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みえないものを、みる視点。

PodCast:態度リサーチ#0〜#11をまとめて聴く

上平が試験的にお送りするPodCastです。何かをデザインする際には、知識や技術だけでなく、ものごとにどう向き合うかの、"態度"の側面も重要です。しかし、態度とはいったい何なのか、分かるようでなかなかつかみどころがありません。そこで、デザインとは一見馴染みのない分野の方に話を聞き、なにかに対峙する際に通じる微かな線を見つけることによって、態度の観点を浮かび上がらせてみようとする試みです。(三角をクリックすると視聴できます)

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#0|はじめに

 このPod Castで何を試みようとしているかについて、試しにひとりで喋ってみました。音声データの作り方も手探りですが、何よりも一人で楽しそうに喋るのが難しいですね。

 

#1|学び得ぬものをいかに学ぶか、について人類学者に聞く(を一人でふりかえる)

 3/2に行った上記トークショーの記事は全文書き起こししてあり、こちらで読めます。
初回が欠番になってしまうと、なんだかコンプリートできずに気持ち悪かったので一人で振り返って語ってみました。

ゲスト:比嘉夏子氏(人類学者)

 

#2|"構え"は何を決めているのか、について剣士に聞く

 武道で言う「構え」は、攻め方のスタイルを示しますが、相手とのかけひきの中で自分の向き合い方を探り続けるという意味で、態度に似ています。剣道の場合、構えは何を決めているのでしょうか。

ゲスト:齊藤実氏(剣道家

 

#3|万物がつながっているとはどういうことか、について僧侶に聞く

 さまざまなものごとが分断化していく現在の状況において、「連関的に世界を捉える」という意味で仏教は重要なことを示唆しています。そして仏陀の教えが時代や社会背景によって大きく変容している点では、近年のデザイン概念が普及していく過程にも重なるように思われます。私たちの生きている世界は、仏教の観点からどのように解釈できるのでしょうか。僧侶としての一面も持つ安藤昌也氏に話を聞いてみました。

ゲスト:安藤昌也氏(浄土真宗僧侶)

 

#4|花を殺しつつ、生かすことについて、花人に聞く

 野に咲く花は、自然の生態系の中で咲いているに過ぎません。そんな花を日本人は古くから愛し、人間を超越した存在として居室内に取り入れてきました。花を活ける行為は「殺しつつ、生かす」ものであり、罪深さを抱えた"祈り"と共にあります。この葛藤に対峙し続ける、花人の山本郁也さんに話を聞かせていただきました。花人とは、「花」と「人」の関係について哲学する人です。

ゲスト:山本郁也氏(花人)

 

#5|計算できるものと計算できないものについて、数学者に聞く

さまざまな高度なシステムが人間の頭脳を超えて自動的に計算していく時代です。しかしどこまで行っても計算し得ない領域があり、それこそが私たちがこの世界に生きる根源的なことでもあるようにも思われます。数学とアートを創造することによって止揚する試みを行う巴山氏に、「計算できること」と「できない」ことについて話を聞かせていただきました。

ゲスト:巴山竜来氏(数学者)

 

 

#6|心地よくない地で感じる心地よさについて、南極観測隊員に聞く

人類の多くは都市部にすみ、人工的に快適な住環境を形成しようとしてきました。その一方で「いま自分がここで生きている」という実存の感覚は、厳しい自然環境の中の方が強く湧き上がるのかもしれません。地球上においてもっとも過酷な環境のひとつである南極大陸に、第60次南極観測隊員として滞在した金森晶作さんに、自然と対峙しながら生きる態度についてお話を伺いました。
ゲスト:金森晶作(第60次南極観測隊員 / とかち鹿追ジオパーク専門員)
 

 

#7|音楽療法と言わないミュージックファシリテーターに、介護の場で音楽を活かすことについて聞く

音楽は、現在形で味わうだけでなく、遠い過去の自分と接続して内的な変化を起こしたり、共にいる他者と接続して心を共振させたりする不思議な力を持ちます。しかし、その音楽を"療法(セラピー)"として用いる場合、治癒する/される、それぞれの側に分断的なニュアンスがうまれがちです。それに対して、さまざまな関係性を生成する資源として音楽を捉え、介護の場を中心に"場作り(ファシリテーション)"を実践されている柴田氏に、ご自身の取り組みとその背後にある態度の話を聞かせていただきました。

ゲスト:柴田 萌氏(ミュージックファシリテーター/ 株式会社リリムジカ代表)

 

#8|個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞く

anchor.fm

先日開催された東京オリンピック2020の男子サッカー競技はスペインに敗退しましたが、試合後のインタビューである選手が、「彼ら(スペイン)はサッカーをしているけれど、僕らは1対1をし続けているように感じる」という言葉を残しました。デザインのプロジェクトも同じかもしれません。目的を見据えて個々の役割を超えて組織全体で取り組むことは重要なことですが、職務の壁を壊しつつ有機的に連携していくことは日本人の共通する弱点でもあるようです。個人のプレイヤーが個を超えたチームで戦うことについて、サッカー研究者に聞いてみました。
ゲスト:飯田義明氏(サッカー研究者/全日本大学サッカー連盟理事)

 

 

#9| 若い世代と出会う中での「面白がり力」について、情報教諭に聞く

来春(2022年春)から学習指導要領が大幅に改定され、全国の普通科の高校生たちが必修としてプログラミング、データ分析、情報デザインを学ぶ時代になります。もともとこの「態度リサーチ」は、そんな状況の中で模索している教育者に向けて企画したものです。今回は、東京都の情報科教諭、山本先生にポッドキャスト過去回を振り返って講評を頂くとともに、ご自身が大事にされている若い世代との向き合い方についてお話を聞かせていただきました。山本先生は授業の取り組みを積極的に発信され、全国の先生たちをモチベートされている方です。

ゲスト:山本博之氏(都立高等学校情報科教諭)

 

#10| 日常的な体験をどのように異化するのか、お笑い芸人に聞く(前編)

anchor.fm

「笑い」は感情を表出する行為であり、周囲の人々と対話的に構成される体験でもあります。その不安定な場を探求する芸人は、行為の中で思考する省察的な学習を繰り返しています。お笑い芸人はネタ作りにおいて、自分にとっての「面白さ」の基準をどのように決めているのか、日常的な体験をどのように異化するかについて、注目のピン芸人、九月さんに聞いてみました。 前編/後編の2回にわけてお送りします。

ゲスト:九月氏(芸人)

 

#11| 「わたし」が「みんな」になる瞬間について、お笑い芸人に聞く(後編)

anchor.fm

 「笑い」は、個人が起点になることでありながら、周囲の人々と対話的に構成される体験でもあります。個人ごとの現実世界としてすませすこともできるなかで、社会で共有することにどんな意味を見出しうるのか、「わたし」が「みんな」になる瞬間はどのように起こるのか。注目のピン芸人、九月さんに聞いてみました。前編/後編の2回にわけてお送りします。


ゲスト:九月氏(芸人)

 

 

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夏頃までに時々アップしていきます。全部で10本ぐらいのインタビューを予定しています。

 

このポッドキャストの背景に関する解説記事はこちら。

kmhr.hatenablog.com

 

『三人称を超えて 」ー デザイン概念の輪郭をさぐる試み

経済産業省主催で、地域版高度デザイン人材調査研究の一環として、4回連続のオンラインイベントが開催されました。

3/4には、この第4回イベント

事例からひも解く!地域と共創するデザイン人材とは?
vol.4「これからの地域デザインの在り方」

というタイトルで、プログラムの一つとして私もトークしてきました。

loftwork.com

 上記プログラム上では「基調講演」となっていますが、そんなにたいしたものではなく、15分程度の前座的トークです。ただ、事務局のロフトワークさんと経産省の担当者さんから、個別事例じゃなくて研究者らしく抽象度の高い話をしてほしい、というオーダーを頂き、そういう方向性を意識した話になっています。誰かの参考になるかもしれませんので、スライドを公開しておきます。

 

speakerdeck.com※タイトルをクリックすればSpeakerdeckのサイトに飛び、全画面で見れます。

 

ここで2つした話題のうち、後半の「三人称を超えて」というトピックは、おそらく今後議論になってくるような気がしています。別の場所でちゃんと文章にしようと思っているところなので、ここで一旦話したことを元に加筆して、ここでプロトタイピングとして再構成してみようとおもいます。

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「三人称」を超えて、という話をします。いきなり語学の時間に習った言葉が出てきて戸惑うかもしれません。

 

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現在、デザインは社会のあちこちで取り組まれていますが、多くの分野において、その成果を測るための「数字」は重要な指標のひとつです。たとえば製品であれば販売台数、アプリであればダウンロード数/ユニークユーザ数、広告であればコンバージョン率など。個別の人々の奥底に潜んでいる共通性を探り当て、たくさんの人が共感したり、使用したりすることでその時代を動かしていく。「デザイン経営宣言」(経産省,2018)に見るように、"競争力を上げる"ためにそんなデザインの力は活用されてきましたし、事業者にとっての死活問題となってきました。これらは資本主義経済の中で運用される以上は、前提と言っていいことです。

 

一方で、この枠組みでは、視点がマクロ(巨視)になるため、実際に社会で生活している人々を抽象化して扱うことになります。そこで事業者は、ユーザ、消費者、ターゲット、顧客など、一括して人々につけるさまざまなラベルを用意してきました。つまり三人称の「They(彼ら)」です。これは逆の立場でも同じであり、人々の側からは事業のなかにいる人の顔は見えません。双方が「They」と「They」で捉える関係性になると言えるでしょう。

事業をスケールさせていくためには、三人称の視点は不可欠なものですが、必然的に「客観」的な立ち位置が起点となります。そこには、どうしても距離が生みだされるため、内側にいる個々の人々の利用文脈や感情に焦点をあわせる術がない。そんな構造に問題意識を感じたデザイナーたちは、それを乗り越えるために、対象となる人々をモデル化して狙いを定め、不確実性を削るための手法、例えばHCD(人間中心設計)の各種手法を生み出して来ました。仮想的であっても似顔絵や名前をつくったりするのは、なんとか距離を近づけ、実際の人をイメージしようとする渇望からです。

 

三人称の視点は、デザインの概念と深く結びついています。
例えば「お弁当」を想像してみましょう。お店で売られている「お弁当箱」や「お弁当のレシピ本」は、ほとんどの人がデザイン(されたもの)だと考えるでしょう。一方で、その弁当箱をつかって家族が子供に作ってあげるような、ある日の「お弁当そのもの」は通常はわざわざデザインと呼んだりしません。工業製品の弁当箱よりも、誰かのために心をこめてつくったお弁当自体の方が、ものづくりとしては意味がある気がするのですが、そうではないのでしょうか。デザインは「意味を与える」もの、と定義されたりもするのに、不思議なことですね。

 

大勢の人(They)になんらかの「よさ」の共感を呼びおこし、人々に通底する一種の共通感覚を刺激すること―言いかえればミーム的な拡散力―を持つことが、一般的には優れたデザインとされますし、その「型」の持つ普遍的な強さが、専門家が評価する場合にも重視されます。そして逆に、再現性がまるで無いような、その場限りで蒸発してしまうような即興的な行為や、労働集約的な手作りの行為に対しては、多くの人は「デザイン」という語を当てません。


ここで疑問が生まれるかもしれません。では一点物のプロダクトはデザイン(されたもの)ではないのでしょうか。例えば、オーダメイドのドレス、特注のテーブル、特製のリハビリ道具などは、当事者にとって量産品にはない特別な体験を提供しています。それは不特定多数には向かわないごく限定的なものではありますが、その持ち主を別の日にも手助けしてくれる、という小さな再現性が認められます。したがって、やはりデザイン(されたもの)と言えそうです。またそこにしかない希少なエピソード的体験と切り離せないと考えれば、その伝播においては、やはり一種の「型」をもったストーリーがあり、それが語りによる共感を通じて拡散しています。こうした拡散力とデザインという言葉が結びつきやすいのは、近代デザインの概念が産業革命以降のモダニズムの価値観の中で発達したことと大きな関係があるのでしょう。

 

ここからが本題です。手書きの「お手紙」はどうでしょうか。特定の人と人のコミュニケーションは、わたし(一人称)からあなた(二人称)のあいだで成り立ちます。拡散することを求めてはいませんし、むしろそれは目の前にいる大事なあなた(You)への一期一会のメッセージの価値を貶めるものでしょう。ここで、相互に顔の見える関係性で行われる行為は、「デザイン」よりも「ケア」のほうがよほど近いとも言えます。ケアは相手(YOU)を「気遣う」とか「思いやる」という、再現性が無いからこそ関わり合う人の間で相互に意味が発生する行為です。YOUとYOUの関係の中で成り立つ感情は、事前に計画さえ得ない、生活者自身にゆだねられた余白なのかもしれません。手作りのお弁当をデザイン(されたもの)と感じにくい理由はそこにあるのでしょう。


とは言え、「ケア」もデザイン以上に曖昧な言葉で、内容もないまま可変的に使われる「プラスチック・ワード」という言葉のひとつに数えられるぐらいです。したがって先程の試みをケアに置き換えようとするのも、無理のある話なのかもしれません。

 

これほど情報があふれる世の中ですが、探しものはなかなか見つからないもので、わたしたちはまだまだ適切な言葉を求めて努力しなければならないようです。そして万人が納得するような適切な言葉がみつかるのは、それが制度化され、魅力もすでに消え失せてしまった頃なのでしょう。ここではデザイン概念の輪郭らしきものを少々指摘するにとどめます。

 

 

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そんなデザインする行為も、人々がそれぞれの地域の中で実践していくためには、「学び」の側面が切り離せなくなります。では、学びとは、どのように起こるのでしょうか。近年の学習観では、学びとは固定的な知識を注入して自分の中に溜め込むようなものではなく、主体的な活動とともにあり社会的に構成されるものとされます。人は身近にいる他者との共感を通じて社会を学ぶのです。

 

これをモデルにしたものとして、認知科学者の佐伯胖先生は、「学びのドーナツ理論」を提示しています。学び手(I)外界の見え方を広げ,理解を深めていくときには、必然的に、二人称世界(YOU)〈人物,道具,言語,教材〉との関わりを経由する。さらにYOUとなる他者は「第一接面」と「第二接面」の両面に接するとして、単に内輪で共感し合うだけではなく、「外側」に広がる世界に接続する存在でもある。2つの円を重ね、身近な他者(YOU)しか持てない2つの接面の不可欠さを主張したものです。

 

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地域の中でデザインする場合、すでに確立した産業のように三人称的に捉えるのではなく、顔が見えるYOUとYOUの関係を起点にしたものに再解釈し直すことが重要になるのではないでしょうか。 

職種としてのデザイナーだけでなく、何らかのかたちでデザインする人は、前述したようなさまざまな「葛藤」(※スライド参照)「が混ざり合うエリアにたち、地域に生きる個別の人と関係をむすびながら、社会文化や自然環境とを媒介する存在であるはずです。さきほどの「お弁当」の例で言えば、それぞれの地域にある、旬な食材に目を向けることから。その最高の味わい方を育くみ、共に愉しむところから。

 

それは外側(デザインモデル / ビジネスモデル)から内側を決めるのではなく、内側から自然と外側の姿が立ち上がっていくようなありかたです。

 

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逆に、デザインする人自身が学び手になることもあるでしょう。自然界に対してはたらきかける第一次産業(農業,林業,漁業)などは、他種(動植物)とともに生きる中で成り立っています。そういった専門家を介することで、知らなかった豊かな自然界の見え方や生き方を学ぶことになるはずです。

 

こうして、YOUとYOUの双方がともに喜びを見いだすことができれば、そこには共感をもった関係性がうまれるでしょう。お互いのあり方は変化していき、活き活きとしたコミュニティにつながっていくはずです。イリイチの言葉でいえば、「コンヴィヴィアリティ」(共愉)です。

(以下略)

 

 

 

 

未収録テキストの供養

本年度のフィールドミュージアム展の成果冊子を作っている。

 その中のコンテンツのひとつ、「学生たちの活動記録」には履修していた学生たちの毎週のつぶやきや演習後のふりかえりを抜粋して掲載していた。

 

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こんなかんじ。A5横。

が、数ページしか掲載スペース無いので、演習アシスタントにピックアップしてもらったものの大部分は掲載しきれないことになる。

 

ご存知のように今年はコロナ禍でこの学生たちも週に1日だけしか登校できず、かなり学習機会を制限されることになった。そんな困難な中でも、学生たちはやはりどんどん吸収していくのだな・・。と。自分は慣れてしまったけど、つくったものが実際に使われる瞬間は、想像以上に貴重な機会なのだ。

 

その掲載されないものをみていたらなんだか胸が熱くなってきたので、供養のためにここに載せておこう。ざっと眺めてもらえるだけでも、経験を通して学んでいる感覚が伝わってくる。

 


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演習期間中のつぶやき

 

想像上の子供達に対するアプローチを僕たちで何時間も話し合うところが、彼らにかかれば1秒もかからずに答えまでたどり着くのだ。

 

彼らは僕たちのプロダクトに想像以上に真剣に向き合ってくれた。あーだこーだ言いながらも、集中して話を聞き、僕らが残した思考の余白の中で目一杯考え、文字通り試行錯誤し、その結果に一喜一憂してくれた。本気(マジ)で遊んでくれたのだ。そこには遊ぶ楽しさと学びが確かに共存していた。

 

小学生たちは失敗を重ねるごとに、自分で問題点を見つけて、考えて改善しようと努力してくれている!『すごい、自分でトライ&エラーしてくれている!!』と感動した。 
自分で手を動かして「発見する」ということは学びとしてとても大切なのだなと思った。
自分たちでは考えつかなかった発想を子どもたちから与えてもらい、とてもいい回になったと思う。
自分たち大人が楽しめるものと子供が楽しんでもらえることは違うことを理解しながら、取り組むことを大切にしていきたいと思いました。
正解がわかっていないことの方が面白い!これから社会に出た時に、必ずしも正解があるわけではない。だからこそやってみて、自分を信じる!そして、楽しむ!
子供の自由な発想には脱帽です。その時の頭の柔らかさに戻りたいです。
女の子の方から「本の形にして持って帰りたい」とのお言葉が。その案をそのまま採用することにしました。まさか子どもからアイデアをもらうことになるとは思ってもいなかったので、試遊の機会さまさまでした。
ものがこの世に産み出される際、必ず行われるその工程の中にあるものを、今の僕たちは人よりもよく知っている。もちろんその中にある楽しさも。
気温が低い中たくさんの親子がブースを訪れてくれ、私たちが完成させたものを手に取って遊んでくれている姿を見てとても嬉しくなりました。今までかけてきた時間は無駄では無かったとも感じました。
あまりピンと来ていなかったアイデアでも、他の人の考えが加わるとそれが画期的なアイディアになっていったことに感動を覚えた。そうやって、何時間も考えて出たアイデアだけでなく、ポロッとでた言葉を聞き逃さずに大切にしていきたいと思った。
子供たちはカガクおもちゃでとても楽しそうに遊んでくれました!それだけでなく、遊んだ後には自分から原理や仕組みを考えていました・・・小学1年生を舐めてました・・・恐るべし・・・。

「まだカタカナ習ってない」「これで何するの?」感じたことをそのまま発言してくれる子供達から、今まで気づくことができていなかった点について気づくことができた。
今日体験していただいた子供たちにめちゃくちゃ喜んでもらえることがあった。本当に嬉しかった。まっさらな企画がここまで来たんだ、と自信つけられた。
子供は1度やったことをすぐやれるようになるのですごいと思いました。わんぱくな子、静かな子とさまざまなのでその子に応じた対応の仕方をやるのが大切だと感じました!難しいと思っていた部分も自力でできていた部分もあるのでよかったです。
危ないからと何でもやめさせるのではなく、しっかり安全を確認しながら見守ってあげることが大切であると感じました。
親子で楽しめるということから親でないと出来ないこと、子でないと出来ないことをあえて協力型ゲームにすることで魅力的になるのではないか。
互いが真剣にやっているからこそ起きるケンカはとても意味あるものだと思いますし、いい経験になったと思います。
他の班のおもちゃも自分たちじゃ思いもつかないような楽しいおもちゃばかりで、とても楽しく体験できた。私たちだけが楽しいじゃなく、親子が楽しいと思えるカガクおもちゃにしなくてはいけないので、根本的なところを忘れないようにしていきたいと思った。

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ふりかえり

小さい子供は言う事聞かない想定だったんですけど、意外と言うこと聞いてくれたりして、やっぱりちゃんと話すと伝わるんだなというふうに思いました。
子どもよりも親御さんの方が興味を持ってくれたり、理科が好きな子がとても楽しそうに話を聞いてくれたり、自分たちが想像していたより遥かに沢山のものをこの発表で得られたと思う。
キラキラしたものは子ども達に興味を持ってもらうのに非常に効果的であった!正直、想定外であった。
どっちも本気でやってるから、ぶつかったりすることもあったんだけど、でもお互いに妥協しない心があって凄いよかったし、それがあったから本心で話せるようになったのかなと思います。
親子で協力して色を塗ってくださったり、親子でおぉ〜と驚いてくださったり、子供だけでなく親御さんも喜ばせるというちょっとした目標を達成できたと思います。
週一しか登校出来ないと言う状況の中で、それでも会った時にしか出来ないことは何なのかと言うことを自分たちで考えて、最終的に何とか完成させられたのは、良かったのかなと思っています。
先生のお子さんが来てくれた時に、自分たちが当たり前に出来る事でも子供は当たり前にそれが出来ないと言うのを常に考えていないといけないことが分かった。ユーザーの立場に立つ重要性に気づかなければならないと気づきました。
早めにものを作って早めに切り替えるというのが、一回作ってみんとわからんこともあったし、大切なことなんだなということに気づきました。
演習を通して、一人で出来ることって意外と少ないなっていう風に思いました。やっぱみんなで協力したから100個のキットを授業内に作り終えることができたと思います。
想定していた以上に多くの方に足を運んでもらえて、とても嬉しかった…。完成までの間に不安だった点が逆に面白い!と感じてもらえる要素だったり、本番まで気づかなかった点が実は一番子供にとって詰まる要素だったり、今までやってきたユーザーテストとは比べ物にならないくらいの膨大な気づきを与えてもらえた。
見本を見せることって大事だなと気づくことが出来た。最初に答えを言わず、見本を見せて何が違うと思う?ときくとなんで自分のは飛ばないんだろう?と一生懸命考えて答えを出してくれた。

 

 

 

ものごとに向き合う「態度」について聞くPodCastシリーズ開始!

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 最近、研究のアウトリーチ(公開や普及の活動)として表題の新しい取り組みをはじめました。その背景を書いてみます。

 

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 最近、デザインを学ぶ場が増えています。そこで専門家でなくても、(否が応でも)デザインについて語り、指導することを求められる場合があります。例えば、学校のカリキュラムや企業の研修の一部として。高等学校普通科でも、情報Ⅰに「コミュニケーションと情報デザイン」が取り入れられ、本格的にデザイン教育が開始されています。地方では情報の教員すら極めて少ない中、日本全国で80万人の生徒たちに対する教育体制をなんとか構築することが急務となっています。

 

 しかし、デザインすることの知は、実践のなかに埋め込まれたもの(実践知)です。教科書にはさまざまな知識がまとめられているとしても、もとの実践の豊穣さと比較すれば、言葉と言葉のやりとりで伝わるものはほんのわずかでしょう。人間はコンピュータではないので、アプリをインストールするようにうまくいくわけでありません。

 

 もう一点、さらに見落とされがちなこともあります。例えば、だれかが何かの行為をする場合、それは知識や技術だけで行われるわけではありません。今の時代、さまざまな情報は溢れかえり、いつでも誰でも手に入れやすい状況になっているわけですから、そこで何を「する」のか「しない」のかを決めているのは、本人の中にある動機や志向性です。自分自身が生きる中にある現実に対してどのように向き合うか。すなわち「態度」や「姿勢」といった側面と切り離せないということです。


 デザインすることも、まさしくこの側面と切り離せません。知識や技術を自分の中に蓄えるためではなく、本来はそれぞれの人間が世界に対して『応答』し、自分の潜在能力(ケイパビリティ)を活かすものとして捉えていく必要があるはずです。

  
 そして、この態度の観点は、学習者自身だけでなく、教育者/新人の教育係/組織のマネージャーなど、学習者に寄り添う立場の人にこそ自覚が必要なものだと言えるでしょう。なぜなら、人が何かを学ぶ時、直接関わり合う人の存在は極めて重要です。学び手である「わたし<I>」の目の前にいる「あなた」<二人称のYou>を介して、その向こうの社会<三人称でできているThey>が見えてくるものであり、構成される世界の見方に影響を与えるからです(佐伯胖の「学びのドーナツ理論」)。何かを面白がっている人の姿に面白さを感じるように、物事に向き合う態度は、その人の周囲にも伝播します。それは意図的に届けるというよりも、自然に"感染"していくようなものです。

 

 職務上、教える立場となった人達は、必死でトレーニングしたり本を読んだりしてそれなりに勉強していると思いますが、この「態度」の観点については、つかみどころがなく、正直意識しにくいものだと思います。仕事現場で直接プロの背中から学ベる人は相当に限られるでしょう。また、プロと呼ばれる人も一様ではありませんし、「医者の不養生」ではありませんが、日々の仕事に忙殺されていると、望ましい態度を発揮しているかは正直難しいところです。

 

 では、どう考えていけばいいのでしょうか。実は、ものごとをつなぐ「専門のない専門性」もまたデザインのもつ重要な一面です。まったく違う発想として、デザインの専門知識ではないところから、核心となる態度の問題を見出せるのではないか、と私は考えています。一般的にはまったく別の分野と考えられている方々の話を聞いていく中に、共通する補助線を描いてみる。それを通して視野を広げ、デザインするという行為も、さらにはそこにおける態度の問題も、決してわたしたちの日常生活と切り離されたところにあるわけではないことが、ぼんやりと見えてくるのではないか。そんなコンテンツを介して幅広い人々に自分で考えてもらおうということで、「態度」に焦点を当てた連続インタビューシリーズのPod Castに挑戦してみます。

 

※この取組みは、科学研究費補助金基盤C(18K11967)によって支援されています。

 

収録予定

第1回は「学び得ぬものをいかに学ぶか」について人類学者に聞く

第2回は「構えは何を決めていくのか」について剣士に聞く

第3回は「万物がつながっているとはどういうことか」について僧侶に聞く

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■態度リサーチ#1「 学びえぬものをいかに学ぶか」について、人類学者に聞く」

先日、第1回を収録しましたが、諸事情で文字起こして記事にしました。2万字近いボリュームとなってます。定性調査を行っているリサーチャの方、必見の内容です。

note.com

 

 

 

2021年、あけましておめでとうございます

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新年、あけましておめでとうございます。

毎年恒例の活動まとめを書きそびれてしまった。昨年度はじわじわと精神を削られるような日々が続いたが、まだまだ続くんだろう。さきほど初詣にいって世界が平穏に成ることを祈ってきた。大学ではここのところの感染拡大の緊迫度が増していて、無事に入試ができることを願うばかりである。今年はもうちょっと充実した活動ができればいいな。

なんとか単著はおわったが、「シン・デザインの教科書」プロジェクトの方はまだまだ。今年はこちらに注力する。

 

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2020年度の活動一覧

 
 
学術業績
6月)Akam,Y.,Light,A.,KAMIHIRA,T.(2020) “Expanding Participation to Design with More-Than-Human Concerns”, Proceedings of the 16th Participatory Design Conference 2020 - Participation(s) Otherwise - Vol 1. pp. 1–11
 
12月)単著『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に」
 
編集中)上平崇仁,飯田周作 「創造性教育におけるフィールド概念の整理と学修プログラムの検討」情報科学研究:専修大学情報科学研究所年報2020
 
編集中)上平崇仁,他「コンテンツデザイン2010-2020」ネットワーク&インフォメーション:ネットワーク情報学部紀要,学部20周年特集号
 
 
 

講演/トーク/出演

1月)埼玉県高等学校 情報教育研究会 招待講演「 情報Ⅰにおいて、「情報デザイン」は、どう学ぶことができるか?」

2月)産業技術大学院大学人間中心デザインプログラム「デザイン態度論2019」

9月)Xデザインフォーラム 2020「人類学×デザイン」セッション

9月)SECHACK365パネルセッション

9月)日本デザイン学会 情報デザイン研究部会 研究会「オルタナティヴデザイン 〜実践者たちのデザインの知のはたらき〜」

9月)株式会社ゆめみ「NEXT IDEAFES 2020」

10月)千葉工大大学院「デザインイノベーション特論」

12月)千葉工大安藤研「UX Rocket」パネルセッション

12月)大阪大学エスノグラフィーラボ「Design for the Pluriverseを巡って―デザイン・人類学・未来をめぐる座談会」

12月)Era Web Architects Project ゲスト登壇

 

イベント企画

1月)フィールドミュージアム展2020

1月)上平研究室卒業演習プレビュー展「共愉的瞬間」

8月)高校生向けデザインワークショップ「仮想空間の中に楽しいコミュニケーションをうみだす仕掛けをつくろう」

12月)科研費プロジェクト・二層式ワークショップ 「デザインにおける態度の視点」

 

記事

1月)専修大学校友紙「世界の見え方を変える"デザイン"の可能性とは?」(2020年1月号)インタビュー掲載

1月)日本グラフィックコミュニケーションズ工業組合連合会・月刊GCJ 「誰もがデザインする時代では「態度」の問題が重要になる」インタビュー掲載

5月)ベネッセ教育情報サイト「私たちがオンラインで学べるものとは?」寄稿

6月)ベネッセ教育情報サイト「わたしたちの身体は、座りっぱなしに耐えられない」寄稿

7月)ベネッセ教育情報サイト「プログラミング「で」学ぶほうがいい」 寄稿

8月)ベネッセ教育情報サイト「親もいっしょに創意工夫してみよう」寄稿

8月〜12月)Cultibase「Co-Designをめぐる問いかけ」連載(※書籍原稿の再構成)

 

■委員など

WIT Award 2020審査委員

いくつか査読など

【コ・デザイン執筆裏話#1】秘技・文末ゆらし!日本語を書く際の不思議なテクニック

執筆を通してたくさんのことを学んだので、何回かにわけて執筆の裏話を書いていこうと思う。

 

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いまふりかえって真っ先に思い出すのは、文体や漢字/ひらがなのひらき方によってニュアンスが変わる、日本語ライティングの面白さである。僕自身はこのブログにしても論文にしても、普段は「である」(常体)で文章を書いている。そのほうが圧倒的に書きやすし読み慣れている。とはいえ、ほとんどの読者にとっては、「ですます」(敬体)のほうが親しみやすさや丁寧さを感じて支持されるようだ。そのへんを考慮して『コ・デザイン』本は、多くの人に読んでもらうために「ですます」で書くことを選択した。

 

ところが。

「ですます」で長い文章を書くのは、ものすごく難しい。とにかく冗長かつ単調になりやすいのだ。ブログやnoteを書いている人は、経験したことがあるだろう。その原因は日本語の文末のバリエーションが極めて少ないことにあるようだ。〜〜です。〜〜ます。〜〜です。〜です。のようにちょっと気を抜くと文末が「す」だけで揃ってしまい、単調になる。単調さは全体のリズムに直結し、読者は眠くなる。続けて読めなくなり、そっと本を閉じる。

 

どうしたものか・・・。

まず、僕が取った経験的な方法は、「なるべく同じ文末を続けない」ことである。「〜〜です」に頼らず、「〜〜でしょう」「〜〜でした」「ではありません」などの話し言葉のような変化をつけていく。それに加えて、非常に短い文章をいれて、破調のアクセントをつくる。そんな工夫を重ねつつ、文章を綴っていった。

 

しかし、それでもなんだか全体の冗長さは消えない。ニホンゴ、ムズカシイネ。そんな思いを抱きながらせっせと駄文を書き進めていたある日のこと、大学内で仲俣暁生氏(編集者/文筆家)と雑談する機会があった。その時に悩みを相談したら、あっさりと「常体と敬体は混ぜていいんだよー。逆にどう混ぜるかが作家の腕なんだよ」と笑顔でアドバイスを下さった。

なるほど。混ぜていいのか!学校では、普通は「常体と敬体は混ぜてはいけません」と習う。下手な人が混ぜてしまってとても違和感があるものを読むこともあるが、たしかに小説家は上手に両者を混ぜている。しかし相当な文章の腕が必要とされるようで、混ぜ方が怖くてなかなか踏み込めず、途方にくれていた。

 

そんな頃に一冊の新書が発売されたことを知る。それが、瀬戸賢一先生の「書くための文章読本」だった。

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瀬戸先生はメタファーや日本語レトリックの研究で知られる一流の言語学者である。ふつうのライターが書くような内容であるはずがない。

 

解説はこちら。

これまでになかった画期的な「日本語論」を展開。そして文末を豊かにすることで、文章全体が劇的に改善する実践的技巧を示した、本当に役に立つ、まったく新しい文章読本!
日本語の文章で力点が置かれるのは圧倒的に文末。文末は、文の全体に書き手の意思を伝え、情報の核を据えるところ。そして、もっとも記憶に残りやすい。だから文章におけるパンチの効かせどころだと著者は説く。ところが日本語では最後に動詞がくるので、付け足しがしにくく、その大切な文末が弱い。さらに「です」「だ」などが連続して単調になりがちだという弱点もある。これらをどう解決するか。
『日本語のレトリック』『メタファー思考』などのベストセラーがある言語学者向田邦子筒井康隆井上ひさしなどの名文を引いて丁寧に構造を分析し、わかりやすく解説。プロの文章テクニックが身につき、伝わる文章が書けるようになる、まさに「書くための」文章読本。また引用されたバラエティに富む名文で、日本語の美しさや豊かさ、作家の技が堪能できる。実践的でありながら楽しい1冊!

 

 いやもう、この本はむちゃくちゃ勉強になった。なんせ文豪の名文の実例を豊富に引用しながら、どこにどんな工夫があるのかを丁寧に解説しているのだ。内容は、「踊る文末」「読者との問答」「過去の表し方」「(文章表現の中での)視点の置き所」などなど。

書くことは対話することです。話すことがそうであるように。これはことばの本質に根ざします。書こうが話そうが、伝達は受け手がいることを前提とし、ときに自分自身のみが受け手であってもかまいません。この節では、文章の中に対話的要素を取り込む手段を探ります。範囲は文末から文全体に広がります。聞き手=読者を表現のなかに取りこむ点でレトリカルなくふうの中心だと思ってください

瀬戸賢一. 書くための文章読本(インターナショナル新書) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1310-1314). Kindle 版.

 

この本を読んで、日本語にどんな制約や特徴があり、具体的にどんな時にどう変化をつければ文章に律動感や躍動感がうまれるのかがよく理解出来た。

買ったのが2月。そこから書き上げるまでに1ヶ月。全部は修正できなかったけど、書き換えられそうなところにはいろいろ工夫を入れた。たとえば、「まえがき」の冒頭。映画で言えばイントロの数秒である。

 

「手作りのアップルジュース、試飲できます」
そんなキャッチコピーに釣られ、ある夜、私は家族とともにそのイベントのブースの前まで行ってみました。眩しい灯りの下で、列になった人たちが賑やかに作業しているのが見えます。みんなで手分けして包丁を手にとり、カゴの中のりんごのヘタや汚れ部分を取り除いています。次の人たちは、それを適当な大きさに切り刻んでいます。どうやら作業しながらも、少しずつ列が進んでいるようです。列の先頭にはビア樽ぐらいの大きな絞り器があり、数人がかりでそのレバーを一生懸命に回しています。そうして絞りだされてきたジュースを紙コップで受けとった人は、列から離脱しています。一連の流れを眺めてみると、要するに、このブースでは完成物をふるまうのではなく、つくるための材料や道具を人々に提供し、列に並んだ参加者たちが自力でつくることを「手作り」と称しているのでした。

 

冒頭は、いきなり読者の意表をつくように、とあるエピソードの描写から始まる。数年前の出来事なので、「過去」である。なので普通に書けば「〜た」が連発されてしまうことになる。そこをまずカメラごと過去に入り込み、現在形の「す」で書いていく。さいごに過去形の「た」で現在に舞い戻る。

 

 (なお、導入をエピソードから始める場合、そこに全体を予感させる寓話的な「余白」が必要になるだろう。このアップルジュースの話は、本を書くずっと以前、一緒に酒を飲んでいる時に安藤昌也先生に話したら、彼が非常におもしろがっていたことを覚えていた。これなら「つかみ」になるだろう、と冒頭に使うことを決めた次第。一人では面白さには気づけない)

 

つづく「まえがき」の中盤。

仲違いするかもしれない。裏切られるかもしれない。誰かと協働する中で起こりうるネガティブな面を考えると、誰もが他者と手を結ぶことには及び腰になりがちです。協働することの意義を見いだすためには、そんなリスクを抑えて希望が見えるような、広い視座を得なければなりません。学問は、そのためにあります。

 モノローグ的な部分に常体を入れ、韻を踏むことでリズムをつくる。最後は短い文で言い切る。こんな感じで、敬体を基本としながら、あちこちに常体を混ぜ、文章の長さを調節している。

 

試しに知人に聞いてみたら、「(そんな工夫がされていることに)まったく気が付かなかった」と言われた。よしよし。インタフェースは自然であればあるほど気づかれない。取り入れた工夫はまあまあうまく働いていると言えるだろう。

 

なお、このブログ記事の文章にも、執筆を通して学んだ工夫が施されている。あなたは気づくだろうか?

上平は「秘技・文末ゆらし」のテクニックを手に入れた!

 

 

kmhr.hatenablog.com

 

単著『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』を上梓しました

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12/21に、NTT出版から『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』を上梓しました。3月頃にはほぼ書き終えたものの、いろいろあって時間が経ってしまいましたが、お陰様でなんとか無事に書店で販売されています。

 

"コ・デザイン"とは耳慣れない言葉だと思います。コ(Co)とは、「ともに」や「協働して行う」という意味で、簡単に言えば、デザイナーや専門家と言った限られた人々だけでデザインするのではなく、実際の利用者や利害関係者たちとプロジェクトのなかで 積極的にかかわりながらデザインしていくアプローチのことです。

 

・・・と、こんな風に説明すればまあ普通のデザインの解説書に見えるのですが、この情報の多い時代、わざわざ本にする意味を考えなくてはならない。そんなわけで、いろんな仕掛けが埋め込まれています。

 

4つのポイント

1)ほのぼのした装丁とタイトルで、手触りとともに読む愉悦があります。一般的にデザインの本の表紙を考える場合、関西でいうところの「シュッ」としたものに寄せがちですが、僕はこの本において、そうではない方向性、つまりカッコよくはなく目立ちもしないけど、実は大事なデザインのあり方を意識して文章を書いていたのです。明確には書いてなかったと思いますが、そんな僕のメッセージをデザイナーの上坊菜々子さんが見事にすくいあげ、かたちに落とし込んでくださいました。画像だけみたらピンとこないと思いますが、実際に本を持ち、ページをめくってみると、ハトロン紙(クラフト紙)の手触りがデジタルにはない自然な温かみを感じさせます。白い帯も、わざわざ白インクで印刷されています。著者の僕ですら、最初からこの存在としてあった気がするほどフィットしているように思います。

 

2)こういった取り組みで見落とされがちなのが、参加する人々、つまり専門家ではない側の視点。しばしばデザイナーは「巻き込む」と言いますが、巻き込まれる側は迷惑ですね。そういう台風みたいな強引さで近づけるのではなく、ちゃんと自分の意思で関与する必要性を理解できるような言い方をしなければなりません。そこで、専門家側と非専門家側の両方の視点に立って、それぞれが自分の視点から楽しく読めるようにまとめました。スルスルと読めるように易しく書いていますが、双方ともに「ドキリ」とさせられ、冷や汗がでてくるはずです。コンテンツはほのぼのしていません。おなじ文章の中でも、別々の方向から解釈が交わることで、新しい対話を生むでしょう。

 

3)そして、コ・デザインを説明するだけでなく、そこから「いっしょにデザインする」ことの意味を巡って議論を展開しています(それが主題です)。デザインを批判したり、ヒトが協働する基盤を数百万年遡って探ったり、民主政治の議論に踏み込んだり、「みんな」とは実は人間だけを指していなかったり・・・。目指したのは、寺田寅彦「茶わんの湯」(1922)。何の変哲もない一杯の茶碗の観察を起点に、どんどんスケールアップしていき地球上空から見た気候現象の視点まで到達する、読者をクラクラさせる名随筆です。文豪にはとても敵うわけはないですが、当たり前のものから、いつのまにか世界の見え方が切り替わっていくような感覚は、読んだ人にはなんとなく影響が感じられると思います。

 

4)タイトルでよく誤解されるのですが、単なる協働や共創のススメを説きたかったわけではありません(本文でもしつこく書いています)。どう考えても、これからは厳しい時代です。そんな中でわたしたちは生きていくための可能性を、様々な方向から考えなくてはなりません。困難な状況の中で新しい活動を起こそうともがく人々が一筋の希望を見いだせるように、迷う一歩を少しでも力づけられるようにと願って書きました。なので、デザイン解説書に見えて、実は思想書です。一般的なデザイン論におさめようと思って書いた内容ではありません。

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さっそくの反響

出版されたばかりなのに、早くも読んでくださった方にレビューして頂いています。

ありがたいことです。読むのを迷っておられる方は参考までに、ということで引用致します。

上平先生のこちらの本、本当に素晴らしい本だと思いました。穏やかでありながら、力強くデザインの未来を考える本でした。

まず、自己批判的であること。デザインを推奨する本でありながら、デザインを批判している。これができるデザイナーは実は少ない。デザインに向き合うこの態度が誠実だと感じました。

そして、学際的であるにもかかわらず、読みやすいこと。参照する分野が多岐にわたり、イリイチフルッサーなどにも言及しているにもかかわらず、やさしい文体で読みやすい。読む人の視野をいつの間にか広げてくれると思いました。

一見ゆるそうに見えて、なんとなく手に取るとどんどん深みに入っていく。読む人を引きずり込む罠のような(褒めてます)本でした。多くのデザイナーに読んでもらいたい一冊です。

Fumiya Yamamoto on Twitter: "上平先生のこちらの本、本当に素晴らしい本だと思いました。穏やかでありながら、力強くデザインの未来を考える本でした。 | コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に https://t.co/3SU4FcT3NF"

 

そこを何とか、ある程度の素養をもつ人たちが峠越えのための説得に回って欲しい、願わくば行動して欲しいとの願いで書いたのであろう本が、『コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に』だと思います。

<中略>

 上平さんは、コ・デザインに似た言葉としてみられやすい「コ・クリエーション」「インクルーシブデザイン」との違いを丁寧に説明しています。彼が概念の成り立ちの背景や周辺事情にとてもセンシティブなところに好感がもてます。学者としての姿勢もさることながら、この輪郭と深みをしっかりと説明することで、読者がここを起点として次が考えやすくなっています。

note.com

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試し読み

NTT出版のnoteで、本書の「まえがき」が公開されていますので、試し読みできます。

note.com

あと、CULTIBASEでの全5回の連載も、実は本書の原稿から編集さんが切り出して再構成したものです。まえがき/3章/5章の一部が掲載されています(無料ですが、要会員登録)

 

cultibase.jp

 

 

というわけで、関心を持たれた方、どうぞご一読していただけますと幸いです。

いくつかネタがあるので、執筆裏話も書いてみようと思います。

https://www.amazon.co.jp/dp/4757123841/

 

 

 

 

「コンヴィヴィアル」の言葉の意味

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未だ影響を持つイヴァン・イリイチの名著、「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)が出版され、もうすぐ50年経とうとしている。イリイチの思想はなかなか読み解くのが難しく、多くの人は、彼のいう「コンヴィヴィアリティ」や日本語訳された「自立共生」という言葉を知っていても、そこでいったいどんなことを主張していたのか、なかなか理解しきれない。特に表面に出ない「限界づけられた道具手段」の含意は、ちゃんと本を読まないとつかめない。

 

本の内容については、以下の要約サイトの解説がすばらしい。

www.syugo.com

すなわち、本書におけるイリイチの議論の焦点は、コンヴィヴィアルな社会を可能にするために道具の効率性に対して課される限界を明らかにすることにある。人々がそれを使って生き生きと創造的な仕事をすることのできるような道具、人間をその道具に使われる奴隷にしてしまうような道具ではない道具、そのような道具の構造の探求が、本書の主題なのである。

 

この記事の扉写真の「人類の希望」(1984年出版)という本にて、イリイチ自身が話し言葉で詳しく解説しているということを知り、アマゾンマーケットプレイスから取り寄せてみた(200円)。イリイチが来日した際の講演や対談(なんと宇沢弘文と!)などを収録したもの。

 

 以下、『人類の希望』からの引用。この本に興味持つ人が多かったので重要な部分を写してみる。

 

自転車は、ボールベアリングなしには存在しません。モーター化された道路の乗り物、あるいは自動車はボールベアリングなしには存在しません。10年前まで私は政治的に悪しき社会で使われているという理由から、自動車、つまりボールベアリングが使われている自動車は、悪しき社会的影響をもたらしていると考えていました。
ところが、ゴルツやシューマッハーや宇井さんと同じく、ちょうど私もそんな単純なものではないということを理解するに至りました。


<中略>


私は、乗り物の最高速度に対して、非常に厳密な限界をもうけることで初めて、モーターで動く乗り物が、自転車にボールベアリングを使用する人々を差別しないで走れるのだと気づきました。
ところで、自転車速度を超えて移動する人が、誰もいない社会を主張することは、決して過去に戻るというものではありません。そうした社会はかつて実在したことがないのです。

 

<中略>

 

私はボールベアリングのように、素晴らしく近代的であって、しかも、過去に知られていたものを超えて、しかし、社会的な差異を増大させないものを、ある社会のために命名するその名を見つけるざるをえませんでした。 そしてスペイン語でいう、「コンビビエンシアリダード(conviviencialidad)」こそが、その命名にもっともふさわしいと思ったのです。
それは一緒に生活するアートと言う意味です。ですから私が使う用語、コンビビエンシアリダードは、中央集権化やヒエラルキーや搾取を必ず押し付ける近代技術を極力排除する社会のための用語です。この意味で、産業主義にコンヴィヴィアリティを、あるいは産業的道具にコンヴィヴィアルな道具というものを対置させているわけです 。

私は工業のない社会について述べているのではありません。私が申し上げているのは、特権がある社会は特権者に都合の良い社会で、コンヴィヴィアルな道具を使用するあらゆる平等な可能性を後退させられているのです。そんな産業的道具が支配していることに反対することを、私は申し上げたいのです。
私は自動車に反対しているのではありません。社会がそうしたものをできるだけ少なくするように、と奨励しているだけなのです。(P27)

 

 

 

 

質疑応答―コンヴィヴィアリティとは
Tools for Convivialityと題するあなたの本が日本でも訳されてますが(邦訳:「自由の奪回」)、コンヴィヴィアリティとは何でしょうか?その言葉について説明してくださいませんか。

 

ええ、喜んで。現代の英語で"convivial"と言えば、通例では「ちょっと酔いが回った宴席気分」と言うくらいの意味で使われています。それは私も充分承知しております。 しかしスペイン語の"conviviencial"は、もっとずっと強い意味の言葉です。1つの谷戸に住む隣人たちを結びつけてきた歴史的な絆、自分たちの「入会地」、「共有地(Commons)」を守ってきた隣人たちの絆、それがもともとの意味です。

共有地と言うのは術語です。それにあたるうまい日本語があるのかどうか、私には分かりません。イギリスの領主たちによる「共有地の収容(explropriation of the commons)」、「共有地の囲い込み(enclosure of the commons)」が史上有名ですが、その「共有地」のことです。日本語では、どういうのでしょう。そして「コンヴィヴィアリティ」とは1つの谷戸に住む隣人たちが共有地を守ることを可能にしていた、そうした絆を本来意味するのです。
ですから、これも歴史上の一種の述語です。私はそれを法的なものであると同時に生態学的なものと理解し、私自身の言葉としました。 南アメリカの古いスペイン語では、この述語は環境の「有用化価値」(utilization  value)に対する入会権、請求権を指し示していたからです。環境の有用化価値とはなんでしょう。それは市場や官僚によるコントロールの枠外で、自らの「サブシスタンス(※生存)」のためにこそ、環境を利用することが許されるべきだと言う請求権を意味しています。


<中略>


ところでスペイン語の"conviviencial"には、以上のものとは少し違う、より新しい意味も加わってきています。"este sñor es muy conviviencial"といった場合、つまり「この紳士は大変コンヴィヴィアルだ」と言った場合、きわめてスペイン語的な意味で、尊敬を込めた意味で、彼が大変「つましい」(frugal)人だ、「しぶい」(austere)人だと述べたことになります。そしてこの「しぶさ」(austerity)という言葉は、伝統に従えば実は「友情」(friendship)の基礎を表してもいるのです。
なぜか。今説明します。この場合の「しぶさ」とは、私とあなたの間柄をみだすもの、私とあなたの間に介在してくる余計なものを一切認めないと言う性格、特徴を表現しているのです。したがってスペイン語で"amistad"と呼ばれる至福の状態、人世の無上の喜びの基礎となりうるわけです。つまり「友情」の基礎なのです。英語で"austerity"と言っても、なかなかこの感じが伝わってこないので困ります。


<中略>

 

あなたが今あげた本で私が試みたのは、モノの持ちすぎ、過度の所有の志向に異を唱えることでした。英語でもうまく表せないのですが、あの本では、私たちがある種の生産手段から身を離そうとするときに必要となる基礎的なルールを取り扱ったつもりです。先程申し上げた「しぶさ」を不可避的に破壊してしまうような生産手段、あるいは古い言葉で言えば不可避的に「疎外」(alienate)をもたらすような生産手段から いかに身を離すか。そして社会の「疎外」を不可避的に生むものに、道具が、生産手段が変わってしまうのは、それがどのような特徴を持っている時なのか。そんなことを探求したのが、あの本です。(P139)

 

おお、ここまで丁寧に解説しているとは。「コンヴィヴィアリティのための道具」よりずっと明確に語っている。やはり、Designs for the Pluriverseと同じような匂いを感じる。

道具(イリイチがいう道具[tools]には、都市間高速輸送、ジェット機、テレビのような機械から学校や病院などの制度や仕組みも含まれる)の側からの限界点や制約として人間社会の側に働きかけ、その構造のありかたを問うところは、アルトゥーロ・エスコバルが、存在論的デザインのあり方に懸けていることと、かなり似ているように思う。南米の中からの視点で書かれているDesigns for the Pluriverseにも、やまほど"convivial"という単語はでてくるんだけど、ここでイリイチが説明しているように、南米スペイン語のニュアンスを含んで考える必要がありそうだ。

賢人たちの思想は深い。日々勉強だ。

 

 

【高校生向け/教育者向け】オンラインワークショップ参加者募集

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上平研究室主催で、12/26(土)にオンラインのワークショップを企画しております。珍しい2層式です。ご関心をお持ちの方、是非ご参加ください。


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1)高校生向けデザインワークショップ―「文字のカタチの博物学:日常の文字からデザインの”細胞”を考える」

 

 みなさんが体育祭や学園祭で着るクラスTシャツ。クラスメイトの名前や先生の名前、スローガンやキャッチコピーなど、文字を使わないクラスはほとんどないと思います。クラスTシャツのデザインを決めるとき、どんな文字を選べばいいのか悩んだり議論になったりしたことはないでしょうか?

 

 文字は私たちの日常のどこにでもあります。文字はただの意味としての情報だけでなく、印象やイメージといったいろいろな情報が含まれています。

 このワークショップでは、身の回りの文字の観察を通じて、そこに含まれたデザインの”細胞”を発見します。かっこいい/かわいい? 高そう/安そう? 甘そう/しょっぱそう? 書かれた内容だけでないさまざまな要素にアンテナを高めれば、普段何気なく見ている景色がずっと違って見えるはずです。

 

 文字の中の”細胞”へのアンテナを高めたあとは、いよいよクラスTシャツのための文字を考えてもらいます。自分たちのクラスを表すためには、どんな文字をデザインに入れればいいでしょうか。学校で一番のTシャツを作るための文字について、選んだ結果をプレゼンテーションしてください。


■日時:2020年12月26日(土)  13:00-15:00
■場所:オンライン開催
■対象と条件:高校1〜3年生(中学生でも可)で、パソコンからZoomに接続して参加できる方
■定員:12名~30名
■参加費:無料
■指導/ファシリテーター:山下絵理(デザイナー / 東京藝術大学大学院博士後期課程)

■申込みはこちらから
https://forms.gle/EJUR3n3xXkV95UYNA

 

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2)教育者向けオンラインワークショップ―「デザインにおける"態度"の視点」

 

 高等学校の学習指導要領の改訂にともない、情報1の一分野として「情報デザイン」が必修になりました。プログラミングやデータ分析といった情報の主要な学習領域を社会の中に接続していくためにも、デザインの概念が活かせる場面を理解することは重要です。

 そして、デザインを学ぶためには、技法や進め方だけでなく、目の前に起こっている現実を直視し、そこで何を試みようとするのかの視点を持つことが欠かせません。答えが不確実な学びの活動を支えるのは、「知識」よりもむしろ「態度」です。それこそが挑戦することを力づけ、しなやかな知恵をつくっていきます。これまで態度は属人的なものとして扱われがちでしたが、指導する側の背中を通じて伝わるものだと考えれば、それは教える内容以上に学習者の学びの質を左右するとも言えるでしょう。

 そこで、教育者の皆様を対象に、デザインにおける"態度"に焦点を当てたワークショップを企画しました。本ワークショップは、高校生にデザインワークショップを運営するファシリテータのふるまいやアドバイスをよく観察した上で、その後自らの態度を考えるワークショップに取り組むという、2層構造になっています。今回はオンライン開催ですので、遠隔地のご参加も可能です。ご関心をお持ちの先生方、是非ご参加ください。


■日時:2020年12月26日(土) 13:00-15:00, 15:00-18:30 (前半は高校生向けのワークの見学or別室参加)
■場所:オンライン開催
■対象と条件:高校・中学校・小学校の情報教育/デザイン教育に関わる方々(注
■定員:20〜30名程度
■参加費:無料
ファシリテーター:上平崇仁(デザイン研究者 / 専修大学教授)

■申込みは以下のフォームから
https://forms.gle/V9ffTDDY1y19h4Ze9

 

注)教育者を優先しますが、それ以外の方々でも参加枠が空いていれば参加可能です。12/19頃までに参加可否のご連絡をいたしますので、所属を明記した上で参加申込をお願いします。

 

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※本ワークショップは、2020年度科学研究費助成事業 研究課題「態度形成のプロセスに着目した 教育者向けデザイン学習プログラムの開発」(18K11967) の支援を受けて行われるものです。

 

主催:専修大学上平研究室
共催:神奈川県高等学校教科研究会情報部会
協力:専修大学ネットワーク情報学部
お問い合わせ:上平崇仁(kamihira@isc.senshu-u.ac.jp)※@を半角に変えてご利用ください

 

Ethnography Lab, Osaka 特別セミナー Designs for the Pluriverse を巡って:デザイン、人類学、未来をめぐる座談会

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こんなセミナーに登壇することになりましたので、お知らせ。

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デザインと人類学の関係は近年ますます接近しています。そこで、大阪大学・人類学研究室と Ethnography Labでは、デザイン人類学をテーマとする座談会を企画しました。

2018年に人類学者のArturo Escobarが出版した Designs for the Pluriverse は、デザイン、人類学、社会運動など多岐にわたる分野で大きな反響を引き起こしています。持続可能な世界を構築するための人類学的なデザイン戦略—Pluriverse(多元世界)のためのデザイン—を論じた本書は、デザイナーにとっては、デザイン思想の中にトランジション・デザインを体系的に位置付け、存在論的デザインという新たな概念を導入する画期的な理論書です。一方、人類学にとっては、人類学とデザインの関係史を総括し、現代の人類学の研究動向の中でデザインとの協働を積極的に位置づけるものです。

気候変動が悪化する中で、社会とテクノロジーのあり方を抜本的に作り替えることが求められている現在、デザイン、人類学、アクティヴィズムを繋ぐ本書は極めてタイムリーなものだと言えるでしょう。

今回の座談会では、こうした二重性を持つ本書に注目して、デザイナー、人類学者、そしてEscobar本人とも近い研究者/アクティヴィストが、持続可能な世界への移行のためにデザインと人類学/社会科学が果たす役割について議論します。

※本座談会は、Zoomによるオンライン座談会です。

討論者

岩渕 正樹(いわぶち・まさき)

NY在住のデザイン研究者。東京大学工学部、同大学院学際情報学府修了後、IBMDesignでの社会人経験を経て、2018年より渡米し、2020年5月にパーソンズ美術大学修了。現在はNYを拠点に、文化・ビジョンのデザインに向けた学際的な研究・論文発表(Pivot Conf., 2020)の他、パーソンズ美術大学非常勤講師、Teknikio(ブルックリン)サービスデザイナー、Artrigger(東京)CXO等、研究者・実践者・教育者として日米で最新デザイン理論と実践の橋渡しに従事。近年の受賞にCore77デザインアワード(スペキュラティヴデザイン部門・2020)、KYOTO Design Labデザインリサーチャー・イン・レジデンス(2019)など。Twitter: @powergradation


中野佳裕(なかの・よしひろ)

PhD(英国サセックス大学)。専門は社会哲学、開発研究。山口県生まれ。江戸時代末期創業の老舗の和菓子屋に生まれる。英国留学中に世界の様々なコミュニティづくりの思想と実践を学び、日本の地域づくりの在り方を世界的な視点から見直す研究・教育活動を行っている。2018年4月より早稲田大学地域・地域間研究機構次席研究員。主著:『カタツムリの知恵と脱成長――貧しさと豊かさについての変奏曲』(コモンズ、2017年)。共編著『21世紀の豊かさ──経済を変え、真の民主主義を創るために』(中野佳裕、J-L・ラヴィル、J.L.コラッジオ編、コモンズ、2016年)。主訳書『脱成長』(S・ラトゥーシュ著、白水社クセジュ、2020年)。


上平崇仁(かみひら・たかひと)

専修⼤学ネットワーク情報学部教授。筑波大学大学院芸術研究科デザイン専攻修了。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、人々の相互作⽤を活かして立ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。2015-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。12月に『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』(単著/NTT 出版)を上梓予定。


森田敦郎(もりた・あつろう)

大阪大学人間科学研究科教授、Ethnography Lab, Osaka 代表。著書『野生のエンジニアリング』にて、中古品やスクラップを活用するタイの中小工業の機械技術を人類学的に研究。その後、大規模な技術システムであるインフラストラクチャーが、人々の情動、身体、社会性を惑星規模の環境プロセスと結びつけていく過程について、国際共同研究を実施。その成果を共編著 Infrastructure and Social Complexity: A Routledge Companion (Routledge, 2017), The World Multiple: The Quotidian Politics of Knowing and Generating Entangled Worlds(Routledge 2018), Multiple Nature-Cultures, Diverse Anthropologies (Berghan 2019)などにまとめている。


清水淳子(しみずじゅんこ)Twitter: @4mimimizu

デザインリサーチャー / グラフィックレコーダー。1986年千葉生まれ。2009年 多摩美術大学情報デザイン学科卒業後 デザイナーに。2013年Tokyo Graphic Recorderとして活動開始。同年、UXデザイナーとしてYahoo! JAPAN入社。2019年、東京藝術大学デザイン科修士課程修了。2019年7月 ニューヨークで開催されたVisual Practitionerの世界大会 IFVPに参加。現在、多摩美術大学情報デザイン学科専任講師としてメディアデザイン領域を担当。著書に『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』がある。多様な人々が集まる話し合いの場で、既存の境界線を再定義できる状態 “Reborder”を研究中。


開催時間:2020年12月3日19:00~ 21:00 (JST)

会場:Zoomによるオンライン開催

Zoomの詳細をお送りしますので、下記から登録ください。

お申込先はこちらから

主催:大阪大学人間科学研究科 Ethnography Lab, Osaka

後援:科学研究費補助金基盤(A)「惑星的課題とローカルな変革:人新世における持続可能性、科学技術、社会運動の研究」

お問合せ先:Ethnography Lab, Osaka (ethnography@hus.osaka-u.ac.jp)