

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「デザインは問題解決して、円満に終わるか?」という下りより。Wicked Problemについての解説を探していたら、行動観察研究所の松波さんが一番明快に解説していたのでそれを参照した。以下の記事はとても興味深い。

Wicked Problem: 新たな仮説に基づいて動き、成果が出なければすべては無駄なのか? | 行動観察研究所ブログ | 行動観察研究所

 

 

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ここはいろんな人との議論をベースしつつ、僕がオリジナルで整理したもの。「当事者デザイン」という言葉は、はこだて未来大学の原田先生と岡本先生が2016年度デザイン学会のセッション名として生み出した言葉であり、まだ定着はしてないと思うが、これ以上の適切な言葉を知らない。さまざまな現場において、当事者が、拙くとも自分でなんとかデザイン実践しようとしている場面は実はたくさんある。その活動をエンパワーするためにどのようにその活動自体をデザインできるのか、というのはデザイナーにとっては大変エキサイティングで今日的な問題と言える。

 

当事者デザインの例として、東海大の富田先生は、霞ヶ関の国家公務員の方々が、政策プロジェクトの概念図(通称「ポンチ絵」)を自分でデザインできるようにするためのデザイン(政策×DESIGN Workshop ポンチ絵2.0)に挑戦している。

 

念のために、この分類は「どれが良くてどれが悪い」という話ではない。ユーザ中心デザインも対象や組織によってはアリだし、当事者デザインも最初からできるものではないので、協働のデザインから徐々に移行していった先の姿と捉えるほうが自然だ。ここはスライド一枚では説明も整理もしきれないので、もうすこし展開する予定。

 

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何故参加型デザインというタイトルではないのか、の解説。「参加型デザイン」と「協働のデザイン」の違いは明確に分かれるものではないけど、ニュアンスはだいぶ違うことは、以前以下のエントリでも解説した。

 

kmhr.hatenablog.com

 

f:id:peru:20170219125746j:plain浅野先生がXデザイン学校に参加型(協働)デザインを取り入れたい、と語っていたことを知って、Xデザイン学校との関係を説明したくだり。「弱い紐帯の強み」、というのはwikipediaマーク・グラノヴェッターの項目で説明されている。

フィールドについては、この日おふたりと話したところ、すでにいろんな構想があって計画を進めているところだそう。期待。

 

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実験学校といえば、ジョン・デューイ。彼は自分の思想を元にシカゴ大の中に実験的な学校をつくった。このモデルでは、活動を重ね合わせた文脈が学びを生むということを熟知して計画していることがよくわかる。なにかの活動(衣・食・住、そして商売)を起点に知的好奇心が生まれ、そこから知の資産(図書館)に接続し、さらに家庭や自然環境などの外部のネットワークにも有機的に接続していこう、というのは120年経過した今でもまったく古びていない。この頃、日本はまだ明治時代だというのに・・・・実に先駆的な取り組みだ。

 

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最終章、「『社会をよくするデザイン』をめぐる問い」より。我々はなんとなく「よい」という言葉を使うが、本当はちゃんと共通することを言語化していく必要があって、それがアカデミアの役割でもある。最近考えていたことをまとめたので、このパートは6枚とも公開する。勝手に俺理論だけで言い切らないように、なるべくこれまでの知見の積み上げを参照しながら説明できるように頑張ったつもり。

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写真は左から

原発(未来に負債を先送りして、イマの問題をしのぐぞソリューション。これは年金もそうだな)

・しゃぼん玉(フィルターバブルがつくりだした自分の「イマココ」の中は心地よいぞソリューション)

・国境の壁(ココの良さを維持するためには、壁の向こうは知ったことかソリューション)

 

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 そもそもこの頃「よい」の問題を再び考えはじめたのは、苫野一徳先生の「どのような教育が『よい』教育か」に刺激をうけたからである。彼の言う「欲望論的アプローチ」は説得力がある。

 

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いろんな難しい本を調べているうちに、講義の準備から逃避して読んでいた「サピエンス全史」と、ちゃんとつながって驚いた。あの大著は、この文章で終わる。「私たちは何を望みたいのか?」は、英語の原著では"What do we want we want?" となっている。問いかけの主旨であるメタ的な意味は、英語の方がはっきりわかる。もしくは糸井重里の名コピー、「ほしいものが、ほしいわ」(1988)。

 

 

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数日前に書いたコントロール願望の話。近年はデザインに限らず、様々なジャンルで同時多発的に参加型のスタイルが活発になっているのは、みんな気付いているだろう。その源泉を考えるにあたって「みんな何かをコントロールしたいし、そして自分のすることを他者に認めてもらいたい」という欲求があることを軸に置いて眺めてみると、はっきりとつながってくる。

 

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"だれも他人を自由にしない。 だれも一人では自由になれない"は、ブラジルの教育者パウロフレイレの伝説の名著「被抑圧者の教育学」から。この本は本当に素晴らしい。ソーシャルデザインにおける重要な概念である「エンパワーメント」は、彼の実践を元にして生まれた、とされる。人は一人では自由になれないというの重要な指摘で、自由には他者との認め合いがいるのだ。

 

「良いデザイン」というのは範囲や対象を示さないと答えようがないけれども、「社会をよくするデザイン」ってのはこういうことかな、というのが現時点での僕の考えである。いろんな賢人の言葉を引きながら、「よい」の共通了解をさぐって言葉にしてみた。こういうのは文章にまとめた方がよいのは当たり前だが、こういう喋る機会でもないと(忙しさを言い訳にして)深く考えないからな。

 

近頃は具体的ではない言葉は悪いもののように扱われがちだけども、抽象度の高い言葉は時代が変わっても長持ちするし適用範囲も解釈も拡がる。ということでひきつづき考えていこうと思う。

 

ひどい体調だった先月の講演からだいぶ時間たったのでもう回復したかな、と思っていたが、声がれがひどく、舌も回らず、またもや絶望するほどパフォーマンス悪かった・・・。いっぱい準備したのに無念。Xデザイン学校のみなさん、申し訳ないです。でも文章にしておいたことで、履修者以外の人でも参考にできる資料になったかもしれない、と考えることにする。

 

ソニービルの中にある傑作デザイン

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 3月末に取り壊される予定のソニービル。乗る度に思っていたのだけど、このエレベータのインタフェースは素晴らしかった。なんども試しに押してみたのだけど、「開ける」と「閉める」、特に中央を走る直線がそれぞれのメンタルモデルとぴったりフィットする。ビルが消えると共に、このエレベータも消える。Goodなデザインなのに、どこにも保存されないであろうことが悲しい。

 

 

 

”人間は、コントロールへの情熱をもってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく”

BOOK

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幸せはいつもちょっと先にあるー期待と妄想の心理学 
ダニエル・ギルバート 早川書房 2007

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(引用)
人間は、コントロールへの情熱をもってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく。生まれてから去るまでのあいだにコントロールする能力を失うと、みじめな気分になり、途方に暮れ、絶望し、陰鬱になることがわかっている。死んでしまうことさえある。

ある研究で、地域の老人ホームの入居者に観葉植物を配った。半数の入居者には自分で植物の手入れと水やりを管理するように伝え(高コントロール群)、あとの半数の入居者には職員が植物を世話すると伝えた(低コントロール群)。6ヶ月後、低コントロール群では30%の入居者が死亡していたのに対して、高コントロール群で死亡したのはわずか15%だった。追試研究によって、コントロールする感覚が老人ホームの福利にいかに重要かが確かめられたが、同時に予期せぬ不幸な結果を招いた。

その研究では、学生志願者を募って、入居者を定期的に訪問させた。高コントロール群の入居者には訪問してほしい日にちと滞在の時間を自分で決めさせ(次の木曜に1時間ばかり来てちょうだい)、低コントロール群の入居者にはそうしなかった(では次の木曜に1時間ばかりおじゃまします)。

 

2ヶ月後、高コントロール群の入居者は低コントロール群の入居者より幸せで、健康で、活動的で、とる薬の量がすくなかった。この時点で研究を終了し、学生の訪問も終わった。数ヶ月後、高コントロール群だった入居者の死亡率が極端に多い、と聞かされて、研究者達は愕然とした。悲劇が起こってしまってからよく考えれば、原因ははっきりしていた。決定権を与えられ、コントロールすることで良い効果を得ていた入居者達は、意図しなかったこととは言え、研究が終わったとたん、そのコントロールを奪われてしまったのだ。

(p41)

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Xデザイン学校のレクチャーの準備のために、一行目の太字の部分を引用するために読み返してみた。随分まえに読んで衝撃を受けたのがこのエピソード。以後、研究室でも何かのフィールドに関わる時には、下手に影響与えると、終わり方次第ではこういう反動が起こりやすそうだということには気をつけている。

 

 

 

 

独裁者は民衆がつくりだす

BOOK

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 ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く (岩波新書)

 

熱狂的なトランプ支持者はアメリカの都市部ではなく、地方都市にいる。どんな人々がトランプを支持しているのか、どんな期待を抱いているのかについて、統計からは見えてこないリアリティのある声が、新聞記者による丹念な取材で記録されている。トランプは没落しつつある白人達の絶望と怒りを自覚させ、鋭い暴言を繰り返しながらそれを焚きつけていった。読んでいるとアメリカはもはや別々の国に分断されてしまっているのだな、ということと、独裁者を望み作りだしているのは、本当に普通の人々なんだな、ということを思わされる。

 

闘うべき共通の敵(アメリカの場合でいえば、不法移民や自由貿易)を描き出されると、人々は問題意識に共感する。敵を倒せば問題が解決すると素朴に思い込んでしまう。そして敵を倒すために結束し、高揚感に浸る。

 

こういったことは、遠い場所の話しではなく、実際に身近な場所でも簡単に起こりうることだからこそ怖い。今では忘れられているかもしれないが、以前、日本の地方自治体でも実際に独裁者が誕生した。

 

ある地方の街において、閉塞感にあえぐ人々は改革を求めて、鋭い物言いをする政治家を選ぶことになった。彼が使った方法は、(共通の敵としての)「公務員叩き」だった。彼は地元民にうっすらと横たわっていた不公平感や、行政への不信感を激しく煽った。実際には新規産業をつくって市全体の雇用や税収を増やすような未来のビジョンを示しているわけではないのに、ぼんやりとした不満の正体のようなものをえぐり、人々の目の前に差し出した。多くの人がそれまでの鬱憤をもとに「それは許せない」と共感し、特権階級を引きずりおろすことが自分たちの役割だと思い込んだ。特に善良な農村部のお年寄りたちは、そうすることで自分たちの不満は解消され、よい社会が訪れると錯覚した。熱狂的に支持する側と冷静に反対する側に分断され、家族でさえも対立させた。議会とも激しく対立して市政は混乱した

 

先のアメリカの問題とも結構似ている。

 

「あのどこにでもあるような街でも、たった一人の人間が刺激するだけでこんな風になっちゃうのか」と遠くから絶句したことと、ゴタゴタを経て同じ学年だったN君が新しい市長になるまでのハラハラは、たぶん一生忘れない。

 

Duppy know who fi frighten

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以前、ジャマイカ人から「Duppy know who fi frighten」という諺を教えてもらったことがある。日本語に訳すと、「幽霊は、誰が恐がりかを知っている」。

意味分かる?と聞かれたので、僕は一生懸命考えた。そして、「幽霊は信じてない人には見えなくて、怖がる人の前にだけ現れる、という意味かな」と返事し、「恐怖心があると、何でもないものが恐ろしいものに見えてくる、という『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』って似た諺が日本にもあるよ」と付け加えた。

 

そうしたら「まったく違う」という。どうやら、脅す側は、弱い奴を標的として選んでいる、という意味で、すなわちつけこまれないために「弱みをみせちゃだめだ」という教訓として使われているという。

言葉は、それを用いる社会によって発達していく。例えば一人称代名詞は、英語ではすべて「I」だし、なのに、日本語では、僕、俺、私、自分、小生、わし、おいら、など世界的にも特異なのは、そういった自我の使い分けが他者との関係の中で必要とされる社会だからだ。さらに言葉の中でも特に諺は、世代を超えて磨かれた教訓や知識の結晶でもある。諺はその国の文化を映す。

 

欧州でそういうことに気付いたこともあって、いろんな国の人に出会うたびに諺を話題にして聞いていたのだが、ジャマイカとかハイチとか、カリブの国々は陽気そうに見えるけども、この強く生きていくことを言い聞かせるような短いフレーズから、生きるか死ぬか、やるかやられるかの生存競争が厳しいということに気付いて驚いたことを思いだす。諺の意味をよく考えることは、それを語り継ぐ文化の土壌が見えるからこそなんだか興味深い。

〈読書メモ〉良くしようとするのはやめたほうがいい

BOOK ストーリーテリング/ナラティブ

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横浜コミュニティラボのMさんのfbで知った小冊子。この「良くしようとするのはやめたほうがいい」という、ギクリとさせられるタイトルだけで読みたくなって取り寄せてみた。我々は深く考えることもなく「よくする」という言葉を使いがちだ。内容は横浜寿町の福祉センターで長年相談員として勤められた村田由夫さんの講演録をベースにしたもので、ドヤ街のアルコール依存症患者たちと関わり続けた当事者による経験談として大変興味深かった。

 

−−−−−−−−

(以下引用)

この良くするってことはね、やっぱりどうあがこうとも、ある側面では、相手を支配したり管理したりっていうことですよ。で、これに対して、パワーレスというか、そういうこと(相手を良くすること)はできないんだ、ということを受け入れる、認めるってのは非常に大事なことのような気がするのです。

<中略>

もう一つ、AA(※アルコホリックアノニマスというアルコール依存症の人達のミーティング)の人達が使っているステップは、12まであるんですが、全部過去形で書かれている。例えばですね、「無力であるということを認めた」とか「自分が回復するんだっていうことを信じるようになった」とか。それから、あるいは「自分自身の間違いを、気がついたならば、直ちに認め改めるようにした」とか「この方法を、苦しんでいるアルコール依存症の人達に伝えるように努力した」とかですね。ぜんぶ過去形で書かれている。

 

なんで過去形なのか、考えてみると、この場合の過去形というのは、個人の気づきですよね。だからこの方法は強制じゃないんです。こうしろとかああしろ、とかの強制ではない。

<中略>

アルコール依存症の人達の状態というのは、薬物依存だとか摂食障害の方々だとかあるいはギャンブル依存なんかの人もそうなんですが、どんな意見でも,他人が自分のために心配してくれるような内容の話は、一切耳に入らないみたいですね。それがどんなに善意からでた言葉でも(善意というのはまあ「カッコ」付きですけどね)耳に入らない。

<中略>

そのかわり、私はこうだったっていうこと、他人のことじゃなくて自分自身がこうだった、っていう風な話、これはね、ふっと耳に入ることがある。

<中略>

ところがその、他人の、正直なその人自身の話だけにはふっと反応するんです。そういう力だけはかろうじて残しているんですね。死の瀬戸際まで。不思議ですね。

<中略>

で、そういう話を聞いた仲間が、同じようなことをしていたとフッと気がついて、段々段々、自分を取り戻してくる、そういう力みたいなものが沸いてくるんですね。これはなんというのかな、人を変えようとか、良くしようとかする中からでてくるんじゃなくて、みんな無心に自分のことを話し、人の話を聞いてくる中から,生まれてくるんですね。

 

(引用ここまで)

−−−−−−−−

「よくする」ってのは確かにそう言う一面があることには同意する。それにしても、まったく聞く耳を持たない人が、「その人自身の話だけにはふっと反応する」ってのは実に興味深い。当事者による語りがそれぞれの感情を重ね合わせるというのは、数日前に書いたイスラエル人とパレスチナ人の対話ワークショップで起こっていることと、とても似ているように思う。

kmhr.hatenablog.com

 こういう話を読むと、原始的な人間の心は、個人から切り離されてない主観的な言葉に動かされるのだな、と思うし、若者がサーチエンジン検索よりSNS検索や口コミを重視するという傾向とも辻褄が合う。

 

人は見たいものを見るし、自分に都合の悪い情報は遮断してしまう。なにかの情報を客観的に「伝える」ことにはどうやら限界がありそうだが、そんな中でコミュニケーションの原始的な対話にこそヒントがあるのかも知れない。

 

 

デザインは死ぬか

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かのブックディレクター・幅允孝氏による企画監修ということで楽しみにしていた「デザイン イズ デッド(?)」を読了。このタイトルには、やはりエンブレム問題が大きな影を落としていて、クエスチョンマークにはデザイン行為をシニカルに語るようになってしまった世の中の人々に対する幅氏からの問いかけが掲げられている。

この本を企画したきっかけは、乖離するデザインの作り手と受け手の間に結び目をつくることが両者の関係を作り直す唯一の方法だと思えたからだ。

<中略>
2000年代、商品の価値をあげる付加価値としてデザインが世の中に行き渡ったのを境目に、デザインは「普通に、そこにあるもの」になった。デザイナーを介さず作られれているものが世の中にないことを皆が知るようになり、デザインコンシャスではないこともデザインの一部になった。そんなデザインの過渡期だからこそ、(残酷だが)いちど「今までのデザイン」には天寿をまっとうしてもらい、新たなデザインに対する考え方を興していくべきだと思える。(まえがきより)

 

そういうわけで、独特のコンテンツとエディトリアルデザインである。この雑多な感じは雑誌というかMookというか。仕事柄たくさんデザイン関係の書籍を読んでいる僕でも、こんな構成の本を始めて読んだ。なにしろ、デザインを解説する冒頭の事例が「孤独のグルメ」w。そして「エンブレム問題から現代のグラフィックデザインを逆照射する」(室賀清徳)、「デザイン批評はいかにして可能となるか」(藤崎圭一郎)、「デザインは社会を変えることはできるのか?」(加島卓)など、専門家達がちゃんと考えるべき問題に対してのシャープな論考があるかとおもえば、後半では業界をまったく知らない人々へデザインを解説するためのゆるいコンテンツが続く、という謎な目次。(ちゃんとそれぞれの章を解釈すれば、コンセプトはしっかり通っているのだけど)。問題意識には共感するし、途中までは大変興奮しつつ読んだけれども、申し訳ないが徐々に尻すぼみしていくように感じた。特に(略)

僕自身はデザインが死んだ(か死んだような状態になってしまった)という見方はピンと来ない。たしかに旧来のグラフィックデザイン業界はエンブレム問題でダメージを受けたと思うが、JAGDA会員からも抜けてしまったし、その時期ちょうど日本にいなかったせいもあってそこまでのリアリティは感じなかったからかもしれない。でもあの閉鎖性は、どこかのタイミングでいずれ表出して問題になったのではないのかな。そもそも「作り手」「受け手」という二元論を持ち出している時点でうーん・・・だしそんな視点で見ているからそう見えるんだよ、と思う。

非の打ち所がないような解をさっそうと差し出して人々を熱狂させる「魔法使い」はもう今の時代には存在しないのかもしれない。でも代わりに、一般の人々にデザインに向き合う責任を生んだはずだし、むしろやっかいなことだらけの現代の状況の中で、プロが率先して人々に示すべきデザインの必然性は高まっているんじゃないだろうか。

 

 

 

ビール工場を見学する

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2/12(日)、家族で生麦にあるキリンビールの工場見学に行ってきた。三ヶ月前に予約しなきゃ行けないという、なかなかプレミアムな体験である。

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この日は工場は休みで、ラインもひっそり。でもこういったアングルでベルトコンベアのはり巡られた全景を見渡すのはなかなかそそるね。

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発酵の仕組みコーナー。地味な発酵のプロセスをインタラクティブな仕掛けで見せていて、子供達は大喜びだ。これは子供向けのツアーなのだけど、そもそもこの子達はビールを飲んだこと無いわけだし、わかりやすく説明したところで、ちゃんと残るのかは謎である。

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最後は大人全員がおまちかねの死因、じゃなかった試飲!生ビールを一人三杯まで飲める(もちろん無料)。3種類から選べるのだが、特にできたての「一番搾りプレミアム」は絶品だった。

 

以前、なんでドイツもデンマークもベルギーもビールとても美味しいのに日本のビールはあんなに普通なんだろう、とおもっていたが、よく考えれば比較対象が間違っている。専門のビアバーで飲むできたて生ビールと、普通の居酒屋の生ビールを比べてはいけない。

 

ひとしきり味わって満足したあとで、もう一つ疑問が湧いてきた。なんで日本の大手メーカーのビールはピルスナーばかりなのだろう。いちばん万人受けする味だろうからビジネスの視点では合理的なんだろうけど、もうちょっと多様性が欲しいな、と思う。ウイスキーも焼酎も日本酒もワインも、気分に合わせてチョイスすることが楽しいのに。

 

kmhr.hatenablog.com