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みえないものを、みる視点。

人間—脱—中心設計

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とあるきっかけがあり、ちょうど1年ほど前にデンマークで関わった高齢者の皆さんのことを思い出していた。Give&Takeプロジェクトのリビングラボに参加していた方々で、この人達は当初、何かをシェアしたがっていたわけでもなく、シェアリングエコノミーに興味があったわけではない。それなのに、高齢者向けスキルシェアリングサービスを開発するプロジェクトに関わりながら、やったことのない新しいことに挑戦し、現状から積極的に変わっていこうとしていたのがとても印象的だった。

 

kmhr.hatenablog.com

その様子を見ながら、自分はいろんなデザインがあると言っても、使う人が関わり合いから学び、変容していくような体験をつくる方向性を持つものが好きなんだな、という思いを強くした。

 

従来の人間中心設計のモデルは、基本的に(反復プロセスによって)システムを人の側に合わせていく、という思想が前提である。そこでは「人が変化する」ことはスコープに入ってないし、デザインも相互の関係で構成されるとは捉えない。そういうわけで僕は人間中心設計とは別のルートを模索しているというわけである。

 

違う立ち位置から見ようとする時には、前提を変えることで見通しがよくなる。この間読み直した京大の山内先生の著書「闘争としてのサービス」で展開されている「人間—脱—中心設計」の議論は、大変興味深かった。

 

勉強がてらメモしたので、ちょっと長いが引用する。

ここで興味深いのは、人間中心設計とは正反対のデザインが成立するということである。この正反対のデザインを、人間脱中心設計と捉えてみよう。客に闘いを挑むようなデザインというのは、デザイナ—を超越的な立場に置かないということを意味する。デザイナ—が客あるいはユーザーと対等な立場に立ち、予定調和的な芝居ではなく、相手の出方に自らを曝け出すならば、そこには根源的な意味での闘いが生じる。

 

<中略>

 

サービスデザインは、ユーザの体験の連続性、つまりタッチポイントのつながりの全体性を体験としてデザインするという革新性を持っている。この革新性を、ユーザを固定的に措定し、その潜在的な要求を満たすためではなく、サービスという連続性を通してユーザが変容するところまで推し進めなければならない。つまり、サービスデザインがユーザを前提とするのではなく、ユーザはその結果であると捉えることが重要となる。もちろん、結果としてユーザが十全の主体性を獲得するのではなく、常に矛盾を抱え、引き裂かれた主体としての結果である。

 

<中略>

 

一方、人間中心設計では、ユーザとはどういう人でどういう要求をもっているのかが問題となり、そのためにユーザを固定的に実体化する。例えば、人間中心設計の標準であるISO9241-210の中では、「ユーザの要求を明示し」、「ユーザの要求を満たす」という手順が示されている。しかし、ある個人をユーザという自明な実体として措定するのはだれか?この枠組みでは、デザイナ—はユーザに対して超越的な立場にいることになる。デザイナ—が超越的な立場からユーザのためにデザインするということは(Nomanもこの枠組みに留まる)、ユーザを抽象的に外からしか捉えることができず、逆にユーザを神格化することにつながる。神格化とは、ユーザーという実体を絶対的な対象として受け入れ、その要求を満たすことを目的とすることを意味する。しかし、そのような神格化されたユーザの要求を外から満たしてあげるというデザイナ—は、自らをこのすべての関係性の外に置くことになる。本書でこれまで議論してきたサービスは闘いであるというテーゼは、この関係性を捉えなおすものである。ここで人間を脱中心(de-center)するという考えかたが重要となる。

 

<中略>

 

人間脱中心設計のためにデザイン理論は、弁証法的否定性を内包している。ユーザが自分の主体を構築するということを前提とする以上、サービスにはまずユーザを否定する契機が含まれている。サービスが文化のパフォーマティブを通して構築されるとき、ユーザを否定し、より高い水準のユーザを定義することで矛盾を生じさせる。この矛盾により、ユーザが自らをより高めていく運動を引き起こす。

 

<中略>

 

人間中心という言説によって、人間という予め規定された主体を中心に据えるのではなく、人間を脱中心し、人間がどのように主体化されるのかに着目することが必要である。そのため、ユーザと闘うことが求められる。闘うと言うことは、ユーザをないがしろにするのではなくて、ユーザを対等な存在として尊重することの必然の帰結である。

 

「闘争としてのサービス」山内裕  p211-212

 

山内先生がクリアに説明されているように、脱中心化することが、矛盾を起こし、それがユーザが自らをより高めていく運動を引き起こす、というのは確かに同感だ。そうでないと人は成長しないし、質の高い文化はつくられていくことはないだろう。先に挙げたデンマークの高齢者達を見ていてもそうだった。考えてみれば僕が日々苦闘している教育の場はまさにお互いによる闘い(struggle)だ。

 

人間中心設計は、人工物の中でも特に工業製品のように「マス」を対象とした製品開発に愛称のいいモデルだと僕は解釈している。企業の製品開発では問題無いのだが、「人が変化していく」中での関係性を捉えるためには、前提を含めて注意深く考えることが必要になりそうだ。最近はそんなことを考えている。