Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

雑草による花壇を見て考えた

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子供といっしょに歩いて居る時、ナガミヒナゲシがあちこちに繁殖しまくっていることに二人で気がついて、"悪い植物"の話になった。

 

「このお花はなぜ悪いの?」という小1の素朴な質問に、善い奴・悪い奴を人間の都合で勝手に決めるのはなんだか思考停止な気がして、いろいろ冗長な説明を試みたのだが、うまく言葉に出来ず悔しかった。

 

写真でオレンジ色っぽい花を咲かしているのがナガミヒナゲシで、白い花がハルジオンである。この狭い空き地は、アスファルト化を免れたせいで雑草が生い茂っているが、何も知識がない状態で見ると、「かわいい花が咲いているな、このスペースはまるで花壇のようだ」と思うだろう。

 

いままでも目にすることがあったであろうこのナガミヒナゲシ、今年になって急に気になったのは、本当に恐ろしいほど増えていて、囲まれている印象があったからです。ほんの少しでも土が露出しているところなら、ところ構わず大量に生えている。そんなナガミヒナゲシに恐怖を覚えたんですね。

「これはやばいのかも」

と思って調べてみたらさもありなん。危険外来種として取り扱われている、典型的な「ヤバイやつ」そのものでした。

ナガミヒナゲシが幹線道路沿いを埋める…危険外来種を超えるオレンジ色の悪魔 [エアロプレイン]

 今、ちょうど花が咲いている真っ最中なのでよくわかるが、ナガミヒナゲシは本当に都内で増えまくっていて、根にはアレロパシー(他の植物の成長を抑制する物質を出す)があるというし、しかも花が落ちた後の実には1個体につき15万粒の種子が入っているという話で、花の横に実がたくさんついているのを見ると、思わずぞっとしてしまう。

ナガミヒナゲシが道路沿いを中心に急速に増えているのは、どうやら自動車のタイヤによって種子が運ばれているということ,コンクリート付近のアルカリ性土壌を好むということらしい。現代のモータリゼーションや都市環境が繁殖することを媒介しているというわけだ。

 

一方で白い花をつけているハルジオンは、これもまたどこでも生えている草である。もともと100年ぐらい前に観賞用として持ち込まれたもので、1970年代に度重なる除草剤被曝を受けた結果、生き残った除草剤に耐性を持つ株が繁殖し日本中を席巻しているんだそうだ。刈り取りや踏み付けなどの物理的負荷にも耐性があるとのこと。不気味なほど強い草だが、気の毒なことに「貧乏草」とも呼ばれているらしい。

 

そんな知識を持って上の写真の雑草による花壇を見れば、決してのどかな状態とは言えないことが見えてくる。でも、人間によって悪者呼ばわり(侵略的外来種)されているわりには、経緯を知れば、結果的に人間社会が繁殖するのを手助けしていることは、なんだか考えさせられる。「雑草という名の草はない」というのは昭和天皇の名言だが、植物もよく見てみると、それぞれいろんな生存戦略があることに気付かされる。

 

最近、植物をちょっと真面目に見るようになったのは、実は今年の研究室で「やっかいもの外来種にもうひとつの役割を与える」ことに挑戦しはじめたからでもある。例えばセイタカアワダチソウで草木染めすると、けっこう良い感じの黄色に染まるのだ。染め物だけだと従来の小物や衣類程度しか展開できないので他のデジタル造形技術と掛け合わせることを模索しているところ。これは尊敬する若杉さん達のスギダラケ倶楽部の影響なのだが、やっかいものに違う価値を見出すには、デザインの知恵はいろいろと活かせるんじゃないか、と思っている。

 

 追記(2017.5.8)

ナガミヒナゲシについては大騒ぎするようなことじゃないという意見も多いようだ.なるほど.

togetter.com

他者によって自分を知る機会

 

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先日、3年生のPBL科目の時に、同僚の望月先生が編み出した「鏡映的自己像ワークショップ」ってものをやってみた。チームが出来てしばらくしてそれぞれの様子が見えてきた今頃に、まず、それぞれ問いの視点を決めた上で(例えばA君はどのような個性として見えているか、またA君にはどんなことを期待するかなど)を同じプロジェクトメンバー間でレビューし合う。

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次に、あつめられた情報は本人(A君、そして全メンバー)にフィードバックされる。そうして自分の長所の理解やチーム内で担うべき役割意識の形成につなげようというもの。

 

プロジェクト科目の委員長として僕は率先して自分の担当のチームに取り入れてみたのだが、学生達の満足度も高くて、短い時間ながら一風変わったチームビルディングとして役立てることができたと思う。プロジェクトの終わりにはこのシートと照らし合わせてリフレクションすることになる。

 

そういえば、この頃の学校教育ではグループワークが増え、コミュニケーション能力の重要度は昔とは比べものにならないくらいに高まっているにもかかわらず、肝心な「自分」を理解し、そのふるまいを起動修正していくためのフィードバックを得られる機会は少ない。アウトプットからは見えないことだけれども、自分の態度やふるまいなど対人関係の基盤となることを自覚することこそが、若いうちに学ぶべきもっとも大事なことな気がするのだが。年を取ると、頭ではわかっていても人間なかなか変わることはできないのだ。

 

鏡には映らない自己の姿もある。他者に自分はどのように映っているかを知り、それによって自分に見えてない自分を知ることは重要だ。人はなんだかんだで他者とのコミュニケーションによって学んでいくのだ。

 

 

"メキシコの漁師"の家族は、あの日泳いでいた魚の味を知らない

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のっけからしょうもないタイトルで申し訳ないが、"メキシコの漁師"のコピペをご存じだろうか。「人生の目的ってなんだっけ」ってことを語るときによく引き合いに出されるアレである。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。
すると漁師は 「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた・・・。

有名なアメリカンジョークなのでこれ以上の紹介は控えるが、全文はこちら。 オチを全部言わず巧妙に行間で見せていることもあって、旅行者の提案が浅く,漁師の呑気な態度の方が真理に感じられると思う。結局、日常の喜びは同じようなところに帰ってくるのだ、楽しみを削って仕事して成功して大金持ちになったところで何の意味がある、というようなシニカルな寓話として世界中に伝播したわけだ。

 

僕はビジネスで成功することには別に関心がないが、この小話が言うように堂々巡りなのか、だとしたら我々は何のために経済発展しようとするのか、なんだか言葉にならないもやもやを感じて、それが何なのかをずっと考えていた。

 

この漁師と旅行者のやりとりには、決定的に抜け落ちている視点がある。前提となっている漁場という「環境」をどう捉えるかで、大きく意味は変わるのだ。漁師の仕事を人間の営みだけで成り立っていると解釈すると、結局は「海辺でエンジョイする経験」として同じになるのかもしれない。

 

「環境が常に変わらない」ならば。ところが自然界は、長期的なスパンで刻々と姿を変えていく。

 

http://img.nihonseiji.com/policy/33-2.jpg

引用:漁業 - 日本政治.com

例えば日本の魚はたったの20年で半減以下。これは乱獲だけが理由ではなくて、魚というものはいろんな要因で周期的に増えたり減ったりするものらしい。

 

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引用:マイワシのあれこれ神奈川県水産総合研究所

 

例えばマイワシとカタクチイワシは、近年だけでも交互に激しく増減している。

 

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ついでに、地球も長期的に気候変動している。近年だけで温暖化しているように見えても、ずっと人間にとってちょうどいい気温で安定してきたわけじゃないのだ。そして最近では、地球は新しい地質年代Anthropocene(人新世)の時代に突入しているという議論も盛んになっている。

 

視点をちょっと引いてみることで、漁業というのは人間の仕事と言うよりは自然の恵みに因っていることがわかるだろう。したがって、この漁師がずっと同じように安定して魚がとれるかは、けっこう疑わしい。

 

だから僕がこの会話に立ち会ったならば、「明日も同じように魚がとれると信じきって呑気に遊んでばかりじゃなくて、養殖する方法ぐらいは試してみなよ。君が老いた後、君の家族がここで魚を食べて酒飲むことができるように」ぐらいは言うだろうな、と思った。

 

人間を探している

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Diogenes:  Jean-Léon Gérôme (1860)

古代ギリシア時代の哲学者ディオゲネスのことをふと思い出した。彼の奇妙な言動は不思議と僕を惹きつける。ディオゲネスは人々に「犬」と呼ばれた。実際に野良犬のような生活をおくり、大きな酒樽の中に住んでいたといわれる。また白昼にランプを灯しながら街を歩き、人々に何をしているのかと問われて、「人間を探しているのだ・・・」と答えたという。まさに奇人。

いろんな解釈ができるだろうが、僕はこのエピソードに、「役に立たないこと」や「一見意味がないように見えること」に対する人々の反応の中にこそ、人間らしい姿が見える、という風に解釈した。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Diogenes_Jordaens.jpg/1280px-Diogenes_Jordaens.jpg

Diogenes Searching for an Honest Man: Jacob Jordaens(1642)

こちらの絵ではもっと露骨だ。周囲をよく見れば彼の姿を見て、嘲笑する人、考え込む人。

 

白昼にランプ、という取り合わせが可笑しいことはわかっても、ランプという小道具によって今の状況が意識化されたことに対しては、なかなか気付けない。 

 

昼に見えるものと、夜に見えるものは違う。そこで前提になっていることを明らかにしないことには、目に見えることに目を奪われてしまい、光の存在も影の存在も意識化されないままである。見えないものを見るためには、対極にあるような状況や立ち位置を通して見てみることが大事だろうと思う。今の時代に、デザインについて考えるならーまして人間中心を標榜するならーば、その「人間」をどのように捉えるかをより真剣に問わなくてはならない。

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On being asked what he had gained from philosophy, Diogenes replied, "This at least, if nothing else -- to be prepared for every fortune."

 (哲学から何が得られたかと問われて、ディオゲネスは、「他に何もないとしても、少なくともどんな運命に対しても、心構えができているということだ」と答えた。

 

 

 

 

 

 

手探りの中で交錯しあう経験

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先日、グラグリッド社で即興劇のワークショップ実験が行われた。

経緯はこちら。Lab|glagrid :サービスデザインのプロトタイプツールとしての即興劇「フォーラムシアター」

尾形さんの記事にあるようにサービスデザインの方法として「即興コメディ」×「フォーラムシアター」の可能性を探るものだったのだけど、関係者一同はっきりとした輪郭が見えている訳じゃないので、何はともあれ試して見てから考えようじゃないの、ということになった。

 

それぞれの専門的な視点がぶつかりあいながら、ダイナミックに動いていく場に居合わせるのは、何度経験しても刺激的なことだ。インプロの場合は事前にシナリオも計画できないわけで、その場その場ではなかなか余計なことを考える余裕はない。事後的にみんなで議論したところ、それぞれ何層かはメタに上がりながら考えていく必要があって、フォーラムシアター自体はとても面白いんだけども、ライブ過ぎることもあって発想の着眼点を見つけるのはなかなか難しいことはよくわかった。

 

即興コメディ協会のみなさんの専門性はさすがであった。瞬間的に笑いを生み出す頭の柔らかさがうらまやしい。

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後ろには、グラレコ隊。今回の実験は通常の講演とは比にならない、まったく先の読めないものなのに、ごく自然に視点を分担しながら描き進めていた。刻々と変わるダイナミックな状況を一枚の紙の中に変換できるこの方々もさすがである。

省察的実践者の教育

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多くの人が知る"リフレクション"という言葉の理論的背景となった,ドナルド・ショーンによる記念碑的名著,The Reflective Practitioner. 邦訳としては「専門家の知恵-反省的実践家は行為しながら考える」(2001)が知られているが,この本は部分訳だったので前半と結論の概念部分しか収録されておらず,説得力のある事例研究は全部バッサリとカットされていた.そのカットされていた部分を含む全文訳として刊行されたのが右側の「省察的実践とは何か」(2007)である.結構なボリュームで400ページ超.

 

だが,実はこの本は前半部分に過ぎず,「対」となる後半の本がある(もともとは一冊の本として構想されていたらしい).前半でReflective Practitionerという概念を提示した上で,後半の書籍ではそういった人材をいかに育成していくかの理論がまとめられた.それがEducating the Refrective Practitionerである.あまり知られてないが最近ついに日本語訳が刊行された.左側の「省察的実践者の教育」(2017.2)がそれである.(なぜかamazonでの取り扱いがなく,僕は紀伊國屋書店ウェブストアで購入)

 

こちらは,さらなるボリュームで,500ページ超.こんな大著を読むのは日本語でもきついが,ざっと見てポイントが拾えるだけでも有り難い.届いたばかりでまだ読んでないのだけど,おお,目次読むだけでもこれは自分にとって(たぶん他のデザイン教育者にとっても)まちがいなく重要な本だ.

 

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メノンと同様に.デザインを学ぶ学生は,何かを探求しなくてはならないことは知っていても,それが何であるかを知らない.そのうえ,学生は〈行為の中で〉デザインを知るようになるという意味で,デザインを学ぼうと努める.しかし最初はデザインを見ても,学習することも認識することもできないでいる.そのため学生は自己矛盾に巻き込まれる.「何かを探求すること」は,探求する対象を認識する能力があることを意味するが,学生ははじめ探求の対象を認識するだけの能力が欠けている.教師も同じような逆説に巻き込まれる.彼は説明するための言葉をもっているにも関わらず,学生に何を知るべきか伝えることができない.というのは,学生がその時点では教師を理解しようとしないからである.(P117)

 

"それは私たち二人の間のある種の契約でなければならない.教師は挑戦に対してオープンでありつつ、彼の地位を守ることができなければならない.一方学生の方では,教師に提案の機会を与え,そしてその提案を試して見ることができるように疑惑を進んで一時停止しなくてはならない.もし学生の側で実際にコトにとりくむ前に十全な根拠付けや説明を要求したならば,それに取り組む効果があらかじめ回避されてしまったり,あるいは台無しになってしまうような,そうした学習のプログラム的な構想を教師の側が持っているということを進んで信じなくてはならない.よい学生は,疑惑を進んで一時的に停止することができる."(P129)

 

 ビビッときた方.この本の読書会やりましょう.

 

目的と手段の幸福な取り違え

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春に頂いた本シリーズNo.2. 「市民参加の話し合いを考える」村田和代 編 (2017.4.3発売).共著者の福元和人さんからご恵投頂きました.ありがとうございます.

本書は,龍谷大学地域公共人材・政策開発リサーチセンターの研究成果で,「話し合い学をつくる」という構想のもとで生み出されているそうだ.本の概要は以下の通り.

まちづくりの話し合いやサイエンスカフェ、裁判官と裁判員の模擬評議など、専門的知見を持たない市民と専門家が意見交換や意思決定をする「市民参加の話し合い」を考える。話し合いの場で行われる言語や相互行為に着目したミクロレベルの研究から、話し合いによる課題解決・まちづくりをめぐる話し合いの現場での実証研究や話し合い教育をめぐる研究まで。「市民参加の話し合い」の現状と課題について学問領域を超えて論じる実証的研究論文9本と座談会を収録。

この書籍で,研究報告のトップバッターとして福元さんが執筆されている.福元さんは対話ツール「カタルタ」の開発者として知られるが,この一連の対話ツールは実は鹿児島から発信されている.地元繋がりで以前から親近感があったのだが,4年ほど前,上京された際にお会いする機会があった.

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渋谷のスペインバルでワインを飲みながら,たいへん濃い議論をしたことを思い出す(2013年2月).写真はその時に見せてもらった,ラブな対話を引き起こす変化球ツール「LOVEカタルタ」.その夜,僕は楽しく酒飲んだことしか覚えてないのだがw,福元さんはその日に議論した内容をとても大事にしてくださっていて,その後の理論化にもつながっていったそう.そういう経緯で謝辞にも僕の名前を挙げてくださっていた(汗).感謝.

 

さて,収録されている福元さんの論考「対話を活性化するツール」のチャプターは大変興味深かった.カタルタを通して起こっていること,開発過程の試行錯誤の裏話は,さすがに人生かけてずっとこのツールと向き合って来られただけあって,とても深い.特に「目的と手段の幸福な取り違え」という概念に共感した.

これらの例に見るように,語り手は意識の中で優先される目的に引っ張られるようにして,本来なら同時に満たそうとする別の目的を疎かにしてしまうことがままある.その際,手段に過ぎないことの精度を追求した結果として,意図せず望ましい結果を得ることが起きる.普段の思考から外れ,意識の持ち方がずれることで,目指した目的に紐づく結果ではない,また別の望ましい結果を得るのである.問題は,結果が吉と出るか,凶とでるかである.

(p.40 強調は引用者)

 

人間は必ずしも事前のプラン通りに目的を達成していくわけではない(たとえばSachman1999).その意味で僕自身も,偶発的なきっかけを生む環境や,強制的な視点チェンジを起こす道具立ては重要であると思っていて,いろいろヒントになる. "かたちから入る"ことも,(真面目な人は許容できないかもしれないが)結果的にいいパフォーマンスになるのなら,そういう動機付けの効果は考慮していいのではないか.

 

カタルタは,使い手が考案したものを含めるとなんと70通り以上の使い方があるという.こういう開かれた道具を作れるように自分も頑張ろう.

 

www.excite.co.jp

 

 

ラーニングフルエイジングとは何か

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新刊「ラーニングフルエイジングとは何か—超高齢化社会における学びの可能性」,編著者の森さんからご恵投いただきました.ありがとうございます.

本のコンセプトは,

死ぬまで学び続け成長する存在として高齢者を位置づけ、高齢者特有の学習課題に焦点を当てる。そして、多様な高齢者像の視点に立ちながら、高齢者の学習にはどのような方法をとりうるか、国内外の豊富な取材事例と、研究者・実務家との領域横断的な議論によって探り出す。

とのことで,森さんが創り出した"ラーニングフルエイジング"という新しい概念について,さまざまな分野の専門家が参加して多角的な議論を行っている.学校の外において,人間は加齢と共に如何に学んでいくのかについて,クリアな軸が通っているところがさすがだが,特に誰もがいずれ考えなくてはならない「死への向き合い方」まで踏みこんでいるところが素晴らしい.

人が死を意識するとき,それは生きる意味を考える良い機会ではないでしょうか.しかし,人という目線だけで,あるいは宗教や従来の哲学で,人は生きる意味を見出すことができるのであろうか.私には自然科学が証明してきた真実を無視した物語では生きる意味を見出すことは出来ない.<中略>

人という個体から遺伝子に目線を移すと,私は「人はなぜ死ぬのか」という問いの答えをはっきりと感じ取ることが出来る.

第5章「がんと生きる」岩瀬哲 pp.94

 

ところで,実はこの本,僕もほんのちょっとだけ取材に協力したことを思い出した.森さんがコペンハーゲンまでGive&Takeプロジェクトの調査に来られたので,代表者のLoneへのインタビューをセッティングしたのだ.取材されたことは,「多世代共創社会に向けたワークショップ」(森さん執筆の第10章)の海外の実践事例部分として紹介されている.Loneたちの取り組んでいた考え方や方法が.日本語の書籍に残ったのは嬉しいことである.忙しいLoneがたっぷり時間取って対応してくれたことは僕としてもとても有り難かった.

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 Loneに取材する森さん(2015.11.6 IT University of Copenhagenにて)

 

共著で本を書くと,どうしてもまとまりが悪くなりがちだ.でもこの本では軸となるコンセプトを明確に打ち出していることで,逆に共著の長所として議論の幅の広さが生まれていることがよくわかる.情報を編集する視点として勉強になった.まだ時間がとれずちゃんと読めてないが,他の章も読み込んでみたい.

 

ギブすることから始まる

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3/26(日),調布のこども食堂に行ってきた.最近こども食堂が急速にあちこちで広がっていて関心をもっていたが,なかなか行く機会がなかった.場所は京王線布田駅近くの公民館のようなところ.

 

15時半頃に開始.こどもたちが徐々に集まり始める.雨ということで(?)スクリーンを使ってDVD上映.

 

その間に,ボランティアのみなさんが調理開始.みなさんで手分けしていろいろ凝ったトッピングをつくっているが・・.

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なんと,いろんな動物の形で盛りつけされている!

ずいぶんかわいいカレーができた.こどもたちも大喜び.

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こどもは無料.おかわりして腹一杯食べられる.小さい子にはボランティアのおばあちゃんが会話しながら一緒に食べている.

 

多世代が交わるコミュニティがとても興味深かったので,一気に取材モードに.主催者の方々にいろいろ聞き込んだのでメモ.

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・こども食堂の発祥時の定義は,「こども食堂とは、こどもが一人でも安心して来られる無料または低額の食堂」。 だが,普及していくにしたがって今ではさまざまなスタイルがあり,10箇所有ればたぶん10箇所ともやっていることは異なるのではないか,とのこと.紹介して頂いた記事(湯浅誠氏)によると,大きく「共生型」と「ケア型」の類型がある.

news.yahoo.co.jp

・こども食堂のノウハウを広めるために,草の根的にネットワーク化されていて,全国の運営者たちによってこども食堂サミットってのも開催されている.

 

・ちょうふこども食堂は,「居酒屋はまどおり」の店長,T氏によって昨年から始められた.月一開催ペースの開催で,この日で11回目.約1年続いていることになる.

 

・T氏は震災を機に会社を辞め,福島の食材を応援するための「居酒屋はまどおり」を開店.さらにその売り上げをなんとかして地域社会に還元できないか,を考えている折に,こども食堂のことを知り,はじめてみることにした.

 

・最初は自分の店でやっていたが,だんだんこどもたちが集まりすぎて入りきれなくなったので,近所の公民館を借りて運営することに.食材や調理場所は店のものを流用するなどして費用は一回の開催経費は1万程度.(そのうち,公民館を借りるのに数千円かかっている)

 

・こども食堂は,T氏のほか,お店の常連で主旨に共鳴したO氏,お店でアルバイトしていたSさんを中心にしたコミュニティで運営.なんとSさんは専大の学生.彼女経由で手伝いにきていた学生数名はみんな専大生(!).

 

・こども食堂を続けているうちに,「力になりたい」という高齢者の方もたくさん現れ,子供・大学生・高齢者など,自然に多世代交流の場になってきた.親子でボランティア参加している例も.こどもたちのリピート率は高い.

 

・ボランタリーな組織で持続性をつくるのはとても難しいし凄いことなのだが,出来る範囲ということを意識していて,無理なことは絶対にしないからこそ続けられている,とのこと.

 

・食に関わるリスク回避の声にはどう対処しているのか,という質問には,店で安全に調理していることをアピールするとともに,アレルギー対策は申込時にしっかりしている.アレルギーのある子には別メニューをつくたりもしている.それ以上のネガティブな意見には「どこかで押し切るしかない」.

 

・なんで居酒屋にそんなコミュニティがうまれるんだろ,と不思議だったが,「はまどおり」は店の成り立ちから福島の復興支援という名目があるので,そういう社会性に感度の高いお客さんが自然に集まるようだ.

 

・お店でもお客さんからこども食堂の運営の寄付があつまっているそう.例えばワリカンを切りの良い数字にしておつりを寄付に回す,というのは気軽にできそうですよね,と僕が思いつきのアイデアを言ったら,そんなことをしなくても「これ,こども食堂につかってください」とポンと寄付してくださることもあるようだ.寄付する側としても,使途がよくわからないものにはイメージがわかないが,目の前の人が実践している活動であれば応援したい気持ちもより自然に湧いてくるのだろう.

 

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一通りお聞きしてみて,コミュニティの源流が,T氏の自発的な思いから始まっていることがとても印象に残った.本人は「そんなに難しくない,だれでもできますよ」と謙遜していたが,最初に行動し,動きを作ること,それが難しいのだと思う.最近デザインと「贈与」の意味をずっと考えていたのだが,肩肘張らないT氏の活動はいろいろと示唆的だった.まず自分がギブすることで,何かが始まり,人と人の関係が生まれていくのである.

Adam Grantのgiverの話を思い出した.