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Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

トークイベント「デザイン思考"以後"とクリエイティビティの行方」開催報告

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2月24日(金)、東京ミッドタウン・インターナショナルリエゾンセンターにて「デザイン思考"以後"とクリエイティビティの行方」を開催した。プレミアムフライデー初日ながら、勉強熱心な方々約60名に集まって頂いて大変熱気のあるイベントとなった。

 

そもそもの発端は、3ヶ月前に遡る。11月下旬に書いた「デザイン思考の今後」という記事が多くの人にシェアされて(トータルで10,000viewは行ったと思う)、意外にみんなこの話題に関心があるんだなあ、と気付かされたことと、この記事にGKの柴田さんが手短なコメントを下さったことである。

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ここからいろんな人に構想を話しているうちに、いつの間にか第一線の話題提供者および気鋭のヴィジュアルファシリテータの内諾を頂き、会場は日本デザイン振興会から東京ミッドタウン中にある品位ある場まで提供して頂く、という多くの方々の援助を得て、あれよあれよと運良くも実現に向かって進んでいった次第。チケットも速攻で完売し、なんとか開催まで漕ぎ着けることが出来た。

 

僕自身の問題意識としては、「デザイン思考」という言葉に特別な思い入れがあるわけでなくて、イベントの開催概要に書いたように、概念ややり方を得たことで安心していないでどんどん自分たちでアップデートしていかなきゃいけないはずのに、その辺を共有したり議論したりする機会が(少なくとも自分が)少ないということだった。あまり知られていないが、デザイン思考という言葉は、世界では地域性を取り入れながら独自に解釈されている。(例えばTakramの佐々木さんが書かれている「シカゴ派のデザイン思考」、 北欧の「Design Thinking (Democratic Design experiments)」など。両者とも、もともと育んできた地域の文化と融合していることがポイントだ)翻って日本の場合はどうなんだろう?本場のやりかたを有り難がるよりも、間違いを恐れずに自分たちの文化の中で受容して、そこで新しく解釈して言葉を生み出していくことが大事なのではないか、ということを時折考えていた。そういうわけで、そのヒントを得るために、自分が参加したいイベントを自分で作ったということになる。

 

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話題提供者1:武山政直先生(慶應義塾大経済学部教授)「政策および公共サービス改革へのデザインアプローチ」。サービスデザインはビジネス分野から公共分野(パブリックセクター)に拡がっており、政策決定プロセスという抽象的なものにデザインを積極的に活用していく欧州での取り組みを紹介して頂いた。

なかでも英国のPolicy Labの事例が大変興味深かった。大規模な政策をいきなり運用するのではなく、切り出したコミュニティの中で実験や学習を行い、実行のループに移行していくというアプローチを、デザイナーが主導してデザインしているそうである。先にプランを決めてしまわないで反復しながら探索していく、というのは予期できないやっかいな問題を進めていくためには重要な姿勢である。

Applying Design Approaches to Policy Making: Discovering Policy Lab. University of Brighton , Lucy Kimbel

(リンク先のレポートPDFはグラフィックデザイン的にも大変面白いので必読) 

Policy Lab uses an approach and expertise based in design to help the policy community explore and develop new capabilities in generating and interpreting early-stage insights, engaging with delivery partners, specialists and stakeholders, and closing the delivery gap between policy intent and outcomes.

こういったデザイン主導の考え方は、日本の行政ももっと真剣に考えなければならないことだろうし、ついでに立案の関与者だけではなく、失敗は絶対に許されないという社会的な圧力はもっと問題である。共有ボードのコメントに書かれた「何もしないことは後退であり、多少の失敗は学びで進化に必要なプロセスという文化が求められるように思います」というのは正しくその通りだと思う。

 

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話題提供者2:柴田厳朗氏(GKリサーチイニシアチブ取締役)「異邦の鳥・野生・その他」。文学的なタイトルで内容がさっぱり読めないことが個人的にツボで(笑)大変楽しみにしていたが、今回のイベントの問いに真摯に応えて下さって大変刺激的なトークだった。柴田さんはスライドを共有して下さったのでリンクする。

 

speakerdeck.com

当日のアンケートでも反響が一番大きかったのだが、われわれが聴き入ったのは漠然と思っているようなことを次々と言い当てていくようなコンテンツに加えて、語り口も大きかったと思う。長年デザイン業界にいらっしゃる経験や幅広い教養をもとに、思索を重ねられていることがよく伝わってきた。デザイン思考も長い歴史を参照してみれば取るに足らない概念だし、人の観察や共感でわかる「不満」なんてものはほんのちっぽけなもので、その水面下には膨大なことが埋め込まれているという指摘はその通りで、表面的なデザインワークでは問題点をすばやく解決しようと急ぐあまりしばしば「無いこと」にしてしまうが、(素人もプロも)その厚みをよく考慮する必要があるはずだ。

 

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話題提供3:佐宗邦威氏(株式会社ビオトープ代表取締役) 「ビジネスとデザインの交差点の先にみえてきたもの」。デザイン思考と言えば、佐宗さんは大きな存在感を放つ人。多忙を極めており、基本的に講演の類は受けていないとのことだが、今回のイベント主旨に共鳴して下さり、かなり無理してお越し頂いた。

さて、佐宗さんの著書「21世紀のビジネスにデザイン思考が必要な理由」はベストセラーにもなっているが、執筆を終えた時には著者はもうそのテーマからは卒業している、というのはよく聞く話。佐宗さんもやはり「"創造的問題解決"と言ってきたけど、今やっていることには合っていない」と認めていた。顧客視点から事業を始めたが、現在経営者視点で組織風土開発を中心に手がけているきっかけとして、岡田監督(元サッカー日本代表監督)とのお仕事での出会いと岡田氏の語る言葉に感銘を受けた経験を挙げられた。一般の人々の持つイメージを脱ぎ捨てて大きく取り組みを変えていることが印象深かった。

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 ここで軽食。ドリンクとサンドイッチ、フリートークで気分転換。

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 第二部のディスカッション。申し込みされた方々のリストを眺めながら、ここまで面白い方々がたくさんいらっしゃるのだから、話題提供者のパネルディスカッションではなくて、いろんな人にマイクを振りまくっていこうと決めた。富田さん、佐宗さんと相談しながらシートをつくり、来場者のみなさんから事前に集める。1枚名は「デザインに対してもやもやしていること、物申したいこと」など。2枚目は、「"これまでのデザイン"と"これからのデザイン"」に関する持論のキーワードを書いたもの。多様な回答が集まって見応えがある。これをもとに来場者を含めて議論していく、というものである。そして、ある疑問に対してもっとも適切なコメントをするであろう人をピンポイントで指名したりしながら、無理矢理進めてみたけど、結果的には僕の司会力不足で撃沈。そもそもこの多様な話題をまとめるのは無理があるが、発言者の話を聞きながら次の内容を同時進行でさばくのはとても難しかった。でもみんなが今何を考えているのかが見えたのは、自分で主催したからこそというか、大きな収穫だったと言える。

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 この日の話題提供、議論、参加者のシートなどの全記録は、東海大富田研究室によってリアルタイムで記録された。6名のカーソルがミツバチのように飛び交い、記録されていく様子はなかなか壮観だった。(記録はちょっと文脈が途切れているところもあるので、データは一般公開はせず、来場者のみの共有となります。読みたい方は富田先生にお問い合わせ下さい)

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 最後はフリートークとネットワーキング。

反省点ばかりであるが、みなさん大目に見て下さり、なんとか盛りあがってよかった。こういうイベントは普段の行動範囲では会わないような人と出会えることも魅力の一つである。(内閣府経産省の方も来られていたので、武山先生はじめこの場に集ったデザイナー達のネットワークも霞ヶ関へと繋がり、新しい接点が生まれることも期待したい)

 

長くなりましたが、最後に。いろんな人から「まとまってないから、是非続編を!」との叱咤激励を頂きましたが、続編は考えていません。次にまたなにか新しいネタがある時に企画を考えたいと思います。参加者のみなさま、関係者のみなさま、ご協力ありがとうございました。

 

過去の上平企画のイベント

vol.1 DESIGN GAME from Denmark to Japan ( 2013.2.2 コクヨ)

vol.2 Sociology meets UX モバイルUXを分析するWS  ( 2013.9.11 ロフトワーク)

 

学内の古本市に行ってきた

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22日のお昼休み。9号館のアトリウムで、古本市が開催されているというので行ってきた。定年退職される先生方の蔵書は、大変貴重なものも多いのに例年廃棄処分していたのだが、今年から、学生および一般の方々に無料で配布するという試みを始めたようだ。

 

これは素晴らしいアイデアだと思う。まず、もらう側は無料で自分の欲しい本をゲットできれば嬉しいし、先生としても役立ててもらえる方が嬉しいだろう。次に、大学としてはどんどん持って行ってもらった方がコストは減る。大学からでる廃棄物は事業ゴミなので、処分するのは決して無料ではないのだ。そしてその催しに「古本市」という名前を付けるだけでなんだか文化的な雰囲気がしてくるから不思議である。

 

今年退職される先生方は、歴史・哲学・文学・法学・商学経営学などの分野だそうで、眺めていてなかなか面白かった。

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僕の戦果はこれ。読みたいものだけもらってきた。ハーバート・サイモンの「意思決定の科学」とか、マット・リドレーの「赤の女王」とかの名著を発見して嬉しかった。なんの価値があるのか、と思われるかも知れないが、例えば「意思決定の科学」の古本の値段はプレミアついてAmazonでは¥13,000〜¥50,000もする。それだけ欲しがる人もいるということで、「目利き」は知識だ。

www.kanaloco.jp

かたちから入る方法

デザイン教育 グラフィックデザイン

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PBLの勉強会で写真を整理していたら、今年の2年生の演習の荷物棚の写真を見つけた。チームごとに割り振られた棚の前に貼ってあるポスターは、「チームフラッグ」と僕が勝手に呼んでいる簡単なワークによるものである。

 

チームが作られても最初のうちは学生達はなかなか打ち解けにくい。そこで学期の最初の週、チーム結成直後にアイスブレイクのために出している課題である。映画「七人の侍」を参考に、全員で統一ビジュアルを考える。そして一人一人別々に撮影してPhotoshopで合成する。それほど時間はかからないので初対面同士でもわりと和やかに進めることができる。

 

今風の言い方をすれば、バンドの「アー写」というやつに近いのだけど、計画的に同じ画面に配置されると不思議とみんな役割を持つ仲間に見えてきて、繰り返し見ているうちにそのヴィジュアルはいつのまにか自分たちが集う「旗印」の役割をもつようになる。

 

また、こんな風に1箇所にまとめて掲示して共有することで、全員の写真名簿にもなり、名前と所属チームを覚えられる。そして演習全体での一体感も醸し出される。外から見ている人達だけでなく、自分たちも実際にはそんなことなかったとしても、眺めているうちに「おお、なんだか楽しそうなチームに見える・・・」と錯覚してくるという、かたちから入る方法だ。

 

元ネタは、2010年にアラスカのスーパーマーケットで見たスタッフ表。機嫌悪そうなおばさんまで一体化して燃えているように見える。

グラフィックの力っては、けっこう凄い。

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Fairbanks, Alaska, USA 2010.09

子供向けプログラミング教育に思う

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次期学習指導要領(2020年開始)では、小学校からプログラミング教育が必須化するそうで、僕の所属する情報学部でもいろんな方向から議論が活発に交わされている。早いなと思われるかも知れないが、先進国はどこもすでに積極的に進めていて日本はかなり対応が遅れている状態と言っていい。僕自身もこの問題については関心があるので、子供と一緒に勉強会を始めた。

目的は3つあって、1)子供の学習、2)それの参与観察、3)僕自身の学習である。今半年ほど経過して、Viscuit→Scratch lite → Scratch と進んできたところ。Scratch lite がもの足りなくなってきたようなので(インタラクティブなものをつくるには機能に限りがある)、年明けぐらいに小学生向けのScratchに変えた。Raspberry Piとも繋げてみようかとおもったが、まだちょっと無理があるといった感じの習熟度合いだ。

 

というわけで、進めてきた様子と感想を。

基本的なルールはそれほど難しくないので、隣に使いこなしている人がいれば、見よう見まねでおなじように組み合わせて作っていくことは、だいたい出来る。XとかYとかマイナスとか演算とか難しい概念はよくわかってないので代わりに入力してあげたりもする必要はあっても、自分で変えて遊んだりしながら、それなりに自力で命令を組みあせて書いていくことはできてしまう。

しかしながら、お手本通りのことができても「そこから自分でどんなことをするか」を構想していくことの方がずっと難しいようである。操作を覚えるより目的をつくるほうが難しいというのは、大学生の場合(うちの学部の1年生向けの演習)でも同じ傾向がある。工作のときには、自分で「こういうものをつくりたい」という発想はわりと出来ているので、経験が浅いうちはコンピュータにやらせることのイメージが繋がりにくいのかも知れない。

 

そういうわけで、半年経験してみて、こどもたちにプログラミングを教えるという試みは、このままでは結構悲惨なことになってしまうんじゃないかな、と心配がわき上がってきて仕方がない。

 

1) うちは情報学部だし、それなりに覚悟して入って来ている学生が多くて学部でもかなり教員リソース割いてプログラミング教育に力いれているけど、それでも半分ぐらいは挫折してしまう。全ての小学校で必須にしていくというのは、どういう到達目標を設定するのだろう。まさかとは思うが、参考の問題をもとにいくつか「書いてみる」ことや「書けるようになる」をゴールにするのだろうか。

 

2) ゲーム開発や電子工作、ものづくりなど、心からトライ&エラーを楽しむこととセットであつかうならば、大きな可能性があると思う。ただ、それは、学習者がそれぞれの個別の関心の方向に向かっていくことや、失敗や挑戦を奨励していく必要がある。高度に発達した学びは、遊びと見分けが付かない。ワークショップなら出来ると思うが、一斉学習という環境でどこまで実施できるのだろうか。

 

3) そして、教材はおそらく伝統的なコンピュータサイエンス系の先生方がつくるのだろう。そうだとすると、そこでの学習は、論理的に考えることを重視する気がする。これに対してはviscuit開発者の原田さんによる反論がたいへん興味深かった。

devroom.viscuit.com

 なにが嫌かというと,動かす前にじっと考えて正解を探す,という行為はまったくプログラミングの本質ではないにも関わらず,そのパズルを解く教育をすることがプログラミング教育だと思われてしまっているということです.そんなしょぼいレベルはコンピュータに任せて,人間はもっと上のレベル,コンピュータに何をやらせるか,を考えられるようにするべきなのです.

一部の人は反発するだろうけれども、重要な指摘だと思う。挫折しそうなこどもたちも、動かしながら理解できるものであれば、学びの成果は全く違うのではないか。

 

4) 最後に、もっとも大きな問題は、今の小学校教員はいろんな雑務で多忙すぎて、プログラミングや情報表現を新しく学ぶとしても時間的な余裕があるわけじゃないということ。2020年までは、もうすぐだ。

 

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今年の僕の研究室のOさんが開発した、プログラミング初学者向けボードゲーム。これもパズル的な思考回路の枠内に収まる学習ではあるのだけど、問題を仲間達と議論しながら、協調的に考えることで考え方に慣れていく、ということを狙っている。

あなたを将棋のコマで喩えると

身辺雑記

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最近、うちの6歳児が将棋を覚えたので時間があるときに対戦するようになった。もちろん覚えたてなのでまだ弱いのだけど、日に日に投了するまでの時間がかかるようになってきている。やばい。

 

さて、僕は子供の頃あそんだっきりで、あまり将棋のコマの意味を考えたことがなかったけど、何十年かぶりに指してみると、それぞれのコマが動きの制約というかたちで「個性」を持っているのがとても興味深くて、自分にとって一番好きなコマは何かを考えていた。

 

僕の場合は「角」だ。歩のように着実に進むことは出来なくても、ナナメの動きで盤面を自在に移動する。だれでもできるような目の前の仕事には役立たなくても、他のコマが真似できない角度から一気に切り裂き、状況を変化させていく。願わくば自分もこういう役割でいたい。

 

Xデザイン学校での講演:CoDesignApproachの今日的意味

CoDesign

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2/18(土)、社会人向けデザインスクール、Xデザイン学校 @Yahoo!本社において、本年度担当しているパートのレクチャーをしてきた。山崎先生、浅野先生からのオーダーは、なんと「おまかせ」(!)。それを知った時の僕の気分はたとえて言うなら、ベテランの鮨名人二人が、カウンターで「ふっふっふ」と笑みを浮かべながら待っているのを前にした、場末の職人のそれである。しかしながら、鮨というサービスは、職人の一方的なもてなしではなく客との相互構成的なものだ。山内先生に倣うなら「闘争」だ。せっかく二人が聞いてくださる、しかも最前列で。という機会なのでXデザイン学校の今後の指針にちょっとでも参考になるような話が出来ればな、と思いながら準備してみた。題目は「CoDesignApproachの今日的意味、およびXデザイン学校との関係」。

 

章立ては、

1:CoDesignの概念を整理する
2:成り立つ条件と環境要因
3:人々が協働するために—「信頼」の観点から
4:未来の学校体験の可能性
5:「社会をよくするデザイン」をめぐって

 

スライドをいくつか抜粋して掲載してみる。僕がスライドをslideshareで公開していない理由はいくつかあって、1つ目は、著作権的な意味。引用した画像や写真は、授業での利用は許されても一般公開は許されない(著作権法35条の2)わけで、公開のための許諾取るのが面倒ということ。2つ目は、僕のスライドは図版中心で、あまり文字を書かないで喋るスタイルなので、それだけ見たところで結局あまりわからないだろう、ということ。そして3つ目は「粗隠し」で、4つ目が「出し惜しみ」なのだけど、先日編集者のAさんにお会いした際に、どんどん公開しちゃったほうが得ること多いはずだよ、と助言もらってそれもそうだな、と思うので、101枚のスライドのうち、11枚をとりあえず掲載。

 

 

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「デザインは問題解決して、円満に終わるか?」という下りより。Wicked Problemについての解説を探していたら、行動観察研究所の松波さんが一番明快に解説していたのでそれを参照した。以下の記事はとても興味深い。

Wicked Problem: 新たな仮説に基づいて動き、成果が出なければすべては無駄なのか? | 行動観察研究所ブログ | 行動観察研究所

 

 

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ここはいろんな人との議論をベースしつつ、僕がオリジナルで整理したもの。「当事者デザイン」という言葉は、はこだて未来大学の原田先生と岡本先生が2016年度デザイン学会のセッション名として生み出した言葉であり、まだ定着はしてないと思うが、これ以上の適切な言葉を知らない。さまざまな現場において、当事者が、拙くとも自分でなんとかデザイン実践しようとしている場面は実はたくさんある。その活動をエンパワーするためにどのようにその活動自体をデザインできるのか、というのはデザイナーにとっては大変エキサイティングで今日的な問題と言える。

 

当事者デザインの例として、東海大の富田先生は、霞ヶ関の国家公務員の方々が、政策プロジェクトの概念図(通称「ポンチ絵」)を自分でデザインできるようにするためのデザイン(政策×DESIGN Workshop ポンチ絵2.0)に挑戦している。

 

念のために、この分類はデザインする際のアプローチの種類の違いであって,「どれが良くてどれが悪い」という話ではない。ユーザ中心デザインも対象や組織によってはアリだし、当事者デザインも最初からできるものではないので、協働のデザインから徐々に移行していった先の姿と捉えるほうが自然だ。ここはスライド一枚では説明も整理もしきれないので、もうすこし展開する予定。

 

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何故参加型デザインというタイトルではないのか、の解説。「参加型デザイン」と「協働のデザイン」の違いは明確に分かれるものではないけど、ニュアンスはだいぶ違うことは、以前以下のエントリでも解説した。

 

kmhr.hatenablog.com

 

f:id:peru:20170219125746j:plain浅野先生がXデザイン学校に参加型(協働)デザインを取り入れたい、と語っていたことを知って、Xデザイン学校との関係を説明したくだり。「弱い紐帯の強み」、というのはwikipediaマーク・グラノヴェッターの項目で説明されている。

フィールドについては、この日おふたりと話したところ、すでにいろんな構想があって計画を進めているところだそう。期待。

 

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実験学校といえば、ジョン・デューイ。彼は自分の思想を元にシカゴ大の中に実験的な学校をつくった。このモデルでは、活動を重ね合わせた文脈が学びを生むということを熟知して計画していることがよくわかる。なにかの活動(衣・食・住、そして商売)を起点に知的好奇心が生まれ、そこから知の資産(図書館)に接続し、さらに家庭や自然環境などの外部のネットワークにも有機的に接続していこう、というのは120年経過した今でもまったく古びていない。この頃、日本はまだ明治時代だというのに・・・・実に先駆的な取り組みだ。

 

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最終章、「『社会をよくするデザイン』をめぐる問い」より。我々はなんとなく「よい」という言葉を使うが、本当はちゃんと共通することを言語化していく必要があって、それがアカデミアの役割でもある。最近考えていたことをまとめたので、このパートは6枚とも公開する。勝手に俺理論だけで言い切らないように、なるべくこれまでの知見の積み上げを参照しながら説明できるように頑張ったつもり。

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写真は左から

原発(未来に負債を先送りして、イマの問題をしのぐぞソリューション。これは年金もそうだな)

・しゃぼん玉(フィルターバブルがつくりだした自分の「イマココ」の中は心地よいぞソリューション)

・国境の壁(ココの良さを維持するためには、壁の向こうは知ったことかソリューション)

 

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 そもそもこの頃「よい」の問題を再び考えはじめたのは、苫野一徳先生の「どのような教育が『よい』教育か」に刺激をうけたからである。彼の言う「欲望論的アプローチ」は説得力がある。

 

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いろんな難しい本を調べているうちに、講義の準備から逃避して読んでいた「サピエンス全史」と、ちゃんとつながって驚いた。あの大著は、この文章で終わる。「私たちは何を望みたいのか?」は、英語の原著では"What do we want to want?" となっている。問いかけの主旨であるメタ的な意味は、英語の方がはっきりわかる。もしくは糸井重里の名コピー、「ほしいものが、ほしいわ」(1988)。

 

 

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数日前に書いたコントロール願望の話。近年はデザインに限らず、様々なジャンルで同時多発的に参加型のスタイルが活発になっているのは、みんな気付いているだろう。その源泉を考えるにあたって「みんな何かをコントロールしたいし、そして自分のすることを他者に認めてもらいたい」という欲求があることを軸に置いて眺めてみると、はっきりとつながってくる。

 

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"だれも他人を自由にしない。 だれも一人では自由になれない"は、ブラジルの教育者パウロフレイレの伝説の名著「被抑圧者の教育学」から。この本は本当に素晴らしい。当事者デザインのキーワードとしてあげた「エンパワーメント」という概念は、彼の実践を元にして生まれた、とされる。人は一人では自由になれないというの重要な指摘で、自由には他者との認め合いがいるのだ。

 

「良いデザイン」というのは範囲や対象を示さないと答えようがないけれども、「社会をよくするデザイン」ってのはこういうことかな、というのが現時点での僕の考えである。いろんな賢人の言葉を引きながら、「よい」の共通了解をさぐって言葉にしてみた。こういうのは文章にまとめた方がよいのは当たり前だが、こういう喋る機会でもないと(忙しさを言い訳にして)深く考えないからな。

 

近頃は具体的ではない言葉は悪いもののように扱われがちだけども、抽象度の高い言葉は時代が変わっても長持ちするし適用範囲も解釈も拡がる。ということでひきつづき考えていこうと思う。

 

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(撮影:山崎先生)

 

 ひどい体調だった先月の講演からだいぶ時間たったのでもう回復したかな、と思っていたが、声がれがひどく、舌も回らず、またもや絶望するほどパフォーマンス悪かった・・・。いっぱい準備したのに無念。Xデザイン学校のみなさん、申し訳ないです。でも文章にしておいたことで、履修者以外の人でも参考にできる資料になったかもしれない、と考えることにする。

 

ソニービルの中にある傑作デザイン

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 3月末に取り壊される予定のソニービル。乗る度に思っていたのだけど、このエレベータのインタフェースは素晴らしかった。なんども試しに押してみたのだけど、「開ける」と「閉める」、特に中央を走る直線がそれぞれのメンタルモデルとぴったりフィットする。ビルが消えると共に、このエレベータも消える。Goodなデザインなのに、どこにも保存されないであろうことが悲しい。

 

 

 

”人間は、コントロールへの情熱をもってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく”

BOOK

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幸せはいつもちょっと先にあるー期待と妄想の心理学 
ダニエル・ギルバート 早川書房 2007

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(引用)
人間は、コントロールへの情熱をもってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく。生まれてから去るまでのあいだにコントロールする能力を失うと、みじめな気分になり、途方に暮れ、絶望し、陰鬱になることがわかっている。死んでしまうことさえある。

ある研究で、地域の老人ホームの入居者に観葉植物を配った。半数の入居者には自分で植物の手入れと水やりを管理するように伝え(高コントロール群)、あとの半数の入居者には職員が植物を世話すると伝えた(低コントロール群)。6ヶ月後、低コントロール群では30%の入居者が死亡していたのに対して、高コントロール群で死亡したのはわずか15%だった。追試研究によって、コントロールする感覚が老人ホームの福利にいかに重要かが確かめられたが、同時に予期せぬ不幸な結果を招いた。

その研究では、学生志願者を募って、入居者を定期的に訪問させた。高コントロール群の入居者には訪問してほしい日にちと滞在の時間を自分で決めさせ(次の木曜に1時間ばかり来てちょうだい)、低コントロール群の入居者にはそうしなかった(では次の木曜に1時間ばかりおじゃまします)。

 

2ヶ月後、高コントロール群の入居者は低コントロール群の入居者より幸せで、健康で、活動的で、とる薬の量がすくなかった。この時点で研究を終了し、学生の訪問も終わった。数ヶ月後、高コントロール群だった入居者の死亡率が極端に多い、と聞かされて、研究者達は愕然とした。悲劇が起こってしまってからよく考えれば、原因ははっきりしていた。決定権を与えられ、コントロールすることで良い効果を得ていた入居者達は、意図しなかったこととは言え、研究が終わったとたん、そのコントロールを奪われてしまったのだ。

(p41)

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Xデザイン学校のレクチャーの準備のために、一行目の太字の部分を引用するために読み返してみた。随分まえに読んで衝撃を受けたのがこのエピソード。以後、研究室でも何かのフィールドに関わる時には、下手に影響与えると、終わり方次第ではこういう反動が起こりやすそうだということには気をつけている。

 

 

 

 

独裁者は民衆がつくりだす

BOOK

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 ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く (岩波新書)

 

熱狂的なトランプ支持者はアメリカの都市部ではなく、地方都市にいる。どんな人々がトランプを支持しているのか、どんな期待を抱いているのかについて、統計からは見えてこないリアリティのある声が、新聞記者による丹念な取材で記録されている。トランプは没落しつつある白人達の絶望と怒りを自覚させ、鋭い暴言を繰り返しながらそれを焚きつけていった。読んでいるとアメリカはもはや別々の国に分断されてしまっているのだな、ということと、独裁者を望み作りだしているのは、本当に普通の人々なんだな、ということを思わされる。

 

闘うべき共通の敵(アメリカの場合でいえば、不法移民や自由貿易)を描き出されると、人々は問題意識に共感する。敵を倒せば問題が解決すると素朴に思い込んでしまう。そして敵を倒すために結束し、高揚感に浸る。

 

こういったことは、遠い場所の話しではなく、実際に身近な場所でも簡単に起こりうることだからこそ怖い。今では忘れられているかもしれないが、以前、日本の地方自治体でも実際に独裁者が誕生した。

 

ある地方の街において、閉塞感にあえぐ人々は改革を求めて、鋭い物言いをする政治家を選ぶことになった。彼が使った方法は、(共通の敵としての)「公務員叩き」だった。彼は地元民にうっすらと横たわっていた不公平感や、行政への不信感を激しく煽った。実際には新規産業をつくって市全体の雇用や税収を増やすような未来のビジョンを示しているわけではないのに、ぼんやりとした不満の正体のようなものをえぐり、人々の目の前に差し出した。多くの人がそれまでの鬱憤をもとに「それは許せない」と共感し、特権階級を引きずりおろすことが自分たちの役割だと思い込んだ。特に善良な農村部のお年寄りたちは、そうすることで自分たちの不満は解消され、よい社会が訪れると錯覚した。熱狂的に支持する側と冷静に反対する側に分断され、家族でさえも対立させた。議会とも激しく対立して市政は混乱した

 

先のアメリカの問題とも結構似ている。

 

「あのどこにでもあるような街でも、たった一人の人間が刺激するだけでこんな風になっちゃうのか」と遠くから絶句したことと、ゴタゴタを経て同じ学年だったN君が新しい市長になるまでのハラハラは、たぶん一生忘れない。

 

Duppy know who fi frighten

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以前、ジャマイカ人から「Duppy know who fi frighten」という諺を教えてもらったことがある。日本語に訳すと、「幽霊は、誰が恐がりかを知っている」。

意味分かる?と聞かれたので、僕は一生懸命考えた。そして、「幽霊は信じてない人には見えなくて、怖がる人の前にだけ現れる、という意味かな」と返事し、「恐怖心があると、何でもないものが恐ろしいものに見えてくる、という『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』って似た諺が日本にもあるよ」と付け加えた。

 

そうしたら「まったく違う」という。どうやら、脅す側は、弱い奴を標的として選んでいる、という意味で、すなわちつけこまれないために「弱みをみせちゃだめだ」という教訓として使われているんだそうだ。

言葉は、それを用いる社会によって発達していく。例えば一人称代名詞は、英語ではすべて「I」だし、なのに、日本語では、僕、俺、私、自分、小生、わし、おいら、など世界的にも特異なのは、そういった自我の使い分けが他者との関係の中で必要とされる社会だからだ。さらに言葉の中でも特に諺は、世代を超えて磨かれた教訓や知識の結晶でもある。諺はその国の文化を映す。

 

欧州でそういうことに気付いたこともあって、いろんな国の人に出会うたびに諺を話題にして聞いていたのだが、ジャマイカとかハイチとか、カリブの国々は陽気そうに見えるけども、この強く生きていくことを言い聞かせるような短いフレーズから、生きるか死ぬか、やるかやられるかの生存競争が厳しいということに気付いて驚いたことを思いだす。諺の意味をよく考えることは、それを語り継ぐ文化の土壌が見えるからこそなんだか興味深い。