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みえないものを、みる視点。

ショーンによる「リフレクションのはしご」

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リフレクションのはしご

 

 「省察する(リフレクション)」とは、簡単に言えば自分の行った行為を「ふりかえって」「見直す」ことです。哲学者のドナルド・ショーンは、省察を二つに分けています[5]。「行為の中の省察(reflection in action)」と「行為にもとづく省察(reflection on action)」です。

 

 まず、「行為の中の省察(reflection in action)」は、何かをする中でふと頭に浮かんだことや、感じ取ったことを自分の中で「吟味」のまな板の上に乗せること、とされます[6]。実践の現場の中では、常にマニュアル通りにはいかないような予想外の出来事や矛盾する出来事に出会います。その葛藤の中でまずやってみて「感じ」をたしかめたり、どうもぴったりこないなどの感覚を元にその原因を探りながら、その場をとっさの判断で切り抜けていくような、そんな実践の知のことです。

 

 デザイン研究者の須永剛司は、それをシンプルに「じゃない感」と呼んでいます[7]。デザイナーは、たくさんのアイデアスケッチを描きますが、決して頭の中に降ってきたアイデアを描き写しているわけではありません。彼らは何かをまず描いて表出すると同時に、描いたものを見て「なんだか・・・違う」という違和感を感じ取ります。スケッチするという行為の中で対話を繰り返しているのです。これを描いたんだけどこれじゃない、そのパラドックス的な感覚こそが「まだ知らない次のもの」に向けて自分のアイデアを発展生成するための原動力となる、としています。


 この「行為の中の省察」は、本来誰でも行っていることですが、臨機応変さが求められる仕事に就いている人々は、特にそのような柔軟な考え方を自分の中で血肉化しているものです。ショーンは、そんな人々を知識を豊富に蓄えた従来型の専門家像と対比して「省察的実践家」と呼びました。

 

 しかし、ショーン自身が指摘するように、「行為の中の省察」を繰り返していると、仕事に熟達するにつれて徐々に場当たり的な行為となり、それは少しづつ自分の姿を固定化していきます。自分の担当外のことは一切見ようとしない、自分はこうだからと自分の枠を決めてしまう、慣れた自分のやり方だけを信じて他者のやり方を認めない、などのいわゆる「老害」になっていくわけです。

 

 そこで意識的にふりかえり、学んだことを棄てて再び編み直す機会を持つために、「行為にもとづく省察(reflection on action)」が位置付けられています。実践の中で、自分の中や他者からの視点を通して生まれた意味を解釈し、言葉にしていくことで、次の行為の中で使うことができるということです。ショーンは、省察の段階をはしごの上り下りに見立てています[8](久保、他2013を参考に一部改変)[9]。また実践のなかで省察する行為を意図的に行わないと、人は省察しなくなるとしています。

 

 

  • [5]『省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考』ドナルド・ショーン  鳳書房2007(原書は1983)
  • [6]『ビデオによるリフレクション 実践の多義創発性を拓く』佐伯/刑部/苅宿 東京大学出版会2018 
  • [7]『実践するデザイナーたちのデザイン知とはなにか?』須永剛司、永井由美子 デザイン学研究特集号 21(3), 4-12, 2014
  • [8]『省察的実践家の教育 プロフェッショナルスクールの実践と理論 』ドナルド・ショーン  鳳書房2017 P157(原書は1987)
  • [9]久保研二、木原成一郎「教師教育におけるリフレクション概念の検討—体育科教育の研究を中心に—」広島大学大学院教育学研究科紀要第一部台62号2013 pp.89-98

 

 

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先日、こんな原稿を書きながらショーンの本の当該部分を探していたんだけど、「行為の中の省察(reflection in action)」の説明はしつこく書いているけれども、「行為にもとづく省察(reflection on action)」については、ショーンはぼんやりとしか記述していないのだよね。

そうしたら、体育教育の文脈だけど、「リフレクションの梯子」をもとに図解している方の論文を発見!僕も図に起こしてみた。

 

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以下は、図版まわりの説明について、『省察的実践家の教育 プロフェッショナルスクールの実践と理論 』より引用。

 

 

あるレベルの活動において物事がうまくいかないとき、つまりある人が、行き詰まったり、理解していなかったり、誤解されていると感じるとき、省察のはしごの段を昇り降りすることで下位のレベルで経験したような行き詰まりや誤解をめぐるコミニュケーションが可能となる。

 

基本的にデザインする事は(これまで見てきたように)、それなりの、それ自体独自の〈行為の中の省察〉のプロセスである。1段階あがると、デザインすることについての省察は叙述のかたちをとる。例えば、「私はそれらの小さな形を集めて、より大きなL字型教室を形成した」のように。そして「それは1年生と2年生をつなげるが・・・・どちらが私には教育的にしたかったことなのだろうか」というように、叙述は評価に結びつくかもしれない。また叙述がアドバイスや批判と一体となっている場合もある。「屋根の形について現時点では心配することは無い」、「ひどいーそれでは全体の構想が全く台無しになってしまう」、などのように。さらに「君は建物の形を斜面の輪郭に合わせようとしてきたけれども、しかし斜面はねじれているのだ」のように、叙述がデザインすることの中に暗黙にふくまれている〈行為の中の知の働き〉についての言及となることもある。

 2段階上がって叙述についての省察においては、コーチは例えば、次のように自問するだろう。「『もっと大きくできれば、もっと満足いくものになりますね』と学生が言うとき、それは何を意味してるんだろうか」。また、あるいは「ペトラの大きな問題は、デザイン課題についての彼女自身の捉え方について、一体何を語っていることになるんだろうか。そこから読み取れる彼女のフレームは一体どのようなものなのだろうか」。学生の側では「回廊について、『小さなやり方の中の大きな事』と叙述することで、コーチは何を言いたいのだろうか」と問うだろう。学生は省察を質問へと向け、あるいはクイストのアドバイスに従って新しいデッサンを試みるだろう。コーチあるいは学生は、自分がした叙述に対して相手が構成した意味についても省察するだろう。例えばクイストは、ペトラが実演の全体から引き出したものはなんだろうか、そして学生が後に壊すことができる秩序を押し付けるアイデアをつかんだのかどうかと、自問するだろう。

 最後の第4段階では対話を行う人々は、対話それ自体について省察することになる。こちらは、私的であれ公的であれ、問題の理解の共有により近づいたのか、それともお互いの意味の理解を検証したのかどうか、問う。省察にあたって、コーチらが自分のコミニュケーションの取り組みに満足していなければ、「おそらく、現場を訪れるべき時だ」とか、「おそらく、異なった種類のデッサンに挑戦した方が役立つだろうと言うように、新しい戦略や手段を試みるかもしれない。

 学習の進行においては、省察のはしごを昇る形をとる必要は無い。語ることと聞くこと、実演することと模倣することにおける総合的で固有な〈行為の中の省察〉の作業は、高いレベルの省察に頼らずともうまく進むだろう。しかしながら、コーチと学生が行き詰まってしまったとき、梯子を登ったり降りたりする能力は、意味付けの収斂を探求する際に新しい可能性を切りひらくのである。

 とりわけ重要なのは、省察のはしごの昇り降りに取り組むことは、教示者のメッセージの価値について、学生が疑うことへの反応をもたらすもたらすと言うことである。(p157-158)