Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

20年前のデザイン入門書に驚嘆する

f:id:peru:20170919212530j:plain

最近,嶋田厚さんの評論が面白くて古本を買い集めて読んでいる.この「現代デザインを学ぶ人のために」は,嶋田氏による編集で1996年に世界思想社から出版されたデザインの入門書.僕はこの頃大学院生で,この本のタイトルは知ってはいたが,表紙からして古めかしすぎてセンス良さそうに見えないし(失礼),まったくもって読みたいとは思えなかった.でも今の時代に改めて読んでみると,みんな好き放題に持論を語っていて,その主観的な言いきり方がめっぽう面白い.例えば寄稿者は,安藤忠雄勝井三雄黒木靖夫,須永剛司,宮崎清,向井周太朗,山口勝弘・・・,など第一線の方々ばかり.

 

 さすがというか,どの論者も主張していることは先見性(いや普遍性か)が高く,暗黙になりがちなところを鋭く突いていて,デザインがその後大きく拡張していった2017年の今読んでみても古さを感じさせない.それどころか,彼らは若者向けだからこそ,産業的な要請に安易に迎合せず,本来の意味で「デザインとは何か」を問いかけ,自分の経験を通して見出した視点を提示することを重視していたんだ,ということに思い至って思わず姿勢を正したくなった.こんな硬派な入門書は今の時代には存在しない.

 

以下,いくつかメモ書きを抜粋.(強調は上平によるもの)

 

若い人達に対して言いたいのは,それぞれの人間がそれぞれ違うわけですから,その異なる人間が各自自分はどうあるべきか,ということを考えて生きるべきなんではないでしょうか.それを考えることをこれまでの学校教育は小学校の時からつぶしてきたわけです.

30年間,建築をつくりつづけてきてきたわけですが,その間ずっと考えてきたのは建築を通して社会のあり方に批評の精神を持ち続けたいと言うことでした,建築はこうありたいということ,社会はこうあって欲しいということを,建築を通して社会に問い掛けたいと思ってきました.

建築をつくることを通して,人間が生きることを考え続ける中で,問題を提起した建築ができるのではないか.それはきれいな建築をつくるということとはまったく別のことで,新しい「対話」を求めるということは,ぶつかりあうということでもあり,スムーズに流れていくのとは異なり,ぎくしゃくする.まっすぐの道ではないわけです.回り道をしながらその中で考え,考える中で新しい発見がある.ですから若い人に言いたいのは,できるだけ回り道をして自分で考えよ,ということです.結局まっすぐいくところには何もないということです.
ーー「住吉の長屋から」安藤忠雄

 

 

表現してしまうことが,アイデアや思考の減少に結びつくのではなく,それが思考の増大に繋がっているのである.思考を常に頭の外に出すこと,つまりメンバーと思考を共有することによって、デザインプロセスは創造的になり,飛躍的に楽しくなる.参加者一人一人が,自分の考えたことを独り占めしないのは,脳の細胞一つ一つが情報の所有という意図を持たないことと同じことである.全体として働くモノであるという点では,教室も脳もまったく同じだと考えることが.創造する集団には大事なのである.ひとりの人が自分のアイデアや発想を,所有し独占するところに,耐久力のある本当のオリジナルは生まれないことを,デザインの実践家である教師はよく知っている.オリジナルは,生まれたばかりのアイデアや発想を鍛え.それを組み上げて精緻化するーそんな努力のずっと後に実を結ぶものであるからである.

 

そう考えると,「学び」を知ることと「デザイン」を行うことはどうやらメビウスの輪のようにもともと繋がっていたものなのかもしれない,というイメージが浮かんでくる.その輪の上に我々はたまたま乗ってしまったのである.輪の上では境目のない,「学び」と「デザイン」を走り抜けることが出来る.走っているメンバーには,学びとデザイン,つまり「知ること」と「行うこと」がもともとひとまとまりの行為であったことが身をもって感じられたに違いない.

そのメビウスの輪が,これからの時代のデザインという活動が持つであろう役割とその姿を示唆しているように思われてならない.それはデザインの活動とそこでの思考方法があたりまえに持っている「行うことを通して知る」というプロセスを,デザイン以外の様々な分野にトランスファーしていくことである.「かたち」をつくるデザインの仕事は,良い「かたち」を社会に提供するだけではない.今後,かたちをつくるプロセスそのものを広く社会活動に提供するように拡張していくことが,デザインの役割となっているのではないだろうか.作り出される「ものごとのかたち」のみではなく,それを生産し,使用し,廃棄していくさまざまな「社会活動のかたち」づくりにも貢献することのできるデザイナーが今育ちはじめている.
ーー「デザインの教室」須永剛司

 

 

 

ここまで言えばもうおわかりでしょう.あらゆるデザイナーはあなた方にとって敵なのです.自分自身の価値観をぐらつかせてしまう敵かもしれないのです.しかしその敵は,あなたが代理人として認めて使おうしてきたから生まれてきたのではないでしょうか.そして同時にあなた方も誰かの代理人かもしれないのです.いやあなた方も代理人の役割をして生きているはずです.

あなたは,代理人たちの作り出したデザインによって自分自身のアイデンティティがおびやかされていると思っている.しかしその自分も他人のアイデンティティを侵している存在であることに気付かざるをえないのです.

 人間がデザインしながら生きていると言うことは,デザインが行われている環境の問題に深く関わっていると思うのです.近代というのは,技術が,組織化されたシステムによってデザイン化されていく前提に立っていたのです.そういう環境の具体的な現われが,企業の中から発生してゆく密室的なデザイン環境の問題だったわけです.工業デザインから建築に至るもののデザインというのは多かれ少なかれ,そういうデザイン環境の中から生み出されて来ていたのです.
こういうシステムから生み出されるデザインは,つねに生産者と消費者の関係を前提としてもっていたのです.
ーー「人間はデザインしながら生きている」山口勝弘

 

 

 では,「人間生活のあるべき姿」を構想するのに,私たちはどうしたらいいのでしょう.
「あるべきこと」はつねに「あること」と対極を成しています.「あるべきこと」は,「あること」をしっかりと観察し,それにさまざまな観点からの考察を加えることのなかから,はじめて構想されていきます.「あるべきこと」はけっして空から降ってきてくれるものではありません.「あるべきこと」は私たち自身が「あること」をしっかりと直視し,「あること」を総合的,批評的に検討することによって,私たち自身がいわば発見していくべきものなのです.また「あること」に満足している状態からは,現実の人間生活に内包されているさまざまな問題を発見することはできないし,ましてや「あるべきこと」も見えてはきません.こうして「あるべきこと」を意味する「当為」の世界は,同じ哲学の世界において「存在」と呼ばれる「あること」への洞察・内省を通して,ようやく想起されてくるのです.
ーー「人心の華」宮崎清