Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

【高校生向け/教育者向け】オンラインワークショップ参加者募集

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上平研究室主催で、12/26(土)にオンラインのワークショップを企画しております。珍しい2層式です。ご関心をお持ちの方、是非ご参加ください。


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1)高校生向けデザインワークショップ―「文字のカタチの博物学:日常の文字からデザインの”細胞”を考える」

 

 みなさんが体育祭や学園祭で着るクラスTシャツ。クラスメイトの名前や先生の名前、スローガンやキャッチコピーなど、文字を使わないクラスはほとんどないと思います。クラスTシャツのデザインを決めるとき、どんな文字を選べばいいのか悩んだり議論になったりしたことはないでしょうか?

 

 文字は私たちの日常のどこにでもあります。文字はただの意味としての情報だけでなく、印象やイメージといったいろいろな情報が含まれています。

 このワークショップでは、身の回りの文字の観察を通じて、そこに含まれたデザインの”細胞”を発見します。かっこいい/かわいい? 高そう/安そう? 甘そう/しょっぱそう? 書かれた内容だけでないさまざまな要素にアンテナを高めれば、普段何気なく見ている景色がずっと違って見えるはずです。

 

 文字の中の”細胞”へのアンテナを高めたあとは、いよいよクラスTシャツのための文字を考えてもらいます。自分たちのクラスを表すためには、どんな文字をデザインに入れればいいでしょうか。学校で一番のTシャツを作るための文字について、選んだ結果をプレゼンテーションしてください。


■日時:2020年12月26日(土)  13:00-15:00
■場所:オンライン開催
■対象と条件:高校1〜3年生(中学生でも可)で、パソコンからZoomに接続して参加できる方
■定員:12名~30名
■参加費:無料
■指導/ファシリテーター:山下絵理(デザイナー / 東京藝術大学大学院博士後期課程)

■申込みはこちらから
https://forms.gle/EJUR3n3xXkV95UYNA

 

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2)教育者向けオンラインワークショップ―「デザインにおける"態度"の視点」

 

 高等学校の学習指導要領の改訂にともない、情報1の一分野として「情報デザイン」が必修になりました。プログラミングやデータ分析といった情報の主要な学習領域を社会の中に接続していくためにも、デザインの概念が活かせる場面を理解することは重要です。

 そして、デザインを学ぶためには、技法や進め方だけでなく、目の前に起こっている現実を直視し、そこで何を試みようとするのかの視点を持つことが欠かせません。答えが不確実な学びの活動を支えるのは、「知識」よりもむしろ「態度」です。それこそが挑戦することを力づけ、しなやかな知恵をつくっていきます。これまで態度は属人的なものとして扱われがちでしたが、指導する側の背中を通じて伝わるものだと考えれば、それは教える内容以上に学習者の学びの質を左右するとも言えるでしょう。

 そこで、教育者の皆様を対象に、デザインにおける"態度"に焦点を当てたワークショップを企画しました。本ワークショップは、高校生にデザインワークショップを運営するファシリテータのふるまいやアドバイスをよく観察した上で、その後自らの態度を考えるワークショップに取り組むという、2層構造になっています。今回はオンライン開催ですので、遠隔地のご参加も可能です。ご関心をお持ちの先生方、是非ご参加ください。


■日時:2020年12月26日(土) 13:00-15:00, 15:00-18:30 (前半は高校生向けのワークの見学or別室参加)
■場所:オンライン開催
■対象と条件:高校・中学校・小学校の情報教育/デザイン教育に関わる方々(注
■定員:20〜30名程度
■参加費:無料
ファシリテーター:上平崇仁(デザイン研究者 / 専修大学教授)

■申込みは以下のフォームから
https://forms.gle/V9ffTDDY1y19h4Ze9

 

注)教育者を優先しますが、それ以外の方々でも参加枠が空いていれば参加可能です。12/19頃までに参加可否のご連絡をいたしますので、所属を明記した上で参加申込をお願いします。

 

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※本ワークショップは、2020年度科学研究費助成事業 研究課題「態度形成のプロセスに着目した 教育者向けデザイン学習プログラムの開発」(18K11967) の支援を受けて行われるものです。

 

主催:専修大学上平研究室
共催:神奈川県高等学校教科研究会情報部会
協力:専修大学ネットワーク情報学部
お問い合わせ:上平崇仁(kamihira@isc.senshu-u.ac.jp)※@を半角に変えてご利用ください

 

Ethnography Lab, Osaka 特別セミナー Designs for the Pluriverse を巡って:デザイン、人類学、未来をめぐる座談会

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こんなセミナーに登壇することになりましたので、お知らせ。

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デザインと人類学の関係は近年ますます接近しています。そこで、大阪大学・人類学研究室と Ethnography Labでは、デザイン人類学をテーマとする座談会を企画しました。

2018年に人類学者のArturo Escobarが出版した Designs for the Pluriverse は、デザイン、人類学、社会運動など多岐にわたる分野で大きな反響を引き起こしています。持続可能な世界を構築するための人類学的なデザイン戦略—Pluriverse(多元世界)のためのデザイン—を論じた本書は、デザイナーにとっては、デザイン思想の中にトランジション・デザインを体系的に位置付け、存在論的デザインという新たな概念を導入する画期的な理論書です。一方、人類学にとっては、人類学とデザインの関係史を総括し、現代の人類学の研究動向の中でデザインとの協働を積極的に位置づけるものです。

気候変動が悪化する中で、社会とテクノロジーのあり方を抜本的に作り替えることが求められている現在、デザイン、人類学、アクティヴィズムを繋ぐ本書は極めてタイムリーなものだと言えるでしょう。

今回の座談会では、こうした二重性を持つ本書に注目して、デザイナー、人類学者、そしてEscobar本人とも近い研究者/アクティヴィストが、持続可能な世界への移行のためにデザインと人類学/社会科学が果たす役割について議論します。

※本座談会は、Zoomによるオンライン座談会です。

討論者

岩渕 正樹(いわぶち・まさき)

NY在住のデザイン研究者。東京大学工学部、同大学院学際情報学府修了後、IBMDesignでの社会人経験を経て、2018年より渡米し、2020年5月にパーソンズ美術大学修了。現在はNYを拠点に、文化・ビジョンのデザインに向けた学際的な研究・論文発表(Pivot Conf., 2020)の他、パーソンズ美術大学非常勤講師、Teknikio(ブルックリン)サービスデザイナー、Artrigger(東京)CXO等、研究者・実践者・教育者として日米で最新デザイン理論と実践の橋渡しに従事。近年の受賞にCore77デザインアワード(スペキュラティヴデザイン部門・2020)、KYOTO Design Labデザインリサーチャー・イン・レジデンス(2019)など。Twitter: @powergradation


中野佳裕(なかの・よしひろ)

PhD(英国サセックス大学)。専門は社会哲学、開発研究。山口県生まれ。江戸時代末期創業の老舗の和菓子屋に生まれる。英国留学中に世界の様々なコミュニティづくりの思想と実践を学び、日本の地域づくりの在り方を世界的な視点から見直す研究・教育活動を行っている。2018年4月より早稲田大学地域・地域間研究機構次席研究員。主著:『カタツムリの知恵と脱成長――貧しさと豊かさについての変奏曲』(コモンズ、2017年)。共編著『21世紀の豊かさ──経済を変え、真の民主主義を創るために』(中野佳裕、J-L・ラヴィル、J.L.コラッジオ編、コモンズ、2016年)。主訳書『脱成長』(S・ラトゥーシュ著、白水社クセジュ、2020年)。


上平崇仁(かみひら・たかひと)

専修⼤学ネットワーク情報学部教授。筑波大学大学院芸術研究科デザイン専攻修了。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、人々の相互作⽤を活かして立ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。2015-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。12月に『コ・デザイン―デザインすることをみんなの手に』(単著/NTT 出版)を上梓予定。


森田敦郎(もりた・あつろう)

大阪大学人間科学研究科教授、Ethnography Lab, Osaka 代表。著書『野生のエンジニアリング』にて、中古品やスクラップを活用するタイの中小工業の機械技術を人類学的に研究。その後、大規模な技術システムであるインフラストラクチャーが、人々の情動、身体、社会性を惑星規模の環境プロセスと結びつけていく過程について、国際共同研究を実施。その成果を共編著 Infrastructure and Social Complexity: A Routledge Companion (Routledge, 2017), The World Multiple: The Quotidian Politics of Knowing and Generating Entangled Worlds(Routledge 2018), Multiple Nature-Cultures, Diverse Anthropologies (Berghan 2019)などにまとめている。


清水淳子(しみずじゅんこ)Twitter: @4mimimizu

デザインリサーチャー / グラフィックレコーダー。1986年千葉生まれ。2009年 多摩美術大学情報デザイン学科卒業後 デザイナーに。2013年Tokyo Graphic Recorderとして活動開始。同年、UXデザイナーとしてYahoo! JAPAN入社。2019年、東京藝術大学デザイン科修士課程修了。2019年7月 ニューヨークで開催されたVisual Practitionerの世界大会 IFVPに参加。現在、多摩美術大学情報デザイン学科専任講師としてメディアデザイン領域を担当。著書に『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』がある。多様な人々が集まる話し合いの場で、既存の境界線を再定義できる状態 “Reborder”を研究中。


開催時間:2020年12月3日19:00~ 21:00 (JST)

会場:Zoomによるオンライン開催

Zoomの詳細をお送りしますので、下記から登録ください。

お申込先はこちらから

主催:大阪大学人間科学研究科 Ethnography Lab, Osaka

後援:科学研究費補助金基盤(A)「惑星的課題とローカルな変革:人新世における持続可能性、科学技術、社会運動の研究」

お問合せ先:Ethnography Lab, Osaka (ethnography@hus.osaka-u.ac.jp)

よみうりランドからオンライン授業に挑戦

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10月16 日(金)。朝からよみうりランドに行く。ちなみに僕の職場からはかなり近くて、道路が空いていれば車で10分ほど。

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午前中は秋らしく、とてもいい天気だ。夏には多くの人でごったがえしていたプールには誰もいないが、きれいな水が張られている。

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さて、何しにきたかというと・・・。よみうりランドが新しいサービス始めたという話題を聞いて、野次馬的に申し込んでみたという次第である。その名も、「アミューズメント・ワーケーション」笑。ワーケーションというのはワークとバケーションを組み合わせた言葉で、最近割と流行っている。それを遊園地でどうぞ、という企画だ。平日1,900円。駐車場代まで含まれているので、かなりお得。

 

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・・・。

 

午後には寒くなってきて、正直言って仕事できる感じではなかった。とてもじゃないが集中できないので、レストランの中に避難して作業。サービスではここにも指定席を割り振ってくれている。レストランはわりと暖かくて作業も捗る。今度行ってみようかな、という人は気象条件や時間帯に快適さを左右されることは知っておいた方がいいかも。天気いい日なら楽しめると思う。

 

さて、実は、ただパソコンで作業しに来たわけではなくて、この環境を活用してオンライン授業を試みるのだ。申込時にそう伝えたら、営業さんが関心持っていろいろ応対してくださった。

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観覧車でミーティングするという人生初の体験。ちなみに、この営業のYさん、広報でもよく使われているサングラスかけたイケメンのビジネスマン(このブログ上から三枚目の写真)のモデルでもある。なんと、中の人がモデルやっているとは。

 

いろいろ話を聞いていたらとても興味深かったので、いくつか箇条書きにしてみる。

 

  • コロナ禍の中では、遊園地もいつ営業停止になるかわからない。あたらしい顧客の開拓と遊園地のあり方について社内でアイデア会議が開かれ、その中で若手社員チーム(Yさんたち)の「アミューズメント・ワーケーション」案が採用され、支配人からゴーサインがでる。
  • プールサイドの仕事場というのは、見映えだけではなくて、換気の良い屋外でブース的に使える場所であり、夏以外は使われていない場を活用しようとする発想であること。
  • 観覧車でZoom会議、というのも、「ウェーイ」とびっくりさせる出落ちギャグのためではなくて、日中はわりと空いており、遊園地の中で唯一静かな個室空間であること。(気付かなかった!)
  • 現在はまだ採算度外視で、本当に活用できるか、そして試験的に運用してみながら可能性をさぐっている段階、だという。
  • 例えば、実際に試してみたら、観覧車のてっぺんでは電話回線が弱くなることがわかり、乗り場でポケットWIFIを貸し出すなど、随時トライ&エラーを繰り返している。

 

僕は、こういう現場の人々の中から出てきた「攻め」の姿勢が大好物なので、経緯に感動した。あまりにも面白かったので、僕もいくつかアイデアを話してしまった。こないだ実施した高校生がマイクラでアトラクションをデザインする仮想遊園地をさらにMinecraft Earth(AR版マイクラ)で展開する実験とか、研究室の学生たちと議論した未来スケッチとか。

 

 

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これは、感染症は防がなくてはならないが家にいるのは飽きる、というジレンマを解消するために、近未来は緑の多い大きな公園に出勤するかたちになるのではないか、というアイデアスケッチ。電気自動車(遊園地によくあるゆっくりうごくやつ)型の防音個室空間があればカフェ的な親密な対話もできるかもしれない。考えてみれば遊園地だってこんな使い方にぴったりだ。こういう可能性をさぐるワークショップはありだな。

 

当初の目論見としては、「グラフィックデザイン」の授業で視覚言語を扱う予定だったこともあり、遊園地のサイン計画について実地から中継しながら解説しようと思っていた。でもYさんと話しているうちに違うことに気づいてしまった。プロの方々によって長年かけて洗練されてきた地図やピクトグラムなどの完成度の高いものを僕が説明することよりも、今の困難な状況の中で従来の遊園地から脱却した新しい可能性を探っていることのほうが、デザインの問題としてはずっとリアリティが高いということに。(※あくまでも初心者の学生たちが、このコロナ禍のなかで考える対象としての話です)

 

14:50。授業が始まる。最初の30分は背景を消して、普通に前回の課題の解説をしたのち、唐突によみうりランドにいることを告白する。そして園内を実際に中継しながら歩き、取り組みを紹介する(「アミューズメント・ワーケーション」だけでなく、さまざまな企業とタイアップした工場体験の「グッジョバ」エリアなど)。受講生みんなから「Youtuberか!」いっせいにツッコミが入った。

 

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(受講生のtwittterより)

 

 手振れや風防対策しなかったので、かなり見苦しい放送になってしまった。申し訳ない・・・。

 

その後は、Discordつかってグループで話し合い。

即席で考えた課題文を転載してみよう。

 今日は、よみうりランドの逆境の中の挑戦を、
現地から紹介した。

みなさんも、「リモートで受けなくてはならない」「でも家にいるのは飽きる」という葛藤があるならば、それを起点に新しい可能性を考えてみよう。グループで2つのうちいずれかを選択してアイデアを考えてください。

 

1)分散型クラス
今回は教員自身が「非日常」から中継するという方法を取ったが、逆に学生側がそれぞれの「非日常」からアクセスし、相互に共有することで、通常の教室や自宅より深く学べるというケースは、どんなものが考えられるだろうか。
学ぶ内容はなんでも構わないが、実現できそうなもの。

※この授業で実現できそうなものがあれば挑戦してみます

 

2)もうひとつの遊園地の使い方
普通にアトラクションを楽しむのではなく、このワーケーションのように、コロナ禍という状況化での「別の使い方」にはどんなものがあるだろうか?
※アイデアは全部よみうりランドの社員さんにフィードバックします

 

◎Discordで4人一組になる。1)を話したい人はDiscordの上から、2)を話したい人は下から詰めて参加しましょう。
◎音声+掲示板+必要であればジャムボードでスケッチ。
◎〜16:15まで
◎話し合った内容を元に、本日の講義内小課題として文章にまとめて投稿。
◎個人で考えたアイデア/ グループで出たアイデア、どちらでも構わない。

 

以前の記事で書いたように、後期はレクチャーはオンデマンドにして空き時間に視聴することとして、できるだけ同期する必要性のある共同作業や話し合いをする時間を増やすようにしている。学生たちも予測できない取り組みをなかなか面白がってくれたようだ(多分・・・)。人間、そのあと何が起こるかを予測できてしまうと眠くなるし、予期できない状況になると集中力はあがる。

 

というわけで、真面目に解説すると、けっしてバカンス先からつないでウケを取りたかったわけではなくて、少しづつ日常化し、マンネリ化していくオンライン授業の学習形態をもう一度問い直し、学生たち自身にも新しい可能性を考えてもらおうとする試みだった。

 

僕が担当しているのはデザインの授業なので、それをどう扱うかをいつも考えている。「こうでなければならない」という既成概念を疑い、リスクを取ってでもいろんなあり方を実験する、そして試したことに対して積極的にフィードバックを集めて再検討する、そんな姿勢から何かを感じてくれれば嬉しいな、と思う。大事なことは、固定化された知識の中にあるわけではないのだ。

 

www3.nhk.or.jp

 

 

 

デザインを「存在論的」に捉えるとは

 最近、デザインと人類学の両側から構成されているような「デザイン人類学」の議論が海外の研究界隈で活発に起こっている。近年起こった人類学の存在論的転回の潮流の影響だと僕は解釈しているが、なかでも重要なポイントとなるのが、この「存在論」という言葉だ。ごく簡単に言えば、具体的な「モノのあり方」や「実行のされかた」それ自体を通して考えていこうとするものである。

 

 そしてこの観点を取り入れることによって、我々がよく知っているデザインもまた再定義されようとしている。それが非常にエキサイティングなのだが、つかめるようでなんだかつかみきれず、捉えることがなかなか難しいので、僕自身、人に説明しながら勉強中である。研究室の学生たちを交えながら、ファッション(昨年度)や、メイク(本年度)というテーマを存在論的な観点から解釈してみたりしている。

 

 僕も勉強中のテーマながら、いつのまにか人前で話す機会をもらうようになってしまった。以下の説明は先日、千葉工大大学院の連続講義「デザインイノベーション特論」のゲストとして話したときもの。講演のイントロ部分をスライドと文章で解説してみる。言語化してここのコンテンツにすることで、これをネタに人類学者の方々と議論し、自分の理解不足なところを修正していこうとする試みでもある。

 

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デザインを「存在論的」に捉えるとはどういうことでしょうか。まずは事例から考えてみようということで、「風の電話」を紹介します。テレビでも時々取り上げられるので、知っている人もいるかも知れませんね。

 

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 この岩手県の海沿いの丘にあるこの電話ボックスの中には、古い黒電話が置かれています。けれども、多くの人が訪れています。震災で亡くなった故人に想いを伝える空間として。

 

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 実際には、この電話機は電話線がつながっていません。そして死んだ人と話せることは、科学的に言えばありえないことです。それでは、この装置は「ウソ」なのでしょうか? ただ話を聞いただけでは、まったくリアリティを感じないでしょう。それではここで動画を見てください。

 

(以下の記事ページ中にある動画参照)

www.bbc.com

 この数分の動画を見ただけでも、失った人とつながろうとする遺族の圧倒的なリアリティが伝わってきて思わず泣きそうになります。「誰もいないと分かっていても、そこに妻がいるかのように感じた」と解説されていますが、そんな声からも遺族の方にとってはかけがえのない対話の場になっていることが伝わってきます。そして、多くの人は、彼らにとってはそういう場所として成り立っているのだ、と理解することができます。

 

 

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 この装置は一風変わったものです。そもそも一般的なデザインプロセスからは絶対生みだされない類のものでしょう。遠隔との通話体験を保証する電話という「製品」ではなく、どちらかというと、体験する人の解釈によって広がっていく一篇の「詩」に似ています。

 

 そして、わたしたちがこの装置を眺めて、世界にはこういった余白のようなものが必要だ、と何かしらの意味や存在意義を感じるのであれば、それは、人間が「経済価値」や「科学的合理性」だけで生きていないということの根拠でもあるように思います。

 

 さて、この装置は、はたして「デザイン」(されたもの)なのでしょうか?みなさんがどう思うかを、理由を添えて教えて下さい。正しいか正しくないかを問うものではありません。自分が何をデザインだと捉えているか、その見方が反映される質問です。

 

 おや、これは「作品」だ、と捉える人もいますね。みなさんの答えを見ると、ひとそれぞれの基準があることがわかりますね。

 

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 この装置は、その場所に置かれているものとして、まず「モノ」であることは間違いなさそうです。ここで、そのモノが「ある」ことによって、人の側の行為が決まっていることがわかるでしょうか?もちろん、すべての人に当てはまるのではなく、限られた人にとって、です。さきほどの動画で見たように、遺族の方は、ここを亡くなった人を想起し、心の中を語る場所だと理解することによって、「なりきる」ことができています。

 

 そして電話ボックスという閉じられた設え(しつらえ)こそが、そこにいない人と交信させています。つまり、そうさせています。これは人と物を分けないで捉えるアクターネットワーク理論という観点から言えば、この電話ボックスは、遺族の方から見た一連の経験の中で、「行為主体性」を持つということができます。

 

 「モノ」が行為主体性を持つ・・・・。この見方は、一見奇妙です。普通はわたしたち人間こそが、明確な意図を持ち、取捨選択してモノを使っている、と考えるのではないのでしょうか? ここで自分がすべての行動が決めているなら、自分で自分の携帯を耳に当てて電話するふりをすれば、それで同じようなことができるはずです。

 

 でもそれでは通話できないことは明確でしょう。この「風の電話」が、亡くなった人と話せる装置だと理解しているから、モノこそが自らの心持ちを変えてしまうから、自分の内面とむきあう儀式的な場となり、通話ができるわけです。

 

 こんなふうに、ものの見方を違うレンズに交換してみれば、わたしたちの多くの行為は、人間自身がつくっていると言うよりも、周囲の環境、周囲のモノによってつくり変えられていることがわかります。

 

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 私達は、意図を込め、さまざまなものごとをデザインしようとします。その一方で(誰かが)デザインしたものごとは、その他のデザインされた様々なものと結びつき、逆にわたしたち自身のあり方をかたちづくっていく。つくられたものごとによって私達こそがつくられていく、すなわちデザインされていく。そんな循環的なデザインの考え方を、「オントロジカル・デザイン(存在論的デザイン)」と言います。はじめてこの問題を指摘したのは、哲学者のフェルナンド・フローレスとコンピュータ科学者のテリー・ウィノグラードで、30年以上前のことでした。(ちなみに、テリー・ウィノグラードは、スタンフォード大の彼の研究室からGoogleが生まれたことでも有名です)

 

二人は、名著「コンピュータと認知を理解する」において、このように指摘します。

「(・・・)システムには良し悪しがあらわれる。しかし、本当に問うべきことは、システムが良いか悪いかではなく、システムを理解し使用する事が、私たちの行動と私たち自身が何者であるかを決定すること、そのことなのだ」

 

 これは思わず考え込んでしまうような、大変深い問いです。ここで書かれている「システム」は、人間によってデザインされたもの、と捉えられるでしょう。そのシステムのユーザして関われば、ユーザの役割を決められます。管理者として関われば管理者の役割に決められます。デザインしたものが、わたしたち自身のありかたの可能性を決めてしまう。デザインしたものが、自覚されないままにわたしたちの存在そのものをつくり変えてしまう。その点でデザインは極めて重要なのです。

 

 さきほどの「風の電話」を、再度、存在論的な視点で見てみましょう。(遺族の方が)「電話線のつながっていない電話」を通して、関わり方を変えているという様子が(外から見ても)はっきりとあらわれています。つまり、これは、人の行為や情動ふくめて、この装置によって規定されている(=デザインされている)と言えます。

 

 

 

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 最近、(といってもコロナ禍では外食の機会も減りましたが)食べることに先立ってカメラで食べ物を取る人が増えましたね。自分が食べているものを全くの他人に自慢することは、SNSが普及する以前は存在しなかった行為です。

 

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 すぐ撮影できるスマホ、すぐ共有できるSNSアプリ、自慢したいブランドスイーツが一か所に揃うことで、それらが結びつき、それまでなかった相互関係や葛藤が起こっています。その結果、「食べる前に撮る!」になるわけです。インスタユーザーは、写真映えする場所を自ら選んで、そういう場所に行ったりしますね。行動が変わっています。つまりアプリのユーザーであることによって、現実がつくり変えられていると言うことができます。

 

 電子マネーも全く同じです。アカウントを持つか持たないかで受けられるサービスも行ける場所も違ってきますし、単純に支払い方法が便利になるだけでなく、それらは経済圏の全体像まで動的に変化させています。

 

 Appleの製品はどうでしょうか。確かに速いマシン、洗練されたUIは私達の仕事を手助けしてくれます。が、同時にいろんな仕事のやり方を決めてしまっています。いつの間にか居心地の良い「ユーザー」という立ち位置を指定され、材料がどこでどうやってつくられているのか、どこにどんなことが仕掛けられているのか、完全に覆い隠されています。自分でネジを開けて内部の様子を見ることすら許されなくなってしまっています。 

 

 ふと周りを見渡してみると、いろんな場所で当てはまることに気づいて、ゾッとしませんか。

 

  さきほど、「『風の電話』はデザイン」なのでしょうか?と投げかけた問いは、実はここにつながっています。何がデザインかは、その人の見方によって決まるもので、決して定義が統一されているわけではないですが、それでもデザインは人という〈主体〉が〈客体〉に働きかけるようなイメージを持つ人がほとんどでしょう。

 

 

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 しかし、こんなふうに〈実行のされ方〉に焦点を当てた見方に切り替えると、デザインによって決まっていく、デザイン(されたもの)によって決定的に「変えられていく」現実が、少しづつ浮かび上がって見えてきます。さらに言えば、もともとデザインした人間の意図を離れたところでモノとモノが作用し合っている可能性に気づきます。過去に行われたさまざまなデザインの数々が状況の中で同時的に結びつき、自覚するしないにかかわらず、現実をつくりあげていくのです。デザイン概念が力を持つに伴って、現実への影響は大きくなってきてます。

 

 従来のデザインの視点は、ほとんどの場合、デザイナーがデザインするプロセスしか見てきませんでした。製品開発が目的となるゆえです。HCD(ISO 9241-210:2019)にしてもDouble Diamondにしても、リリースして終わるモデルになっています。

 

 しかし、見てきたように、私達の現実は、決して静止せず、何か周囲をデザインする/周囲からデザインされるの絶え間ない輪の中にあります。いわば相互に包摂しあう関係になっています。デザインのプロセスは、フローレスが言うように、本当はどちらか一方だけの力に還元されない、二人で踊る"ダンス"のようなものなのです。

 

 こんなふうに、デザインを「存在論的」に捉えることで、何か変わるのでしょうか。たぶん「つくる方法」は、それほど変わりません。しかし、デザインの見え方は明らかに変わります。自分がつくる以前に決められていたこと、つくった後にさらに決めていくことなど、日常のあらゆることの中に、決める/決められるのパワーバランスや、相互の駆け引きや結びつきーちがう言い方をすれば「政治性」ーが発生していることが見えるようになるでしょう。例えば、障害を持った人が邪魔な存在になるのか、創造性を持った存在になるのかは、場のデザイン次第で変わります。さらに言えば、地球は人間から見える世界だけでが独立してあるわけではなく、他の生き物や自然物との複雑な連関があってこそ成り立っていることが見えてくるでしょう。

 

 そして世界の見え方が変化すれば、方法以前の「何をつくるか」の志向性に影響を与えるはずです。そういった複雑さを引き受け、一人ひとりがデザインに関わることによって、どんな可能性を持てるのでしょうか。年々過酷になっていく地球環境の中で、人類はどのように他の存在と共存できるのでしょうか。

 

 そうした大きな問いは、もはや優れた作り手だけでは捉えられられないことです。デザイナーは、しばしば自分たちの手でつくることに集中するあまり、そこで逆向きに起こっている視点を見落としがちでした。この問題に気づいた研究者たちは、デザインすること/されていくことを両面から解釈し、周囲を作り変えていく人の営みの枠組みを再検討するために、〈デザイン人類学〉という学問領域を必要としたのです。

 

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 メディア論の研究者、マーシャル・マクルーハンの有名な言葉に、「誰が水を発見したのかは知らないが、魚ではないことは確かだ(One thing about which fish know exactly nothing is water, since they have no anti-environment which would enable them to perceive the element they live in.)」というものがあります。魚は水の中にいます。何かを自覚するためには、それに囲まれていないという立ち位置(反―環境)を持たなければなりません。魚が水を理解できないように、デザインの先のパラダイムは、通常のデザインの枠の中だけで考えていてはおそらく見えてきません。意識的に外側に出てみることが重要になるでしょう。

 

 それでは、本題に入りたいと思います。

 

【オンライン授業】先生が顔を出す必要は、どこまであるのか?

オンライン授業でよく議論になることに、「先生の顔は出したほうがいいのか、出さなくてもいいのか」がある。学生にアンケートで聞いてみても、「顔があったほうがいい気がするけど、別にどっちでもいい」という答えが多いようだ。教員の側も自分の顔を積極的に見せたいわけでもないので、出さないですむならそれでもいいか、と非表示にしまう場合も多いだろう。僕自身、前期はどの授業でもあまり顔を出さない方向ですませた。でも、最近いくつか気になる情報を得て、考え方を改めることになった。

 

1)佐伯先生の有名な論文、「そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」に、ヒトが文化を伝承する際の特徴的な手続きが引用されている。人間はよくわからないことでも、目を見て、目の前でされることを信じてしまうらしい。

 

Gergely & Csibra によると,ヒトが他の動物と明白に異なることは,「文化」の中できわめて効率よく社会的な伝承が行われていることにあるという.そこではさまざまな行動様式が,伝承する側も伝承される側も,因果関係も機能的関係も不明瞭なまま,また,特定の集団のメンバーにとっての適応的な意味も不明であるにもかかわらず,「こうすることになっている」という行為系列が,いわば「盲目的に」伝承されているという点であるという(Gergely & Csibra, 2006).Gergely らによると,大人が子どもに対して①相手の目を見て,②手元が相手によく見えるようにして,なんらかの作業を行う,③作業の終了後に再度相手の目を見る(簡単な言葉で表せば「ミテネ・ヤルヨ・ホラネ」というメッセージで「お手本」の動作を示す)ということで,子どもは無条件に,その作業の意味を考えることなく模倣する,というのである.Gergely らは,このようなコミュニケーション様式を「教示伝達的顕示(OstensiveCommunicative Manifestation:OCM)」と名付けた.

 

(強調は引用者)

 

 佐伯『そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後」組織科学 48 vol.2, 38-49, 2014

https://doi.org/10.11207/soshikikagaku.48.2_38

 

よくわからなくても盲目的に信じてしまう、というのが実に興味深い。そんなことが頭に引っかかっていたところ、先日興味深い映像を見た。

 

2)Netflixが作った「監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影/The social dilemma」は、SNSのダークサイドを描き出したドキュメンタリーである。主要なIT企業がいかに我々の内面的な欲求をハックして中毒にしているかについて、多くの専門家への取材とともに映像化している。

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なかなか攻めた内容で、映像内では『もしサービスを無料で使っているのなら、そのサービスの顧客はあなたではなく、広告主。あなたは、商品。』みたいな、企業からは口が裂けても言えないようなセリフが続出する。

 

主要登場人物のトリスタン・ハリスの主張には、僕は以前から注目していた。それで2年前につくった高校の情報デザインの教材「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」では彼のメッセージを受けて、誰もが知っておくべきリテラシーとして、デザインの作為性の問題を扱ったのだけど、まあ、今回はその辺の話は置いといて。

 

ドキリとされられたのが、映像内でフェイクニュースを主張する(危ない)人々が、揃いもそろって、みな「どアップ」で「カメラ目線」なこと。そして「画面を指差す」のだ。要するに、グリフィスらが確立した映像手法としての「クローズアップ」であり、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグの古典的なポスター名作I Want You for U.S. Armyで画面の向こうから名指しされるような「指差し」である。

 

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 そういえば日本で人気のYoutuberたちも、みなカメラに顔を大写しにしてカメラ目線で喋っている。

 

我々はメディアを介した向こう側から呼びかけられても、まるで現実がそうであるかのように錯覚する。それに抗えないのは、視線をあわせることで協働してきた長年の人間の進化上の特性によるんだろう。

 

この古い脳の中には、現実の世界とメディアの世界を区別するための切り替えスイッチは存在しない。人は社会的行為者が自然な物体を模したものに対して、あたかも実際に社会的であるかのように、実際に自然であるかのように反応する。人形は考えてみれば人間とはあからさまに異なっているだけれども、私たちの古い脳を騙す程度には人間にちかい。他のことに気を取られたり、自動的な反応に身をまかせたりしているときはなおさらだ。

『人はなぜコンピュータを人間として扱うか―メディアの等式の心理学』

 

そして視聴者は、よくわからないまま、そして作為性を見抜けないまま盲目的にメッセージを信じてしまうのだ。

 

 ということは、目を見て喋らないかぎり、どんなに学問的に正しいことを言おうが、一生懸命説明しようが、学生たちが普段見ているYoutuberほどは信じてもらえない、ということになる。これはなかなか衝撃だ。

 

 自分の喋っていることもひとつの主張にすぎないのだし、と他人事にように開き直ることもできるかもしれない。だが、せめて大学教員としての責任と学術的な裏付けを持った上で正しいと思うことを伝えなければ、学生たちは他の(怪しい)ことを信じてしまうだけだ。結局のところ洗脳合戦だとしても。

 

というわけで、ささやかな試みとして、ワイプで顔を出し、カメラのレンズ部を注視して、画面の先にいる学生を意識しながらしゃべることにした。(画面ではなくレンズを見ると目があってかなり怖い)

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使っているのは、mmhmmという配信用アプリ。

もちろん恥を感じるけども、どうやら恥ずかしいと言って逃げている場合でもない。真剣に届けようとしないと、誰にも届かない宙を舞うだけのレクチャーになってしまうだろうから。

 

www.mmhmm.app

www.netflix.com

 

 

【オンライン授業】一斉送信と少人数ダイアローグを両立させる試み

後期授業が始まった。結局コロナ禍はおさまることなく、後期も演習科目以外はオンラインということになる。僕は演習科目多いので週に3つは対面授業があるのだが、これがまたなかなか辛い・・・。学生が楽しそうにしているのは何より嬉しいけども、みんな顔覆っていて表情がわからない。近寄れない。マスクでしゃべると苦しい。なのでオンラインのほうがよほど気楽だとも思う。

 

というわけで、後期の講義もオンラインで新しい実験を続けている。前期の経験から、学生たちがもっともストレスを感じているのは、授業内容がプアになったことではなく、学生同士のコミュニケーションが奪われ、横のつながりがなくなってしまったことだ、と知った。たしかに、頑張って喋ってるのは先生だけだ。一日中授業受けていても、学生たちは一言も喋らないことだってざらにある。ここは確かに配分を変えていく必要がある。

 

真面目な先生は一生懸命教えようとしていると思うが、多分学びに大事なことは、同じ目線にいる者同士の「分かち合い」なんだろう。普段スライドを元に話しているような対面講義の内容は、わざわざ一緒に同期してやらなくても動画で空き時間に視聴すれば十分な気もする。後期は、多少のグダグダが発生するにしても、学生たちが少人数で対話する機会を最優先で確保することを念頭においてみようと思う。

 

少人数の対話(短時間)には、以下の点からDiscordが向いている。

・「会議室のURLどこだっけ?」とならない。サーバーに一回入れば、あとはアドレス不要

・チャットにコメントや画像投稿を残しておけることで、事後的にどんな発言があったかを全員がざざっと共有できる

・ワンクリックで部屋を移動できる

・音質が良い

 

しかし、このツールの欠点として、小部屋に入ったら外から一斉指示(ブロードキャスト)ができないことがあった。会話に夢中になってしまうと全体掲示板になにか指示書いてもなかなか気づかない。そうするとSAが「終わりだよー!ホールに戻ってー!」とか、呼びに行くことになる。

 

そこで、Google meetと併用してみた。大学がG suiteで契約しているからという理由だけで、別にzoomでもいいと思う。meetでメインの進行を進めつつ、Discordで個別に話す、というかたちだ。音声がどうなるのか心配だったが、履修生たちに聞いてみたところ、同時に入ったままで問題なく両方聞けるらしい。学生はみんなmacスマホもっているので、たとえばDiscordはスマホで入れば負荷分散にもなる。

 

グラフィックデザインの初回の講義の構成を図にしてみた。

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この日は、ガイダンスと、ウォーミングアップの発想トレーニング。work1とwork2は、簡単な発想力を競うゲーム(「ぐるぐる検索○と□」)。それぞれただ発想するだけでなく、それぞれの頭を使って書いたワークシートをDiscordのグループに投稿して、メンバーにシェア。対話を通して自分の頭脳のクセを知り、上手い人からコツを学び、どうすればもっとパフォーマンスがでるのかを対話する。

 

kmhr.hatenablog.com

work3は、カタルタ(#18エモーション)をつかって、
即興ストーリーをつくるもの。

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これが学生たちの間ではかなり盛り上がっていた。(僕は一定時間で画像を投稿するだけで、まったく喋ってないことがポイント)。テキストボードにストーリーの概要や感想コメントを書かせることで、履修生全員が簡単に共有できる。課題の投稿や共有はオンラインのほうが遥かに簡単だ。

 

たくさん頭使って喋れてあっという間に90分過ぎた、とみんな言ってくれた。

というわけで、一斉送信と少人数ダイアローグを両立させる試みは意外と行けそうだ、という感触を得た。次回からはみんながやってきた課題を元にみんなで共有し、自分の取り組みはどうだったか、どうすればもっとよくなるかの省察とともに考えていくことが中心になる。ここのところマンネリ気味だったので、新しい課題もどんどん試してみようと思う。挑戦はつづく。

 

 

 

【ベネッセ連載】親もいっしょに創意工夫してみよう

ベネッセの連載9月分が掲載されました。8月に書いたものですが、前回のプログラミング教育の記事が長くなったので2つに分割したもので、具体的な事例を中心に家庭でできることを紹介しています。今回はツッコミどころ少なめ。

benesse.jp

記事中で触れているmicrobitでの、「地磁気センサ―をつかったゲーム」はうちの子の夏休み自由研究としてやってみたものです。

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micro:bitには地磁気センサー(デジタル方位磁針)が内蔵されているのでけっこう簡単に応用することができる。

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実際に歩きながら、ドットを頼りに宝探しをする。座標を見つけたらクリア。弟をプレイヤーにして遊んでみるという当初の目的はなんとか達成。

 

それよりも、ゲームのプログラムを書きながら、

地磁気を取得してみる

→自分の位置に連動してうごいた!と感動

→なんでそもそも地磁気があるのか疑問に思う

地磁気について調べる

地磁気は、実は普遍的なものではなく、長い地球の歴史の中で過去360万年で11回も逆転しているらしい

→常にNが北を指すわけではないと知る

→77万年前の最後の逆転が、千葉にある地層に記録されている

→それが「チバニアン

チバニアンってそういうわけで騒がれたのか!

 

と、気づきをレポートにまとめさせながら、

確かにゲームだとしても、「やってみる」ことで学びのプロセスは回るもんだなぁ、と私も勉強になりました。

 

 

 

 

オンライン演習でのチェックイン/チェックアウト

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 前期授業が終わりに近づいている。強制的なオンライン授業、受ける側だけでなくする側も初めての経験ながら、なんとか無事に終了することができそうだ。オンラインではやはり限界があるなという感覚と、逆に効果的なこともあるなという感覚、いろんな気づきがあったが、仮想的な「場」の感覚を醸成するための工夫については、毎週強く考えさせられた。

 その中で僕が特に気付かされたのが、ワークショップでよく使われるメソッド、「チェックイン/ チェックアウト」の意味である。今日はその話を書いてみようと思う。

 

チェックイン/ チェックアウトとは
 チェックイン/チェックアウトとは、通常は、ホテルへの宿泊や飛行機搭乗の際に、顧客が到着し、そのサービスに入る手続きのことを指す。この言葉をメタファとして、ワークショップでは、参加者がその場の本題に入っていく際(チェックイン)、また出ていく際(チェックアウト)に、自分の状態や心理を調整するための技法として取り入れられている。

 

 「技法」と書いたが、特にスキルが必要なものではない。時間を少々とって、車座になり、例えば「今の気分は?」とか「今日は何を期待してここに来ましたか?」などの参加者それぞれの状態を簡単に共有する程度のことである。
 なので、基本的にはやろうと思えば誰でもできる。ワークショップに参加したことがある人は、ファシリテータがわざわざチェックインと言ってなくても、それに近い導入を取り入れていたことを思い出す人も多いと思う。

 

 ではなぜ「場に入る」ために、わざわざそんな儀式的な行為が必要なのか。ワークショップ設計所の小寺氏は「チェックインは、存在確認なのだ」と書いているが、まさしく僕もそう思う。

ws-plan.pro


 人々が一か所にただ集まっていても、それぞれがお互いの存在を受け入れているとは限らない。また、よく知っている間柄だったとしても、人の気分は毎日すこしづつ異なっている。他者の心のありようやプレゼンス(存在感)は、それほど自明なものではない。

 

 したがって、これからいっしょに何かをやるぞ、というときに、お互いの様子を確認し合い、お互いの存在を受け入れる態度を示し合うことは、当たり前のことに見えて実はとても重要なプロセスだ。逆に言えば、場作りのプロは、だれもが暗黙にしがちなところにまで丁重に気を配っていることが、プロたる所以なのだろう。

 

オンラインこそ、そんなきりかえが必要だ
 翻って、オンライン授業はどうか。受講生たちは同じ場所にすわったまま、デスクトップの上だけでビデオ会議システムに出たり入ったりを繰り返す。多くの場合、マイクもビデオもオフにしたままだ。なので、システムの中でアイコンが並んだり、視聴者数が表示されていたとしても、そのインタフェースの向こうに実際に生きた人がいることを、「直接」感知できるわけではない。


 しかし、演習に際しては、オフラインであろうがオンラインであろうが、目的のために力を合わせ、気持ちを分かち合う「仲間」となることが求められる。オンラインでは同じ場にいるはずの他者の心の機微を全く感じれないからこそ、その場に入る際には、意識的にお互いに「ああ、こんな人がいるな」と存在を確認し、受け入れ、それによる気持ちの切り替えを行う儀式が必要なのである。

 

オンライン授業で取り入れる
 そんなわけで、演習では毎回、最初と最後に必ずチェックイン・チェックアウトを試してきた。みんなにそれぞれ発言してもらうと時間かかるため、タイミングを揃えて一言チャットに書いてもらうという方式である。感覚としては、みんなで「しまっていこー!」「おー!」をやっているようなものである。
 いろんなお題を試したが、お題を毎回考えるのもなかなか難しいので、2年生の演習ではそれぞれで教員やTAで出題を分担しあった。


僕が出題した中でのお気に入りは、以下の3つ。

 

■第1回チェックイン(初回)

「いまの気分を、顔文字ひとつだけで表してください」

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■第10回チェックイン(演習終盤)
「あなたは、先生の代わりに授業始まりの掛け声をするとします。みんながラストスパートに向かって「超」やる気を出すために、どんな言葉を叫びますか?」

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■第11回チェックアウト(次回が最終回)

「ラストスパートに向かって、他のチームのみなさんに盛大な励ましの声援を!」

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 こんなふうに一瞬でタイムラインが埋め尽くされる(キャプチャは一部分)。

一斉にコメントすることによって、お互いのキャラクターが目に見える存在となり、結果的にみんなが同じ状況の中で相互に励まし合っている感覚がうまれる。(テキスト越しでもみんなの熱気や感情は感じるものであり、僕ですらそれなりにゾワゾワする)

 ZoomもMeetもチャットが毎回リセットされるため、こういった一瞬起こったムードもクラスの土壌につなげにくいのが難点だが、その点、我々はDiscordを使っているので、専用チャンネルをつくっておけば、ログが残る。こんな風にキャプチャも取って共有できるし、いつでも見直して元気になることもできる。

 

おわりに
 オンライン演習でのチェックイン/チェックアウトの事例を紹介した。実空間ではキャンパス内に教室の外側の空間が存在することで、ドアを介して内側に「入る」という感覚はあった。さらに時間になったら教員が現れたり去っていくことで、無意識的に授業のオン/オフの切り替えが起こっていたように思う。しかし、そういった手がかりがない場合には、相互の存在の感じ方や場の雰囲気の生まれ方に対して、もっと気を払い、小さな工夫をすることが求められている。

  

【ベネッセ連載】プログラミング「で」学ぶほうがいい

ベネッセの連載7月分。今回は編集部の要望でプログラミングに関する記事です。デザイン思考とつなげて解説してみました。

プログラミング学習は、上の子が小学校入りたての頃には自分の勉強も兼ねて自宅で定期的にやってましたが、だんだん抽象度が高まってくると四則演算が関係して理解の壁があるのと、ぼくが忙しすぎてやむなく一時中断してしまいましたが、そろそろ再開したいところ。

 

benesse.jp

「付箋を貼って進めていくアレ」は、ただ付箋を貼っているわけではない

先日、興味深いまとめ記事をみた。

グループで討論して付箋をペタペタ貼っていくようなワークは、現在広く行われているが、「はたしてあれは効果があるのか、最後に完成したものは写真映えはするが、終わったあとに何も得るものは無いし、 残るのは、みんなで何かすごいものを作り上げた、という達成感だけ」とある人が疑問を呈し、それに対するやりとりが行われている。

togetter.com

川喜田二郎が編み出したオリジナルな「KJ法」では、断片から意味を抽象化して発想(アブダクション)を導く手段として小さな紙片、今でいう付箋(ポストイット)がよく使われる。そして、この人が多くの人に盛大に突っ込まれているように、図解化をおこなった次に叙述化のフェーズがあることはよく見落とされることである。

 しかし、参考写真にかかれている「見出し(表札)」をみると、そもそもこれはワークの大事なポイントを外しているように思われる。やり方を間違ってながら、「得るものがない」と思ってしまうことは大きな問題だろう。

 

そこで、うちの2,3年生たちも同じようなところでハマっているようなので、デザインの前段階としてこの手のワークを行う場合のポイントについて手短に解説してみようと思う。

 

例えば、なんでもいいのだけど、机の上を調べ、そこで色鉛筆と消しゴムをみつけたとする。こんな感じだ。

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まずこの事実に対して、「色鉛筆がある。そして消しゴムがある」と、それぞれとりあえずそのまま捉えて、その仲間をきめるためにカテゴリとして「文房具」という表札をそれぞれ付箋に書く、としよう。

 

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 こういった要領で、見つけたことや、各自がおもいついたアイデアをどんどん付箋に書いて貼っていくことは、一応作業としては成立してしまう。たくさん付箋があれば、それぞれ仲間ごとに整理整頓は進んでいくから、いっしょに取り組んだという達成感もあるかもしれない。だが、分類の作業が終われば、おそらく「結局、何もわかりませんでした」という結論になるだろう。整理しただけでは、いや整理することが目的になってしまうがゆえに、やがて行き止まってしまう。この例は、間違った方法(カテゴリ分け)である。

 

では、どうするのか。もう一度写真を解像度を上げて、「よく」みてみよう。

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色鉛筆は、たくさんある。よくみると一律の長さではなく、黄緑は長くて赤やピンクは短い。つまり使い手がよく使う色に応じて長さが変わっている。ということは、たとえば僕が使った色鉛筆群と、あなたの使った色鉛筆群では、色ごとの減り方が異なり、その減り方には使い手の個性が無意識のうちに映しだされている・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

そして、もう一方のMONOの消しゴム。購入したままの状態ではなく、まんべんなく角が丸まっている。つまり使う人は、ゴシゴシこすって消すときに、字が消えやすいように、角になっている部分を使って字を消しているわけだが、4つともカドが使われてしまい、このあとには生理的快感のない長いマンネリがつづく・・・とか、そんなようなことを見出すことができるだろう。

 

この2つは、かたちも素材も違うけれども焦点の合わせ方によっては、よく似ている。(本当は他にも机上には色々なものがあるとして)それは、決して「文房具」というカテゴリによるものではなくて、もともと新品のときにあったものが使いこんでいく中で消耗して減っていく様子が「見える」ことに、なにか近しい意味が見いだせる、ということによる。

 

そして、ここまでわざわざ言語化しなくても、我々のもつ「直観」は、その近縁性をキャッチすることができる。ゆえにこの2つはなんだかよくわからないけども、なんとなくひっかかり、意識の水面下で引きよせあうのである。

 

 

それを付箋に描くとこうなる。

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それぞれどこまでが「事実」か、どこからが独自の「解釈」かは、明確にわけて書く。解釈は人によって多角的に行われるものであるし、いろいろな視点があるからこそ、みんなで同じものをみて、あれこれ気づきを重ねていくことに意義が生まれるものである。

そしてそれらを一行で圧縮した見出しをつける。通常の質的調査では、こんなふうに頭がねじ切れるほど頭をフル回転させて、気づきを重ねて調べていく。そうして作り出した言葉には、ちゃんと重みがある。実際に何かをデザインする際に、手がかりとなりうる。

 

 こんなふうに、2つの例をよく見比べてみれば、同じ付箋を使ったワークをやっているように見えても、そこで行われていることは大きく異なることがわかる。上の例では、単にみたものを名詞にあてはめ、カテゴリに入れるという機械的な「作業」をしているのに対して、下の例ではものごとの状態をよく見たうえで、さらに人との関わりの観点から意味を取り出し、さらに見出しで抽象度を高めている。決して付箋の「数」は問題ではない。

 

「付箋を貼って進めていくアレ」は、付箋を使っていると言っても、本当はただ付箋を貼っているわけではないのだ。こういった考え方は、一般的によく使われる演繹や帰納といった論理的なものではなく、発想(アブダクション)と呼ばれるちょっと違う考え方をしなくてはならない。だから論理でしか考えていない人ほどトラップにハマりやすいし、トラップからの抜け出し方を知識として押さえた上で、取り組んでいくことが大事だ。KJ法は、そこがどうしてもモヤるという人が多いが、論理だけでは捉えられない直観性をベースにしているからこそ、半世紀たっても古びないのだろうと思う。

 

まあ、そもそも当たり前のように付箋を使うこと自体がどうなんだ、とか、限られた期間の中でこんな負荷のかかる仕事に比重をかけるべきか、という議論は昔からあるのだけども、それはまた別の機会に。

 

参考資料

2年生の演習(コンテンツデザイン)で以前使っていたKJ法の資料を公開しておきます。よろしければお使いください。