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みえないものを、みる視点。

100年前の当事者デザイン

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先日開催されたPublic&Designという小さなコミュニティのmeetupでライトニングトークしたので、話題提供したスライドをアップした。

 

 
1919年に農民美術運動を始めた山本鼎について紹介したもの。農民美術、というネーミングは21世紀の今に生きる我々にとって、興味が湧いてくるような言葉ではないだろう。でも、よく調べていけば、この運動は「当事者自身がデザインしていくこと」そのものであり、今で言う「デザインの民主化」を狙う、かなり先駆的な取り組みだった。
 

愛知県生まれの彼は、東京美術学校卒業後フランス留学し、帰途のロシアで出合った農民工芸に感銘を受け、上田で「農民美術」と名付けた手工芸品の生産を農家の人々に指導しました。運動は全国に広がり、各地で様々な「農民美術」が生まれました。

 

「どんな地方のどんな境遇の人間にも創造の力は宿っている」と信じた鼎は、「農民美術」を通して、農民生活の向上と美的創造力の両者を追い求めたのです。鼎はそのために画家や彫刻家の仲間たちとともに、自ら木鉢やクッションなど農民美術のデザインを考案し、受講生であった農民たちが自立できるようデザイン教育にも力を注ぎました。

 

運動が行われたのは、1919-1935年。奇しくもほぼバウハウスと同じ時期だけに花開いた短い寿命であった。まだ日本にはほとんど美術学校なんか無かった頃である。その頃に私財を投げ打って授業料無料で農民達が学べる仕組みを作り、みんなが表現することでそれぞれの人生を豊かにしていこう、ものづくりの文化をつくって産業にしよう、という願望をかたちにしていたことには本当に驚かされる。

運動はとっくに消えたけれども、その影響は上田だけでなく、日本中に広がって痕跡を残している。

 昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が生産されるようになった。現在も全国各地に物産品として民芸品が作られているが、これらのかなりの部分がこの農民美術運動に影響を受けたものである。徳川義親が北海道八雲町で始め全道に広まった木彫りの熊は、この農民美術運動とアイヌ工芸とが結びついて生まれた混合文化といえる。 

山本鼎 - Wikipedia

 

そして僕はこの「農民美術」という言葉を聞く度に、大学生の時に、この運動について僕に教えてくれた長野出身の友人Yとのやりとりを思い出す。25年たってようやく彼が言っていた大事さの意味が分かった気がする。アートを表面だけみて判断してはいけない。農民美術の元になったロシアのPeasant artの精神がのちのロシア・アヴァンギャルドに繋がったのだと。Y君ゴメン。