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Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

デザイン思考の今後

デザイン環境 デザイン教育

みんながうすうすと感じてはいるが、なんだか言語化できないこと、というのが時々ある。

 

ここ最近、「デザイン思考」に関する議論はもう一周したんだなー、と感じさせる文章を目にすることが増えてきた。デザイン思考は、(専門家にとっては)あたりまえのことを形式知にして名前をつけ共通言語化し、誰にでもクリエイティブに考えることはできるんだ、と人々の創造性の裾野を大きく広げた。その功績は偉大である。でもそうは言っても、デザインは方法論だけで構成されているわけでもないわけで。

 

現在日本ではビジネスにおけるデザインの重要性に注目が集まり,「デザイン思考」の活用への興味・関心が高まっているが,そのほとんどはIDEOスタンフォード大学d.school が提唱する狭義の「デザイン思考」であり,これまでデザイン論やデザイン研究が追究してきた世界の多様なデザインの考え方や捉え方,思想・信念・文化を踏まえた「(本来の;広義の)デザイン思考」を参照するものではない。筆者らは,我が国のデザインマネジメント研究者としてこの事態を看過せず,世界の多様なデザインの思考方法やその知見を,現在の日本のビジネス社会に十分に還元・流通させることができていない不備を猛省し,喫緊に取り組むべき課題として認識している。

イタリアにおけるデザインマネジメント研究の特徴と動向に関する考察

 

立命館の八重樫先生の視点。今のデザイン思考はこれまで行われてきたデザインに含まれていた思想・信念・文化といった見えないことを参照してないというのは全く同感。

 

「目的」という主観的な要素をいかにイノベーションに活用するかが狙いです。デザイン思考を実践しても、それを現実化する最適な技術がなければ実現できません。

<中略>

そうした目的の設定や共有、部門や組織を超えたコミュニケーション、シナジーの創出、組織のクリエイティビティの創出がなければ、デザイン思考は有効ではありません。創造性を重視する組織文化がその根底に極めて重要なのです。

www.foresight.ext.hitachi.co.jp

紺野先生の説明。先生は以前、講演でも「定番の方法論に従ってるだけで、なにか起こせると思うか?」とオーディエンスを挑発されていたことをよく覚えているが、結局のところ、目的設定ができなきゃうまくいくわけがない、というのはその通り。なんのためのデザインか、ってことだよね。

 

私はデザイン教育のあり方を少しだけ変えるべきだと言っているのです。というのも、私は現在のモデルはある分野で行き詰ってしまっていて、考え方を少し変えることが時にはアイデアを自由にし、新たな方法を生み出すと考えているからです。小さな変化ですが、 d.schoolの講師や他の人々の多くは既にプロセスを重視しなくなっているようです。

medium.com

d.schoolのCarissa Carterによる記事の翻訳。原文はこちら。発祥の地のd.schoolでも似たような結論のようだ。「重視しない」というのは原文では"beyond process already"(もうプロセスの議論は越えている)となっている。ここで紹介されている「8つのコアデザイン能力」というのは、多様な解釈ができそうな抽象的な概念でまとめられている。パターンランゲージっぽい。

 

と、ここまで最近読んだ3つの記事と論文を引用してみた。僕も同じようなことを春先に思っていて、何度か講演の際に下のような図を書いて喋ったことがある。

 

f:id:peru:20161123225220p:plain

 三角形の最下部は具体的な活動の層。それが短期間で終わらず長期間にわたるものになると、それらをどうやるか(How)をうまく進めるためにデザインプロセスが必要になってくる。この層は近年の言語化の努力によってあらかた整備されたといってよいだろう。

 

そしてもう一段階視点を上げると、上の層には、「何をするのか」「どこでやるのか」「誰がやるのか」「どんなタイミングで、どのくらいの期間やるのか」といったような、"状況"を含んだデザインを取り巻く環境の問題が存在する。この層は、しばしば前提となってしまって、なんだかんだで簡単に変えにくいし疑いにくいが、前提は「解」を規定してしまうからこそ、ここを問うことは重要だ。

 

そしてさらにもっと抽象度の高いところには、その環境の中で、もしくは環境そのものを再解釈し、「なぜ」やるのか?「なぜデザインなのか?」といった、行き先を照らすビジョンの問いがある。

ここで悩ましいところだが、ビジョンと環境は、どっちが上位という訳でもなさそうである。ジャレッド・ダイアモンドが「銃・病原菌・鉄」で示したように、文化はそもそも地理的条件の中でつくられていくからだ。 例をあげれば、移民が多い街では異文化を考慮した地域コミュニティをどう作るかが切実な問題になるし、自然災害が多い国では防災に関するデザインが発達する。我々はそうして環境から影響を受けながら、身の回りを人工物化していく。そしてそれは環境になっていく。両者は密接な相互関係にある。

 

そんなわけで、デザインを構成する要素として、具体的な問題から抽象的な問題までいくつかの階層があって相互に影響し合っているということを示してきた。ということは、デザインは実践すると同時に、一方でそこから抽象度を上げてもっと抽象度の高い議論に向かうことも必要なはずなのだ。でもデザイン思考の言説においては、短期的な問題解決を越えたその先を見据えて、我々はどんな文化をつくっていこうとするのか・・・という議論をする人は(少なくとも自分の観測範囲では)それほど多くない。「思考する」ってのは、本来、抽象性の高いところの方が親和性が高いはずなのにね。

 

こういった現象は、特に「デザイン思考」に限った話じゃないようだ。

 

嗚呼、こうしている間にも、バイラルは広がっていきます。Aがシンプルで模倣可能性が高く、かつ、革新的であるが故に、このバイラルはとめられません。
 実践の連鎖は、もう「A””””””’」くらいになったでしょうか。かくしてクオリティは地に落ちました。Aという学習手法で生み出される学びの時間は、ひと言でいうと、「あまりに惨い時間」になってしまいました。

 さらに手痛いことに、アーリーアダプターのDたちから、こんな声もでてきました。
「実践Aをつくった創始者Cさん、最近、元気ないねぇ・・・もうオワコンなのかなぁ・・・」

「実践Aも、昔はよかったんだけどね。創始者Cさん、これから、どうするんだろうな・・・・そういえば、全然話が変わるんだけど、新しいQという手法って、最近、流行ってるけど、知ってる?あれ、面白いよねぇ。今度、みんなで勉強会してみようか。で、使ってみようよ」

 そして、創始者Cだけが、独り残されます。
「ああ、こんなはずじゃなかったのに」 

「革新的な学習手法」と「普及プロセス」について考える:あの魅力的な方法が、いつのまにか、「惨い学びの場」を生み出してしまうプロセス | 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する

 

 中原先生による上記記事で語られる寓話では、学習の現場でもそっくりな話が展開されていることが興味深い。というよりも、だれでも使えるようなツールをよく作っている身として、他人事じゃなく心が痛い。普及していくことと、もともと含まれていたはずの思想が矮小化されていくことは表裏一体のように思える。

 

それはなんでだろう。と言うことをずっと考えていたのだが、一つの要因としては、「切実さ」が足りないということだろうか。現状をなんとかしなければ、という切実さがなければ、浅瀬に入ったきっかけからさらに進んでいこうとする動機は生まれないし、困難に向き合ってもそれ以上を考えないというか。

 

この話には特にオチもないのだが、この頃仕事ばかりで飲みに行く時間も無いので、だんだん視野が狭くなりつつあるのを感じる。だれかと議論したいな。