Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

"よい文章は書き手を変える"

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 英国の大学院に留学中のS先生のブログは,家族全員での海外生活など似た境遇も多く,いつも楽しみにしているが,先日の記事がとても印象に残った.「よい文章の条件とは何か」というお話し.

 

これに関しては僕にははっきりした答えがある。良い文章とは、書き手を変える文章のことだ。

<中略>

ほんの少しでいいのだ。書くことで、書き手の中に何らかの変化が起きれば、それはその人にとって書く価値のあった良い文章である。たとえその価値が、書いた当人以外に気づかれなかったとしても。

 

askoma.blog.jp

 

コペンハーゲンのビアバーにて S先生と語り合ったときに,「生徒達が,“書くこと”を自分の生活のどこかに位置づけて欲しいな,と思って教育に関わっている」とおっしゃっていたことをよく覚えているが,それに加えて,ここで書かれてる,『よい文章は,書き手を変える』という定義,明快でまことに素晴らしい.

 

文章に限らず,何かを表現するということはリフレクティブな行為だ.外化することでもやもやした考えはまとまってくるし,そうして文章にされたものを読むことで自分の視点に改めて気付く.そしてたしかにある種の文章は,自分の中にあったはずのことでありながら,自分に強く働きかける.

 

このブログも他者を意識した読み物としてよりは,基本的に自分の記録兼日記として一人称で書いているが,そうしたほうが結果的に自分の考えに気付かされるものが多い気がするからだ.これまで生きてきた中でたくさん駄文を書き続けてきたが,ちょっと背中を押された気がする.S先生ありがとうございます.

 

さて,自分にとっていちばん自分を変えた文章ってなんだろう,としばらくぼんやりと思い返してみた.真っ先に思い付いたのが,ずっと昔に同僚のY先生が授業用につくった学内ブログで書いた,とある記事である.とっくにサーバーは無くなっているけど,記憶を頼りに文章を探してみたら幸いなことにWebArchiveから発掘することができた.奇しくも,今からほぼぴったり10年前(!).専大に着任して2年目の頃で,この記事を書いたときの気持ちは今でもよく覚えている.学生のことを書きながら僕自身が色んなことを発見した.だらだらと散漫な思いを綴った恥ずかしい文章ではあるけど,ある意味で原点な気もするので部分的に転載しておこう.

 

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<前半部分は省略>

 

・・・・

それと、もうひとつ強くイメージしていたのは、昨年の2年生だったI君の姿です。
彼はいつも全体説明が終わった頃にだるそうに現れて、その辺にいる学生に聞きながら適当に課題をごまかして帰るような、やる気の感じられない困った学生だったのですが、たまたま彼のいたグループがICカードをつかった学内サービスを企画することになりました。そのとき、たまたま彼に「擬似的なカードリーダーぐらいはすぐつくれるんだから、それくらい作りなよ」とマウスの分解の仕方と簡単な仕組みの説明をしてみたのです。


すると、演習時間に教室を抜け出してアルミホイルを買ってきて、スイッチを拡張する実験を始めたのをきっかけに、徹夜で発泡スチロールを削るわ、スプレーで塗装するわ、マスキングを自分で編み出して表面のデザインするわ、あげくにはとうとうコンビニにあるような大きな筐体まで段ボールでつくって、カードシステムのデモができるようにしてしまいました。

 

それらは決して完成度が高かった訳じゃないけど、あのI君がここまで自分でやるとは、と感動すると同時に、もの作りが誘発するパワーや、内発的な動機が生まれるきっかけの大事さを思い知りました。


彼はグループで考えたサービスがなんだったかは多分もう忘れているでしょうが、あれを作っているときの試行錯誤の過程や、出来上がっていく時のワクワクする感覚、僕の研究室まで自慢しに見せにきた時のことはずっと覚えている気がします。そして、そういうことが自分に出来る、ってことは多分自分でもこれまで知らなかっただろうと思います。

 

今回の課題では、そんなような火がついた学生がたくさんいたような気がします。そうでなければ、どのチームの作品もあんなに作り込まれないでしょう。モデルにしてもハンドアウトにしても、お金かからないようになるべく安くすませるかと思えば、自腹切ってでもこだわりを見せたり、演習室も設備もない中、条件の悪さを言い訳しないで、廊下や空きスペースでたくましくせっせと作業する姿には驚きました。

 

ドリルの凶暴な音に興奮する男子学生にも、サンドペーパーで素材を慈しむように磨く女子学生にも、そうか、手はマウスを持つために作られたのではないのだと、人間は今でも本能的に「ホモ・ファベル」なのだと、改めて気付かされます。

 

大学の演習は、立ち会う中で、教員としてもいろいろ発見したりしますが、今回の演習では、普段とは違う学生らの一面を見れた気がします。そういう意味では僕も学ばせてもらいました。

 

<後略>

 

(2006年1月17日)

kamihira_log: 「情報の積み木」展終了と、演習についての雑感