Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

四半世紀の時間を超えた体験

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生きていると、人生には時々思いがけないことが起こるものだ。

2ヶ月ほど前のこと、たまたま検索した先でMax Billのドキュメンタリー映画がスイスで作られていたことを知った。Max Billとは、スイス生まれの画家/彫刻家/デザイナー/建築家であり、バウハウスで学び、その後継であるウルム造形大の設立時の学長をつとめたモダンデザインの世界的巨匠である。

https://cdn.shopify.com/s/files/1/0204/1770/products/Junghans-Max-Bill-Automatic-Watch-J800.1-38mm-White-027-3500.00-2_f436502b-ba62-40e5-ade3-e7de520532a8_2000x.jpg?v=1537963087

時計好きな人には、ユンハンス社の色あせない美しさを持つ腕時計のデザインで知られている。

http://tokyo.metrocs.jp/wp-content/uploads/2014/11/21.jpg

また、日本ではそれほど知名度はないが、アーティストとしても優れた作品を制作していて、4年ほど前に、千葉工大の山崎先生は「マックスビルの会」というのを開催されている。(僕は行けなかった・・・)

マックス・ビルの会 レポート

 

造形の手段としての「構造」という概念をはっきりと表したのがマックス・ビル
その構造は「数学的思考方法」という言葉で表現されていましたが、
数字を直接利用する難しいものではなく、視覚的に捉えることのできる「数学」です。

他の言葉に置き換えるならば、リズム・法則性・連続性・・・といったところでしょうか。

http://tokyo.metrocs.jp/wp-content/uploads/2014/11/81.jpg

 

 身近なところでは、箱根彫刻の森公園にも彫刻作品がある。

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僕は大学生だった頃、billの数学的な美意識を持つ絵画が好きすぎて、パク・・・いやインスパイアされた抽象作品なぞ作っていたのである。

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Requiem for Bill  by Takahito KAMIHIRA (1994.12)

これはちょうどbillが亡くなった時に制作した抽象画で、ビルの造形言語を別のルールで再解釈して、テンションによる線で構成したもの。2次元なのか3次元なのかわからない錯視的な造形を目指した。まあ今見てみれば青い若者の習作である。

 

自分にとってそんな思い出深いbillのDVDがウェブサイトから買えるようだったので、短いメッセージを添えて購入申し込みしてみた。すると、映画を撮った監督のエーリッヒ・シュミットからメールが!なんと12月に日本に撮影に来るのでそのときに渡せると思う、夜にでも会えないか?とのこと。エーリッヒの奥さんのangelaはなんとbillの前妻で、ふたりでbill hausというビルの記念館を運営しているそう。

 

 二つ返事でOKしてなんどかやりとりするうちに、僕はいつのまにか帝国ホテルの彼の部屋にいた。

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 With erich and angela at teikoku hotel, dec 3 2018

まさか四半世紀経ってbillの奥さんに当時の真似事の作品を見せる日が来るとは思わなかったな。当時の自分に「いつかそんなこともあるぞ」と励ましてあげたい。

 

彼の部屋でDVD とともに、翻訳の許諾と英語のサブタイトル(字幕)データを頂いた。 来年はバウハウス100周年で、日本でもいろんなイベントが企画されている。その一環としてこの映画を上映できる可能性を探ってみたい。どうなるかまだ決定している話ではないので具体的なことは公開できる話ではないけれど、こういった貴重な映像を日本に紹介するために、ちょっとでもお手伝いできればと考えている。

 

追記:

なんと、実現しました!

kmhr.hatenablog.com

 

2018年度プロジェクト発表会のお知らせ

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今年も12/15(土)に、専修大学ネットワーク情報学部全3年生によるコア演習科目「プロジェクト」の発表会を企画しています。
我々の学部のPBLの特徴は、テーマを教員や企業から与えらえるのではなく、学生自身が仲間を見つけて起案し、指導してくれる教員を口説き落とし、社会に対して活動していくという(全国的にも珍しい)スタートアップ的な活動であるところです。もちろん七転八倒になるわけですが、不確実な中で目標を探し、前に進んでいく態度を育成することを目指しています。


今年の上平プロジェクトは、紙や活版印刷装置を自作し、それを用いたポップアップ工房を立ち上げてワークショップを行いました。デジタルの利便性とは真逆の、作っていく手間暇の中に生まれる価値とは何かを探索するものです。

年の瀬の忙しい時期になりますが、もしご都合が付かれましたら是非お越し下さい。学部にご協力くださっている企業の皆様には、ささやかですが学部教員との昼食会も予定しております。

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2018年度専修大学ネットワーク情報学部プロジェクト最終発表会

日時:2018年12月15日(土) 10:30~16:20
会場:専修大学生田校舎 10号館2F・3F (入場無料、入退場自由) 

 

公式サイト

専修大学ネットワーク情報学部|プロジェクト発表会2018

グラレコしてもらう

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11/5(月)、東京女子大にて講演。現代教養学部の中に、心理・コミュニケーション学科コミュニケーション専攻が新設され、デザインも学べるようにカリキュラムを作り直したのだそう。

 今回の講演は渡辺先生にお招き頂いた。連続講座の4回目に位置づけられるものである。題目は「当事者たちが参加し、協働するデザインの世界」。90分フルのレクチャーをまるまるグラフィックレコーディング(話を聞きながらレコーダーがその場で即興的に記録していくもの)していただいたので、ここに記念に残して置こう。

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レコーダーは、リクルートの長縄さん。イケメンに描いてくださってありがとうございます。

 

もうひとつ。

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11/3(土)は日本グラフィックデザイナー協会神奈川支部企画の、「7人のデザイナーと語らう『ヨコハマで企む。モノ・コト・マチを育む』」トーク&セッションに参加。

うーむ。このキャッチ画像では、巨匠の中川憲造さんの横に並べて頂いて実に恐縮だ。

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中川さんの後、僕から「街の人々が『自分たち事』として取り組むための仕組みと姿勢の話」としてトーク。撮影は松本賢(mazken)さん。

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トークとパネルディスカッションはホワイトボードにレコーディングされた。レコーダーはNTTコミュニケーションズのそうとめさん。ありがとうございました。

 

冗談を冗談で終わらせないで、実行する力

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Mária Filep (Debrecen) and Dr. László Magas (Sopron) open the border gate - which has already been "opened" half an hour before by several hundred East-German refugees without any protocol.

 

世界史に疎くてあまり知らなかったことだが、世界の歴史を変えた「汎ヨーロッパ・ピクニック計画」(1989年8月19日)の経緯がとても興味深い。

1989年、ソ連の共産圏から逃れいち早く新政権の樹立に成功したハンガリーでは、民主化運動が活発になっていた。そんなある日、オットー・ハプスブルクオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子)が大学の講義のためにハンガリーを訪問した。その日の歓迎会で、ハンガリー鉄のカーテンによる分断から解放されたことを特別に祝おうじゃないか、とある人が冗談を言ったところ、その冗談に乗るかたちで出席者から色んなアイデアが出てきた。 

その中から、オーストリアハンガリーの国境地帯でたき火をしてバーベキュー・パーティを行い、ハンガリー人とオーストリア人が、国境のフェンスを囲んで食べ物を交換し合うことで、ヨーロッパの東西を分断するフェンスが、地理や歴史(オーストリアハンガリーは20世紀初頭まで同じ国家だった)を無視している事実を世界に示そう、という案が出たのである。

この話で夕食会は盛り上ったが、その時はパーティの席での冗談であった。メサロシュが夕食会の10日後に、民主フォーラムの会議の席上でこの話をした時も、多くの出席者は冗談と受け止めたが、フィレプ・マリアという女性は、これを本格的に実行することをメサロシュに提案し、2人で準備を始めた。

汎ヨーロッパ・ピクニック - Wikipedia

 

最初は身内の小集会と考えられてきた「ピクニック」の企画は、あらゆる地域の人々が集まって将来の欧州統合について語り合う大集会「ヨーロッパ・ピクニック」として実施されることになりました。人々は、ショプロンの郊外にある、戦後40年開かれることのなかった国境の門に注目し、これを開放させることを考えたのです。

この門を開けるよう援助を求められた当時の政治改革相ポジュガイ・イムレは、それを断らず、「これは単なる会議を装いながら、白昼堂々東ドイツ市民を脱走させ、鉄のカーテンを無意味なものにする絶好のチャンスである」と考え、内務省に門を少しの間だけ開けるよう要請しました。主催者側は、これと同時に、東ドイツ人のキャンプやホテルに連絡を付け、「ピクニック」に行けば西に出られる」と伝えたのでした。 

ヨーロッパピクニック計画

 

かくして、ショプロンの街でピクニックは実行された。結果的に、この日だけで東ドイツから600人以上が脱出に成功したという(上の写真)。

http://www.eu-alps.com/x15-st/do-2015/623/5623f1132.jpg

これはピクニック計画のポスター。鉄条網を切断するシンボリックなバラの花が素晴らしい。

 

これを機にハンガリー国内で難民化していた東ドイツの市民が公然と脱出できるようになり、やがてベルリンの壁崩壊に繋がっていった・・・という歴史的実話。まるでよく出来た映画のようだ。

 

フィレプ・マリアは、もともと建築家だったらしい。酒の場の冗談を冗談で終わらせないで、ソ連に消されるリスクを負いながらも実行に向けて動いていくというのは、なかなかできることではない。

 

1989年の夏というと、僕が高校2年の時か。

僕が田舎で何事もなく過ごしていたあの時期に、急速に時代がうごいていたんだなぁ・・・と訳も無く感慨深くなる。

 

3年前のベルリンの壁訪問記。

kmhr.hatenablog.com

 

始まる「情報デザイン」の視点:神奈川県教員研修会講演より

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10/20(土)の午後、神奈川県の情報の先生達にデザインの研修を担当する機会をいただいた。題目は「始まる『情報デザイン』の視点」。共通教科「情報」の学習指導要領の大幅改訂に際して、後手に回っている印象のある情報デザインの学習分野だが、神奈川県の情報部会では率先して学ぶ機会を作られている。この日も熱心な先生方がたくさん集まってくださった。

そして研修に先だって事前アンケートを行ったところ、先生方は単なる方法論やスキルではなくて、概念的な理解、学びをどう評価するか、デザイン的な態度、教員はどう学ぶか、などのもっと本質的なところを理解する機会を求めていることが見えてきた。なるほど、自主的にこういう場に来られる先生方は流石に研究熱心だ。お仕事を請負いながらも、こういう機会を活かしてちゃっかり自分の科研のリサーチも進めるのである。何事も一石二鳥。

 

そして少ない持ち時間で検討した結果、

1)講演「情報デザインの再定義」

2)ワークショップ1「ビジュアルコミュニケーションの学びとその評価」

3)ワークショップ2「情報の送受信の文脈差とデザインの関係」

4)全体討論

の4部構成で行くことにした。

 

1)と2)のスライドを公開しておきたい。

www.slideshare.net

 

今回の攻め場は、「情報デザインの再定義」。この分野を立ち上げた須永先生は「定義することは思考停止でもある」と、常に問い直し続け、変化し続けるスタンスを貫かれていたし、それは僕自身よく理解できるけれども、おなじような探求マインドは、専門でない先生方には辛い。そういうこともあって、言葉を整理することに挑戦してみた次第である。切ないけど、他にやってくれそうな人がいないということもある。

 

この日の全体討論を通して、先生達にも高校生にもわかり、かつ持っておくと長持ちしそうなキーワードは、とりあえず「コンテクスト」だな、という思いを強くした。打ち上げで酒飲んだ先生方もこの点には同意してくださった。「図」としての情報(コンテンツ)だけではなく、「地」としての背景の文脈を読み解いてみることその相互作用によって物事が成り立っていることを理解すること。それは難しいことではあるけれど、学んでいくことは可能かと思う。少しづつでもそのような視点を養うことによって、社会や自分の身近な生活を捉え直す解像度は上がっていくのではないか。

 

 

デザイン・ウィズ・ノンヒューマン:Xデザイン学校公開講座より

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 ちょっと前の話になるが、9/10にXデザイン学校公開講座で講演してきた。Xデザイン学校では他の講師陣が豪華なこともあり、僕は変わった問いを投げかける変化球投手の役割だと理解している。昨年度は「デザインすることはGiveすること」で、今年の題目は「デザイン・ウィズ・ノンヒューマン」。ほとんどの人が「ん?」と戸惑うような切り口である。しばらく時間経ってふり返ってみると、色々と言い足りてないことにも気付くもので、今回のスライドは非公開としておきたい。(連絡頂ければお見せします)

 

大まかな講演概要は以下の通り。

 

 人類学はデザインリサーチの方法にも大きな影響を与え、人間とは何かを探求する学問として、デザインとは相互関係にある。その人類学は、21世紀に入って大きく変化していることはあまり知られていない。実在している「何か」を、特定の人々がどう認識しているかを調査・記述するという古典的なスタイルを経て、現在は、動植物やモノなど、非人間との相互作用によって生み出される連関的な世界の中においての人間を捉えようとする、いわゆる「存在論的転回」という潮流が起こっている。このような問い方の転回は、遠からずデザインの人間観・世界観にも影響を与えるだろう。そして「デザインの次に来るもの」を示唆するといえる。

 

 人類学では、かつてのように「文化」と「自然」を二元論的には扱わなくなっている。翻って現在隆盛している「デザイン」の概念を再考してみると、デザインは人為で、人に対して行われる人間中心の視点が一般的な共通認識であることが浮かび上がってくる。一方で欧州のデザイン研究では、近年はノンヒューマン(非人間)に言及されることも増えている。例えば、ミシェル・カロンによると、「非人間は、デザインコミュニティのおける戦略的プレイヤーと見なすことが出来る」。

 

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とはいえ、我々は人間同士の関係(ビジネス、社会、文化など)しか真面目に考えていないのかもしれない。そこで、デザインの協力関係を、人間以外に拡げて考えてみる。この境界こそが面白い。

 

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ここでは、4つの領域(動・植物/微生物/人工物・人工知能/無機物)に分けて、興味深いコラボレーションの事例を蒐集してみた。

紹介した事例からいくつかピックアップ。

High-Line(NYC)

Oyster-tecture (NYC)

犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクスミャンマーでのWSから気付いたこと)

BIO LOGIC:MIT Tangible Media Group

発酵の技法―世界の発酵食品と発酵文化の探求 

Locally noisy autonomous agents improve global human coordination in network experiments (日本語記事)

断崖クルージング(鹿児島・甑島)

The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins日本語記事

 

これらの事例から見えることとして、4点。

 

1)非人間との協働は、東洋では昔から当たり前である。農業はそもそも微生物とのコラボであるし、仏教的な世界観では生命の価値は等しい。しかし、産業革命期に生まれた西洋的な概念であるデザインが輸入されて以降、もともとあった文化は上書きされて力を失いつつある。

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2)気候変動期に入り、年々過酷さを増していく地球で人間は生き延びていく方法を探していかねばならない。非人間という観点で世界を見ると、都市部と地方ではリソースの豊かさが逆転する。都市の中では何かを作れるようなリソースがとても少ない。

 

3)(人間中心)デザインは、製品開発のモデルとして生み出された考え方であり、地球全体から見れば、局所的な解に過ぎない。人間は人間だけでは生を持続できないわけで、一段階フレームを拡げてバランスを取り直さなければならない時期が、近々来るだろう。

 

4)例えば、里山は人間の手が入ることによって、原生林よりもエコシステムが豊かになる例として知られる。極端に考えるよりも、中庸のバランスの取り方はあるのではないか。

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最後にまとめ。(これを言い忘れた・・・)

非人間にフレームを拡げる理由は、エコロジーやサスティナビリティという観点だけでない。例えば天気の話題で初対面の人でも仲間になれるように、災害時には連帯するように、視点を人間同士の外側に置いてみることは、考え方が違っても共通して取り組める問題となる。結果的に人間同士が協働していく機会や可能性を広げるのではないか。

しかし、その外来植物によって緑地にある4つの組織は繋がることができました。我々は徒歩10分圏内のご近所さん同士でありながら、普段はなかなか接点はないのですが、彼ら(外来植物)が、普段出会わない人間同士が協働する機会をもたらしてくれたわけです。

"厄介者"をめぐる、ご近所協働。 - Kamihira_log at 10636

 

今回の講演の主題は、視点提示が主目的のため、個人的にもう一息。もう少し考えて、熟成させながら実践していきたいと思う。引き続き情報収集継続中につき、面白い事例をご存じの方、教えていただけましたら幸いです。

 

「当事者」をとらえるパースペクティブ

日本デザイン学会の機関誌であるデザイン学研究の「当事者デザイン」特集号に寄稿しました。発行されるのは当分先だし、アカデミアの人以外には届かないコンテンツなので、ここで初稿を公開しておきたいと思います。ウェブで読みやすいように一部の体裁は変更しました。文字数制限のため、あちこち説明が足りてないところは目をつぶっていただければと思います。

 

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「当事者」をとらえるパースペクティブ
3つのデザインアプローチの比較考察を通して

A Perspective to Capture the Concept of Tojisha
Through Comparing Three Types of Design Approaches

 

上平 崇仁 KAMIHIRA Takahito

 

1. はじめに

 デザインに関わる人々が、どのような人間観を持つかは重要な問題である。人間観はどのようなデザインのアプローチを採るのかに直結しており、目指すデザインのあり方やその過程で立ち上がることの意味を決めていく。逆に言えば、どのような視点で世界を捉えるかの見方を変えないことには、そこで構成されていくデザインを大きく変化させるのは難しい。今日では、デザインの対象はますます複雑になり、それぞれの組織がめざすデザインへの向き合い方を検討することの重要性は増しつつある。

 本稿では、特集号のテーマである「当事者デザイン」を中心に、デザインにあたって我々が世界を見る際の視座―ここでは比喩的に透視法(パースペクティブ)と呼ぶ―についての整理を行い、当事者がデザインに関わっていく意味について検討していく。

 

2. 「呼称」は人間観を反映する

2. 1. デザインに関わる人の呼称

誰が誰をどう呼ぶかの「呼称」の問題は、人間社会における関係性や固有の文化を映す。同様にデザインという活動の中でも、関係する人間は多様な呼称で呼ばれており、それぞれのケース、さらにそれぞれの立場において、潜在的な人間観が反映されていると言える。

 

2. 2. "ユーザー"という呼称と、その問題
 デザインにおいて"ユーザー"という言葉が一般的になったのは、主にIT業界からの影響である。コンピュータシステムにおける"ユーザー"の概念は、もともとはソフトウェアの開発者側と利用する側の操作上の権限を区別する意味で、個別の使う立場の人を一括して抽象化することで作られた。大規模なシステムの場合は利用する立場の人が複数の層にまたがることも多いため、最も末端の層の利用者は末端を強調する意味で、"エンドユーザー"とも呼ばれることもある。

 そこからIT業界が成熟するに伴い、ユーザビリティの専門家らの啓蒙が行われ、開発者やクライアントの目線に置き換わりがちな設計要件を、ユーザーの視点を取り入れることによって正しく定義していくという考え方とプロセス、すなわちユーザ中心設計(UCD)が広まっていく。それまでは末端として捉えられていた"ユーザー"の立場こそをデザインの中心とすべき、という「転回」である。

 その後、製品にコンピュータが内蔵されることが増えるとともに"ユーザー"の概念は一般化し、直接操作だけでないサービスやプロダクトなどのデザインにおいても転じて使用されるようになっていった[注1]。現在では、「ユーザファースト」や「ユーザエクスペリエンス(UX)」という言葉は、IT業界を超えてビジネスの世界に浸透している。


 しかしながら、この"ユーザー"という言葉は、上述したとおり、もともと作り手と使い手を意識的に区別するための言葉であるため、両者の区別が明確でない出来事に適用しようとする際には齟齬を生むことになる。この点に関して、一部の専門家は早くから違和感を指摘していた。1999年、西村佳哲は国際会議Vision Plus 6において、

「本来的には『ユーザ』なんていないのかもしれないのです。だって書籍ユーザなんていない。いるのは、リーダーです。サーフボードユーザなんていない。いるのは、サーファーです。最終的なゴールは、『ユーザ』と呼ばれる存在のいない経験の総体をデザインすることだ。それを忘れてはいけないと思うのです」[注2]

と発言している。

 また、ほぼ同時期に渡辺保史も、情報デザインの教科書的存在であった書籍で、情報メディアにおいては我々はただのユーザではないという発言をしている。

情報メディアやコミュニケーションにかぎっていえば、私たちはユーザとして与えられた道具や情報をただ漫然とつかうだけの受動的な存在ではない。<中略>情報デザインにおいては、作り手と使い手という従来のデザインにあった隔たりは存在しない[注3]

 

 西村と渡辺が指摘するように、特定の人々が能動的な活動をしている場合には、決して"ユーザー"という呼び方にはならないはずで、人間の側を受動的な存在として規定するこの呼称は、大きな矛盾を持ってしまう。どのように認識するかで、呼び方だけでなく、活動の捉え方が変わってしまうからこそ、名称や呼称のラベルには慎重にならなければならない。


 こういった問題に気づき、自身の活動の中で呼び方を改めた重要人物として、D.A.Normanが挙げられる。1980年代に認知科学の知見をデザインに導入し、ユーザ中心設計の思想を提唱したNormanは、20年ほど経過した2008年に、「私たちが使っている忌まわしい言葉の1つは"ユーザー"である。私は、"ユーザー"という言葉を取り除くための十字軍に加わっている。私は彼らを"人々(People)"と呼ぶ方を好む」と専門家の会議UX Weekにおいて発言した[注4]

 "ユーザー"という概念は、当初、開発者やクライアントの論理に置き換わってしまいがちな視点を使い手側の目線に合わせるという転回には大きく役立った。しかしシステムの設計範囲が単なる操作から全体的な体験へと拡張され、人間の内面的な欲求への影響を強めていく中で、その言葉にはそれらをただ使うためだけに人が存在しているかのような、傲慢なニュアンスが内在していることが少しづつ浮かび上がってきた。そのニュアンスは特にDemocracyの信念が強い欧米の文化では耐え難いものとなる。そこでNormanは言葉に内在する問題を認め、"ユーザー"と呼ぶべきでないと語ったということである。

 このような転回は、Normanの個人的なものでなく、米国のITサービス企業にも波及し、ユーザーというラベルを意識的に使わず、Peopleと呼称を改める傾向が見られたようである。このテーマを扱った取材記事によると、米国で顧客のことをユーザーと呼ぶのは「IT業界とドラッグディーラーぐらい」と述べられている[注5]

news.mynavi.jp

 ここで起こったことは、最初の転回を開発者目線から使い手目線への転回(第一の転回)とすると、受動的な存在から主体性を持った人間観への転回(第二の転回)と見ることができる。


 一方で、ビジネス側の人間観では、個別の小さな問題に留まらずよりスケールさせていくことに対して、"ユーザー"という言葉の相性は良いと言える。多くの開発者による大規模開発や、世界中の資源や労働力を用いて大量生産される今日の工業製品においては、利用する側を個別に見ていくことは現実的には難しく、抽象化することによってビジネスモデルや開発プロセスの簡便化や低コスト化に繋げることが可能になる。戦略上、対象となる人のスコープを絞るために意図的に用いられる場合もあるだろう。また人間とコンピュータのインタフェース設計において、ユーザーを仮定した上でその文脈を考慮しながら人間の認知・心理的な共通項を探りつつ組み立てていくことの重要性は、現在でも変わらない。


 議論となるのは、そこで、デザインを通して操作される時、当の人々の側がどのような立場を取るかだろう。市場経済の中から"ユーザー"と名指しされる際には、知らず知らずのうちに人々を"消費者"という枠組みに変換しようとする力が働いているわけである[注6,7,8]
 "ユーザー"という外来語をカタカナのまま受容した日本においては、多くの人々は、この呼称に複雑な意味のせめぎ合いが起こることをそれほど問題にしなかった。デザインの言説はビジネス側を起点とするものが多数を占め、また欧米のようにDemocracyの土壌もなかったため、第一の転回の影響のまま普及し、分化されずに定着されていくことになった。

 

2. 3. デザインにおける"当事者"
 次に対比する呼称として、ここでは「当事者」という言葉を見ていく。デザインの文脈で"当事者"の呼称を取り上げたのは、はこだて未来大の岡本らである[注9]。"当事者"とは、『事(コト)に当たっている人』を指し、日本人にとって明快な意味の言葉で表されている。この当事者という呼称は、使う役割としての人ではなく、主体的にコトに向き合っている人を捉えようとする人間観を反映している。新しい概念に思われるかもしれないが、実際のところ、当事者達が自分たちの手でデザインを実践するという活動は、もともと人類が長い歴史の中でずっと行ってきたことであり、消費社会が進む中で下火になっていった文化である。こういった失われつつある文化を人々の手に取り戻そうという民主的な創造活動は、現在世界的に勃興している[注10,11]。同時に、自らコトに当たる人々のデザイン活動をエンパワーするために、その活動自体をどのように支援できるのか、というのはデザイナー側にとっては新しい課題であり、刺激的なテーマでもあると言える。


 この言葉から想起されるのは、「当事者研究」の領域だろう。当事者研究とは、障害や病気などの困りごとを抱える当事者が、その解釈や対処法について医者や支援者に任せきりにするのではなく、困りごとを研究対象としてとらえなおし、似た経験を持つ仲間と助け合って困りごとの意味やメカニズムや対処法を探り当てる取り組みのことである[注12]。これは当事者の理解している主観的世界を汲み取る一人称の研究実践[注13]でもあると同時に自助(自分を助け、励まし、活かす)と自治(自己治療・自己統治)の方法でもあるという重層性がある。こういった考え方は、岡本らの当時者デザインの活動と繋がる部分も多い。ただし、これらの活動は、避けがたい葛藤をやむにやまれず自分(たち)でなんとかしなければならないケースが多く、そのため、完全に能動的なものとして行われているわけではない。かといって完全に受動的なものとして行われているわけでもない。その中間にある態度[注14]であることには留意しておくべきだろう。


 また、"当事者"という言葉は元々司法領域の用語として使われてきたものであり、語感からは「当事者/非当事者」という強烈な切り分けや緊張関係を引き起こす危険が指摘されている[注15]。そして、その特権性を感じさせる強調の仕方に違和感を感じる人も少なくない。その意味では、"ユーザー"という呼称と同じような解釈の多義性を引き起こすのかもしれない。


3. デザインアプローチを比較する

3. 1. 3つの枠組みの併置
 筆者は、2017年秋の日本デザイン学会秋季大会当事者デザインセッションにおいて、3つのデザインのアプローチについて検討した表を発表した[図1][注16]。歴史的な経緯を持つ「1) ユーザ中心デザイン」と「2) 協働のデザイン[CoDesign]」、そして前節で触れた「3) 創造活動の民主化」を併置することでアプローチの違いを浮かび上がらせたものである。3 つの列を比較することによって、当事者デザインは「当事者とともにデザインする」と「当事者によるデザイン」の二つにまたがっていることについて整理を行った[注17]

 

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 この表で併置してみることを通して、「協働のデザイン(CoDesign)」もプロジェクトによっては,UCD に不足していた部分を埋めるために行われる場合(例:オープンイノベーションや共創サービス開発)も存在することが明確になり、中央の列は、右側を志向していくものと左側を志向していくものにそれぞれ性格が分かれることが捉えられるようになった [注18]

 

 

3. 2. それぞれの立ち位置とパースペクティブの図解
 次に、前節で示した3つのアプローチの違いを空間的に理解するために、図解化を試みた[図2]。

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 画面中央に存在している同一の人間から、それぞれの見方によって視座がどのように異なるかを浮かび上がらせたものである。ユーザーの像は、スタジオにいるデザイナーの視座から製品を通した一定の期間だけ見えることを示す。その後ろで当事者が立つ道は、生まれてから死ぬまでの自分の人生の中で学びつづけ、変化し続けていく存在であることを示す。また、奥の丸い地面部分は、畑のメタファであり、コミュニティで「共に育てるフィールド」を示す。この図によって、自分はどこに立っていて、そこから何を見ようとしているのかを俯瞰することが可能になる。

 なお、これらのアプローチは、デザインする際の志向性の違いを整理したものに過ぎない。適切なアプローチは対象となる課題や所属する組織によって選択されるべきであることには注意しておきたい。それぞれの立場から一長一短はあって当然であり、短絡的に切り取った良し悪しの評価軸で捉えてはならない。

 

 

4. デザインを通した当事者の経験

4. 1. サービスをリードしていく中での学習
 当事者がデザインに関わることや、自分自身でデザインを携えていくことは、どのような経験となっていくのだろうか。本章では、前節の図2に示した視座を元に、具体的な活動事例を通して示していく。
 Give&Take ProjectEUで行われた高齢者向けのスキルシェアリングサービスの実践研究である[注19]。高齢者は社会参加していくことで自己効力感を高め、社会的繋がりを作り出して自身のヘルスケアに役立てる。一方で社会の側は高齢者の持つスキルをリソースとして活用し、多世代の人々の生活にも役立てるという互酬関係を作り出す、というものである。写真は、このサービスの開発プロセスにおいて、デンマークの老人ホームで行われたリビングラボの様子である[図3]。

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参加していた高齢者達は当初、何かをシェアすることにそれほど興味があったわけではない。しかしながら未知なるサービスを育ていくことを積極的に楽しみつつ、自分自身にできることを広げていこうと試みていた[注20]

 何かを自発的にシェアするためには、受け身ではいられない。高齢者たちは、当事者として関わる中で自分自身の態度を変容させていったのである。ここにおいてデザインに関わることは、学ぶことそのものになる。

 

4. 2. 自身の特殊性を活かした表現
 Hands On Woven(H.O.W)は、デンマークのテキスタイルデザイナーRosa Tolnov ClausenとBlindes Arbejde(視覚障害者工房)のコラボレーションによる協働デザインのプロジェクトである[注21]。Rosa は、視覚障害者と共に織物のデザインプロセスを分解し、障害者自身が自分の手で布地のパターンをデザインしていくためのツールキットをデザインした[図4]。

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H.O.Wは視覚障害者の鋭敏な能力を用いてデザインされ、美的品質を備えた高品質な製品として販売されている。視覚障害者自身がデザインすることは一般的には不可能なことであるが、晴眼者にはない特殊性(鋭敏な触覚)を活かした表現手段を得ることによって経済的にも自立し、自身を力づける経験へと繋がっている。

 

4.3. 役割を得ることで寿命を延ばす
 チョークメーカーの日本理化学工業川崎市)は、全社員の7割以上が知的障害を持つ人々が雇用されている。重度の障害があっても企業の対応次第で真正なビジネスの戦力になることを証明する例として広く知られる。彼らが働くワークプレイスは、知的障害があっても仕事内容を理解でき、それぞれが力を発揮できるように、長年の改善を繰り返して隅々までデザインされている[図5]。

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 会長の大山は、若い頃に僧侶との対話を通して、人間にとっての幸福とは、大事に面倒をみられることではなく、働くということを通して役割を得ることや感謝されることなのだと気付き、障害者の雇用を進めるようになったという。そして一般的に寿命の短い知的障害者が,働く喜びを知ることによって幸せを知り、寿命を延ばしているというエピソードを語っている。

「ご住職は、「人間は大事に面倒を看られることが幸せなのではなく、『愛されること』『褒められること』『人の役に立つこと』『人に必要とされること』の4つが人の幸せを生み出すのです。」と、教えてくださったんです。つまり、施設が障がい者を幸せにするのではなくて、役割を持って働くことが人間の幸せを叶えることになるんですよ。「ありがとう」「ご苦労様」といった言葉をかけてもらえることが、人間にとっての幸福であると気がついたんですね。それから一人でも多くの障がい者に働く場を提供しようと思いました。<中略>実は、最初に社員になった二人の内の一人の方は今でも働いていて、今年で67歳になりました。雇い始めたときに、学校の先生からは障がい者の寿命はもともと短く、およそ40〜45歳くらいまでだと聞いていました。なのに、彼女はもう少しで70歳なんです!働くことは、人を元気にさせてくれるんですね[注22]

 社会の中で役割を得ることは、受け身的な経験ではない究極の経験として、生き延びる力までも変えていくということである。それぞれが力を発揮し、適切な役割を得られるコミュニティをデザインしていくことは、当事者がよりよく生きることに繋がっていくと言える。

 

5. まとめ

 本稿では、「ユーザー」と「当事者」の呼称からそれぞれの背後にある人間観を指摘し、3つのアプローチそれぞれのパースペクティブについての整理を行った。これまでの議論をもとに、以下の2点をまとめとしたい。


1)人は社会的な関わり合いの中で学んでいく存在であり、デザイン活動も決して当事者だけで孤独に行っていくものではない。4章で見てきたように、専門家とのパートナーシップは切り離せない。したがって当事者によるデザインも単独で存在するのではなく、協働のデザインを通して徐々に自立した先の活動[注23]と捉えるほうが自然である。また、物事にはつねに当事者だからこそ気付くことと、当事者でないからこそ気付くことの両面が存在しているものである。両方の視点を取り入れたよりよいデザインを行うために、いかなる協力関係を構築するかが問われていくだろう。


2)製品開発のために生み出されたアプローチが、必ずしも人々が学んでいくことに対して最適な方法というわけではない[注24]。そのことを理解した上で、特に教育機関や公共領域でデザインに関わる人々は、本稿で示したアプローチの違いを元に、自身の活動を俯瞰し人間観や志向性の問題について省察してみることには、ささやかな意味があるだろう。

 

 

___________________

 

[注1]
例えば、1980年代のプロダクトデザインの教科書「工業デザインABC」(原書房,1987)には、ユーザという言葉は掲載されていない。また最初期の「現代デザイン事典」(平凡社,1986年度版)において、ユーザーインタフェースという言葉が掲載されているが、CG領域の用語として簡単に解説されているだけである。


[注2]
西村佳哲, Designing World-realm Experiences: The Absence of World "Users"(世界経験のデザイン_"世界"に"ユーザー"はいない)
http://www.sensorium.org/vp6/lecture/index-j.html


[注3]
情報デザイン入門、渡辺保史、平凡社2001 P206


[注4]
Don Norman at UX Week 2008(C)Adaptive Path
https://www.youtube.com/watch?v=WgJcUHC3qJ8


[注5]
Facebookが利用者を「ユーザー」と呼ばなくなった理由
https://news.mynavi.jp/article/svalley-595/


[注6]
この点について水越は「"ユーザー"という言葉は、市場経済的な観点からの人間観を前提にしていることには注意を要する」とビジネス的な視点が前提になっていることを指摘している。(水越伸, 21世紀メディア論 放送大学教育振興会,2011) さらに、「ものごとをシステムとしてとらえ、その諸要素を人工的に操作していくデザインという営みは、いかなる場合にも体制的な特性を帯びがちだ。その体制的特性が国家や企業の権力と結びついたとき、それは我々をしばる企てとして規範化する。その規範をズラしたり、壊したり、笑い飛ばしたりする営みを、僕たちはどこかに担保しておくべきなのだ」とデザインという行為自体が持つ体制的な危うさと、それを乗り越えていく重要性に言及している。(水越伸,「デザインとリテラシーが交わる時代」:5 Designing Media Ecology 04, 2015 pp.022-039)


[注7]
フランスの社会学者ルフェーヴルは、この概念がポピュラーになるずっと前、1974年の時点で建築物や都市空間を題材にして、"ユーザー"という言葉は人間から人間を奪い、主体性を軽視して単なる機能的な『もの』におとしめると警告している。(Henri Lefebvre, La production de l'espace, Paris: Anthropos. Translation and Précis.1974 邦訳「空間の生産」 斎藤 日出治 訳 青木書店2000)


[注8]
逆に、フランスの歴史家ミシェル・ド・セルトーは、使用者(usagers)を一方的な消費者としての存在ではなく、「もののやりかた」やあるいは「戦術」という独自の手立てで、日常的な生活の行為の中でなんとか操作をおこなっていく主体的な存在として捉えている。(Michel de Certeau : L'invention du quotidien. Vol. 1, Arts de faire' Union générale d'éditions,1980 邦訳「日常的実践のポイエティーク」山田登世子訳,国文社,1987)


[注9]
岡本誠,他:図を介した共創型デザイン1,日本デザイン学会研究発表大会概要集 65(0), 258-259, 2018


[注10]
Ezio Manzini: Design,when everybody design- An Introduction to Design for Social Innovation. MIT Press 2015


[注11]
Cynthia Smith: By the People: Designing a Better America Cooper Hewitt, Smithsonian Design Museum 2016


[注12]
熊谷 晋一郎,「当事者研究への招待-知識と技術のバリアフリーをめざして-」生産研究67巻 5号 pp.467-474 .2015

[注13]
諏訪正樹他,編:「一人称研究のすすめ」, 近代科学社2015

[注14]
國分功一郎:「中動態の世界 意志と責任の考古学」,医学書院, 2017

[注15]
宮内洋・今尾真弓編:「あなたは当事者ではない <当事者>をめぐる質的心理学研究」北大路書房 2007


[注16]
kamihira_log:当時者デザインセッション資料
http://kmhr.hatenablog.com/entry/2017/10/17/080144


[注17]
提案者の一人である未来大の原田によると、「当事者」と「デザイン」という言葉の間に明確な助詞を入れていないことは、複数の解釈ができるように意図的に行ったものであるという。

[注18]
この表に関しては、当事者デザインの可能性に関する議論や、未来の知的財産の考え方へ展開されるなどの反響があった。(希望は天上にあり「リズ・サンダース「Co-Design」の仮説から2044年知財制度を予想する」)
http://hiah.minibird.jp/?p=3071


[注19]
Malmborg, L., Grönvall, E., Messeter, J., Raben, T., and Werner, K. (forthcoming/under review). Mobilizing Senior Citizens in Co-Design of Mobile Technology. Submitted for International Journal of Mobile Human Computer Interaction. pp. 1-24


[注20]
筆者は2015年度の在外研究の際にこのプロジェクトに参加し,その中で参与観察を行った。-kamihira_log at 10636 継続的な信頼関係をつくること
http://kmhr.hatenablog.com/entry/2016/01/12/195150

  

[注21]

Hands On Woven

http://handsonwoven.dk/

 

[注22]

大山泰弘インタビュー:MY ROLE 2011街のために働く人々 専修大学コンテンツデザインラボ, 2011

 

[注23]

Brown JS, Collins A, Duguid P.

Situated Cognition and the Culture of Learning, Educational Researcher 1989; 18(1): 32-42.

 

[注24]

上平崇仁,他:探索型PBLとそのデザイン環境, 日本デザイン学会研究発表大会概要集 65(0), 496-497, 2018

 

 

 

 

 

 

 

共通の敵をつくる増幅装置

Facebookで引用してくださってる先生がいらっしゃったので、東京都高等学校教育研究会での講演(先日作った冊子「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」に収録)の冒頭の一部を抜き出して掲載します。スライドは以下のエントリ内にあります。

kmhr.hatenablog.com

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便利な時代になって起こったことは
 21 世紀からと言わず、たしか90 年代の半ばぐらいだったと記憶していますが、携帯電話やインターネットは爆発的に普及して行きはじめました。そしてこれからは、「いつでも、どこでも、誰とでも」好きな時間に好きなだけ繋がれる時代になって便利な時代が到来する。それは素晴らしい経験で、そんな便利な機械に囲まれた日々の中でコミュニケーションを取ることができれば、きっと我々は幸せになるに違いない・・・ってことを、当時の人々は結構本気でみんな信じていたわけです。それが2000 年ぐらいの言説です。もちろん今でもコミュニケーションが大事であることは間違いがないのですが、この頃とは様子が変わってきてないでしょうか。


 これは先週(2018 年5 月26 日)の、あるウェブメディアの記事です。 なかなか面白いところを突いていましたので、この場で紹介したいと思います。「スマフォ/SNS 時代の終焉か、シリコンバレーで動き始めた中毒性見直しムーブメント」というタイトルです。

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こちらの記事によると、米国のTween(8歳から12 歳)は1 日平均6 時間、Teen(13 歳から19 歳)は平均9 時間もSNS に時間を費やしているらしいというデータが出てきたんですね[ 図3]。これまではスマフォやSNS というのは、生活を便利にしたり新しいビジネスを生み出したりするだろうということで、基本的にポジティブに捉えられていた。でも、こんなデータを見てしまうと、さすがに如何なものかという悪い印象をぬぐうことはできない。先生方も生徒さん達の様子を見て、日々思ってらっしゃると思います。どうやらSNS はタバコやアルコールよりも中毒性が高いらしく、だんだん無視できない状態になってきている、ってのが世界中で今起こっている議論なんですね。

 

 この運動を起こしているハリス氏によると、この中毒問題は偶然起こったわけじゃなくて、意図的にIT 会社がデザインしているのではないか、とのことです。我々の「心理的脆弱性」、つまり心の弱いところを突くように作られているわけですね。それを毎日繰り返すことで、我々はどんどん中毒になっていきます。我々だって「いいね」ボタンが押されると気持ちよくなるわけです。まして子供達にはもっと影響強くて、「いいね」をお互いに押して押されてどんどん中毒になっていくというわけです。もっと褒めて、もっと認めてと。そういうわけでSNS をつくっている企業は、我々がせっせとコミュニケーションを取るように設計し、相互に中毒状態にさせ、我々はそれを受容して行動を変えていく。「インスタ映え」する場所に積極的に行くなどはそうですね。こういったことは今の時代を生きる我々にとって、非常に身近で大きな問題と言えます。
 

 その一方で、我々の身体自体はずっと昔から基本的に変わっていないわけです。「サピエンス全史」という2 年ぐらい前にベストセラーになった本があります。こちらお読みになった先生方も多いと思いますが、さすがにめっぽう面白いです。ホモ・サピエンスとしての人間の生態を歴史を追いながら説明していますが、特に本日紹介したいところは、この部分です。

 

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我々人間はコミュニケーションを取るときに言葉を使います。 言葉なぜここまで発達したのでしょうか?どうやら「言語は噂話をするために発達した」という説があるんだそうです。集団の中で生き延びるために、誰が誰を憎んでいるか、誰と誰が付き合っているか、誰が正直か、誰がズルをするかっていう自分たちの「敵」を知るために、悪い奴の情報交換するために、人類は言葉を発達させたらしいんですね。それで僕らは言葉を使ってずっと何時間も続けてうわさ話ができるようになった、とユヴァルは書いています。あくまでもそのような一説ですが、とても説得力があるように思います。


 みなさんもご存知のように、噂話というのはたいてい誰かの「悪い行い」を話題にしてますよね。あれはひどい、許せないということを相互に伝え合って不愉快な感情を共有することでお互い納得していくわけです。これがSNS と合体すると、今の社会で何が起こるでしょうか。


 この図をご覧下さい[ 図6]。

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 まず、どこかで誰が一般的に人道に反すること、すなわち悪いことをしたとします。それは本当に悪いことだったかもしれませんし、たまたま誰かがそう思い込んだことかもしれません。悪意をもったでっち上げかもしれません。そこにSNS、つまり意図的にデザインされた増幅装置が合体すると、我々は広範囲で「敵を共有」することができるわけです。この共感は我々の本能的なものなので、それにあらがうのは非常に難しい。

 

 つまり「許せない!」という拳の振り上げをずっと続けてしまうわけです。その結果、私たちは、いつでもどこでもだれとでも、無限に、そう無限に、誰かの噂話を続けるという現象が起こっています。インターネットの中でもワイドショーの中でも毎日のように炎上して、次の炎上が起こって、というかたちでうわさ話が繰り返されていますね。当事者以外の人までが「あれは酷いよなぁ」とか、そういうやりとりを延々と繰り返すはめになっています。共通の敵を持つことで、仲間になって一体感を得られるわけです。本当はむやみにコミュニケーションに浸ってないで自分の目の前の仕事をしたほうがいいに決まってます。でも中毒になっているのでなかなか逃れられない。

 

 どれだけの人が本当は必要もない情報をむさぼってよけいな正義感をかき立てられ時間を無駄にしていることか。そういう現象をよく見てみると、我々の心理的脆弱性が現れているわけですね。これが今起こっていることです。「いつでもどこでも繋がれる社会になって、初めてわかってきたこと」です。多くの人は、生産性を高めるためにコミュニケーションするというよりも、本能的な方向でうわさ話をし続ける方向に時間を費やしてしまうらしい、ということです。

 

 

「いま」を強調する理由
 こちらは藤子・F・不二雄さんのもっとも初期の漫画作品(1953)で、彼らにとっての初めての単行本の1 コマです。中々深いことを彼は18 歳の時点で描いています。「人間は何千年もかかって世の中を進歩させてきた。ところが当の人間自身はほとんど進歩しなかったんだ!」と。たしかに街や住空間はキレイになりましたしいろんな機械が発達してほんの100 年前とも生活環境は様変わりしました。あらゆるものは人間の都合に合わせて作られています。そういう意味では外側は進化しても我々自身の中が進化しないというのはまっとうな指摘だとおもいます。我々の脳は何万年もかかって進化してきたものですから、そんなに簡単には変わらないんですね。我々が理想とした、もっと幸せな時代に生きるってことは人間の都合ということをよく定義しないといけない。表面的な理想だけではなくて、我々の中にあるよくわからない部分も同時に眠っているわけです。コミュニケーション中毒を引き起こすSNS の件では、それが表面化していると言えます。

 

 だからこそ、「いま」ということを、私は強調しています。そこを真剣に考える必要があるということです。一昔前は、誰かに伝えたいことを伝えるコミュニケーションの手段ができれば、もっと社会はよくなるだろうと期待されました。ところが現実を見てみると、そう素直にうなずくことはできない。それはきっとこれからもそうなのでしょう。我々が今の情報環境を受容した結果、何が起こっているか。こういった現状の文脈を無視して、情報をデザインするためのやりかただけを語るべきではないのです。

 

 「情報を伝える」という時には、何かしら作り手側、情報の差し出し側の主観が含まれます。善意から出たことであれ、悪意から出たものであれ、恣意的な「情報のきりとり」とは切り離して考えることはできません。情報をわかりやすく伝えるということは、これまでわれわれが体験してきたように、かならずしもいいことばかりを生むわけではなく、時にダークサイドを作り出すことがあるってことをふまえつつ、我々は情報を扱っていく必要があるだろうと思います。

 

 もちろん一から十まで子供達に教えることはできないにしても、その両義性をよく知ることは不可欠なんじゃないだろうか、自分でいろいろとデザインしてみる中で玉石混淆の情報環境をサバイブするための接し方を考えていくことこそが、すべての高校生が必修として学ぶべきことなのではないだろうか、と思うのです。

 

(転載ここまで)

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ある高校の先生によると、 「誰々先生に〜〜って(ひどいこと)言われた」とクラスのグループLINEに一言発信するだけで、増幅装置が作動してすぐさま共通の敵が作られていくそうで、上に掲載した図はとてもよく当てはまるそうだ。

本当にひどいことなのかもしれないし、中には生徒側の思い込みもあるかもしれない。良い噂より圧倒的に悪い噂が弘まっていくというのは高校だけではなく大学でも社会でもそうである。その悪い噂を信じる前にそれがどんな文脈で発された言葉なのか、そういわれた側に落ち度はなかったのか、そういった多角的に見て本当かどうかの情報を判断できる思考回路が大事だよね、ということを指摘しておられた。

今の高校のクラスでの生活指導は高度になっている。自分の高校時代にはSNS無くて本当によかった。

冊子「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」を制作しました

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科研費のプロジェクトで、情報デザインの教育者に向けた小冊子「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」を制作した。A4変形の全88Pで、講演録と教材5点を濃縮して収録している。日本語タイトル、そして英タイトルの「Toward an Age When All People Do Design」や裏面コピーの「Design by Ourselves」には、最近の僕の活動を反映してみた。

 

この冊子は、8/9,10に秋田公立美術大学にて開催される第11回全国高等学校情報教育研究会(高校情報科の先生たちの全国大会)に合わせて作ったもので、高校でのデザイン教育を検討するための、いわば「たたき台」である。この会場で全国の先導的な先生達に頒布する予定。内容はかなり充実していると自負しているが、時間が足りずに昨年と今年開催した高校生向けのデザインワークショップの事例を入れられなかったのは、ちょっとだけ心残りだ。

 

#この冊子、情報科の先生方や大学のデザイン教育関係者の方々に差し上げますので、読みたい方いらっしゃいましたらお問い合わせください。大会配布分以外にちょっとだけ残り部数あります。企業の方や一般の方でしたら電子版でなら差し上げます。(一部許諾を得ていない画像があるので、インターネット公開はしません)

 

 

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冊子ができていく経緯としては、なかなか面白い偶然が続いたのでメモとして書いてみようと思う。

 

1)もともとは全高情研第9回大会(2016年8月)が専修大生田キャンパスでの開催で、僕は会場サインなどのデザイン周りをお手伝いすると同時に、先生達向けにワークショップを開催する機会があった。今の学部長経由で降ってきた仕事だったが、そこで熱心な情報科の先生方と出会い、そして情報デザインに関する学習が高校普通科で始まることを知る。

 

2)東京都のY先生に協力いただいて、研究室の学生達が高校生向けのデザイン学習教材開発のプロジェクトに取り組みはじめる。いろいろ先生達に話を聞き、対応を聞くと2022年開始の新学習指導要領実施の前に、まず教科書ができてしまうので、一人の教員が何かを提言するならその前の2017〜2018年ぐらいしか余地はなさそう、ということを知る。

 

3)2017年11月のAdobe MAX教育セッションにおいて、文科省の教科調査官の鹿野先生と一緒に機会を頂いて講演。そもそもは「興味深いセッションがあるらしいけど、この日は火曜で会議日だから行けないなー」とぼやいていたら同僚の望月先生から、「そんなもんAdobeに適当な名前で依頼状もらって学部長に許可もらえば一発じゃないですか」と入れ知恵をもらう。そこで知り合いのAdobeのMさんにメールで打診したらいつの間にかなぜか講演することになってしまった、という。(そうか、そもそも彼の一言がきっかけだったか・・・。)泥縄で準備したが、長年の蓄積を活かすことができたのと、ちょうど求められているような話だったらしく、わりと好評だった。

 

4)Adobe MAXでの講演からアップデートしたものを2018年6月に東京都の都高情研の研究協議会にて講演する機会を頂く。春から始まった科研の研究を進めるためにもちょうどいいタイミングだった。

 

5)この講演はSlideShareにスライドをあげてあるが、肝心の講演ログはない。そしてAdobeのEducation Exchangeにも映像がアップされているが、あちこち説明不足のところが多くて冷や汗が出る。何よりも1時間の講演なんてかったるくて、自分でもとても聴いてられない。というわけで、この講演をベースに学生たちの活動を追加した成果集をつくり、それを「たたき台」として配布することを思いつく。冊子ならパラパラみて面白い所から読むということができる。というわけで学生2名をアルバイトで雇って文字起こし開始。

 

 

6)せっせと加筆修正し、札幌市立大の福田先生や同僚の栗芝先生、星野先生に下読みをお願いして間違ったことを言ってないかを専門家の目からチェックしてもらう。

 

7)冊子の印刷資金は科研費から。無料配布なので、まあモノクロでいいか、と思っていた頃、偶然、別件でクリエイティブ関連商社のTooさんが来研。Too社のAさんはAdobeMAXを聞いてくださっていた。作成途中のゲラをお見せしたらスポンサーになってくださり、カラーで予定よりもちょっと多めに刷れることに。

 

8)冊子の入稿データは、全部自分でinDesign(本文)とillustrator(表紙)で作成した。なので原稿書きからレイアウトまで工程の圧倒的短縮が可能に。僕にとってはWord使うよりずっと作業早い。タイトルのフォントは凸版文久見出しゴシック(漢字)+NPGヱナ(かな)。表紙写真は、演習のTAやってくれているフォトグラファーの大池康人君が撮影した我々の学部の演習の風景を使わせていただいた。僕のやっつけレイアウトでも、彼の写真は学生達の瑞々しさが絶妙に切り取られていて、実に素晴らしい。

 

9)高校のデザイン教育に何かを提言するなら期限は2018年と言われたが、関係者が集結する全高情研にギリギリで滑り込むことに成功。

 

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スケジュールはこんな感じ。僕の発表資料より。実際、教科書作りはじまったらもう提言の余地もないだろう。このたたき台は少しぐらいは何かの出発点になるだろうか。

 

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実は僕は情報科教育向けの「たたき台」は、10年ぐらい前に一度作ったことがある。科研基盤Bの「高等学校情報科における科学的ミニマムエッセンシャルズのための教育プログラムの開発」というプロジェクトでの仕事だった。

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自分の実践を元にした「情報系学部におけるデザイン教育ケーススタディ」という冊子で、[vol.1視覚伝達編][vol.2 基礎学習編][vol.3 協調学習編]の3部作をつくった。三冊合わせて230Pほど。プロジェクト代表だった香山先生(信州大教授)が審議会の委員だったこともあり、ここでまとめたことはその後専門学科情報科での情報デザインのカリキュラム策定にも少し反映されている。

内容については、浅野先生がブログで紹介してくださっていた。

体験!情報デザインに行ってきました(2008.8.8)

情報系学部におけるデザイン教育ケーススタディ(2010.4.28)

ありがとうございます。それと当時千葉工大に赴任したばかりの安藤先生から要望されて差し上げたところ、かなり細かいところまで丁寧に読んでコメントくださったことが嬉しかったっけ。

 

自分の実践も、この頃よりはちょっと成長しているといいのだけど。

 

 

 

老子とブルーノ・ムナーリ

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何年か前に買った「老子」の思想についての解説書を本棚から取り出してみた。そういえばこの本を買ったのは、僕がデザインにおける姿勢/態度を説明するときに時々使う「柔よく剛を制す」という言葉が、日本発祥ではなくて、老子の思想だということを知ったためである。不勉強で知らなかった。老子は実在したかしなかったかもはっきりしないけれども、書籍にまとめられた言葉は2000年経った今の社会でもあちらこちらに現存している。

 「老子」のおもしろさは、次には逆説的文法が縦横に駆使されていることである。逆説とは、論理学のパラドックス(Paradox)の訳語である。

<中略>

「柔弱が剛強に勝つ」とすることは世の常識からすれば正反対である。柔と剛についてはともかくとして、弱と強についていうと、この二文字の持つ本来の意義を完全に逆転させるものである。しかしそれでいてなるほどと首肯させる説明が与えられればそこに逆説的論法が成立したことになる。

 

老子ー柔よく剛を制す」楠山春樹 集英社

 

老子には、こんな言葉がある。

生而不有、為而不恃、功成而弗居(老子 第二章)

うん、漢字の羅列で意味は全くわからない。

書き下しでは、

「生ずるも而も有せず、為すも而も恃(たの)まず、功成るも而も居らず」

となる。

これでも・・・ほとんど意味はわからない。

 

前後の文脈を含めて現代語に訳すと

世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。

だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分のものとせず、何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、それらが離れる事は無いのだ。

 「老子を英訳 第一章~第十章」

http://mage8.com/magetan/roushi01.html

 となるようだ。(太字が当該部分)

 

先の解説本にあるように、見事に逆説的な論理によって、簡単に白黒付けずに、常に流れるような柔らかい態度を持つように諭している。

 

さて、僕はなんでこの言葉を知ったかって?

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ブルーノ・ムナーリの名著、「モノからモノが生まれる」の巻頭に、この言葉がエピグラフとして引用されていたからなのだ。イタリア人のムナーリが引用しているのに、同じ東洋人の僕が意味が分からないというのは、なんだか焦らされる。自分の本に銘句として引くとは、相当に彼が大事にしている言葉だったんだろうと思う。たしかにムナーリの仕事のしなやかな態度と、老子の思想は繋がっている気がした。