Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

単純な至福、新しい経験。

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先月に読んだ見田宗介現代社会はどこに向かうか」(2018)に、ハッとさせられたのでメモ。

 

人類は地球に住み、それは球という閉域である。その有限な環境下で繁栄している生物種として、生命曲線(個体数)は「ロジスティック曲線」を免れることはできない。ロジスティック曲線とは、初めは徐々に増加し,なかばで急激に増加し,その後,漸減して上限に達するようなS字形の曲線である。つまり現代は、長い原始社会から近代社会という急速な増殖期を経て上限を通過している状態である。見田によると、現代社会の矛盾満ちた現象は、高度成長をなお追求しつづける慣性の力線と安定平衡期に軟着陸しようとする力との拮抗するダイナミズムの種々層として把握できる。

 

人間史の最終局面、高原期に達した人類は何を願うのか?

見田は本書の後半で、幸福感が増大しているフランス(※)の若者たちによる幸福の理由と経験の自由記述を取り出す。世界価値観調査の統計データでは見えない質的データである。さまざまな人によって記された短い幸福の理由が、18ページもの分量を割いて紹介されている。この生データの数々が僕にとってはなんだか衝撃だった。

 

※この調査はちょっと前の時期、デモが活発な今では縮小しているだろう。


このデータに対して、見田は、

一番大きい印象は、何か特別に新しい「現代的な」幸福のかたちがあるわけでなく、わたしたちがすでに知っているもの、(もしかしたらずっと昔から、文明の始まるよりも以前からわたしたちが知っていたものかもしれない)あの幸福の原層みたいなもの、身近な人たちとの交歓と、自然と身体の交感という、<単純な至福>だけだということであるように思う。(P90)

 

フランスの「非常に幸福な」青年達の幸福の内容について、経済的な富の所有に関わる事柄、ブランドもの、財宝、高級車、等々に関する事柄が一つもなかったということは、それは現代の日本の青年達の、シンプル化、ナチュラル化、脱商品化等々という動向と、同じ方向線にあることを示唆しているように思われる。(P91)

 

と書いている。

 

"現代的な幸福のかたちがあるというわけではない"という指摘は、考えてみればたしかにそうなのかもしれない。普段デザインについて考えていると、特に流れの速い情報学部にいると、ついつい「新しい経験」というものはまだまだどこかに埋もれていて、未開拓なところから誰か(もしくは自分)が発掘する、というふうに考えがちだ。「未来の生活」というあいまいな言葉で語られるイメージも同じである。経済発展の延長にもっとワクワクさせられる体験が待っているはずだ、とたぶん多くの人は思う。でも、もしその前提が成り立たないとしたら。太古からそこにあった<単純な至福>こそが究極の青い鳥だとすると、まだ見ぬ幸せをもとめて四苦八苦する現代人の矛盾が引き立って、なんだか言葉を失ってしまう。


では、その先になにがあるのか?見田は、

依拠されるべき核心は、解き放たれるべき核心は、人間という存在の核に充填されている<欲望の相乗性>である。人によろこばれることが人のよろこびであるという、人間欲望の構造である。

という。ここには同感した。デザインの目的も、最終的にはそういうところに落ち着くだろうし、そこから乖離するものではないだろうな、と思う。

 

それにしても、見田宗介、80歳を超えてこのシャープな論考。人生を知り尽くしたからこそ見えている地平。凄すぎる。

この本、biotopeの佐宗さんも褒めていたので参考までに。