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みえないものを、みる視点。

【ミャンマー訪問記#2】日常に根付く「祈り」

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ヤンゴン滞在でもっとも印象に残ったのは、シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda)で見た人々の姿である。シュエダゴン・パゴダは、ミャンマー仏教の総本山としてミャンマー人の聖地であり、最も有名な観光地でもある。夜に訪れると中央の塔がライトアップされていてとても美しい。この外壁は全部、金!さらに最上部には大量のダイヤが大量に埋め込まれているそうで、凄まじい豪華絢爛さ。

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中に入っていくと、いろんなタイプの仏像が設置されている。

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仏像の後光がLEDでチカチカと点滅している。このセンスはなんだか独特だが、それにしてもテクノロジーの取り入れ方がなんというか・・・言葉にならない怪しげな雰囲気である。

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ディスプレイを通した仏様に、現地の人々はみんな一心不乱に祈りを捧げている。宗教を媒介するメディアは時代とともに変わる。古くは印刷された教典もそうだったわけだしね。

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みんな座り込んで祈るだけでなく、のんびりとくつろいでいる様子がみえる。ミャンマー人は9割が仏教徒だそうで、みんな信心深い。スパイスワークス・ミャンマー社の若手社員たちも、週末に普通に祈りに来るんだそうだ。祈りにいくことはあたりまえに恋人達と出かけるデートコースでもあるそう。それくらいミャンマーの人々には、仏様にお祈りすることが日常に溶け込んでいる。そして寄付して徳を積んでいくそうで、なんと給料の半分ぐらいを寄付したりする人も多いとか。

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みんなの真剣さが伝染して、僕も思わず祈ってみた。

ちょっと離れたところには関根社長。

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出家して祈りを捧げる少年達。出家の仕組みはいろいろあるんだろうけど、多くの子供達は一生仏門に入るわけではなく、2〜3週の間だけ出家して、そこからまた俗世間の生活に戻るんだそうだ。

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涅槃仏もいくつか。とてもじゃないが、ジョークで寝転んで記念撮影できるような雰囲気ではなかった。恍惚として祈っている人達をみると、聖地に来て祈っているという、イマココの体験に没入していることがわかる。不謹慎を承知で言えば、このシュエダゴン・パゴダにたくさん設置されているさまざまな仏像群は、某テーマパークみたいなものなのかもしれないな。

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円陣でセルフィーする若者達。なお、スマホ率はとても高い。ここ2年ぐらいで急速に社会に浸透したそうだ。

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途中の通路は土産物屋が並んでいる。一通りゆっくりと見て寺院を後にした。

実に不思議な体験をした。日本では、特に我々の世代は宗教が起こした事件の影響もあって宗教に対して距離を置く人の方が多いが、ここまで当たり前に宗教が根付いている社会を見ると、自分の信仰心の無さが申し訳ない気にもなってくる。

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遠くからみたシュエダゴン・パゴダ。丘の上にあってその途中はずっとお店が建ち並んでいる。表参道みたいなものか。

 

ミャンマーは急速な経済発展によって急速な格差が生まれつつあるが、国民の不平不満が暴発したりしていないのは、こういった宗教という社会システムが機能しているからでもあるんだろう。その反面で、この国が抱えるロヒンギャの問題が示すように、信心深さは時として争いの種にもなる。宗教の存在は、実に人間らしさを示す。共通する物語を組織的に信じる力こそが、人類がここまで繁栄したり争ったりすることに直結しているのだ、と改めて思わされる。