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みえないものを、みる視点。

「デザイン観」は変化するか

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「アクティブラーニング」と呼ばれる学習取り組みがだいぶ一般的になった。先生が話し、学生は黙って話を聞いて学ぶ、という一方通行型の学習観から切り替わり始めたのは、(たしか)90年頃。素朴な観点では、教える側は、「言えば聞く、聞けばわかる」と思いがちだが、人間が学ぶことのメカニズムは非常に状況的なもので、たとえば一斉講義では、どんなに教員が努力して一生懸命わかりやすく話をしても、受け取る学習者の頭の中にはたったの数%しか残らないという。

 

教育者たちは、講義による伝達が幻想であることを受けとめた上で、「教員の自己満足をやめよう」「自分が喋るよりも、学生達に対話させ、もっと主体的に学ぶように視点を切り替えよう」「スローペースであっても、その場その場に起こっている関わり合いの変化をよく解釈しよう」と方向性を切り替えてきた、という長年の経緯がある。

 

人は一人ではなく、他者から学ぶ。学習とはあらかじめどこかに用意された知識をインストールすることではなく、人と人の関わり合いという社会的な営みの中で構成される。アクティブラーニングの背後にもある、そういった学習観は、「社会的構成主義」と呼ばれている。

 

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5年ほど前に、デザイン・スキル・スタンダード・トライアル・プログラム(2011)という教育プログラムの一環で実施した時の僕の講演資料より。この回に参加された浅野先生が詳しくレポートして下さってます。震災の直前だったので、この頃はワークショップもわりと牧歌的なテーマだったな。

 

もちろん物事は「見方」で決まるので、これは「人が学ぶ」ということをどのような立場からを解釈するかの問題であるし、その立場に立ったところで、時間も手間暇もかかることを考えれば決していいことばかりではない。でも、一人一人の人間という社会的な存在が発達していくことはそれだけ複雑なことなのだ、と謙虚に受けとけるためにも意義のある視点だろう、と僕は思う。

 

今じゃこういう観点はわりと一般的にも受け入れられている(からこそ、ワークショップがここまで活発になったんだろう)が、こういった学習観が社会に行き渡るまで、実に20年以上。

 

さて、なんでこんなことを書いているかというと、「学習観」と同じように、「デザイン観」にもこういった転換が起こっているように思うからだ。

 

分かりにくい情報をわかりやすくデザインすれば、人々に効果的に伝えることができる・・・とデザイナーが考えるのは、今のような情報過多時代に通じることなのだろうか。ユーザーのニーズに応えれば、ユーザははたして本当に満足するのか。

 

極端なことを言えば、知らず知らずのうちに、何かを提供しようとする側は、人々を「うけとる」だけの受動的な存在として規定していないだろうか。

 

あなたはデザインに対して、どんな観点をもっていますか?