のっけからしょうもないタイトルで申し訳ないが、"メキシコの漁師"のコピペをご存じだろうか。「人生の目的ってなんだっけ」ってことを語るときによく引き合いに出されるアレである。
メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。
すると漁師は 「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた・・・。
有名なアメリカンジョークなのでこれ以上の紹介は控えるが、全文はこちら。 オチを全部言わず巧妙に行間で見せていることもあって、旅行者の提案が浅く,漁師の呑気な態度の方が真理に感じられると思う。結局、日常の喜びは同じようなところに帰ってくるのだ、楽しみを削って仕事して成功して大金持ちになったところで何の意味がある、というようなシニカルな寓話として世界中に伝播したわけだ。
僕はビジネスで成功することには別に関心がないが、この小話が言うように堂々巡りなのか、だとしたら我々は何のために経済発展しようとするのか、なんだか言葉にならないもやもやを感じて、それが何なのかをずっと考えていた。
この漁師と旅行者のやりとりには、決定的に抜け落ちている視点がある。前提となっている漁場という「環境」をどう捉えるかで、大きく意味は変わるのだ。漁師の仕事を人間の営みだけで成り立っていると解釈すると、結局は「海辺でエンジョイする経験」として同じになるのかもしれない。
「環境が常に変わらない」ならば。ところが自然界は、長期的なスパンで刻々と姿を変えていく。
例えば日本の魚はたったの20年で半減以下。これは乱獲だけが理由ではなくて、魚というものはいろんな要因で周期的に増えたり減ったりするものらしい。
例えばマイワシとカタクチイワシは、近年だけでも交互に激しく増減している。
ついでに、地球も長期的に気候変動している。近年だけで温暖化しているように見えても、ずっと人間にとってちょうどいい気温で安定してきたわけじゃないのだ。そして最近では、地球は新しい地質年代、Anthropocene(人新世)の時代に突入しているという議論も盛んになっている。
視点をちょっと引いてみることで、漁業というのは人間の仕事と言うよりは自然の恵みに因っていることがわかるだろう。したがって、この漁師がずっと同じように安定して魚がとれるかは、けっこう疑わしい。
だから僕がこの会話に立ち会ったならば、「明日も同じように魚がとれると信じきって呑気に遊んでばかりじゃなくて、養殖する方法ぐらいは試してみなよ。君が老いた後、君の家族がここで魚を食べて酒飲むことができるように」ぐらいは言うだろうな、と思った。