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みえないものを、みる視点。

冊子「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」を制作しました

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科研費のプロジェクトで、情報デザインの教育者に向けた小冊子「すべての人がデザインを学ぶ時代に向けて」を制作した。A4変形の全88Pで、講演録と教材5点を濃縮して収録している。日本語タイトル、そして英タイトルの「Toward an Age When All People Do Design」や裏面コピーの「Design by Ourselves」には、最近の僕の活動を反映してみた。

 

この冊子は、8/9,10に秋田公立美術大学にて開催される第11回全国高等学校情報教育研究会(高校情報科の先生たちの全国大会)に合わせて作ったもので、高校でのデザイン教育を検討するための、いわば「たたき台」である。この会場で全国の先導的な先生達に頒布する予定。内容はかなり充実していると自負しているが、時間が足りずに昨年と今年開催した高校生向けのデザインワークショップの事例を入れられなかったのは、ちょっとだけ心残りだ。

 

#この冊子、情報科の先生方や大学のデザイン教育関係者の方々に差し上げますので、読みたい方いらっしゃいましたらお問い合わせください。大会配布分以外にちょっとだけ残り部数あります。企業の方や一般の方でしたら電子版でなら差し上げます。(一部許諾を得ていない画像があるので、インターネット公開はしません)

 

 

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冊子ができていく経緯としては、なかなか面白い偶然が続いたのでメモとして書いてみようと思う。

 

1)もともとは全高情研第9回大会(2016年8月)が専修大生田キャンパスでの開催で、僕は会場サインなどのデザイン周りをお手伝いすると同時に、先生達向けにワークショップを開催する機会があった。今の学部長経由で降ってきた仕事だったが、そこで熱心な情報科の先生方と出会い、そして情報デザインに関する学習が高校普通科で始まることを知る。

 

2)東京都のY先生に協力いただいて、研究室の学生達が高校生向けのデザイン学習教材開発のプロジェクトに取り組みはじめる。いろいろ先生達に話を聞き、対応を聞くと2022年開始の新学習指導要領実施の前に、まず教科書ができてしまうので、一人の教員が何かを提言するならその前の2017〜2018年ぐらいしか余地はなさそう、ということを知る。

 

3)2017年11月のAdobe MAX教育セッションにおいて、文科省の教科調査官の鹿野先生と一緒に機会を頂いて講演。そもそもは「興味深いセッションがあるらしいけど、この日は火曜で会議日だから行けないなー」とぼやいていたら同僚の望月先生から、「そんなもんAdobeに適当な名前で依頼状もらって学部長に許可もらえば一発じゃないですか」と入れ知恵をもらう。そこで知り合いのAdobeのMさんにメールで打診したらいつの間にかなぜか講演することになってしまった、という。(そうか、そもそも彼の一言がきっかけだったか・・・。)泥縄で準備したが、長年の蓄積を活かすことができたのと、ちょうど求められているような話だったらしく、わりと好評だった。

 

4)Adobe MAXでの講演からアップデートしたものを2018年6月に東京都の都高情研の研究協議会にて講演する機会を頂く。春から始まった科研の研究を進めるためにもちょうどいいタイミングだった。

 

5)この講演はSlideShareにスライドをあげてあるが、肝心の講演ログはない。そしてAdobeのEducation Exchangeにも映像がアップされているが、あちこち説明不足のところが多くて冷や汗が出る。何よりも1時間の講演なんてかったるくて、自分でもとても聴いてられない。というわけで、この講演をベースに学生たちの活動を追加した成果集をつくり、それを「たたき台」として配布することを思いつく。冊子ならパラパラみて面白い所から読むということができる。というわけで学生2名をアルバイトで雇って文字起こし開始。

 

 

6)せっせと加筆修正し、札幌市立大の福田先生や同僚の栗芝先生、星野先生に下読みをお願いして間違ったことを言ってないかを専門家の目からチェックしてもらう。

 

7)冊子の印刷資金は科研費から。無料配布なので、まあモノクロでいいか、と思っていた頃、偶然、別件でクリエイティブ関連商社のTooさんが来研。Too社のAさんはAdobeMAXを聞いてくださっていた。作成途中のゲラをお見せしたらスポンサーになってくださり、カラーで予定よりもちょっと多めに刷れることに。

 

8)冊子の入稿データは、全部自分でinDesign(本文)とillustrator(表紙)で作成した。なので原稿書きからレイアウトまで工程の圧倒的短縮が可能に。僕にとってはWord使うよりずっと作業早い。タイトルのフォントは凸版文久見出しゴシック(漢字)+NPGヱナ(かな)。表紙写真は、演習のTAやってくれているフォトグラファーの大池康人君が撮影した我々の学部の演習の風景を使わせていただいた。僕のやっつけレイアウトでも、彼の写真は学生達の瑞々しさが絶妙に切り取られていて、実に素晴らしい。

 

9)高校のデザイン教育に何かを提言するなら期限は2018年と言われたが、関係者が集結する全高情研にギリギリで滑り込むことに成功。

 

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スケジュールはこんな感じ。僕の発表資料より。実際、教科書作りはじまったらもう提言の余地もないだろう。このたたき台は少しぐらいは何かの出発点になるだろうか。

 

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実は僕は情報科教育向けの「たたき台」は、10年ぐらい前に一度作ったことがある。科研基盤Bの「高等学校情報科における科学的ミニマムエッセンシャルズのための教育プログラムの開発」というプロジェクトでの仕事だった。

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自分の実践を元にした「情報系学部におけるデザイン教育ケーススタディ」という冊子で、[vol.1視覚伝達編][vol.2 基礎学習編][vol.3 協調学習編]の3部作をつくった。三冊合わせて230Pほど。プロジェクト代表だった香山先生(信州大教授)が審議会の委員だったこともあり、ここでまとめたことはその後専門学科情報科での情報デザインのカリキュラム策定にも少し反映されている。

内容については、浅野先生がブログで紹介してくださっていた。

体験!情報デザインに行ってきました(2008.8.8)

情報系学部におけるデザイン教育ケーススタディ(2010.4.28)

ありがとうございます。それと当時千葉工大に赴任したばかりの安藤先生から要望されて差し上げたところ、かなり細かいところまで丁寧に読んでコメントくださったことが嬉しかったっけ。

 

自分の実践も、この頃よりはちょっと成長しているといいのだけど。

 

 

 

老子とブルーノ・ムナーリ

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何年か前に買った「老子」の思想についての解説書を本棚から取り出してみた。そういえばこの本を買ったのは、僕がデザインにおける姿勢/態度を説明するときに時々使う「柔よく剛を制す」という言葉が、日本発祥ではなくて、老子の思想だということを知ったためである。不勉強で知らなかった。老子は実在したかしなかったかもはっきりしないけれども、書籍にまとめられた言葉は2000年経った今の社会でもあちらこちらに現存している。

 「老子」のおもしろさは、次には逆説的文法が縦横に駆使されていることである。逆説とは、論理学のパラドックス(Paradox)の訳語である。

<中略>

「柔弱が剛強に勝つ」とすることは世の常識からすれば正反対である。柔と剛についてはともかくとして、弱と強についていうと、この二文字の持つ本来の意義を完全に逆転させるものである。しかしそれでいてなるほどと首肯させる説明が与えられればそこに逆説的論法が成立したことになる。

 

老子ー柔よく剛を制す」楠山春樹 集英社

 

老子には、こんな言葉がある。

生而不有、為而不恃、功成而弗居(老子 第二章)

うん、漢字の羅列で意味は全くわからない。

書き下しでは、

「生ずるも而も有せず、為すも而も恃(たの)まず、功成るも而も居らず」

となる。

これでも・・・ほとんど意味はわからない。

 

前後の文脈を含めて現代語に訳すと

世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。

だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分のものとせず、何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、それらが離れる事は無いのだ。

 「老子を英訳 第一章~第十章」

http://mage8.com/magetan/roushi01.html

 となるようだ。(太字が当該部分)

 

先の解説本にあるように、見事に逆説的な論理によって、簡単に白黒付けずに、常に流れるような柔らかい態度を持つように諭している。

 

さて、僕はなんでこの言葉を知ったかって?

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ブルーノ・ムナーリの名著、「モノからモノが生まれる」の巻頭に、この言葉がエピグラフとして引用されていたからなのだ。イタリア人のムナーリが引用しているのに、同じ東洋人の僕が意味が分からないというのは、なんだか焦らされる。自分の本に銘句として引くとは、相当に彼が大事にしている言葉だったんだろうと思う。たしかにムナーリの仕事のしなやかな態度と、老子の思想は繋がっている気がした。

 

 

巨匠達のデザイン態度

 デザイン態度のリサーチを初めてから、過去の偉大なデザイナー達の発言が目に留まるようになった。時折ハッとさせられる真摯な言葉ばかりなので、メモとしてまとめていきたいと思う。そんなわけでDesign Attitudeのタグを作ってみた。いまのところ記事2つ。

 

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 Helmut Schmid(1942-2018)

伝説的タイポグラファー、ヘルムート・シュミット。未だに古びないポカリスエットのロゴを作った人と言えば、一般の人にも伝わるだろうか。彼はつい2週間前にこの世を去った。彼の作品集は、Helmut Schmid: Gestaltung ist Haltung / Design Is Attitudeと題されている。

 

it is not coincidence that makes a designer but his continuity. and continuity means working and searching, working and fighting, working and finding, finding and seeing, seeing and communicating, and again working and searching. designers must challenge the past, must challenge the present, must challenge the future: but first of all, designer must be true to themselves. design is attitude.

fortunate is the man who, at the right moment, meets the right friend; fortunate also the man who, at the right moment meets the right enemy.

デザイナーがデザイナーになるのは偶然ではなく、その人の継続性である。継続性とは、働いて探索して、働いて闘って、働いて見つけて、見つけて見て、見て伝えて、そしてまたもや働いて探索して・・・を繰り返すことである。デザイナーは過去に挑戦しなくてはならない。現在に挑戦しなくてはならない。未来に挑戦しなくてはならない。しかし何よりもまず、デザイナーは自分自身に対して正直でなくてはならない。デザインは態度である。

適切な瞬間に適切な友と出会える人は、幸運な人である。 そしてまた、適切な瞬間に適切な敵と出会える人も、また幸運な人である。

(Helmut Schmid: Gestaltung ist Haltung / Design Is Attitude)

 

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 Josef Müller-Brockmann (1914-1996)

スイス・スタイルを生み出したジョセフ・ミューラー=ブロックマン。彼もまた真摯にグラフィックデザイナーの持つべき姿勢、態度を真摯に考えていた。

 

50年代末。私は自分の職業的活動をより意義深いものとするため、あらたな方針を定めた。それは造形者として一般社会に害となり得る仕事の依頼は全て断るというものである。当時、私はトゥルマックたばこの宣伝を手がけており、チューリッヒ中央駅構内の左右全面に、さまざまな社会階層の人々が喫煙する姿をモンタージュした大型の写真壁をデザインしたのだが、タバコの作付けから収穫、工場での加工、梱包までを説明する12のショーウィンドウをデザインすることで喫煙が健康に与える悪影響を知った。
(ヨゼフ・ミューラー・ブロックマン 遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 P49)

 

感情というものは、人間は十分に持っています。ことにデザイナーになろうという人で感情を持たないものはいないでしょう。だからグラフィックデザイナーに必要なのはインテリジェンスです。それを私は訓練させたいですね。[・・・]学校の使命というのは感情と同時に、考え方、態度をひっくるめたものを養わせなければいけないんで、それはある特定な作業過程を経て助長されるものだと思います。プロパガンダ(広告の意)の仕事が良いか悪いかは、考え方が決めるので、考え方というのはその作者と結びつき一体にならなければならないことです。まずそれを養うことですね。
(大阪で行われたシンポジウムでの発言1960, 前掲書P226)

 

現実にはだれもが感情と理念のバランスをとりながらデザイナーとして活動している。今も昔も感情と理念を両立させることは、デザイナーに求められる重要な資質と言ってよい。だが、肝心のバランスの取り方は個々のデザイナーに委ねられているのが常で、そのために曖昧で、不確定で、言語化されることさえ滅多にない。
グリッドシステムはこの問題に正面から向き合った、筆者の知る限り唯一のデザイン美学である。
(解題:美学としてのグリッドシステム 佐賀一郎, 前掲書P228)

 

専門学科「情報科」のデザイン重点化

今年の春に告知された新学習指導要領で、普通科の高校生も必修でデザインを学ぶ時代になるという記事を過去に書いたところ、大きな反響があった。

 

kmhr.hatenablog.com

実は情報デザインという項目は、専門学科情報科」においては、一足早く現行の指導要領に入っていてすでに独立した科目として運用されている。専門学科「情報科」というのは、いわゆる高校の普通科ではなく職能育成をねらった学科で、商業科、工業科、と同じような感じで情報科というカリキュラムが組まれているもの。全国で19校設置されている。

 

こちらも指導要領も変わるはずなので、どうなったのか学習指導要領を見てみると・・・思わず驚いた。デザインの重点化が凄い!

 もちろん沢山ある科目の一つとしてだけれども、かなり細かいところまで学ぶことになるようだ。情報デザインだけで70時間の授業(おそらく1単位35時間を2学年にわけて学ぶ)。

以下、新しい学習指導要領より当該部分を抜粋。

 

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第9 情報デザイン


1|目標

情報に関する科学的な見方・考え方を働かせ,実践的・体験的な学習活動を行うことなどを通して,情報デザインの構築に必要な資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

  1. 情報伝達やコミュニケーションと情報デザインとの関係について体系的・系統的に理解するとともに,関連する技術を身に付けるようにする。

  2.  情報デザインの手法,構成,活用に関する課題を発見し,情報産業に携わる者として合理的かつ創造的に解決する力を養う。

  3. 情報デザインによる効果的な情報伝達やコミュニケーションの実現を目指して自ら学び,コンテンツやユーザインタフェースのデザインなどの構築に主体的かつ協働的に取り組む態度を養う。

 


2|内容


1に示す資質・能力を身に付けることができるよう,次の〔指導項目〕を指導する。
〔指導項目〕

  1. 情報デザインの役割と対象
    ア 社会における情報デザインの役割
    イ 情報デザインの対象

  2.  情報デザインの要素と構成
    ア 情報デザインにおける表現の要素
    イ 表現手法と心理に与える影響
    ウ 対象の観察と表現
    エ 情報伝達やコミュニケーションの演出

  3.  情報デザインの構築
    ア 情報の収集と検討
    イ コンセプトの立案
    ウ 情報の構造化と表現

  4.  情報デザインの活用
    ア 情報産業における情報デザインの役割
    イ ビジュアルデザイン
    ウ インタラクティブメディアのデザイン

 

3|内容の取扱い

 

(1) 内容を取り扱う際には,次の事項に配慮するものとする。

  • 情報デザインに関する具体的な事例を取り上げ,情報伝達やコミュニケーションと関連付けて考察するよう留意して指導すること。

  • 実習を通して,情報の収集,整理,構造化,可視化などの学習活動を行わせるとともに,地域や社会における情報伝達やコミュニケーションに関する具体的な課題を設定し,解決の手段を作品として制作,評価及び改善する学習活動を取り入れること。

(2) 内容の範囲や程度については,次の事項に配慮するものとする。

  • 〔指導項目〕の(1)のアについては,具体的な事例を取り上げ,社会において情報デザインが果たす役割について扱うこと。イについては,情報伝達やコミュニケーションの仕組みとそこで使われるコンテンツを扱うこと。

  • 〔指導項目〕の(2)のアについては,形態や色彩とその働きについて扱うこと。イについては,造形や色彩が人間の心理に与える影響と,情報デザインへの応用について扱うこと。ウについては,対象を観察する方法と,その結果を表現する技術について扱うこと。エについては,レイアウトや配色などを扱うとともに,意味や考えの演出についても触れること。

  • 〔指導項目〕の(3)のイについては,目的を明確にしてコンセプトを決める方法を扱うこと。ウについては,コンセプトに沿った情報の構造化と表現を扱うこと。

  • 〔指導項目〕の(4)のアについては,製品やサービスの普及,操作性やセキュリティの確保において情報デザインが果たす役割について扱うこと。イについては,視覚情報の提供について考慮したデザインを扱うこと。ウについては,双方向性について考慮したデザインを扱うこと。

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おおう、こんなに体系的に情報デザインを学ぶのか。というか個人的に気になるのは、いったい誰が教科書を書くんだろう・・・。でも情報科は他にも総合的学習とか盛んなので、いくつかの科目をちゃんと専門的に教える学校が出てくればデザインスクールと呼べるものに近くなっていくのかもしれないな。

 

柏の葉高校の情報科教諭をしているM先生はうちの学部の卒業生で、数少ないデザインを専門とする先生である。彼女の話ではまだ情報科にデザインを専門で教えられる先生はとても少ない様子。この指導要領をどこまで実現できるかは悩ましい問題だろうけど、これまでの情報産業より創造性重視の人材を育成しようとする方向性は、攻めていて良いことだと思う。時間があればいつかワークショップにでも行ってみたい。

 

ブログの行き先/ 自分のメディアを持つこと

このはてなブログはバナーを消すために有料版にしている。消してブログで金儲けしたいわけではないが、請求見るとちょっと考えてしまう。やっぱり「赤」になるのは避けたい。

 

それほど真面目に書いてないとは言え、このブログはそこそこアクセスある(月に1万以上)ので、なんとかならないものかなぁ、とちょっともやもやしていたところ、以前も引用した中原先生の言葉を思い出した。

 

www.nakahara-lab.net

でもね・・・ひとつだけ違うことがあるよ
  
 出して「損はしない」んだよ
  
 インターネットというものは
「そういうもの」ぢゃないんです(笑)

 

おっと、そうだった。「情報は出すところに集まる」んだ。

いつのまにか初心を忘れるところだった。

 

¥8500払って無償で記事書いていると考えれば、なんだか出費が痛い気がする。でも、たまに面白い出会いが舞い込む機能がついた自分用のメモ用の場所を借りていると考えれば、まあそんなもんかもな、とポジティブな方向に捉えることができる。

 

NOTEは、ほどよくまとまった小綺麗な記事になっている感じが、どうも自分の書きたいものとは合わない気がする。ここはせっかくの自発的な思考を散歩させる場所なので、オチがなく、粒が揃わず、支離滅裂で、思いつきで、ツッコミビリティの高い、そんなメモの割合を増やしていこうと思う。

 

 

書籍「ワークショップをとらえなおす」でワークショップの奥の深さを垣間見る

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 慶応SFCの加藤文俊先生から新著「ワークショップをとらえなおす」をご恵投いただいた。ありがとうございます。隙間時間を利用して読んでみたところ、表題の通りのワークショップのあり方を問いなおすクリティカルな議論が展開されていて、思わず仕事を放り投げて読み続けてしまった。

21世紀に入ってワークショップはずいぶん普及した。が、この手法の体系化・形式化が進むにつれてなんだか失われつつあるものがあるのではないか、というもやもやは多くの人が感じていることだろう。


本書はそのもやもやをクリアに言い当てている。実践と理論を両輪で回して、絶えず試行錯誤を続けられている加藤先生だからこそ書ける省察的な視点で、思わずうなった。問いかけていることはきわめて鋭く、そして同時に言葉づかいはやさしく、ふむふむと読み進めながらもワークショップをやったことがある身にはグサグサとささる。

「あたりまえ」を疑い、「まなびほぐし(アン・ラーニング)」を促すための方法としてワークショップを位置づけていながら、自分の実践そのものを批判的に評価しない(評価出来ない)としたら、じつに皮肉なことである。(P27)

わかりやすくいえば、場数が増えることによって、ファシリテータがワークショップの現場に慣れると言うことだ。その結果、自分のファシリテーションのスタイルを確立して、オリジナルでユニークな方法として主張しようとふるまうのだ。場合によっては、それは他の代替的な可能性を見ようとせず、いささか排他的な態度に結びつくかも知れない。(P178)

重要なのは、ワークショップに関する考え方や方法について、自分が志向する「流派」を唯一のものだと考えないことだ。デザイナーやファシリテータが自らの個性を追求することは大切だが、同時にそれはデザイナーやファシリテータの自身の視野を狭める可能性もある。(P179)

ワークショップにかかわる「同業者」どうしのコミュニケーションは、それぞれの方法の「正統性」をめぐる「闘い」ではなく、お互いの違いを認めつつも、しばし同じステージに立とうとする「ダンス」に見立ててとらえたいものだ。(P180)

 
おおお、これは自分の態度について考えさせられる・・・。視野は放っておくと気付かないうちにどんどん狭くなっていくのだろう。

この本は、どうやらワークショップをやってみたくなる本ではなく、読んだ人に我が身を振り返らせて、ワークショップの奥の深さについて改めて気付かせてくれるような本だ。これぞまさしくアカデミアの仕事。デザイン(思考)もこの段階の捉え直しに踏み込むべきなんだよな。実践知を深めていくための素晴らしいお手本を見させていただいた気がして、大きく励まされた。丁寧に読み返そうと思う。

【過去記事再掲】学生と一緒に出演した教育映像「tunnel man」が公開

この記事は、2012年7月7日に書かれた以前のブログ記事を再掲しているものです。
 
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教育映像Tunnelman シリーズの "TunnelMan Episode 5 Permafrost history" が公開されました.2010年の夏にアラスカのフェアバンクスに滞在していた時,ちょっとしたご縁で僕と当時の研究室の学生2名と飛び入りで撮影に参加させて頂いたものです.よろしければご覧下さい.(写真は当時の学生だったO君とN君)
 

youtu.be

 

テンポが速く,ストーリがちょっと理解しにくいかもしれないけど,人類がアフリカを出たグレートジャーニーの始まりの頃からの気候変動が トンネルマンのバッジに記録されており,そのデータによると地球は絶え間ない大きな気候変動を続けてきたのだというおおまかな話.今は沈静化した感もある が,構想された2年前は地球温暖化で世界中が大騒ぎしていた.僕とO君,N君が出たのは,人類がシベリアに到達して偶然弓矢を発明した頃という設定である w


トンネルマンシリーズは,永久凍土の研究者,吉川謙二先生(アラスカ大)を中心として,アラスカのネイティブ(エスキモー)の子供達への教育を目的として作られたものだ.エピソード5まで作られ,今回のエピソード5が完結編となる.(エピソード2が一番完成度高い)(もうひとつ,ほのぼのとしたNG&未使用映像集


トンネルマンは,イントロだけ見るとチープなネタ動画と思われがちだし,実際,関係者で作っている一種の自主制作映画のようなものではあるのだが,よく解説を聞くと,非常によくデザインされた研究と地域を繋ぐ仕組みでもある.今回はその辺を少し書いてみたい.

まず前提として,普通に授業のような形式で説明すれば分かってくれる子供達ではないのこと.映像の中で扱っている内容は,アラスカ地方特有の地学の知識、例えば,永久凍土層がどうしてあるのかとか,永久凍土層の上にある氷柱の上に家を建てると,後日氷が溶けて家が傾いていくので建ててはいけないとか,彼らがそこに住み,住居を建てるために知っておかなけれなならない知識なのだけど,小さな村では,そういった真面目な話をしても,なかなか聞いてもらえないそう だ.

要するに教育困難校と同じような状態なのだが,吉川先生によると深刻な事情もあるらしい.エスキモーの生活が近代されて,従来の文化 には存在しなかったアルコールが持ち込まれたことによって,抵抗することもできずアル中になってしまう人が多いという.そしてさらに妊娠中であってもお母 さんは酒をセーブできず,その結果,生まれてくる子供達に発達上の問題がうまれてたりする,という話.(アルコールシンドローム

そんな 子供達は,彼らは黙って人の話を聞く集中力が5分と続かないようだ.そこで短い時間を出来るだけ有効に使って楽しく理解してもらおうと,吉川先生自ら謎の アメリカンヒーローに扮し,こどもたちをストーリーの中に誘う.見えにくい部分やわかりにくい部分は,CG研究者の協力を得てできる限りビジュアル中心に 説明する. そして大事なことを歌詞に埋め込み,彼らの遊びの中で覚えて歌ってもらえるように,過去のシリーズでは地元のミュージシャンによるラップ調の歌詞がつくら れたりもした.

しかしながら,吉川先生は,本業は教育者ではなく永久凍土などの極地の自然環境を研究されている方である.では,なぜ,研究者が子供達のためにそこまで情熱を注ぐのか?

吉 川先生の研究は,アラスカ(含む世界中の寒冷地150箇所)のポイントごとに大きな穴を掘って地中深い部分の温度を測定し,その変化のログをデータとして 記録するデバイスを埋め込むという,途方もなく大変な方法によるものである.その過程では必然的に地道な肉体労働が必要となり,とても一人の研究者だけで はできない.そこで吉川先生は地元の村の人々や子供達に研究の意義を理解してもらい,彼らの協力を得て,みんなで楽しく穴を掘るという住民参加型のワーク ショップ的な戦略を採られている.その一環として子供達をあつめてこの映像を上映するというわけだ.

タイムカプセルのように地中に埋め込まれたロガーはゆっくりと何十年も記録を続ける.時が経ち.やがて村の大人となった当時の子供達のおぼろげな記憶と伝承によって掘り起こされる.昔,自分の小さな村に特別に来てくれたアメリカンヒーローのために・・・.

僕はその話を聞いて感動した.こんな大きなスケールで世界の人々を巻き込んでいく日本人がいたとは.

吉 川先生は研究者でありながら,実は半端無いクラスの探検家でもある.南極点まで徒歩で到達したり,北海道からアラスカの北の端まで小さなヨットで航海して 氷漬けになったりと,とさまざまな探検のエピソードを持ち,知れば知るほど,今の日本人に,こんなタフな探検家がいたのかと驚かされる.なんといつの間に か,英語で伝記まで出版されてしまった.それだけ人を元気にさせる物語にあふれた魅力的な人だということであろう.

短い時間だったが,お会いできて良かった.想像通りパワフルでカッコいい人だった.引き合わせていただいた青木先生ありがとうございます.


以下,懐かしくなったので,当時の思い出の写真を掲載.

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吉川先生の家に早朝に集合し,朝ご飯を頂く.
アラスカのサーモンで作った手作りのイクラ!異様にうまい.
 

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訪問したのは9月頃で,アラスカは急ピッチで秋になっていく最中.柔らかい陽射しの庭にて吉川先生を囲み,しばし歓談.

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吉川邸は庭が広くて羨ましい.というかアラスカの家はどこもこんなものだけど.子ども達はサッカーを楽しんでいる.

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クルマでロケ地まで移動.いい天気.

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このへんはツンドラ地帯よりも少し自然が豊かなタイガ地帯とよばれる平野が広がっている.適当な平地を見つけてロケ開始.やおら原始人になりはじめる日本人達w


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僕も原始人に.
肌の白さとかメガネとか・・・・原始人じゃないな・・.

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トンネルマンからかわいがられるO君とN君.終始ノリノリである

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一段落して,地ビールのパブに連れて行ってもらった.

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アメリカンな雰囲気もよいが,いい汗かいたのでビールもうまい.

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夕食にはステーキ屋へ.
僕は年のせいで肉は好きじゃないので小さいのを頼んだのだが,学生2名はノリで最大のものを注文し,信じられないほど大きな肉が来たw

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もちろん食いきれるはずもなく,タッパーでお持ち帰り.そのへんは日本人にも親切だった.

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腹がはち切れるほど食べて,僕がホームステイしていたアンドレさんの家に送ってもらった頃には,オーロラがキレイだった.それはもう幻かと思うほど.

2年近く前のことだけど,今でも新鮮に覚えている体験です.
 
 
 
 
 

オリンピックのボランティアに見る「意欲」のデザイン

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今度の東京オリンピックでボランティアを募集しているという話が、悪い意味で話題になっている。

 

東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会
大会ボランティア募集要項PDF

 

そんな専門性の高い仕事を無償でやらせるのか、という非現実的な計画に多くの人があきれ、ポジティブに捉える人は見たことがない。そしてあまりの人の集まらなさに「学徒動員」がかかるのではないかとも噂されている。僕もそんな風に思っていたところ、先日、うちの研究室の学生が興味深いことを呟いていた。

 

なるほど、不勉強で知らなかったが、そんな経緯で取り入れようという話になったのか。(一般教養の「オリンピックとスポーツ」という講義らしい>サンクス)

 

こちらのページに、2014年に行われたトークイベントでの英国在住で経験者の方の話がまとめられている。

 

www.jlgc.org.uk

ロンドン五輪では、ボランティアは「あなたたちがオリンピックを作る」という意味で、”Games Maker”と呼ばれていた。ボランティアのシャツは、期間中ロンドン市内の駅や会場など各地で見かけることができた。このようにボランティアが前面に出たことがロンドン五輪の一つの特徴であったと思う。

 

ここで語られていることを読むと、今の五輪ボランティアに対する捉え方とはまるで違っていることに驚かされる。なによりも「Games Maker」という敬意をもったネーミングや位置づけ方には、ちゃんと協力者達が主体性を発揮してハッピーになるような「意欲」をデザインしようという意図を感じさせるじゃないか。

 

興味が湧いてきたので、 ちょっとググってみた。

 

London 2012 Games Maker survey Towards Redefining Legacy

Tracey J. Dickson and Angela M Benson

(Games Makerに関する調査報告:レガシーの再定義に向けて)

に当時の協力者たちによる統計データがまとまっている。

他にもいろいろサイトを回ってみたが、ガーディアン誌のこの記事が面白かった。

www.theguardian.com

Games Makerという仕掛けは、"市民は冷淡で無関心で関与したがらないもの"という捉え方を最終的に壊すことになった。まったく逆に、彼らは、サポートや励まし、適切なオファーを出すことによって、すべての年齢のすべての人々が、ポジティブかつ幸せな方法で、最も驚異的なことをすることがができることを証明した。公共機関と地域コミュニティ組織はこのアプローチから早急に学ぶ必要がある。

 

見返りとなる何か:Games Maker達は、マグライトの照明からアディダスの衣服や靴に至るまで仕事のための高品質なツールを装備し、簡潔で適切な訓練を受けていた(記事上部の写真はそのトレーニングや活動を記録するワークブック)。何よりも、彼らは何か重要で不可欠な部分を担っていると感じされられ、仕事をうまくやることができたと自覚し、満足感を得ていた。 典型的な地域参加—例えばボランティアが最終的な仕事の成果をほとんど目にしないとか、よくてチェックボックスを記入したような感覚、ひどい場合には意味のないイライラだけがが残されるような経験ーと、なんと異なっていることか。 

 

ふむ・・。 既存のボランティアから意味の転換に成功したこのGames Makerの仕組みと今回のオリンピックボランティアのお役所的な募集の仕方を比較すると、本当に成功事例の上っ面だけを取り入れようとしたんだな、ということがわかって絶望的な気持ちになる。これが運営サイドに体験価値をデザインができる人がいるかいないかの違いなのだろう。コピーするにしても、そこに大事なこととして「人の気持ち」が見えていないことが明らかだ。逆に言うと、ロンドン五輪の運営組織はさすがである。

 

もうひとつ、一概に言える話ではないけれども、ロンドンは日本よりは他者同士の助け合いの土壌があるのかも知れないな。以前の記事で、ロンドン地下鉄でのアクセシビリティの悪さの体験を書いたことがある。

kmhr.hatenablog.com

あの整備の悪さは問題にならないのか・・・という話をイギリス人に会った時にしてみたところ、「うん、良い質問だ。ちなみにロンドンでは、ベビーカー押して移動する際は、通常はバスを使う。バスも発達しているからね。だからTUBEに乗るのはよっぽどそうしなきゃならない時だけになる。ではそういう時にバリアにどう対処するかというと、"みんなで持ち上げる"と言う方法でカバーしているんだ。イギリスの男はたちは誰もが、それこそ腕に入れ墨入れているガラの悪そうな兄貴まで、階段で困っている人がいたらみんな協力する。それでちゃんと回っているんだから、それほど問題無いだろう?」というようなことを教えてもらった。

 

全ての選択肢をアクセシブルにせず住み分けさせることと、どうしても必要なら他人同士で手助けしあうというソリューション。考えてみれば、人々が協力しあうマインドによってカバー出来るのなら、人工物化するという方法ばかりが最適解というわけではない。

 

今の日本で、こんな運用ができるだろうか・・・。外側の人に冷たい村社会(安心社会)的な伝統ふくめて、「他者とできるだけ関わらずに生きないと損する」ような風潮が強まりつつある中で、自然発生的な助け合いが起こることは、正直ちょっと望みにくい。 ホモ・サピエンスの本能としての利他性が消えたわけではないんだろうが、震災の後の頃に立ち上がったようななんとか助け合おうというパワーは、いつのまにか時間と共に薄れて心の奥底に引っ込んでしまっているようにも思える。だからこそそれを引き出すようなデザインは大事になるわけだ。

 

 

まとめると、

1)ロンドンオリンピックで成功したボランティアの仕組みを取り入れようとはしたが、協力者になろうとする人々の意欲をデザインしようとする視点が完全に欠落している。

2)報告書によるとロンドン五輪ではまんべんなく多くの年代が参加しているが、「我が国の場合、多くの人々は余暇が少ないため、ボランティアに参加出来るような人はシニア層ぐらいだろうか。それに時間を割くだけの「見返りとなる何か」はあるか。今のところない。

3)ボランティアはもともと「無償」という意味ではなく、「自発的」活動である。それを演出されると最高の体験となるが、強制されると最悪の体験となる。

 

東京ではロンドンの時よりも「意欲をデザインする」条件は厳しい。しかし、そこにロンドン五輪以上の優れたソリューションを出せるような運営組織と、それを受容できる国民がいれば、ここからウルトラCはありうる・・・かもしれない。

さてどうなるか?2年後はもうすぐだ。

 

 

看護師のためのグラフィックデザイン

データ整理しているときに、偶然懐かしいものを発掘した。10年前、看護師向けの専門雑誌で「看護師の方々にデザインの力を知ってもらう」という連載記事があって、僕にバトンがまわってきた時に作ったもの。見開き2ページを使って自由に考えるという企画だった。

 

この年のテーマは「手洗い」ポスターのリ・デザイン。病院で看護師達が見飽きているだろう題材が設定されていた。意外なことだが、忙しさのあまり手洗いを忘れてしまう看護師はけっこういるらしい。そこで看護師たちがふと目を止めて手洗いに新鮮な気づきがあるような思考実験的なコンテンツをつくれ、というものだった。

というわけで、ぼくが考えたのが「プロフェッショナルなマインド」に訴えるという作戦。ここで晒してみる。

 

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左ページにグラフィックが配置。(当時ポスターのデータは出版社のウェブサイトからダウンロードして印刷して使えるようになっていた)

 

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右ページにはデザインを解説するページ。

この時には埼玉で内科クリニックを開業している医者の従兄弟に会いに行って、病院を観察させてもらったことを思い出す。彼が目の前で手を洗う時の所作の美しさに感心して、それをそのままアイデアにした。

 

そして、このシリーズは割と評判になったらしく、「次年度も是非!」となった。次の年のテーマは・・・なんと「うがい」。(そして読者は一般向けに変更された)

 

うーん、これは難しい。マナーポスターという範疇では届けなくてはならないルーズな人にこそ届かないことが多いわけで、そこにメッセージ性込めても限界がある。

ということで、さらなる変化球を繰り出す作戦。

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100均で変えるものをつかって「うがいロボ」をつくるという図解を組み合わせたネタにした。もはや真面目に答える気がないのがバレバレだ。

 

 

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解説ページはたしかフォーマット指定あったのかな。

読み返してみると、いまとあんまり考え方変わっているわけではないんだなぁ。

忘れた頃に見てみると、自分で書いたことでありながらなかなか面白い。

 

 

当意即妙!

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5月末に出版された「ビデオによるリフレクション入門—実践の多義的創発を拓く」がめっぽう面白い.

 

以前にもちょっと書いたことのあるThe Reflective Practitioner( 邦訳「省察的実践とはなにか」)という名著があるのだけど,その本の解釈ををめぐって冒頭で佐伯先生が重要なことを指摘されていたので,ここでメモを公開しておく.

kmhr.hatenablog.com

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第1章リフレクションを考える(佐伯胖)より

では,「リフレクション」はどういうときに生まれるのだろうか.ショーンによると,それはあらかじめ準備してたときに生まれるというより,突然予期せぬことに直面して「当意即妙(thinking about your feet)」ができたとき,あるいは非常に緊迫した状態で「油断無く気を配る(keeping your wits about you)」ときなど,まさに行為の最中で(「考える」ヒマもなく)生まれることもある.ここでショーンが別のところで使っていることばを付け加えるなら,「うまくいった!」「これでよかった!」という「良さの実感(appreciation)」が伴っていることもあるだろう.
ショーンは,このような「うまくいった!」「まさにコレなんだ!」という「よさの実感(groove)」が生まれるのは,さまざまなところに気を配り,なにか「気にかかること」をみつけたときであり,突然ふと思いつくこともあるという.(P14)

 

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ここで出てきた,thinking about your feet,keeping your wits about you,grooveにはそれぞれ佐伯先生の注釈がついていて(7)(8)(9).


(7)thinking about your feet・・・佐藤・秋田訳も,柳沢・美輪監訳も「歩きながら考える」としているが共に誤訳.


(8)keeping your wits about you・・・佐藤・秋田訳では「自分についての智恵を持ち続ける」,柳沢・美輪監訳では「分別を持ちつづける」とあるが,ともに誤訳.


(9)groove・・・佐藤・秋田訳では「はまり所」,柳沢・美輪監訳では「自分の型」と訳されている.本来grooveというのは強いて訳せば「のっている」状態のこと.

 

と一刀両断.まあ「thinking about your feet」は自分でも文字通りに受け取るし,そう訳すよな・・・これは翻訳者に同情する.

それにしても,ここは「リフレクション」という概念の根幹にあたる部分である.「歩きながら考える」ではいまいち腹オチしなかったところ,たしかに「当意即妙」だとそのエッセンスがよく伝わってくる気がする.そんな仏教用語を対応させるとは,なるほどさすがに佐伯先生だと感動した.

 

当為即妙:即座に、場に適かなった機転を利かせること。気が利いていること。また、そのさま。▽「当意」はその場に応じて、素早く適切な対応をとったり工夫したりすること。仏教語の「当位即妙」(何事もそのままで真理や悟りに適っていること。また、その場の軽妙な適応)から。

 

 この本はとても易しいのに深い記述が山盛り.例えば6章の鼎談.

 

"ほとんどの「学習者中心」の学習者の捉え方はレディ風に言葉で言えば三人称化されている学習者なのね.つまり外から眺めたうえで「学習者を中心にしましょう」なんてことを言っているときは,結局学習者は他人ごとですよ.そして「学習者を中心に何々してあげましょう」という,それは本当は学び手の思いということに何ら配慮のないのだよね"(佐伯) P157 

 

学習者の視点の話しはそのままデザインのアプローチにも通じる話しだ.