Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

2021年、あけましておめでとうございます

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新年、あけましておめでとうございます。

毎年恒例の活動まとめを書きそびれてしまった。昨年度はじわじわと精神を削られるような日々が続いたが、まだまだ続くんだろう。さきほど初詣にいって世界が平穏に成ることを祈ってきた。大学ではここのところの感染拡大の緊迫度が増していて、無事に入試ができることを願うばかりである。今年はもうちょっと充実した活動ができればいいな。

なんとか単著はおわったが、「シン・デザインの教科書」プロジェクトの方はまだまだ。今年はこちらに注力する。

 

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2020年度の活動一覧

 
 
学術業績
6月)Akam,Y.,Light,A.,KAMIHIRA,T.(2020) “Expanding Participation to Design with More-Than-Human Concerns”, Proceedings of the 16th Participatory Design Conference 2020 - Participation(s) Otherwise - Vol 1. pp. 1–11
 
12月)単著『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に」
 
編集中)上平崇仁,飯田周作 「創造性教育におけるフィールド概念の整理と学修プログラムの検討」情報科学研究:専修大学情報科学研究所年報2020
 
編集中)上平崇仁,他「コンテンツデザイン2010-2020」ネットワーク&インフォメーション:ネットワーク情報学部紀要,学部20周年特集号
 
 
 

講演/トーク/出演

1月)埼玉県高等学校 情報教育研究会 招待講演「 情報Ⅰにおいて、「情報デザイン」は、どう学ぶことができるか?」

2月)産業技術大学院大学人間中心デザインプログラム「デザイン態度論2019」

9月)Xデザインフォーラム 2020「人類学×デザイン」セッション

9月)SECHACK365パネルセッション

9月)日本デザイン学会 情報デザイン研究部会 研究会「オルタナティヴデザイン 〜実践者たちのデザインの知のはたらき〜」

9月)株式会社ゆめみ「NEXT IDEAFES 2020」

10月)千葉工大大学院「デザインイノベーション特論」

12月)千葉工大安藤研「UX Rocket」パネルセッション

12月)大阪大学エスノグラフィーラボ「Design for the Pluriverseを巡って―デザイン・人類学・未来をめぐる座談会」

12月)Era Web Architects Project ゲスト登壇

 

イベント企画

1月)フィールドミュージアム展2020

1月)上平研究室卒業演習プレビュー展「共愉的瞬間」

8月)高校生向けデザインワークショップ「仮想空間の中に楽しいコミュニケーションをうみだす仕掛けをつくろう」

12月)科研費プロジェクト・二層式ワークショップ 「デザインにおける態度の視点」

 

記事

1月)専修大学校友紙「世界の見え方を変える"デザイン"の可能性とは?」(2020年1月号)インタビュー掲載

1月)日本グラフィックコミュニケーションズ工業組合連合会・月刊GCJ 「誰もがデザインする時代では「態度」の問題が重要になる」インタビュー掲載

5月)ベネッセ教育情報サイト「私たちがオンラインで学べるものとは?」寄稿

6月)ベネッセ教育情報サイト「わたしたちの身体は、座りっぱなしに耐えられない」寄稿

7月)ベネッセ教育情報サイト「プログラミング「で」学ぶほうがいい」 寄稿

8月)ベネッセ教育情報サイト「親もいっしょに創意工夫してみよう」寄稿

8月〜12月)Cultibase「Co-Designをめぐる問いかけ」連載(※書籍原稿の再構成)

 

■委員など

WIT Award 2020審査委員

いくつか査読など

【コ・デザイン執筆裏話#1】秘技・文末ゆらし!日本語を書く際の不思議なテクニック

執筆を通してたくさんのことを学んだので、何回かにわけて執筆の裏話を書いていこうと思う。

 

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いまふりかえって真っ先に思い出すのは、文体や漢字/ひらがなのひらき方によってニュアンスが変わる、日本語ライティングの面白さである。僕自身はこのブログにしても論文にしても、普段は「である」(常体)で文章を書いている。そのほうが圧倒的に書きやすし読み慣れている。とはいえ、ほとんどの読者にとっては、「ですます」(敬体)のほうが親しみやすさや丁寧さを感じて支持されるようだ。そのへんを考慮して『コ・デザイン』本は、多くの人に読んでもらうために「ですます」で書くことを選択した。

 

ところが。

「ですます」で長い文章を書くのは、ものすごく難しい。とにかく冗長かつ単調になりやすいのだ。ブログやnoteを書いている人は、経験したことがあるだろう。その原因は日本語の文末のバリエーションが極めて少ないことにあるようだ。〜〜です。〜〜ます。〜〜です。〜です。のようにちょっと気を抜くと文末が「す」だけで揃ってしまい、単調になる。単調さは全体のリズムに直結し、読者は眠くなる。続けて読めなくなり、そっと本を閉じる。

 

どうしたものか・・・。

まず、僕が取った経験的な方法は、「なるべく同じ文末を続けない」ことである。「〜〜です」に頼らず、「〜〜でしょう」「〜〜でした」「ではありません」などの話し言葉のような変化をつけていく。それに加えて、非常に短い文章をいれて、破調のアクセントをつくる。そんな工夫を重ねつつ、文章を綴っていった。

 

しかし、それでもなんだか全体の冗長さは消えない。ニホンゴ、ムズカシイネ。そんな思いを抱きながらせっせと駄文を書き進めていたある日のこと、大学内で仲俣暁生氏(編集者/文筆家)と雑談する機会があった。その時に悩みを相談したら、あっさりと「常体と敬体は混ぜていいんだよー。逆にどう混ぜるかが作家の腕なんだよ」と笑顔でアドバイスを下さった。

なるほど。混ぜていいのか!学校では、普通は「常体と敬体は混ぜてはいけません」と習う。下手な人が混ぜてしまってとても違和感があるものを読むこともあるが、たしかに小説家は上手に両者を混ぜている。しかし相当な文章の腕が必要とされるようで、混ぜ方が怖くてなかなか踏み込めず、途方にくれていた。

 

そんな頃に一冊の新書が発売されたことを知る。それが、瀬戸賢一先生の「書くための文章読本」だった。

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瀬戸先生はメタファーや日本語レトリックの研究で知られる一流の言語学者である。ふつうのライターが書くような内容であるはずがない。

 

解説はこちら。

これまでになかった画期的な「日本語論」を展開。そして文末を豊かにすることで、文章全体が劇的に改善する実践的技巧を示した、本当に役に立つ、まったく新しい文章読本!
日本語の文章で力点が置かれるのは圧倒的に文末。文末は、文の全体に書き手の意思を伝え、情報の核を据えるところ。そして、もっとも記憶に残りやすい。だから文章におけるパンチの効かせどころだと著者は説く。ところが日本語では最後に動詞がくるので、付け足しがしにくく、その大切な文末が弱い。さらに「です」「だ」などが連続して単調になりがちだという弱点もある。これらをどう解決するか。
『日本語のレトリック』『メタファー思考』などのベストセラーがある言語学者向田邦子筒井康隆井上ひさしなどの名文を引いて丁寧に構造を分析し、わかりやすく解説。プロの文章テクニックが身につき、伝わる文章が書けるようになる、まさに「書くための」文章読本。また引用されたバラエティに富む名文で、日本語の美しさや豊かさ、作家の技が堪能できる。実践的でありながら楽しい1冊!

 

 いやもう、この本はむちゃくちゃ勉強になった。なんせ文豪の名文の実例を豊富に引用しながら、どこにどんな工夫があるのかを丁寧に解説しているのだ。内容は、「踊る文末」「読者との問答」「過去の表し方」「(文章表現の中での)視点の置き所」などなど。

書くことは対話することです。話すことがそうであるように。これはことばの本質に根ざします。書こうが話そうが、伝達は受け手がいることを前提とし、ときに自分自身のみが受け手であってもかまいません。この節では、文章の中に対話的要素を取り込む手段を探ります。範囲は文末から文全体に広がります。聞き手=読者を表現のなかに取りこむ点でレトリカルなくふうの中心だと思ってください

瀬戸賢一. 書くための文章読本(インターナショナル新書) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1310-1314). Kindle 版.

 

この本を読んで、日本語にどんな制約や特徴があり、具体的にどんな時にどう変化をつければ文章に律動感や躍動感がうまれるのかがよく理解出来た。

買ったのが2月。そこから書き上げるまでに1ヶ月。全部は修正できなかったけど、書き換えられそうなところにはいろいろ工夫を入れた。たとえば、「まえがき」の冒頭。映画で言えばイントロの数秒である。

 

「手作りのアップルジュース、試飲できます」
そんなキャッチコピーに釣られ、ある夜、私は家族とともにそのイベントのブースの前まで行ってみました。眩しい灯りの下で、列になった人たちが賑やかに作業しているのが見えます。みんなで手分けして包丁を手にとり、カゴの中のりんごのヘタや汚れ部分を取り除いています。次の人たちは、それを適当な大きさに切り刻んでいます。どうやら作業しながらも、少しずつ列が進んでいるようです。列の先頭にはビア樽ぐらいの大きな絞り器があり、数人がかりでそのレバーを一生懸命に回しています。そうして絞りだされてきたジュースを紙コップで受けとった人は、列から離脱しています。一連の流れを眺めてみると、要するに、このブースでは完成物をふるまうのではなく、つくるための材料や道具を人々に提供し、列に並んだ参加者たちが自力でつくることを「手作り」と称しているのでした。

 

冒頭は、いきなり読者の意表をつくように、とあるエピソードの描写から始まる。数年前の出来事なので、「過去」である。なので普通に書けば「〜た」が連発されてしまうことになる。そこをまずカメラごと過去に入り込み、現在形の「す」で書いていく。さいごに過去形の「た」で現在に舞い戻る。

 

 (なお、導入をエピソードから始める場合、そこに全体を予感させる寓話的な「余白」が必要になるだろう。このアップルジュースの話は、本を書くずっと以前、一緒に酒を飲んでいる時に安藤昌也先生に話したら、彼が非常におもしろがっていたことを覚えていた。これなら「つかみ」になるだろう、と冒頭に使うことを決めた次第。一人では面白さには気づけない)

 

つづく「まえがき」の中盤。

仲違いするかもしれない。裏切られるかもしれない。誰かと協働する中で起こりうるネガティブな面を考えると、誰もが他者と手を結ぶことには及び腰になりがちです。協働することの意義を見いだすためには、そんなリスクを抑えて希望が見えるような、広い視座を得なければなりません。学問は、そのためにあります。

 モノローグ的な部分に常体を入れ、韻を踏むことでリズムをつくる。最後は短い文で言い切る。こんな感じで、敬体を基本としながら、あちこちに常体を混ぜ、文章の長さを調節している。

 

試しに知人に聞いてみたら、「(そんな工夫がされていることに)まったく気が付かなかった」と言われた。よしよし。インタフェースは自然であればあるほど気づかれない。取り入れた工夫はまあまあうまく働いていると言えるだろう。

 

なお、このブログ記事の文章にも、執筆を通して学んだ工夫が施されている。あなたは気づくだろうか?

上平は「秘技・文末ゆらし」のテクニックを手に入れた!

 

 

kmhr.hatenablog.com

 

単著『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』を上梓しました

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12/21に、NTT出版から『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』を上梓しました。3月頃にはほぼ書き終えたものの、いろいろあって時間が経ってしまいましたが、お陰様でなんとか無事に書店で販売されています。

 

"コ・デザイン"とは耳慣れない言葉だと思います。コ(Co)とは、「ともに」や「協働して行う」という意味で、簡単に言えば、デザイナーや専門家と言った限られた人々だけでデザインするのではなく、実際の利用者や利害関係者たちとプロジェクトのなかで 積極的にかかわりながらデザインしていくアプローチのことです。

 

・・・と、こんな風に説明すればまあ普通のデザインの解説書に見えるのですが、この情報の多い時代、わざわざ本にする意味を考えなくてはならない。そんなわけで、いろんな仕掛けが埋め込まれています。

 

4つのポイント

1)ほのぼのした装丁とタイトルで、手触りとともに読む愉悦があります。一般的にデザインの本の表紙を考える場合、関西でいうところの「シュッ」としたものに寄せがちですが、僕はこの本において、そうではない方向性、つまりカッコよくはなく目立ちもしないけど、実は大事なデザインのあり方を意識して文章を書いていたのです。明確には書いてなかったと思いますが、そんな僕のメッセージをデザイナーの上坊菜々子さんが見事にすくいあげ、かたちに落とし込んでくださいました。画像だけみたらピンとこないと思いますが、実際に本を持ち、ページをめくってみると、ハトロン紙(クラフト紙)の手触りがデジタルにはない自然な温かみを感じさせます。白い帯も、わざわざ白インクで印刷されています。著者の僕ですら、最初からこの存在としてあった気がするほどフィットしているように思います。

 

2)こういった取り組みで見落とされがちなのが、参加する人々、つまり専門家ではない側の視点。しばしばデザイナーは「巻き込む」と言いますが、巻き込まれる側は迷惑ですね。そういう台風みたいな強引さで近づけるのではなく、ちゃんと自分の意思で関与する必要性を理解できるような言い方をしなければなりません。そこで、専門家側と非専門家側の両方の視点に立って、それぞれが自分の視点から楽しく読めるようにまとめました。スルスルと読めるように易しく書いていますが、双方ともに「ドキリ」とさせられ、冷や汗がでてくるはずです。コンテンツはほのぼのしていません。おなじ文章の中でも、別々の方向から解釈が交わることで、新しい対話を生むでしょう。

 

3)そして、コ・デザインを説明するだけでなく、そこから「いっしょにデザインする」ことの意味を巡って議論を展開しています(それが主題です)。デザインを批判したり、ヒトが協働する基盤を数百万年遡って探ったり、民主政治の議論に踏み込んだり、「みんな」とは実は人間だけを指していなかったり・・・。目指したのは、寺田寅彦「茶わんの湯」(1922)。何の変哲もない一杯の茶碗の観察を起点に、どんどんスケールアップしていき地球上空から見た気候現象の視点まで到達する、読者をクラクラさせる名随筆です。文豪にはとても敵うわけはないですが、当たり前のものから、いつのまにか世界の見え方が切り替わっていくような感覚は、読んだ人にはなんとなく影響が感じられると思います。

 

4)タイトルでよく誤解されるのですが、単なる協働や共創のススメを説きたかったわけではありません(本文でもしつこく書いています)。どう考えても、これからは厳しい時代です。そんな中でわたしたちは生きていくための可能性を、様々な方向から考えなくてはなりません。困難な状況の中で新しい活動を起こそうともがく人々が一筋の希望を見いだせるように、迷う一歩を少しでも力づけられるようにと願って書きました。なので、デザイン解説書に見えて、実は思想書です。一般的なデザイン論におさめようと思って書いた内容ではありません。

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さっそくの反響

出版されたばかりなのに、早くも読んでくださった方にレビューして頂いています。

ありがたいことです。読むのを迷っておられる方は参考までに、ということで引用致します。

上平先生のこちらの本、本当に素晴らしい本だと思いました。穏やかでありながら、力強くデザインの未来を考える本でした。

まず、自己批判的であること。デザインを推奨する本でありながら、デザインを批判している。これができるデザイナーは実は少ない。デザインに向き合うこの態度が誠実だと感じました。

そして、学際的であるにもかかわらず、読みやすいこと。参照する分野が多岐にわたり、イリイチフルッサーなどにも言及しているにもかかわらず、やさしい文体で読みやすい。読む人の視野をいつの間にか広げてくれると思いました。

一見ゆるそうに見えて、なんとなく手に取るとどんどん深みに入っていく。読む人を引きずり込む罠のような(褒めてます)本でした。多くのデザイナーに読んでもらいたい一冊です。

Fumiya Yamamoto on Twitter: "上平先生のこちらの本、本当に素晴らしい本だと思いました。穏やかでありながら、力強くデザインの未来を考える本でした。 | コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に https://t.co/3SU4FcT3NF"

 

そこを何とか、ある程度の素養をもつ人たちが峠越えのための説得に回って欲しい、願わくば行動して欲しいとの願いで書いたのであろう本が、『コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に』だと思います。

<中略>

 上平さんは、コ・デザインに似た言葉としてみられやすい「コ・クリエーション」「インクルーシブデザイン」との違いを丁寧に説明しています。彼が概念の成り立ちの背景や周辺事情にとてもセンシティブなところに好感がもてます。学者としての姿勢もさることながら、この輪郭と深みをしっかりと説明することで、読者がここを起点として次が考えやすくなっています。

note.com

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試し読み

NTT出版のnoteで、本書の「まえがき」が公開されていますので、試し読みできます。

note.com

あと、CULTIBASEでの全5回の連載も、実は本書の原稿から編集さんが切り出して再構成したものです。まえがき/3章/5章の一部が掲載されています(無料ですが、要会員登録)

 

cultibase.jp

 

 

というわけで、関心を持たれた方、どうぞご一読していただけますと幸いです。

いくつかネタがあるので、執筆裏話も書いてみようと思います。

https://www.amazon.co.jp/dp/4757123841/

 

 

 

 

「コンヴィヴィアル」の言葉の意味

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未だ影響を持つイヴァン・イリイチの名著、「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)が出版され、もうすぐ50年経とうとしている。イリイチの思想はなかなか読み解くのが難しく、多くの人は、彼のいう「コンヴィヴィアリティ」や日本語訳された「自立共生」という言葉を知っていても、そこでいったいどんなことを主張していたのか、なかなか理解しきれない。特に表面に出ない「限界づけられた道具手段」の含意は、ちゃんと本を読まないとつかめない。

 

本の内容については、以下の要約サイトの解説がすばらしい。

www.syugo.com

すなわち、本書におけるイリイチの議論の焦点は、コンヴィヴィアルな社会を可能にするために道具の効率性に対して課される限界を明らかにすることにある。人々がそれを使って生き生きと創造的な仕事をすることのできるような道具、人間をその道具に使われる奴隷にしてしまうような道具ではない道具、そのような道具の構造の探求が、本書の主題なのである。

 

この記事の扉写真の「人類の希望」(1984年出版)という本にて、イリイチ自身が話し言葉で詳しく解説しているということを知り、アマゾンマーケットプレイスから取り寄せてみた(200円)。イリイチが来日した際の講演や対談(なんと宇沢弘文と!)などを収録したもの。

 

 以下、『人類の希望』からの引用。この本に興味持つ人が多かったので重要な部分を写してみる。

 

自転車は、ボールベアリングなしには存在しません。モーター化された道路の乗り物、あるいは自動車はボールベアリングなしには存在しません。10年前まで私は政治的に悪しき社会で使われているという理由から、自動車、つまりボールベアリングが使われている自動車は、悪しき社会的影響をもたらしていると考えていました。
ところが、ゴルツやシューマッハーや宇井さんと同じく、ちょうど私もそんな単純なものではないということを理解するに至りました。


<中略>


私は、乗り物の最高速度に対して、非常に厳密な限界をもうけることで初めて、モーターで動く乗り物が、自転車にボールベアリングを使用する人々を差別しないで走れるのだと気づきました。
ところで、自転車速度を超えて移動する人が、誰もいない社会を主張することは、決して過去に戻るというものではありません。そうした社会はかつて実在したことがないのです。

 

<中略>

 

私はボールベアリングのように、素晴らしく近代的であって、しかも、過去に知られていたものを超えて、しかし、社会的な差異を増大させないものを、ある社会のために命名するその名を見つけるざるをえませんでした。 そしてスペイン語でいう、「コンビビエンシアリダード(conviviencialidad)」こそが、その命名にもっともふさわしいと思ったのです。
それは一緒に生活するアートと言う意味です。ですから私が使う用語、コンビビエンシアリダードは、中央集権化やヒエラルキーや搾取を必ず押し付ける近代技術を極力排除する社会のための用語です。この意味で、産業主義にコンヴィヴィアリティを、あるいは産業的道具にコンヴィヴィアルな道具というものを対置させているわけです 。

私は工業のない社会について述べているのではありません。私が申し上げているのは、特権がある社会は特権者に都合の良い社会で、コンヴィヴィアルな道具を使用するあらゆる平等な可能性を後退させられているのです。そんな産業的道具が支配していることに反対することを、私は申し上げたいのです。
私は自動車に反対しているのではありません。社会がそうしたものをできるだけ少なくするように、と奨励しているだけなのです。(P27)

 

 

 

 

質疑応答―コンヴィヴィアリティとは
Tools for Convivialityと題するあなたの本が日本でも訳されてますが(邦訳:「自由の奪回」)、コンヴィヴィアリティとは何でしょうか?その言葉について説明してくださいませんか。

 

ええ、喜んで。現代の英語で"convivial"と言えば、通例では「ちょっと酔いが回った宴席気分」と言うくらいの意味で使われています。それは私も充分承知しております。 しかしスペイン語の"conviviencial"は、もっとずっと強い意味の言葉です。1つの谷戸に住む隣人たちを結びつけてきた歴史的な絆、自分たちの「入会地」、「共有地(Commons)」を守ってきた隣人たちの絆、それがもともとの意味です。

共有地と言うのは術語です。それにあたるうまい日本語があるのかどうか、私には分かりません。イギリスの領主たちによる「共有地の収容(explropriation of the commons)」、「共有地の囲い込み(enclosure of the commons)」が史上有名ですが、その「共有地」のことです。日本語では、どういうのでしょう。そして「コンヴィヴィアリティ」とは1つの谷戸に住む隣人たちが共有地を守ることを可能にしていた、そうした絆を本来意味するのです。
ですから、これも歴史上の一種の述語です。私はそれを法的なものであると同時に生態学的なものと理解し、私自身の言葉としました。 南アメリカの古いスペイン語では、この述語は環境の「有用化価値」(utilization  value)に対する入会権、請求権を指し示していたからです。環境の有用化価値とはなんでしょう。それは市場や官僚によるコントロールの枠外で、自らの「サブシスタンス(※生存)」のためにこそ、環境を利用することが許されるべきだと言う請求権を意味しています。


<中略>


ところでスペイン語の"conviviencial"には、以上のものとは少し違う、より新しい意味も加わってきています。"este sñor es muy conviviencial"といった場合、つまり「この紳士は大変コンヴィヴィアルだ」と言った場合、きわめてスペイン語的な意味で、尊敬を込めた意味で、彼が大変「つましい」(frugal)人だ、「しぶい」(austere)人だと述べたことになります。そしてこの「しぶさ」(austerity)という言葉は、伝統に従えば実は「友情」(friendship)の基礎を表してもいるのです。
なぜか。今説明します。この場合の「しぶさ」とは、私とあなたの間柄をみだすもの、私とあなたの間に介在してくる余計なものを一切認めないと言う性格、特徴を表現しているのです。したがってスペイン語で"amistad"と呼ばれる至福の状態、人世の無上の喜びの基礎となりうるわけです。つまり「友情」の基礎なのです。英語で"austerity"と言っても、なかなかこの感じが伝わってこないので困ります。


<中略>

 

あなたが今あげた本で私が試みたのは、モノの持ちすぎ、過度の所有の志向に異を唱えることでした。英語でもうまく表せないのですが、あの本では、私たちがある種の生産手段から身を離そうとするときに必要となる基礎的なルールを取り扱ったつもりです。先程申し上げた「しぶさ」を不可避的に破壊してしまうような生産手段、あるいは古い言葉で言えば不可避的に「疎外」(alienate)をもたらすような生産手段から いかに身を離すか。そして社会の「疎外」を不可避的に生むものに、道具が、生産手段が変わってしまうのは、それがどのような特徴を持っている時なのか。そんなことを探求したのが、あの本です。(P139)

 

おお、ここまで丁寧に解説しているとは。「コンヴィヴィアリティのための道具」よりずっと明確に語っている。やはり、Designs for the Pluriverseと同じような匂いを感じる。

道具(イリイチがいう道具[tools]には、都市間高速輸送、ジェット機、テレビのような機械から学校や病院などの制度や仕組みも含まれる)の側からの限界点や制約として人間社会の側に働きかけ、その構造のありかたを問うところは、アルトゥーロ・エスコバルが、存在論的デザインのあり方に懸けていることと、かなり似ているように思う。南米の中からの視点で書かれているDesigns for the Pluriverseにも、やまほど"convivial"という単語はでてくるんだけど、ここでイリイチが説明しているように、南米スペイン語のニュアンスを含んで考える必要がありそうだ。

賢人たちの思想は深い。日々勉強だ。

 

 

【高校生向け/教育者向け】オンラインワークショップ参加者募集

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上平研究室主催で、12/26(土)にオンラインのワークショップを企画しております。珍しい2層式です。ご関心をお持ちの方、是非ご参加ください。


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1)高校生向けデザインワークショップ―「文字のカタチの博物学:日常の文字からデザインの”細胞”を考える」

 

 みなさんが体育祭や学園祭で着るクラスTシャツ。クラスメイトの名前や先生の名前、スローガンやキャッチコピーなど、文字を使わないクラスはほとんどないと思います。クラスTシャツのデザインを決めるとき、どんな文字を選べばいいのか悩んだり議論になったりしたことはないでしょうか?

 

 文字は私たちの日常のどこにでもあります。文字はただの意味としての情報だけでなく、印象やイメージといったいろいろな情報が含まれています。

 このワークショップでは、身の回りの文字の観察を通じて、そこに含まれたデザインの”細胞”を発見します。かっこいい/かわいい? 高そう/安そう? 甘そう/しょっぱそう? 書かれた内容だけでないさまざまな要素にアンテナを高めれば、普段何気なく見ている景色がずっと違って見えるはずです。

 

 文字の中の”細胞”へのアンテナを高めたあとは、いよいよクラスTシャツのための文字を考えてもらいます。自分たちのクラスを表すためには、どんな文字をデザインに入れればいいでしょうか。学校で一番のTシャツを作るための文字について、選んだ結果をプレゼンテーションしてください。


■日時:2020年12月26日(土)  13:00-15:00
■場所:オンライン開催
■対象と条件:高校1〜3年生(中学生でも可)で、パソコンからZoomに接続して参加できる方
■定員:12名~30名
■参加費:無料
■指導/ファシリテーター:山下絵理(デザイナー / 東京藝術大学大学院博士後期課程)

■申込みはこちらから
https://forms.gle/EJUR3n3xXkV95UYNA

 

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2)教育者向けオンラインワークショップ―「デザインにおける"態度"の視点」

 

 高等学校の学習指導要領の改訂にともない、情報1の一分野として「情報デザイン」が必修になりました。プログラミングやデータ分析といった情報の主要な学習領域を社会の中に接続していくためにも、デザインの概念が活かせる場面を理解することは重要です。

 そして、デザインを学ぶためには、技法や進め方だけでなく、目の前に起こっている現実を直視し、そこで何を試みようとするのかの視点を持つことが欠かせません。答えが不確実な学びの活動を支えるのは、「知識」よりもむしろ「態度」です。それこそが挑戦することを力づけ、しなやかな知恵をつくっていきます。これまで態度は属人的なものとして扱われがちでしたが、指導する側の背中を通じて伝わるものだと考えれば、それは教える内容以上に学習者の学びの質を左右するとも言えるでしょう。

 そこで、教育者の皆様を対象に、デザインにおける"態度"に焦点を当てたワークショップを企画しました。本ワークショップは、高校生にデザインワークショップを運営するファシリテータのふるまいやアドバイスをよく観察した上で、その後自らの態度を考えるワークショップに取り組むという、2層構造になっています。今回はオンライン開催ですので、遠隔地のご参加も可能です。ご関心をお持ちの先生方、是非ご参加ください。


■日時:2020年12月26日(土) 13:00-15:00, 15:00-18:30 (前半は高校生向けのワークの見学or別室参加)
■場所:オンライン開催
■対象と条件:高校・中学校・小学校の情報教育/デザイン教育に関わる方々(注
■定員:20〜30名程度
■参加費:無料
ファシリテーター:上平崇仁(デザイン研究者 / 専修大学教授)

■申込みは以下のフォームから
https://forms.gle/V9ffTDDY1y19h4Ze9

 

注)教育者を優先しますが、それ以外の方々でも参加枠が空いていれば参加可能です。12/19頃までに参加可否のご連絡をいたしますので、所属を明記した上で参加申込をお願いします。

 

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※本ワークショップは、2020年度科学研究費助成事業 研究課題「態度形成のプロセスに着目した 教育者向けデザイン学習プログラムの開発」(18K11967) の支援を受けて行われるものです。

 

主催:専修大学上平研究室
共催:神奈川県高等学校教科研究会情報部会
協力:専修大学ネットワーク情報学部
お問い合わせ:上平崇仁(kamihira@isc.senshu-u.ac.jp)※@を半角に変えてご利用ください

 

Ethnography Lab, Osaka 特別セミナー Designs for the Pluriverse を巡って:デザイン、人類学、未来をめぐる座談会

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こんなセミナーに登壇することになりましたので、お知らせ。

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デザインと人類学の関係は近年ますます接近しています。そこで、大阪大学・人類学研究室と Ethnography Labでは、デザイン人類学をテーマとする座談会を企画しました。

2018年に人類学者のArturo Escobarが出版した Designs for the Pluriverse は、デザイン、人類学、社会運動など多岐にわたる分野で大きな反響を引き起こしています。持続可能な世界を構築するための人類学的なデザイン戦略—Pluriverse(多元世界)のためのデザイン—を論じた本書は、デザイナーにとっては、デザイン思想の中にトランジション・デザインを体系的に位置付け、存在論的デザインという新たな概念を導入する画期的な理論書です。一方、人類学にとっては、人類学とデザインの関係史を総括し、現代の人類学の研究動向の中でデザインとの協働を積極的に位置づけるものです。

気候変動が悪化する中で、社会とテクノロジーのあり方を抜本的に作り替えることが求められている現在、デザイン、人類学、アクティヴィズムを繋ぐ本書は極めてタイムリーなものだと言えるでしょう。

今回の座談会では、こうした二重性を持つ本書に注目して、デザイナー、人類学者、そしてEscobar本人とも近い研究者/アクティヴィストが、持続可能な世界への移行のためにデザインと人類学/社会科学が果たす役割について議論します。

※本座談会は、Zoomによるオンライン座談会です。

討論者

岩渕 正樹(いわぶち・まさき)

NY在住のデザイン研究者。東京大学工学部、同大学院学際情報学府修了後、IBMDesignでの社会人経験を経て、2018年より渡米し、2020年5月にパーソンズ美術大学修了。現在はNYを拠点に、文化・ビジョンのデザインに向けた学際的な研究・論文発表(Pivot Conf., 2020)の他、パーソンズ美術大学非常勤講師、Teknikio(ブルックリン)サービスデザイナー、Artrigger(東京)CXO等、研究者・実践者・教育者として日米で最新デザイン理論と実践の橋渡しに従事。近年の受賞にCore77デザインアワード(スペキュラティヴデザイン部門・2020)、KYOTO Design Labデザインリサーチャー・イン・レジデンス(2019)など。Twitter: @powergradation


中野佳裕(なかの・よしひろ)

PhD(英国サセックス大学)。専門は社会哲学、開発研究。山口県生まれ。江戸時代末期創業の老舗の和菓子屋に生まれる。英国留学中に世界の様々なコミュニティづくりの思想と実践を学び、日本の地域づくりの在り方を世界的な視点から見直す研究・教育活動を行っている。2018年4月より早稲田大学地域・地域間研究機構次席研究員。主著:『カタツムリの知恵と脱成長――貧しさと豊かさについての変奏曲』(コモンズ、2017年)。共編著『21世紀の豊かさ──経済を変え、真の民主主義を創るために』(中野佳裕、J-L・ラヴィル、J.L.コラッジオ編、コモンズ、2016年)。主訳書『脱成長』(S・ラトゥーシュ著、白水社クセジュ、2020年)。


上平崇仁(かみひら・たかひと)

専修⼤学ネットワーク情報学部教授。筑波大学大学院芸術研究科デザイン専攻修了。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、人々の相互作⽤を活かして立ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。2015-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。12月に『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』(単著/NTT 出版)を上梓予定。


森田敦郎(もりた・あつろう)

大阪大学人間科学研究科教授、Ethnography Lab, Osaka 代表。著書『野生のエンジニアリング』にて、中古品やスクラップを活用するタイの中小工業の機械技術を人類学的に研究。その後、大規模な技術システムであるインフラストラクチャーが、人々の情動、身体、社会性を惑星規模の環境プロセスと結びつけていく過程について、国際共同研究を実施。その成果を共編著 Infrastructure and Social Complexity: A Routledge Companion (Routledge, 2017), The World Multiple: The Quotidian Politics of Knowing and Generating Entangled Worlds(Routledge 2018), Multiple Nature-Cultures, Diverse Anthropologies (Berghan 2019)などにまとめている。


清水淳子(しみずじゅんこ)Twitter: @4mimimizu

デザインリサーチャー / グラフィックレコーダー。1986年千葉生まれ。2009年 多摩美術大学情報デザイン学科卒業後 デザイナーに。2013年Tokyo Graphic Recorderとして活動開始。同年、UXデザイナーとしてYahoo! JAPAN入社。2019年、東京藝術大学デザイン科修士課程修了。2019年7月 ニューヨークで開催されたVisual Practitionerの世界大会 IFVPに参加。現在、多摩美術大学情報デザイン学科専任講師としてメディアデザイン領域を担当。著書に『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』がある。多様な人々が集まる話し合いの場で、既存の境界線を再定義できる状態 “Reborder”を研究中。


開催時間:2020年12月3日19:00~ 21:00 (JST)

会場:Zoomによるオンライン開催

Zoomの詳細をお送りしますので、下記から登録ください。

お申込先はこちらから

主催:大阪大学人間科学研究科 Ethnography Lab, Osaka

後援:科学研究費補助金基盤(A)「惑星的課題とローカルな変革:人新世における持続可能性、科学技術、社会運動の研究」

お問合せ先:Ethnography Lab, Osaka (ethnography@hus.osaka-u.ac.jp)

よみうりランドからオンライン授業に挑戦

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10月16 日(金)。朝からよみうりランドに行く。ちなみに僕の職場からはかなり近くて、道路が空いていれば車で10分ほど。

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午前中は秋らしく、とてもいい天気だ。夏には多くの人でごったがえしていたプールには誰もいないが、きれいな水が張られている。

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さて、何しにきたかというと・・・。よみうりランドが新しいサービス始めたという話題を聞いて、野次馬的に申し込んでみたという次第である。その名も、「アミューズメント・ワーケーション」笑。ワーケーションというのはワークとバケーションを組み合わせた言葉で、最近割と流行っている。それを遊園地でどうぞ、という企画だ。平日1,900円。駐車場代まで含まれているので、かなりお得。

 

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・・・。

 

午後には寒くなってきて、正直言って仕事できる感じではなかった。とてもじゃないが集中できないので、レストランの中に避難して作業。サービスではここにも指定席を割り振ってくれている。レストランはわりと暖かくて作業も捗る。今度行ってみようかな、という人は気象条件や時間帯に快適さを左右されることは知っておいた方がいいかも。天気いい日なら楽しめると思う。

 

さて、実は、ただパソコンで作業しに来たわけではなくて、この環境を活用してオンライン授業を試みるのだ。申込時にそう伝えたら、営業さんが関心持っていろいろ応対してくださった。

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観覧車でミーティングするという人生初の体験。ちなみに、この営業のYさん、広報でもよく使われているサングラスかけたイケメンのビジネスマン(このブログ上から三枚目の写真)のモデルでもある。なんと、中の人がモデルやっているとは。

 

いろいろ話を聞いていたらとても興味深かったので、いくつか箇条書きにしてみる。

 

  • コロナ禍の中では、遊園地もいつ営業停止になるかわからない。あたらしい顧客の開拓と遊園地のあり方について社内でアイデア会議が開かれ、その中で若手社員チーム(Yさんたち)の「アミューズメント・ワーケーション」案が採用され、支配人からゴーサインがでる。
  • プールサイドの仕事場というのは、見映えだけではなくて、換気の良い屋外でブース的に使える場所であり、夏以外は使われていない場を活用しようとする発想であること。
  • 観覧車でZoom会議、というのも、「ウェーイ」とびっくりさせる出落ちギャグのためではなくて、日中はわりと空いており、遊園地の中で唯一静かな個室空間であること。(気付かなかった!)
  • 現在はまだ採算度外視で、本当に活用できるか、そして試験的に運用してみながら可能性をさぐっている段階、だという。
  • 例えば、実際に試してみたら、観覧車のてっぺんでは電話回線が弱くなることがわかり、乗り場でポケットWIFIを貸し出すなど、随時トライ&エラーを繰り返している。

 

僕は、こういう現場の人々の中から出てきた「攻め」の姿勢が大好物なので、経緯に感動した。あまりにも面白かったので、僕もいくつかアイデアを話してしまった。こないだ実施した高校生がマイクラでアトラクションをデザインする仮想遊園地をさらにMinecraft Earth(AR版マイクラ)で展開する実験とか、研究室の学生たちと議論した未来スケッチとか。

 

 

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これは、感染症は防がなくてはならないが家にいるのは飽きる、というジレンマを解消するために、近未来は緑の多い大きな公園に出勤するかたちになるのではないか、というアイデアスケッチ。電気自動車(遊園地によくあるゆっくりうごくやつ)型の防音個室空間があればカフェ的な親密な対話もできるかもしれない。考えてみれば遊園地だってこんな使い方にぴったりだ。こういう可能性をさぐるワークショップはありだな。

 

当初の目論見としては、「グラフィックデザイン」の授業で視覚言語を扱う予定だったこともあり、遊園地のサイン計画について実地から中継しながら解説しようと思っていた。でもYさんと話しているうちに違うことに気づいてしまった。プロの方々によって長年かけて洗練されてきた地図やピクトグラムなどの完成度の高いものを僕が説明することよりも、今の困難な状況の中で従来の遊園地から脱却した新しい可能性を探っていることのほうが、デザインの問題としてはずっとリアリティが高いということに。(※あくまでも初心者の学生たちが、このコロナ禍のなかで考える対象としての話です)

 

14:50。授業が始まる。最初の30分は背景を消して、普通に前回の課題の解説をしたのち、唐突によみうりランドにいることを告白する。そして園内を実際に中継しながら歩き、取り組みを紹介する(「アミューズメント・ワーケーション」だけでなく、さまざまな企業とタイアップした工場体験の「グッジョバ」エリアなど)。受講生みんなから「Youtuberか!」いっせいにツッコミが入った。

 

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(受講生のtwittterより)

 

 手振れや風防対策しなかったので、かなり見苦しい放送になってしまった。申し訳ない・・・。

 

その後は、Discordつかってグループで話し合い。

即席で考えた課題文を転載してみよう。

 今日は、よみうりランドの逆境の中の挑戦を、
現地から紹介した。

みなさんも、「リモートで受けなくてはならない」「でも家にいるのは飽きる」という葛藤があるならば、それを起点に新しい可能性を考えてみよう。グループで2つのうちいずれかを選択してアイデアを考えてください。

 

1)分散型クラス
今回は教員自身が「非日常」から中継するという方法を取ったが、逆に学生側がそれぞれの「非日常」からアクセスし、相互に共有することで、通常の教室や自宅より深く学べるというケースは、どんなものが考えられるだろうか。
学ぶ内容はなんでも構わないが、実現できそうなもの。

※この授業で実現できそうなものがあれば挑戦してみます

 

2)もうひとつの遊園地の使い方
普通にアトラクションを楽しむのではなく、このワーケーションのように、コロナ禍という状況化での「別の使い方」にはどんなものがあるだろうか?
※アイデアは全部よみうりランドの社員さんにフィードバックします

 

◎Discordで4人一組になる。1)を話したい人はDiscordの上から、2)を話したい人は下から詰めて参加しましょう。
◎音声+掲示板+必要であればジャムボードでスケッチ。
◎〜16:15まで
◎話し合った内容を元に、本日の講義内小課題として文章にまとめて投稿。
◎個人で考えたアイデア/ グループで出たアイデア、どちらでも構わない。

 

以前の記事で書いたように、後期はレクチャーはオンデマンドにして空き時間に視聴することとして、できるだけ同期する必要性のある共同作業や話し合いをする時間を増やすようにしている。学生たちも予測できない取り組みをなかなか面白がってくれたようだ(多分・・・)。人間、そのあと何が起こるかを予測できてしまうと眠くなるし、予期できない状況になると集中力はあがる。

 

というわけで、真面目に解説すると、けっしてバカンス先からつないでウケを取りたかったわけではなくて、少しづつ日常化し、マンネリ化していくオンライン授業の学習形態をもう一度問い直し、学生たち自身にも新しい可能性を考えてもらおうとする試みだった。

 

僕が担当しているのはデザインの授業なので、それをどう扱うかをいつも考えている。「こうでなければならない」という既成概念を疑い、リスクを取ってでもいろんなあり方を実験する、そして試したことに対して積極的にフィードバックを集めて再検討する、そんな姿勢から何かを感じてくれれば嬉しいな、と思う。大事なことは、固定化された知識の中にあるわけではないのだ。

 

www3.nhk.or.jp

 

 

 

デザインを「存在論的」に捉えるとは

 最近、デザインと人類学の両側から構成されているような「デザイン人類学」の議論が海外の研究界隈で活発に起こっている。近年起こった人類学の存在論的転回の潮流の影響だと僕は解釈しているが、なかでも重要なポイントとなるのが、この「存在論」という言葉だ。ごく簡単に言えば、具体的な「モノのあり方」や「実行のされかた」それ自体を通して考えていこうとするものである。

 

 そしてこの観点を取り入れることによって、我々がよく知っているデザインもまた再定義されようとしている。それが非常にエキサイティングなのだが、つかめるようでなんだかつかみきれず、捉えることがなかなか難しいので、僕自身、人に説明しながら勉強中である。研究室の学生たちを交えながら、ファッション(昨年度)や、メイク(本年度)というテーマを存在論的な観点から解釈してみたりしている。

 

 僕も勉強中のテーマながら、いつのまにか人前で話す機会をもらうようになってしまった。以下の説明は先日、千葉工大大学院の連続講義「デザインイノベーション特論」のゲストとして話したときもの。講演のイントロ部分をスライドと文章で解説してみる。言語化してここのコンテンツにすることで、これをネタに人類学者の方々と議論し、自分の理解不足なところを修正していこうとする試みでもある。

 

__________

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デザインを「存在論的」に捉えるとはどういうことでしょうか。まずは事例から考えてみようということで、「風の電話」を紹介します。テレビでも時々取り上げられるので、知っている人もいるかも知れませんね。

 

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 この岩手県の海沿いの丘にあるこの電話ボックスの中には、古い黒電話が置かれています。けれども、多くの人が訪れています。震災で亡くなった故人に想いを伝える空間として。

 

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 実際には、この電話機は電話線がつながっていません。そして死んだ人と話せることは、科学的に言えばありえないことです。それでは、この装置は「ウソ」なのでしょうか? ただ話を聞いただけでは、まったくリアリティを感じないでしょう。それではここで動画を見てください。

 

(以下の記事ページ中にある動画参照)

www.bbc.com

 この数分の動画を見ただけでも、失った人とつながろうとする遺族の圧倒的なリアリティが伝わってきて思わず泣きそうになります。「誰もいないと分かっていても、そこに妻がいるかのように感じた」と解説されていますが、そんな声からも遺族の方にとってはかけがえのない対話の場になっていることが伝わってきます。そして、多くの人は、彼らにとってはそういう場所として成り立っているのだ、と理解することができます。

 

 

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 この装置は一風変わったものです。そもそも一般的なデザインプロセスからは絶対生みだされない類のものでしょう。遠隔との通話体験を保証する電話という「製品」ではなく、どちらかというと、体験する人の解釈によって広がっていく一篇の「詩」に似ています。

 

 そして、わたしたちがこの装置を眺めて、世界にはこういった余白のようなものが必要だ、と何かしらの意味や存在意義を感じるのであれば、それは、人間が「経済価値」や「科学的合理性」だけで生きていないということの根拠でもあるように思います。

 

 さて、この装置は、はたして「デザイン」(されたもの)なのでしょうか?みなさんがどう思うかを、理由を添えて教えて下さい。正しいか正しくないかを問うものではありません。自分が何をデザインだと捉えているか、その見方が反映される質問です。

 

 おや、これは「作品」だ、と捉える人もいますね。みなさんの答えを見ると、ひとそれぞれの基準があることがわかりますね。

 

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 この装置は、その場所に置かれているものとして、まず「モノ」であることは間違いなさそうです。ここで、そのモノが「ある」ことによって、人の側の行為が決まっていることがわかるでしょうか?もちろん、すべての人に当てはまるのではなく、限られた人にとって、です。さきほどの動画で見たように、遺族の方は、ここを亡くなった人を想起し、心の中を語る場所だと理解することによって、「なりきる」ことができています。

 

 そして電話ボックスという閉じられた設え(しつらえ)こそが、そこにいない人と交信させています。つまり、そうさせています。これは人と物を分けないで捉えるアクターネットワーク理論という観点から言えば、この電話ボックスは、遺族の方から見た一連の経験の中で、「行為主体性」を持つということができます。

 

 「モノ」が行為主体性を持つ・・・・。この見方は、一見奇妙です。普通はわたしたち人間こそが、明確な意図を持ち、取捨選択してモノを使っている、と考えるのではないのでしょうか? ここで自分がすべての行動が決めているなら、自分で自分の携帯を耳に当てて電話するふりをすれば、それで同じようなことができるはずです。

 

 でもそれでは通話できないことは明確でしょう。この「風の電話」が、亡くなった人と話せる装置だと理解しているから、モノこそが自らの心持ちを変えてしまうから、自分の内面とむきあう儀式的な場となり、通話ができるわけです。

 

 こんなふうに、ものの見方を違うレンズに交換してみれば、わたしたちの多くの行為は、人間自身がつくっていると言うよりも、周囲の環境、周囲のモノによってつくり変えられていることがわかります。

 

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 私達は、意図を込め、さまざまなものごとをデザインしようとします。その一方で(誰かが)デザインしたものごとは、その他のデザインされた様々なものと結びつき、逆にわたしたち自身のあり方をかたちづくっていく。つくられたものごとによって私達こそがつくられていく、すなわちデザインされていく。そんな循環的なデザインの考え方を、「オントロジカル・デザイン(存在論的デザイン)」と言います。はじめてこの問題を指摘したのは、哲学者のフェルナンド・フローレスとコンピュータ科学者のテリー・ウィノグラードで、30年以上前のことでした。(ちなみに、テリー・ウィノグラードは、スタンフォード大の彼の研究室からGoogleが生まれたことでも有名です)

 

二人は、名著「コンピュータと認知を理解する」において、このように指摘します。

「(・・・)システムには良し悪しがあらわれる。しかし、本当に問うべきことは、システムが良いか悪いかではなく、システムを理解し使用する事が、私たちの行動と私たち自身が何者であるかを決定すること、そのことなのだ」

 

 これは思わず考え込んでしまうような、大変深い問いです。ここで書かれている「システム」は、人間によってデザインされたもの、と捉えられるでしょう。そのシステムのユーザして関われば、ユーザの役割を決められます。管理者として関われば管理者の役割に決められます。デザインしたものが、わたしたち自身のありかたの可能性を決めてしまう。デザインしたものが、自覚されないままにわたしたちの存在そのものをつくり変えてしまう。その点でデザインは極めて重要なのです。

 

 さきほどの「風の電話」を、再度、存在論的な視点で見てみましょう。(遺族の方が)「電話線のつながっていない電話」を通して、関わり方を変えているという様子が(外から見ても)はっきりとあらわれています。つまり、これは、人の行為や情動ふくめて、この装置によって規定されている(=デザインされている)と言えます。

 

 

 

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 最近、(といってもコロナ禍では外食の機会も減りましたが)食べることに先立ってカメラで食べ物を取る人が増えましたね。自分が食べているものを全くの他人に自慢することは、SNSが普及する以前は存在しなかった行為です。

 

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 すぐ撮影できるスマホ、すぐ共有できるSNSアプリ、自慢したいブランドスイーツが一か所に揃うことで、それらが結びつき、それまでなかった相互関係や葛藤が起こっています。その結果、「食べる前に撮る!」になるわけです。インスタユーザーは、写真映えする場所を自ら選んで、そういう場所に行ったりしますね。行動が変わっています。つまりアプリのユーザーであることによって、現実がつくり変えられていると言うことができます。

 

 電子マネーも全く同じです。アカウントを持つか持たないかで受けられるサービスも行ける場所も違ってきますし、単純に支払い方法が便利になるだけでなく、それらは経済圏の全体像まで動的に変化させています。

 

 Appleの製品はどうでしょうか。確かに速いマシン、洗練されたUIは私達の仕事を手助けしてくれます。が、同時にいろんな仕事のやり方を決めてしまっています。いつの間にか居心地の良い「ユーザー」という立ち位置を指定され、材料がどこでどうやってつくられているのか、どこにどんなことが仕掛けられているのか、完全に覆い隠されています。自分でネジを開けて内部の様子を見ることすら許されなくなってしまっています。 

 

 ふと周りを見渡してみると、いろんな場所で当てはまることに気づいて、ゾッとしませんか。

 

  さきほど、「『風の電話』はデザイン」なのでしょうか?と投げかけた問いは、実はここにつながっています。何がデザインかは、その人の見方によって決まるもので、決して定義が統一されているわけではないですが、それでもデザインは人という〈主体〉が〈客体〉に働きかけるようなイメージを持つ人がほとんどでしょう。

 

 

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 しかし、こんなふうに〈実行のされ方〉に焦点を当てた見方に切り替えると、デザインによって決まっていく、デザイン(されたもの)によって決定的に「変えられていく」現実が、少しづつ浮かび上がって見えてきます。さらに言えば、もともとデザインした人間の意図を離れたところでモノとモノが作用し合っている可能性に気づきます。過去に行われたさまざまなデザインの数々が状況の中で同時的に結びつき、自覚するしないにかかわらず、現実をつくりあげていくのです。デザイン概念が力を持つに伴って、現実への影響は大きくなってきてます。

 

 従来のデザインの視点は、ほとんどの場合、デザイナーがデザインするプロセスしか見てきませんでした。製品開発が目的となるゆえです。HCD(ISO 9241-210:2019)にしてもDouble Diamondにしても、リリースして終わるモデルになっています。

 

 しかし、見てきたように、私達の現実は、決して静止せず、何か周囲をデザインする/周囲からデザインされるの絶え間ない輪の中にあります。いわば相互に包摂しあう関係になっています。デザインのプロセスは、フローレスが言うように、本当はどちらか一方だけの力に還元されない、二人で踊る"ダンス"のようなものなのです。

 

 こんなふうに、デザインを「存在論的」に捉えることで、何か変わるのでしょうか。たぶん「つくる方法」は、それほど変わりません。しかし、デザインの見え方は明らかに変わります。自分がつくる以前に決められていたこと、つくった後にさらに決めていくことなど、日常のあらゆることの中に、決める/決められるのパワーバランスや、相互の駆け引きや結びつきーちがう言い方をすれば「政治性」ーが発生していることが見えるようになるでしょう。例えば、障害を持った人が邪魔な存在になるのか、創造性を持った存在になるのかは、場のデザイン次第で変わります。さらに言えば、地球は人間から見える世界だけでが独立してあるわけではなく、他の生き物や自然物との複雑な連関があってこそ成り立っていることが見えてくるでしょう。

 

 そして世界の見え方が変化すれば、方法以前の「何をつくるか」の志向性に影響を与えるはずです。そういった複雑さを引き受け、一人ひとりがデザインに関わることによって、どんな可能性を持てるのでしょうか。年々過酷になっていく地球環境の中で、人類はどのように他の存在と共存できるのでしょうか。

 

 そうした大きな問いは、もはや優れた作り手だけでは捉えられられないことです。デザイナーは、しばしば自分たちの手でつくることに集中するあまり、そこで逆向きに起こっている視点を見落としがちでした。この問題に気づいた研究者たちは、デザインすること/されていくことを両面から解釈し、周囲を作り変えていく人の営みの枠組みを再検討するために、〈デザイン人類学〉という学問領域を必要としたのです。

 

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 メディア論の研究者、マーシャル・マクルーハンの有名な言葉に、「誰が水を発見したのかは知らないが、魚ではないことは確かだ(One thing about which fish know exactly nothing is water, since they have no anti-environment which would enable them to perceive the element they live in.)」というものがあります。魚は水の中にいます。何かを自覚するためには、それに囲まれていないという立ち位置(反―環境)を持たなければなりません。魚が水を理解できないように、デザインの先のパラダイムは、通常のデザインの枠の中だけで考えていてはおそらく見えてきません。意識的に外側に出てみることが重要になるでしょう。

 

 それでは、本題に入りたいと思います。

 

【オンライン授業】先生が顔を出す必要は、どこまであるのか?

オンライン授業でよく議論になることに、「先生の顔は出したほうがいいのか、出さなくてもいいのか」がある。学生にアンケートで聞いてみても、「顔があったほうがいい気がするけど、別にどっちでもいい」という答えが多いようだ。教員の側も自分の顔を積極的に見せたいわけでもないので、出さないですむならそれでもいいか、と非表示にしまう場合も多いだろう。僕自身、前期はどの授業でもあまり顔を出さない方向ですませた。でも、最近いくつか気になる情報を得て、考え方を改めることになった。

 

1)佐伯先生の有名な論文、「そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」に、ヒトが文化を伝承する際の特徴的な手続きが引用されている。人間はよくわからないことでも、目を見て、目の前でされることを信じてしまうらしい。

 

Gergely & Csibra によると,ヒトが他の動物と明白に異なることは,「文化」の中できわめて効率よく社会的な伝承が行われていることにあるという.そこではさまざまな行動様式が,伝承する側も伝承される側も,因果関係も機能的関係も不明瞭なまま,また,特定の集団のメンバーにとっての適応的な意味も不明であるにもかかわらず,「こうすることになっている」という行為系列が,いわば「盲目的に」伝承されているという点であるという(Gergely & Csibra, 2006).Gergely らによると,大人が子どもに対して①相手の目を見て,②手元が相手によく見えるようにして,なんらかの作業を行う,③作業の終了後に再度相手の目を見る(簡単な言葉で表せば「ミテネ・ヤルヨ・ホラネ」というメッセージで「お手本」の動作を示す)ということで,子どもは無条件に,その作業の意味を考えることなく模倣する,というのである.Gergely らは,このようなコミュニケーション様式を「教示伝達的顕示(OstensiveCommunicative Manifestation:OCM)」と名付けた.

 

(強調は引用者)

 

 佐伯『そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」組織科学 48 vol.2, 38-49, 2014

https://doi.org/10.11207/soshikikagaku.48.2_38

 

よくわからなくても盲目的に信じてしまう、というのが実に興味深い。そんなことが頭に引っかかっていたところ、先日興味深い映像を見た。

 

2)Netflixが作った「監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影/The social dilemma」は、SNSのダークサイドを描き出したドキュメンタリーである。主要なIT企業がいかに我々の内面的な欲求をハックして中毒にしているかについて、多くの専門家への取材とともに映像化している。

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なかなか攻めた内容で、映像内では『もしサービスを無料で使っているのなら、そのサービスの顧客はあなたではなく、広告主。あなたは、商品。』みたいな、企業からは口が裂けても言えないようなセリフが続出する。

 

主要登場人物のトリスタン・ハリスの主張には、僕は以前から注目していた。それで2年前につくった高校の情報デザインの教材「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」では彼のメッセージを受けて、誰もが知っておくべきリテラシーとして、デザインの作為性の問題を扱ったのだけど、まあ、今回はその辺の話は置いといて。

 

ドキリとされられたのが、映像内でフェイクニュースを主張する(危ない)人々が、揃いもそろって、みな「どアップ」で「カメラ目線」なこと。そして「画面を指差す」のだ。要するに、グリフィスらが確立した映像手法としての「クローズアップ」であり、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグの古典的なポスター名作I Want You for U.S. Armyで画面の向こうから名指しされるような「指差し」である。

 

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 そういえば日本で人気のYoutuberたちも、みなカメラに顔を大写しにしてカメラ目線で喋っている。

 

我々はメディアを介した向こう側から呼びかけられても、まるで現実がそうであるかのように錯覚する。それに抗えないのは、視線をあわせることで協働してきた長年の人間の進化上の特性によるんだろう。

 

この古い脳の中には、現実の世界とメディアの世界を区別するための切り替えスイッチは存在しない。人は社会的行為者が自然な物体を模したものに対して、あたかも実際に社会的であるかのように、実際に自然であるかのように反応する。人形は考えてみれば人間とはあからさまに異なっているだけれども、私たちの古い脳を騙す程度には人間にちかい。他のことに気を取られたり、自動的な反応に身をまかせたりしているときはなおさらだ。

『人はなぜコンピュータを人間として扱うか―メディアの等式の心理学』

 

そして視聴者は、よくわからないまま、そして作為性を見抜けないまま盲目的にメッセージを信じてしまうのだ。

 

 ということは、目を見て喋らないかぎり、どんなに学問的に正しいことを言おうが、一生懸命説明しようが、学生たちが普段見ているYoutuberほどは信じてもらえない、ということになる。これはなかなか衝撃だ。

 

 自分の喋っていることもひとつの主張にすぎないのだし、と他人事にように開き直ることもできるかもしれない。だが、せめて大学教員としての責任と学術的な裏付けを持った上で正しいと思うことを伝えなければ、学生たちは他の(怪しい)ことを信じてしまうだけだ。結局のところ洗脳合戦だとしても。

 

というわけで、ささやかな試みとして、ワイプで顔を出し、カメラのレンズ部を注視して、画面の先にいる学生を意識しながらしゃべることにした。(画面ではなくレンズを見ると目があってかなり怖い)

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使っているのは、mmhmmという配信用アプリ。

もちろん恥を感じるけども、どうやら恥ずかしいと言って逃げている場合でもない。真剣に届けようとしないと、誰にも届かない宙を舞うだけのレクチャーになってしまうだろうから。

 

www.mmhmm.app

www.netflix.com

 

 

【オンライン授業】一斉送信と少人数ダイアローグを両立させる試み

後期授業が始まった。結局コロナ禍はおさまることなく、後期も演習科目以外はオンラインということになる。僕は演習科目多いので週に3つは対面授業があるのだが、これがまたなかなか辛い・・・。学生が楽しそうにしているのは何より嬉しいけども、みんな顔覆っていて表情がわからない。近寄れない。マスクでしゃべると苦しい。なのでオンラインのほうがよほど気楽だとも思う。

 

というわけで、後期の講義もオンラインで新しい実験を続けている。前期の経験から、学生たちがもっともストレスを感じているのは、授業内容がプアになったことではなく、学生同士のコミュニケーションが奪われ、横のつながりがなくなってしまったことだ、と知った。たしかに、頑張って喋ってるのは先生だけだ。一日中授業受けていても、学生たちは一言も喋らないことだってざらにある。ここは確かに配分を変えていく必要がある。

 

真面目な先生は一生懸命教えようとしていると思うが、多分学びに大事なことは、同じ目線にいる者同士の「分かち合い」なんだろう。普段スライドを元に話しているような対面講義の内容は、わざわざ一緒に同期してやらなくても動画で空き時間に視聴すれば十分な気もする。後期は、多少のグダグダが発生するにしても、学生たちが少人数で対話する機会を最優先で確保することを念頭においてみようと思う。

 

少人数の対話(短時間)には、以下の点からDiscordが向いている。

・「会議室のURLどこだっけ?」とならない。サーバーに一回入れば、あとはアドレス不要

・チャットにコメントや画像投稿を残しておけることで、事後的にどんな発言があったかを全員がざざっと共有できる

・ワンクリックで部屋を移動できる

・音質が良い

 

しかし、このツールの欠点として、小部屋に入ったら外から一斉指示(ブロードキャスト)ができないことがあった。会話に夢中になってしまうと全体掲示板になにか指示書いてもなかなか気づかない。そうするとSAが「終わりだよー!ホールに戻ってー!」とか、呼びに行くことになる。

 

そこで、Google meetと併用してみた。大学がG suiteで契約しているからという理由だけで、別にzoomでもいいと思う。meetでメインの進行を進めつつ、Discordで個別に話す、というかたちだ。音声がどうなるのか心配だったが、履修生たちに聞いてみたところ、同時に入ったままで問題なく両方聞けるらしい。学生はみんなmacスマホもっているので、たとえばDiscordはスマホで入れば負荷分散にもなる。

 

グラフィックデザインの初回の講義の構成を図にしてみた。

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この日は、ガイダンスと、ウォーミングアップの発想トレーニング。work1とwork2は、簡単な発想力を競うゲーム(「ぐるぐる検索○と□」)。それぞれただ発想するだけでなく、それぞれの頭を使って書いたワークシートをDiscordのグループに投稿して、メンバーにシェア。対話を通して自分の頭脳のクセを知り、上手い人からコツを学び、どうすればもっとパフォーマンスがでるのかを対話する。

 

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work3は、カタルタ(#18エモーション)をつかって、
即興ストーリーをつくるもの。

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これが学生たちの間ではかなり盛り上がっていた。(僕は一定時間で画像を投稿するだけで、まったく喋ってないことがポイント)。テキストボードにストーリーの概要や感想コメントを書かせることで、履修生全員が簡単に共有できる。課題の投稿や共有はオンラインのほうが遥かに簡単だ。

 

たくさん頭使って喋れてあっという間に90分過ぎた、とみんな言ってくれた。

というわけで、一斉送信と少人数ダイアローグを両立させる試みは意外と行けそうだ、という感触を得た。次回からはみんながやってきた課題を元にみんなで共有し、自分の取り組みはどうだったか、どうすればもっとよくなるかの省察とともに考えていくことが中心になる。ここのところマンネリ気味だったので、新しい課題もどんどん試してみようと思う。挑戦はつづく。