数日前に大きな話題になった記事.グリーの人が炎上を防止するために講演してまわっているという話.
スクリーンに東京・渋谷のスクランブル交差点の写真が映りました。真ん中で制服姿の少女が、学校名と携帯番号を書いたボードを掲げています。
みなさんにお願いがあります。ボードに自分の大切な情報を書いて、渋谷の交差点に30分ほど立っていて欲しい。
子どもたちが「えーっ」と顔をしかめます。そうですね。僕も、そんなことしたくない。でも実はこれ、毎日世界中で大人もやりまくっていることです。インターネットにものを書くということは、この交差点に掲げることと同じなんです。
まだこの交差点の方がましなくらいです。通る人は1日たった40万人。しかもボードを下ろすことができる。でも、インターネットは違う。一度あげたら二度と下ろせません。全世界に公開され続けます。
こういった導入からインターネットになにか書くと言うことは,自分の家の玄関ドアの表に張り出すようなものだ,だから書いちゃいけないことは絶対に書かないように気を付けよう,と説いている.
この記事はかなり反響があったようで,「未然に防ぐためにもこういった啓蒙は重要だ」というコメントをしている人が多い.
確かにいわゆるバカッターのように,何か悪さをしたことをネットに気軽に書くことはそれがどれだけ危ないことなのかを知っておくことは重要だと思う.多くの若者は自分の身近な範囲しか見えておらず,人を介して伝播していくスケールを想像できてないわけだ.それを教育でなんとかしようというのは意義あることだし,必要性はよくわかる.でも,そこから派生して,「世の中は怖いところだから,個人情報は絶対に出してはいけない.他人を信用してはいけない.」という話全般にすりかわってしまうとすると,ちょっとなぁ,と思うのである.
「悪いことをしない,書かない」ことと「世の中は怖いところ」はけっこう別なので,もうすこし踏み込んで考えたほうがいいではないだろうか.
例えば,個人的な情報をネットに公開することをあたりまえに運用している社会もある.デンマークのdbaは市民に根付いている個人売買サービスだが,売りたい人はみんな(※全員というわけではないが)電話番号や住所を公開している.
出品されている商品をクリックすると,googlemap上にプロットされて家も電話番号も丸わかりだ(※なんか気が引けるので一部読めないようにした).これは日本からキャプチャしたから,実際に世界中に公開されているわけだ.でも,売っている場所がわかることで「自宅住所から半径5キロメートル」とかで検索できる機能がつくられている,そしてその場で電話かけて交渉して「まだ売ってる?よかった.もうちょっとまかんない?OK, じゃあその値段で買う.今日の仕事帰りに受け取りに行くわ」とたったの1ステップで必要なものを安く手に入れてしまうのが彼らの日常である.
こういったやりとりは日本人の感覚からは異常だし,個人情報を出すことは危なくないのか,と不気味がられると思う.でもデンマーク人には広く愛用されているサービスだし,すくなくともずっと運用されているということは「悪い奴はいてもルールを守らない人が罰されるべきで,たいていの人は悪いことはしない.便利なシステムを変えることはない」というのが社会の中で合意されているからだろう.彼らはリスクをとってそういう「ラクにモノを手に入れられる」判断をしているわけだ.日本のフリマサービスはそれに比べて何ステップかかっているのだろうか,
電車のシステムもそんな感じだ.無賃乗車しようと思えばできるシステムだが,不正する人が罰されるという運用だ.
日本だと一人でも悪いことをする人がいないように,システムの側で一括して規制をかけるということ(切符を買わないと乗れないとか)になると思うが,デンマーク社会はそういった判断を人間の側にさせている.つまりルール違反した場合は自分で罰の責任とるのだ,ということを日々自覚させる仕組みになっていると言える.
デンマークは小さい国だから.という説明はできるかもしれない.でもコペンハーゲンは都市圏では100万人規模だし,外国人も多くて犯罪率も日本より高いから,小さいことだけが理由じゃないだろう.
それよりも,この考え方の違いは,「他人を信頼しているかどうか」が大きく影響しているように思う.
デンマークは,OECD諸国で他者への信頼度がもっとも高いようだ.驚きの8.3!
For example, trust in other people is an important component of social capital. In Denmark trust in others is by far the highest among European OECD countries: on a scale from 0 (“you do not trust any other person’’) to 10 (‘’most people can be trusted’’), the average score given by the Danish is 8.3, while the European OECD average stands at 5.8.
一方で,我々日本人は,「他者一般を信頼する率は,他の国の人々と比べてかなり低い」らしい.
以下,山岸俊男先生の本より引用
(日本の「安心」はなぜ、消えたのか―社会心理学から見た現代日本の問題点 )
「
この調査(日本の統計数理研究所が行っている社会調査)は,日本人2000人とアメリカ人1600人を対象に質問紙調査を行っているのですが,その結果を見ると日本人よりもアメリカ人のほうが他者一般に対する高い信頼感を示しているのです.
この調査ではさまざまな質問がなされているのですが,他者一般に関する質問は三つあります.その一つは「たいていの人は信頼できると思いますか,それとも用心するに越したことはないと思いますか?」という質問なのですが,この答えを日米で比較してみるとアメリカ人の47%,つまりほぼ半数の人が「たいていの人は信頼できる」と答えたのに対して「日本人では同じ答えをした人は26%,つまり4人に1人しかいないという結果になっています.
こうした傾向は他の関連する二つの質問でも変わりません.
第2の質問,「他人は隙があればあなたを利用しているとおもいますか,それともそんなことないと思いますか」に対して「そんなことはない」と答えている回答者がアメリカ人では62%もいるのに対して,日本人は53%で,やはりアメリカ人の方が他者への信頼感が強いことをがわかります.
さらに,「大抵の人は他人の役に立とうとしていると思いますか,それとも自分のことだけに気を配っているとおもいますか」という質問に対して,アメリカ人で「他人の役に立とうとしている」と答えた人は47%いたのに対して,日本人回答者は19%に過ぎないという結果がでて,日米差がますます開いています.
」
人種の混ざりあう大国アメリカよりも,日本の他者への信頼率は低い,という非常に悲しいデータ.日本人は組織力が高そうに思っているけど,どうやらそれは幻想らしい,
先の記事への反応も,こういった国民性が強く反映されている気がする.信頼しあってないから他人はだましたり攻撃してなんぼという風潮は強まるし,攻撃されないように自分の身は未然に守ろうと,お互い疑心暗鬼になっていくという悪循環があるわけだ.この殺伐とした感じは肌感覚としてよくわかる.(この感覚の差に帰国してから僕は苦しんでいる)
なお,山岸先生によると,他者を信頼するということは,決して「単なるお人好し」ではないそうだ,
「
高信頼者は,他人との協力関係を築こうという気持ちは持ちつつも,その協力関係がかならず築けるとは楽観視していないということでもあるからです.「ひょっとして自分は裏切られるかもしれない」ということも知りつつ,それでもなお協力関係を結ぼうとするのが彼ら高信頼者であるわけです.
しかしそのような失敗の可能性を知りつつも,なぜ高信頼者は他者との協力関係を気付こうとするのでしょうか.
それは例え失敗のリスクがあったとしても,他者と協力関係を築くことにはそのリスク以上の意義があることを知っているからでしょう.分かりやすく言うならば他人と協力し合うことで得られる成果は,裏切られる悔しさよりもずっと大きいことを知っているということになるでしょう.
また,それと同時に人生とはギブアンドテイクなのだから,まずは自分が「ギブ」,つまり協力行動をしない限り,何も始まらないということを彼らは知っているのだと思います
」
(前掲書)
このくだりは,デンマーク社会が生産性の高い仕組みをつくるのがうまく,また幸福度が高い理由を言い当ててる.デンマークと日本では社会が違う,と言ってしまえばその通りなのかもしれないが,彼らももとからそういう社会だったわけではなく,略奪のバイキングの国であり戦争ばかりしていた国なわけで,信頼度が高いのは.ここ100年ほどそういう国づくりをしてきた教育の成果なのだ,ということは我々はもっと考えなければならないことなんじゃないか,と思う.
ネット炎上を防ぐことは大事なことだ.でも「世の中は怖い」と他人を信じない傾向や萎縮する傾向が必要以上に強まっていくとすると,先の統計結果を待つまでもなく,我々日本人がパブリックマインドをなかなか持てないことと深く繋がっている気がして,なんだか切ない気持ちになる.我々ももう少しお互いに信頼しあえる社会になればいいな,と思う.
「笑顔はブーメランのようなもの」コペンハーゲンのバスの中の標語より.