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みえないものを、みる視点。

人々はデザインにいかに関われるのか?

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前回の続き.

ここ数年,人々はデザインすること,されることに対していかに関わっていけるのか?僕はずっとそれを考えている.考え続けてデンマークまでやってきてしまった.

 

まずはじめに,「人々」とは通常"作り手"ではなく"使い手"の人々を指すことが多い.簡単に言えば作り手としての専門的な知見やスキルをもってない人である.だとした場合.もっとも見解が分かれるところは「そういう素人の人の意見を聞くか,聞かないか?」だろう.近年は「インタビューは必須だとしても,"意見を"そのまま聞いてはいけない」という考え方が一般的だ.人が自覚できていることは実際に起こっていることのうちほんのわずかであり,しかもしばしば彼らは悪意のない「嘘」をつく.彼らが主張することを開発サイドが真に受けて反映しようとするからしばしばアウトプットは特徴のないものになっていく.だから表面的な言葉ではなく.「現実に利用者が行っているふるまいに注目せよ,そこから真のニーズを洞察せよ」,と.

 

さらに付け加えると,今の価値観に生きる人に最適化していっても,プロダクトが世に出る頃には時代後れになってしまうこともある.未来の時代に当たり前になることをそれが無い時代に想像することは簡単ではないわけだ.人々の常識や価値観は日々変わっていく.僕は学生時代に「S君ってさ,夜中に家でパソコン通信やっているんだってよ」「ゲームとかプログラミングならわかるけど,コンピュータ使って顔も知らない人とリアルタイムで会話しているのって・・・めっちゃキモイよね」「キモイ!」と当時のクラスメイトが話していた会話を今でもはっきりと覚えている.それから20年後どうなったかは今日の通りだ.

 

そういうわけで,利用者の意見に直接答えようとしてはいけない,まして彼らにアンケートで何が欲しいかなんて尋ねるなんて愚の骨頂だ・・・というのが21世紀になってからのデザインリサーチの主なテーゼだ.

 

 

まぁ,もっともな話だと思う.その一方で,それはイノベーションレベルの大きな話や大量生産が前提のプロダクトなら疑うこともないけれど,一概にそう決めつけない視点を持っていたいとも思う.いくつかの方向性で分けて考える必要を感じている.この部分は,受け取る人のイメージがめいめいに拡散して噛み合わなくなりがちなので,いくつかの事例を書いてみたい.

 

1)ダメなものをつくりかえたい人々

とある1000人規模の学部でいろんなグループウェアや学習マネジメントシステムを導入しているがどうもしっくりこない.特に某社製の○○は高いライセンス料を払っているわりにユーザインターフェースがダメすぎて,利用者は利用の度に怒りのあまりディスプレイをたたき割りたくなるという.なお利用者の中にはIT関連の専門家もたくさんいるのでスキル的には自分たちでもコンテクストを考慮した導線などは改良できるし,ソースコードを書き換えることもできる.そうしたいのは山々なのだが,パッケージ製品であるためそれは出来ない.管理している部門には営業がヒアリングに来たらしいが開発者たちは実際の利用者にはまるでタッチしていない.

 

2)自力でメッセージを届けたい人々

とある日本の地方自治体.新幹線の停車駅から外れて主要産業も下降気味で市内人口は減少の一途.おまけに市政の混乱で住民同士が真っ二つの派に分かれて対立するようになる.だが,危機感を感じて立ち上がった若者達を中心に安定を取り戻し,手弁当で市を持続的に活性化していくためにどうするかのフォーラムを立ち上げたり,小規模産業の経営者が自力でPRしていくためのメディア戦略などの講座を市が開講し,地元の高校生らを巻き込みながら映像やデザイン,コピーライティングのワークショップを行ったりと,自分たちにできることを中心に日々動いている.

 

3)新しい価値を作り出そうとしている人

とある2重の障害をもった学生.しかし頭が切れて行動力もある.自らまったく理解のない一般社会に飛び込み,積極的にNPOなどを通じて別の視点の存在に気付かせるような活動を行っている.同時に障害者コミュニティにも弱気にならないで街に出ようと提言したりと,受け身になるのではなくて自分の存在を元に社会の中に新しい価値を作りだしていこうと努力し,デザインを学んでいる.

 

いずれも架空の話ではなくて実話である.それぞれ分かる人にはわかるだろうが,ぼかすことでわりといろんな場所に共通する問題であることが見えてくる.そこにいるのは,受け身の"使い手"ではなくて,拙くとも"作り手"だ.主体的に行動しようという思いを思っている人々だ.それぞれの人生を生き,今の自分と自分の周辺を変えるためにデザインの力を必要としている人々だ.

 

さて,こういった方々の問題にデザイナーが関わる場合,素人だからと話を聞く必要はないのだろうか?そんなことはないだろう,むしろ重要なデザインパートナーとして位置づけられるし,対話を通じて彼らをエンパワーすることでもっと加速させることができるだろう,と僕は思う.しばしば「ユーザー」という言葉を無自覚に使っていると,使う人は受け身,と決めつけてしまい,生産者と消費者を二元化していきがちなところがある.けれども昔から両者は,そう断絶した関係ではないはずだ.

 

というわけで,「利用者の話を聞くべきではない」という説には.もう少し切り分けが必要だ,という話をしてきた.もちろん最終的な意思決定については下手に迎合しないで慎重に行うべきだろう.けれども,対話を通して何が「よい」なのかを議論しあう過程は大事だろうし,サイレントなニーズを発見したとしたら,それをシェアしてお互いの視点を学びあう姿勢こそが必要だろう.納得できないものに反発したい気になるのはみんな同じなのだから.

 

そういった地道な努力をすること無しに開発者サイドから一方的にデータを吸い上げてホームランだけを狙っているとしたら,それこそ日本ではいつまでたってもデザインの考え方は根付くことはないんじゃないだろうか.と思う.