Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

プレイ・マターズの邦訳が出版!

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ゲーム研究の第一人者ミゲシカールによる「プレイ・マターズ」の邦訳が発売された。物空間人間人間関係など多様な事柄が関わ「遊びの生態系全体の観点から遊びをとらえていく壮大な思想書である。翻訳も非常に質が高いのでお勧め。そういえばハーフリアルを翻訳されたのも松永伸司氏。貴重な本を訳していただき、ありがとうございます。

 

filmart.co.jp

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with Miguel. 2015.6.15 at  IT University of Copenhagen

実は、ミゲルは僕が研究員として滞在したITUの准教授。デザインのグループとゲームのグループは同じフロアで隣のエリアだったので、研究室も近くてちょくちょくと会話したっけ。彼もインプロに関心持っていて、僕の話も面白がって聞いてくれた。なお、ITUのゲーム研究グループは世界最先端の牙城で独特のカルチャーがあって、彼だけでなくみんなとんがった研究をしていて、話をきくのがとても興味深かった。あのイェスパー・ユールもここの出身だ。

英語版のPlay Matterはこのときに彼にもらったモノ。

 

 

 

「プレイ・マターズ」はフィルムアート社のサイトでまえがきを試し読みできます。

 

www.kaminotane.com

遊ぶことは、世界のうちに存在することだ。それは、自分を取り巻いているものを、そして自分が何者であるかを理解する形式であり、他者と関わりあう方法だ。遊びは、人間であることのひとつのモードなのだ。

 

www.youtube.com

本文で紹介されているninjaというゲームは、Youtubeでも見ることができる。

 

ニンジャはターン性のゲームであり、攻めと守りの素早い動きが一回づつ許されている。動作を止めることは出来ないし、立て続けにいろいろな身振りをすることは出来ない。個々のターンごとに攻め、または守りの動作を一回行うことができるだけである。プレイヤーはニンジャというゲームを通して場所をのっとり、人の輪をつくってはすぐに崩し、その空間を荒し、それによって空間を実質的に制圧する。一方でニンジャは社会文化的な意味においてもその空間を流用する。つまりさっきまで駐車場だったところが戦場に変わり、快を生み出す土地として開拓されるのだ。また、このゲームは学校や戦場といった(まじめな)公共の場でプレイされる場合には、毎日の長い業務時間を切り抜けるのに役立つ笑いの価値を引き出すことが出来る。ニンジャはまさに乱雑に広がっていくと言う性格を通じて、それがプレイされる空間を流用しているのである。

 <中略>

遊びに使われる物のデザインに(もともと)どんな意味が込められているかに関係なく、遊びにおいてはつねに、わたしたちはそこに巻き込まれる物に対して遊びの文脈に即した意味づけをしてしまう。遊びはそこで使われれるものを流用することによって成立するものなのだ。

(P32,34)

 

 

 

 

現実の中での歴史

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古いデザイン書を読んでいたら興味深かったのでメモ。

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このような容易につくられるというすぐれたシンボルのもつ物質的属性をポスターに利用しようとしたのは、杉浦康平粟津潔であった。彼らは原水爆禁止協議会から、その運動のためのポスターデザインを依頼された時、12本の線が1点から放射状に出る単純なデザインのシンボルを作った。原水爆反対のための運動は幅広く行われる必要がある。それには本部から発布されるポスターだけでは不十分であり、会員、あるいは会員外の誰でもこの運動を広げようと思ったものが筆と紙さえあればすぐ描くことが出来る。そうして運動が推進されなければならない、というのが杉浦たちの主張であった。


ところが、原水協の役員諸氏は、それが抽象的な形態をしているから、なにがなんだか分からない、運動員は地方で大衆を相手にどう説明すればよいのか、と非難がかなり強かったらしい。しかし、ある特定の意味だけをもったサインはサインとしては用いられるだろうが、幅広い人々のシンボルにはならない。それは十字架のようにその人の主観によってどんな意味でも付け加えられるモノでなければならないのである。


<中略>


杉浦は、12本の線が一点からまったく同じように放射状に出ているだけではあまりにデザインとして単調だと思ったらしく、斜め上に出ている一本を削り、横の一本だけを細くデザインしている(図参照)。なぜこうなっているのか。原水協の委員達は、この点に大いに詰め寄ったらしい。取り立てて意味などというものはありはしない。

 

ところが、このポスターが散布されたとき、地方の大衆の中には、「これは原水協の運動がまだ不十分なところがある」という意だ、とか、「もう一歩で完全な平和に近付く」という意味だと解釈したという。一つのシンボルが真のシンボルとして社会の人々の中に入っていくためには、現実の中での歴史が必要なのである。けれども社会的シンボルとしてのデザインは、必ずしも明確に人々に意識されるモノばかりとは限らない。むしろ無意識の中に影響する面が大きく、それゆえ人間生活にあたえる影響は計り知れないほど大きい。

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強調は上平によるもの。

川添登「デザインとは何か」角川選書 1971

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今和次郎の弟子であり、メタボリズムのメンバーであった川添氏による論考。昔の骨太なデザイン論をひっくり返していると、いろいろ発見がある。

 

 

 

 

 

 

 

アラスカで見た人形に、デザインの本質を見た気がした

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Tea doll.  Fairbanks, Alaska,USA 2009


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  これは2010年の夏、私がアラスカのフェアバンクスに一ヶ月ほど研究で滞在した時、現地の人形コレクターの女性の家で見せてもらった人形です。一見して年季が入った手作りのもので、21世紀の今の私たちの目から見ると、お世辞にもかわいいものとは言えません。しかし説明を聞いてみると、この古ぼけた人形が一変して見えてくるのです。

 

 まず彼女に、「持ってごらん」と言われ、私は両手で人形を受け取りました。ずっしりと重みが伝わってきます。どうやら通常の人形のように中に綿が詰まっているわけでは無さそうです。うろたえていると、「嗅いでごらん」と言われ、私は鼻を近づけてみました。なんだか葉っぱのような、爽やかな匂いがします。この人形の中には綿ではなく、なんと〈お茶の葉〉が詰まっているのでした。

 

 それはなぜでしょうか?彼女の説明によると、これをつくったカナダ先住民のイヌー族の生活文化が背景にあります。イヌー族は北米最後の遊牧民として、夏はカリブーの群れを追い、冬はアザラシや魚を追うために移動する、一カ所に定住しない生活を古くから続けていました。住処ごとまとめて長距離を移動するためには、自分たちで運べるだけの荷物に制限する必要が生まれます。そこで家族が極寒の中を団結して移動するために、どんな小さなよちよち歩きの⼦供もふくめて全員が荷物を分担して運ばなければならない、という厳しい掟があったのだそうです。

 

 また、お茶はもともと彼らの生活の中にあったものではありません。お茶の葉の原料となるチャノキは、カナダの周辺には自生しておらず、交易によって入手していた貴重な嗜好品でした。おそらくカナダが英国の植民地だった時代、英国人によって持ち込まれたもので、毛皮などと物々交換することによって入手していたのでしょう。お茶の葉は乾物で湿気を嫌うため、保管する場所にも気を使う必要があります。

 

 そんな大事なお茶の葉を運ぶことを、小さな子供にお願いしても完遂するのはなかなか難しそうです。単なるモノをずっと持ち続けるのは大人でもツラいものですし、休憩の途中で忘れてしまえば紛失してしまうかもしれません。

 

 そこで⼦供が、雪道の中で大事に抱きかかえて運べるように、自分のものとして決して忘れないように、この人形の中にはお茶の葉が仕込まれているのでした。たしかに、これだと乾物のお茶の葉を保管するのにも良い環境となり、子供は荷物だと意識せずに自力で抱きかかえて運び、隊列の⼀員として立派に役割を担うこともできます。つまり、小さな子供を内側から力づけ、過酷な旅に貢献できるようにするためのひとつの仕組みでもあるわけです。



 後日調べてみたところ、人形にお茶の葉を詰めるというのは単発のアイデアというわけではなく、かなり古くから遊牧民であるイヌー族の中で広まっていた文化のようです。Tea dollという名前もつけられています。

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www.saltscapes.com

No one knows exactly when the tea doll tradition began. Madeleine Michelin, 68, of Sheshatshiu, had a tea doll as a child and remembers many stories of her mother and grandmother also playing with the dolls. The Smithsonian Institute collection contains several dolls obtained in the early 1880s from Innu people who traded at the Hudson's Bay Company post at Old Fort Chimo, Labrador.

 

 彼らは決してデザインを学んでこれを作ったわけではありません。また商売を意識して作ったわけでもありません。だからこそ、私は人形を抱きながら思わず感動しました。

 

 厳しい生活の制約の中で、それをなんとかしようとするところにこそ人々の知恵が宿るのだと。もしかして、それが生きる原点としての本当のデザインと呼ばれるものなのではないか、と。私はこれまで私は数え切れないほどのさまざまなプロダクトを見てきましたが、現時点でこの薄汚れた不格好な人形こそが人生の中でもっとも感動を受けたデザインだ、と思っています。


 さて、この人形におけるデザインを、いくつかの視点から解釈してみましょう。まず、ここで行われていることは、荷物の制限という視点から、人形の内部というスペースに気付き、そこを活用したということです。つまり「なんらかの困りごとを捉え直し,よりよい解を生み出している(問題の発見と問題の解決)」と解釈できそうです。先に紹介したハーバート・サイモンやジョン前田など多くの人が,デザインとは問題解決である、と捉えています。特定の問題に対処して解決する、それによってよりよい現実を描き出すというのは、前後が明確で非常に分かりやすいと言えます。


 その一方で、それだけでもない気がしないでしょうか?問題解決という視点では、たしかにこの人形は荷物のスペースの問題を解決しています。しかし、単純に問題を潰しただけでは、マイナス点がゼロになることはあっても、プラスになること、つまり我々が心地よい感覚を感じることはないはずです。もし、我々がこの人形に「小さい子にも相応の役割を持たせ、共同体に貢献できるようにする優しさ」や、「極寒の地で足を踏みしめながら自分の意思を持って歩き始める小さな子供のたくましさ」などのストーリーを意識的に感じるのであれば、そこには問題解決だけでは説明の付かない、なんらかの要素があることは明らかです。


 そこで、もうひとつの解釈として、デザインとは「意味を与えることである」という言い方がされています。デザイン理論家のクリッペンドルフや、彼に影響を受けたベルガンティなどの理論です。つまり別の見方をすれば、この人形を作った人は、人形を「こども自身が慈しむ玩具」から「みんなにとっての大事な茶筒でもある玩具」へと意味を変え、それによって子供を「よちよち歩きの子」から「抱きしめて大事に運んでくれる運び手」へ転換しています。ものの中に見出される意味自体を変えることで、共同体の中での役割を新しく生み出しているわけです。


 ひとつの人形から見出されるこれらの複数の解釈から見えるように、「問題発見・問題解決」と「意味づけること」は決して別々のことではなくて、どこから見るかの「見方」の違いです。実際にこの人形の中にはどっちも含まれていることがわかるでしょう。良いデザインはふたつの見方を両立しています。


 この二つの視点、「問題発見/解決」および「意味」の視点は、よくデザインの本で言及されていることです。ここからもう一段階進めてみましょう。私は、これに加えて、そのデザインをする「主体」は誰なのか、が重要になると考えています。デザインが産業に取り入れられた高度成長期以降、前述した通り、いつの間にかデザインはデザイナーがするものという職能的な意味に変化してしまいました。

 

 しかし、この人形は、市井の人々によって作られたものです。そして経済的な価値とも無縁のものです。それを強調するために、私は意図的にこの古ぼけた人形を例示しています。この事例からは、あり物を消費するのではなく、よりよく生きるために生活を自分たちのアイデアで変えていく、そんな主体的な活動を読み取ることができます。それもまたデザインの姿であり、我々一人一人が発揮していくべき知恵であるはずです。

 

「ひとは誰でもデザイナーである。ほとんどどんな時でも我々のすることはデザインだ。デザインは、人間の活動の基礎だからである。ある行為を望ましい予知できる目標に向けて計画し整えるということが、デザインのプロセスの本質である」

ヴィクター・パパネック

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とある原稿のプロトタイプバージョンです。

 

僕がよく講演で紹介するこの人形の話。アラスカで見たのでエスキモーがつくった人形だと長年思いこんできて、そう話してきたのですが、ネットでよく調べてみたところ、正確には、カナダ先住民のイヌー族の文化だそうで、イヌー族はイヌイットではないことが強調されてます。というわけで、ちょっと事実誤認があったので訂正しておきます。

 

 

 

2018年度FIELD MUSEUM PROJECTの成果冊子ができました

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2018年度FIELD MUSEUM PROJECTの成果物である8つの作品を収録した冊子ができました。今年は多摩区助成金が切れて、あやうく冊子を作れないところでしたが、これまでの活動実績を元に学部で特別に予算を認めて頂きました。発行部数は微々たるものですが、ちゃんとアーカイブできるのは有り難いことです。スタッフの写真の腕前が上がっていて(?)、ミュージアムでのワークショップの様子がとても良い感じに映っています。

なお、今年も冊子にエッセイを寄稿したので、ここに転載します。

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“教えられると、人は思考停止する”

text = 上平崇仁(専修大学ネットワーク情報学部 教授)

 

10年以上前に卒業した研究室のOBでもあるN君が、子供二人を連れて今回のフィールドミュージアム展に来てくれた。その日僕は某国家的イベントの監督業務があったために残念ながら展示会にはいけず、彼には会えずじまいだったのだが、子供たちはとても楽しんでいたそうで、その日の夜に感謝の言葉とともに、親の目線として感じた丁寧なフィードバックを送ってくれた。その文章の中で、N君は、たくさん褒めながらも、(ワークショップが)「決めたこと」をさせる作業になってやしませんか、ということを指摘していた。自分たちがつくったカガクおもちゃを体験してもらう中で、覚えてほしいことや、気が付いてほしいことに誘導することに気が行き過ぎると、体験する側に一種の「作業感」のような感覚が出てしまうのではないか、と。おそらくこの点については、大学生も子供達もめまぐるしい時間の中ではあまり意識してなかったことかもしれない。実は、これは大変深く刺さる視点である。


 本来、おもちゃとは使い手にとって開かれたものである。ルール通りにしなければならないものではなく、遊びの中で試行錯誤し、発見したことを元に自由に改変できる余地を持つものである。その相互作用こそがこどもたちに主体的な学びを生み出すと言える。我々が今回取り組んだ「カガクおもちゃ」というテーマは、自然科学の「ことわり」を内包した、楽しく遊ぶ中で学べるようなおもちゃを標榜したつもりだった。が、N君の指摘の通り、そういった遊びの余地が消えがちになっていたことは認めなくてはならない。かつて、認知心理科学者の佐伯胖は、「教えられると人は思考停止する」と書いた。人間は、こうするんだよという教示的な指示をされると、対象物の道具的な特性を自由に活用するという思考を止めてしまう。指定された使い方しか出来なくなり、機能的な固着が生まれてしまうということである*。こういったことは、今回のワークショップに限らず、過保護ぎみな現代生活や仕事の中のあちこちで起こっている。そしてみんなそのことに気がつかない。


 N君の文章を読みながら、僕は思わず考え込んだ。これは、決して学生たちの努力不足という話ではないだろう。そもそも指導したのは我々教員だし、大学生たちが半期間必死で試行錯誤を続けたことを我々はよく知っている。全くのゼロからここまでユニークな体験を生み出せた成果としては胸を張ってよい。むしろ、無駄なことができず「決めたこと中心」になってしまうのは、短い体験時間の中で効率的にたくさんのお客さんを捌かなければならない自由参加のワークショップという特殊な場と、手短にたくさんのものを体験しようとする親子側、そういった複合的な状況によって引き起こされているように思う。


 多分、自ら発見できるおもちゃ本来の体験は、おもちゃのモノ自体の中でなく、たっぷり試行錯誤できる「時間」と共にある。さらに言えば、不思議な現象を話し合える「対話」や、無駄なことでも鷹揚に受け入れる「心持ち」の中にあるのだ。願わくば、小さな体験を持ち帰ってくれた親子の中に、そういったことを可能にするだけの豊かな時間があってほしいと思う。

 

*参考文献
「ワークショップと学び1 まなびを学ぶ」 苅宿俊文・佐伯胖・高木光太郎編 東京大学出版会 2012

 

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卒業式にて

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久しぶりの投稿。年が開けてから連日単著の原稿や論文を書いてて、なかなかブログまで手が回らない日々だ。

さて、昨日は本年度の学生達の卒業式・学位記授与式。あわせてささやかな記念品を作った。コースターもアクリルのストラップも余っている素材でつくったもの。こういったグッズが簡単につくれてしまうから、レーザカッターは便利だね。

 

アクリルのプレートには全員の似顔絵が入っている。そして小さく re:member in your memory.と書いてある。素材を切り出した後の面倒な組み立て作業を手伝ってくれた奥様が「その意味って説明しなきゃ・・・わからないんじゃない?」と言うので小さなお手紙を入れてみた。

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上平研究室のみなさん、卒業おめでとうございます。記念品のコースターとストラップを贈ります。コースターは是非普段使いしてやって下さい。いろんなシミがついて使い込むほどにいい味わいになっていきます。アクリルストラップにはモカちゃんがメンバー全員の似顔絵を描いてくれました。特徴を捉えていて素晴らしい仕事です。実はこの似顔絵には、あえて名前のキャプションをつけてありません。卒業式の今日であれば、一瞬見ただけで誰が誰か分かるはずです。でも10年が経ち、20年が経つ頃、みんなの顔もずいぶん変わっているでしょう。そして、30年後、みなさんはどんな人生を歩んでいるでしょうか。


 このストラップは、きっとその存在すら忘れた頃、引越などの機会にもう一回ぐらい手にとって眺める機会があるかもしれません。その時、誰が誰か、似顔絵から思い出してみて下さい。そうすれば、君の記憶の中で、その時我々はもう一回メンバー(re:member)になることができます。


 卒業演習は成果物だけでなく、共に悩み、共に考え、励まし合った仲間たちとの経験こそが宝物です。お互いに数ある選択肢の中で出会ったことは偶然の巡り合わせに他なりませんが、みなさんが切磋琢磨する中で大きく成長する姿をみれたのは、僕にとっても幸せな時間でした。そして、ほんのちょっとでも足場になることができたんだろうか、と自問自答しながら僕は教員を続けています。


 何度かゼミの中で話してきたように、卒業演習でテーマにしたことはゴールではなく、出発点です。社会の波に揉まれて自分を見失いそうになった時には、原点に立ち返って見渡してみましょう。きっとそこに埋もれていた別の意味が発見できるはずです。

 

Takahito KAMIHIRA   2019.3.22

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日本武道館にて。またどこかで会いましょう。

 

「さかのぼるみらい展」開催のお知らせ

2月20日から3日間、専修大サテライトキャンパスにて「さかのぼるみらい展」が開催されます。

 

この展示会は、専修大学上平研究室の塩濱さんが卒業演習として取り組んだ地域ブランディングの取り組みが元になって、地元市民のコミュニティとの交流の中で開催に至ったものです。かつてこの地域にあった過去の遊園地の記憶をさかのぼりながら、向ヶ丘遊園地域の人々は今後どのように望ましい未来を描いていくべきか、その第一歩として小さなツールがどのように人々の気持ちを動かし、具体化させていくことが出来るか、そんな問いを元にデザインを探索してきた過程を、一般の方々向けに公開致します。

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「さかのぼるみらい展」
◎日時: 2019年2月20日(水)〜22日(金)
◎場所:専修大学サテライトキャンパス(向ヶ丘遊園北口アトラスタワー2F)
◎入場料:無料

◎企画・プロデュース
塩濱有紀子(専修大学上平研究室)

◎共催
向ヶ丘遊園の緑を守り、市民いこいの場を求める会
専修大学情報科学研究所

◎協力
専修大学ネットワーク情報学部

◎お問い合わせ
sakanoborumirai@gmail.com

◎「さかのぼるみらい展」リーフレットより
2002 年に閉園してから、「向ヶ丘遊園」は駅名だけがうっすらと残る存在になっています。若い世代は、かつてこの地に遊園地が存在していたことについて、ほとんどリアリティがありません。
しかし、この場所にあったモノレールや非日常の娯楽の体験は、地元の人々にとって大事な思い出となっています。また現在も残っている広大で豊かな緑は、遊園地が好きだ、という想いを持つ人々によって守られています。「向ヶ丘遊園」は単なる遺産ではなく、今でも地域の人々をつなぐかけがえのない共有地でもあるようにおもいます。
—このまま忘れ去られ、再開発を待つだけではあまりにも惜しい。この先に広がるわたしたちの未来に向けて、「ここにあった過去から、未来を見つけることができるかもしれない」。そんなことを考えた、地元出身のとある一人の大学生による展示会です。

 

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単純な至福、新しい経験。

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先月に読んだ見田宗介現代社会はどこに向かうか」(2018)に、ハッとさせられたのでメモ。

 

人類は地球に住み、それは球という閉域である。その有限な環境下で繁栄している生物種として、生命曲線(個体数)は「ロジスティック曲線」を免れることはできない。ロジスティック曲線とは、初めは徐々に増加し,なかばで急激に増加し,その後,漸減して上限に達するようなS字形の曲線である。つまり現代は、長い原始社会から近代社会という急速な増殖期を経て上限を通過している状態である。見田によると、現代社会の矛盾満ちた現象は、高度成長をなお追求しつづける慣性の力線と安定平衡期に軟着陸しようとする力との拮抗するダイナミズムの種々層として把握できる。

 

人間史の最終局面、高原期に達した人類は何を願うのか?

見田は本書の後半で、幸福感が増大しているフランス(※)の若者たちによる幸福の理由と経験の自由記述を取り出す。世界価値観調査の統計データでは見えない質的データである。さまざまな人によって記された短い幸福の理由が、18ページもの分量を割いて紹介されている。この生データの数々が僕にとってはなんだか衝撃だった。

 

※この調査はちょっと前の時期、デモが活発な今では縮小しているだろう。


このデータに対して、見田は、

一番大きい印象は、何か特別に新しい「現代的な」幸福のかたちがあるわけでなく、わたしたちがすでに知っているもの、(もしかしたらずっと昔から、文明の始まるよりも以前からわたしたちが知っていたものかもしれない)あの幸福の原層みたいなもの、身近な人たちとの交歓と、自然と身体の交感という、<単純な至福>だけだということであるように思う。(P90)

 

フランスの「非常に幸福な」青年達の幸福の内容について、経済的な富の所有に関わる事柄、ブランドもの、財宝、高級車、等々に関する事柄が一つもなかったということは、それは現代の日本の青年達の、シンプル化、ナチュラル化、脱商品化等々という動向と、同じ方向線にあることを示唆しているように思われる。(P91)

 

と書いている。

 

"現代的な幸福のかたちがあるというわけではない"という指摘は、考えてみればたしかにそうなのかもしれない。普段デザインについて考えていると、特に流れの速い情報学部にいると、ついつい「新しい経験」というものはまだまだどこかに埋もれていて、未開拓なところから誰か(もしくは自分)が発掘する、というふうに考えがちだ。「未来の生活」というあいまいな言葉で語られるイメージも同じである。経済発展の延長にもっとワクワクさせられる体験が待っているはずだ、とたぶん多くの人は思う。でも、もしその前提が成り立たないとしたら。太古からそこにあった<単純な至福>こそが究極の青い鳥だとすると、まだ見ぬ幸せをもとめて四苦八苦する現代人の矛盾が引き立って、なんだか言葉を失ってしまう。


では、その先になにがあるのか?見田は、

依拠されるべき核心は、解き放たれるべき核心は、人間という存在の核に充填されている<欲望の相乗性>である。人によろこばれることが人のよろこびであるという、人間欲望の構造である。

という。ここには同感した。デザインの目的も、最終的にはそういうところに落ち着くだろうし、そこから乖離するものではないだろうな、と思う。

 

それにしても、見田宗介、80歳を超えてこのシャープな論考。人生を知り尽くしたからこそ見えている地平。凄すぎる。

この本、biotopeの佐宗さんも褒めていたので参考までに。

 

 

 

2018年の終わりに

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今年も早かった。カレンダー見返すと春先のことは遠い昔のようだ。本業の方では、今年は同僚の栗芝先生が戻ってきて一昨年度よりは余裕が出来た。その代わりに中等教育界隈の仕事がちょっと増えて、結局同じくらい忙しかった。今は単著を書いているのだけど、なかなか進まくて弱っている。来年度は早く書き終わりたい。

今年の出来事で一番思い出深いことは、やっぱり春の「自分たち事のデザイン」のプロジェクトかな。クラウドファンディングによる資金集めから編集・製本まで世話人チームで取り組んで、尊敬する人の未完成原稿を素晴らしい本として形にすることが出来たことは素晴らしい経験だった。(関係者のみなさまご協力ありがとうございました)

こういうボランタリーなプロジェクトは、終わったときには自分で起こすのはもう当分はいいや、と思うのだが、いつのまにか次々と自分が通り過ぎることができない状況を伴って、僕の前に立ちはだかってくる。来年度は、MaxBillのドキュメンタリー映画の上映に向けてなんとか一仕事したいと思う。

 

みなさま、2019年もどうぞよろしくお願いします。

 

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2018年の活動


■研究

3月    上平崇仁他:FIELD MUSEUM 地域協働のデザインによる体験型自然科学学習キット,デザイン学研究作品集,  vol.23 No.1  pp.28-33, 2018

6月 上平崇仁,他:探索型PBLとそのデザイン環境, 日本デザイン学会研究発表大会概要集 65(0), pp.496-497, 2018

8月 上平崇仁、佐々木塁:高校における情報デザイン教育にむけた試案と冊子制作:すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて, 第11回 全国高等学校情報教育研究会(秋田)

*月
上平崇仁:「当事者」をとらえるパースペクティブー3つのデザインアプローチの比較考察を通して  デザイン学研究当時者デザイン特集号(編集中)

 

■講演・トークなど

2月 産業技術大学院大学人間中心デザインプログラム「デザイン態度論2018」

2月   カードソーティングゲームワークショップ in ミャンマー

3月  29年度川崎市多摩区 大学・地域連携事業報告会「みんなでつくるの仕組みをつくる」多摩区役所

3月  UX dub vol.3「組織のクリエイティビティを上げるインプロワークショップ」

4月 venture cafe tokyo 「デザイン思考の理屈と実践」at 虎ノ門ヒルズcafe

5月 第4回 Xデザインフォーラム ワークショップ「問いの技法」at yahoo!JAPAN本社

6月 東京都情報教育部会研究協議会 基調講演「いま、情報デザインを学ぶこと/教えることの意義」立川高校

9月 Design for Designer vol7 「デザイナーの矜持」パネルセッション登壇

at Yahoo!Lodge
9月 Xデザイン学校公開講座「デザイン・ウィズ・ノンヒューマン」

at 東京ミッドタウンデザイン武蔵野美大デザインラウンジ

10月  神奈川県情報教育部会 講演「始まる情報デザインの視点」

at 専修大学

11月 JAGDA神奈川トークセミナー2018「7人のデザイナーと語らう「ヨコハマで企む。モノ、コト、マチを育む」at kosha33
11月 東京女子大公開講座「当事者達が参加し、協働するデザインの世界」

12月 Public&Design Meetup「100年前の当時者デザイン」at DSCL

 

■ワークショップ&イベント(上平が企画したもの)

1月 フィールドミュージアム2018展 at かわさき宙と緑の科学館

3月 「渡辺保史と自分たち事」at東京ミッドタウン・インターナショナルリエゾンセンター

8月 高校生向け1day design workshop 「イッテンバッグ作りを通してデザインを学んでみよう」at 専修大学

10月   専修大学情報科学研究所研究会「オランダの環境と未来をデザインすること—People with Dementia ProjectとTU Delftのデザイン教育を通して」at 専修大サテライトキャンパス

 

■出版物

3月 オンデマンド出版  「自分たち事のデザイン」(渡辺保史著)発起人

8月 オンデマンド出版 「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」上平研究室発行

 

■審査員など

WIT Award 2018 審査委員

某省庁の某案件審議会委員

某省庁某委託事業

 

■今年見た風景から

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ミャンマーのインヤー湖

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おお西(長野県上田市

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琵琶湖(滋賀県

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磯庭園(鹿児島)

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甑島(鹿児島)

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浜松

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摩周湖(北海道)

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ゲストハウスコケコッコー(釧路市阿寒町

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永平寺(福井)

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スキージャム勝山(福井)

今年もいろいろなところ行けて良かった。



 

 

 

100年前の当事者デザイン

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先日開催されたPublic&Designという小さなコミュニティのmeetupでライトニングトークしたので、話題提供したスライドをアップした。

 

 
1919年に農民美術運動を始めた山本鼎について紹介したもの。農民美術、というネーミングは21世紀の今に生きる我々にとって、興味が湧いてくるような言葉ではないだろう。でも、よく調べていけば、この運動は「当事者自身がデザインしていくこと」そのものであり、今で言う「デザインの民主化」を狙う、かなり先駆的な取り組みだった。
 

愛知県生まれの彼は、東京美術学校卒業後フランス留学し、帰途のロシアで出合った農民工芸に感銘を受け、上田で「農民美術」と名付けた手工芸品の生産を農家の人々に指導しました。運動は全国に広がり、各地で様々な「農民美術」が生まれました。

 

「どんな地方のどんな境遇の人間にも創造の力は宿っている」と信じた鼎は、「農民美術」を通して、農民生活の向上と美的創造力の両者を追い求めたのです。鼎はそのために画家や彫刻家の仲間たちとともに、自ら木鉢やクッションなど農民美術のデザインを考案し、受講生であった農民たちが自立できるようデザイン教育にも力を注ぎました。

 

運動が行われたのは、1919-1935年。奇しくもほぼバウハウスと同じ時期だけに花開いた短い寿命であった。まだ日本にはほとんど美術学校なんか無かった頃である。その頃に私財を投げ打って授業料無料で農民達が学べる仕組みを作り、みんなが表現することでそれぞれの人生を豊かにしていこう、ものづくりの文化をつくって産業にしよう、という願望をかたちにしていたことには本当に驚かされる。

運動はとっくに消えたけれども、その影響は上田だけでなく、日本中に広がって痕跡を残している。

 昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が生産されるようになった。現在も全国各地に物産品として民芸品が作られているが、これらのかなりの部分がこの農民美術運動に影響を受けたものである。徳川義親が北海道八雲町で始め全道に広まった木彫りの熊は、この農民美術運動とアイヌ工芸とが結びついて生まれた混合文化といえる。 

山本鼎 - Wikipedia

 

そして僕はこの「農民美術」という言葉を聞く度に、大学生の時に、この運動について僕に教えてくれた長野出身の友人Yとのやりとりを思い出す。25年たってようやく彼が言っていた大事さの意味が分かった気がする。アートを表面だけみて判断してはいけない。農民美術の元になったロシアのPeasant artの精神がのちのロシア・アヴァンギャルドに繋がったのだと。Y君ゴメン。

 
 
 
 
 

映画「かぞくいろ」で、昔の記憶を蘇らせる

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12/8、所用のついでに、近くのシネコンで映画「かぞくいろ」を見てきた。僕を知る人には、そんなヒューマンドラマ系の映画見る趣味あったっけ、と思われそうだ、この映画とはちょっとした接点があるのだ。

映画の概要は以下の通り。

地方のローカル線を舞台に鉄道にまつわる人々の人生をつづったヒューマンドラマ「RAILWAYS」シリーズ第3作。有村架純が鉄道の運転士を目指すシングルマザーの女性を演じる。夫を突然亡くしてしまった奥薗晶は残された夫の連れ子を抱え、夫の故郷である鹿児島県に住む義父・節夫に会いに行く。鉄道の運転士で、妻に先立たれて1人で暮らす節夫は、長い間疎遠だった息子の死、さらに初めて会う息子の嫁、そして孫の存在に困惑する。しかし、行くあてがないという2人を鹿児島の家に住まわすことを渋々認め、3人の共同生活がスタートする。生活のため仕事を探していた晶は、節夫と同じ肥薩おれんじ鉄道の運転士試験を受けることを決意する。運転士という仕事は亡くなった修平の子どもの頃の夢でもあった。

 

実際に見た感想として、とてもいい映画だった。鉄道モノなので、ローカル鉄道好きならなおさら楽しむことができると思う。有村架純にしても桜庭ななみにしてもまだ20代半ばである。でも、それぞれ強く生きて行こうとする母親役を演じていて、女優達もいつまでも同じような役に留まるのではなくて、自分の年齢重ねるのにあわせて、ちょっとづつ挑戦しながら変化していくんだなぁ、となんだか沁み入った。映画の中の登場人物達がみんなそうだけれど、“状況”こそが、立場の違う人間同士の新しい関わり方や家族のあり方を学ばせていくということだよね。注文付けるとすると、主人公の生き方に感情移入するためには、晶(有村架純)の過去をもうちょっと知りたかったな。

 

実はこの映画、僕の生まれ故郷の鹿児島県阿久根市、しかも僕らが通った大川小学校近辺でロケされたもので、地元では昨年からけっこう話題になっていた。そして実際に見てみたら、想像以上に地元の風景だらけでちょっと笑った。映画の端々で、「この後ろはたしかカット(幼なじみのあだ名)の家だよなぁ・・」とか「この道登ればワヤ(幼なじみのあだ名)んチの方向だっけ」と、子供の頃に自転車で縦横無尽に走り回った記憶が蘇ってくる。おまけに大川小体育館でのシーンでは、「あ、笑顔が素敵なこのエキストラのおじさんは・・・なんと重樹!、おっと、西平君(※現阿久根市長)もいるじゃないか!」と同い年の友人たちもちゃっかり登場していて、悲しいシーンのはずなのに涙ぐむどころではなかった。(ちなみに僕の母親も老婆役に挑戦する気でいたが、叶わなかったらしい。笑)

 

 と、そんな感じで、ストーリーだけでなくロケ地の記憶ごと隅々まで楽しめるという、俺得の映画だったわけだが、遠く離れた東京のスクリーンで見てみると、山が間近に迫り、入り組む海岸線沿いをぬいながら、のんびりと一両だけの小さなおれんじ鉄道の車両が走っていく風景は、なんだかミニチュアのようでもあり、改めてとても美しいな、と思う。

 

そういえば、阿久根市から映画公開に併せた特製の名刺を頂いていたので紹介。

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みなさま、現在上映中ですのでどうぞよろしくお願いします。

上平は生まれ育った阿久根市を応援しています。

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www.railwaysmovie.jp