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みえないものを、みる視点。

〈読書メモ〉ナラティブ・アプローチ

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パートナーとして関わっているACTANTは、ロンドン芸大セントマーチンズの大学院でNarrative Environmentsという先進的な専攻を修了したデザイナーが3人もいるという非常に珍しいメンバー構成であり、いろいろ話しを聞いているうちに僕の中にもナラティブへの関心が湧いてきた。

物語構造とかは20年ほど前にたくさん勉強したのだが、そういえばエスノグラフィーの真似事をしているわりには、ナラティブとストーリーテリングの違いもよく分かっていない。自分の中の何かが騒ぐので、ナラティブとデザインをつなぐ勉強をちょっとづつ進めている。先日読んだ本は衝撃だった。

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「ナラティブアプローチ」 野口裕二(編) 勁草書房 2009
第1章 エスノグラフィーとナラティブ 小田博志

 

(以下引用)

2002年3月、フランクフルトの書店で、私は「われらに内なる他者」という新刊を見つけて手に取った。著者はダン・バルーオンというイスラエル社会心理学者である。パレスチナ紛争をテーマにしてナラティブアプローチの視角から書かれていた。
バルーオンはもともとナチ戦犯の子孫の研究をしていた。その延長で生まれたのが「自省と信頼のために(To Reflect and Trust )」というグループワークであった。最初のグループは、ナチ戦犯の子孫8人とホロコースト生還者8人の計16人からなり、彼らは互いに人生の物語を語り、相手の物語に耳を傾けた。そしてその相互理解を基盤にして対話を行った。その後、そのやり方を南アフリカ北アイルランドパレスチナなどより最近の紛争の当事者にも広げるようになった。バルーオンによると、このやり方がボトムアップな平和構築のプロセスに繋がっていくのだという。ナラティブには、紛争の当事者間の関係性を変える力があるのだというのである。
(p40)


<中略>

そのNHKの番組(NHKスペシャルイスラエルとパレスチナ遺族たちの対話」)は、2004年3月27日に放映された。その番組に対話集会の実際が収録されていた。その集会には23人が参加していた。全て紛争によって肉親を失ったイスラエル人かパレスチナ人である。ひとりひとりが、肉親を亡くした時のことを語ってゆく。その個人的な経験の語りを聴くことで、互いのステレオタイプな他者像(「パレスチナ人=テロリスト」、「イスラエル人=侵略者」がゆらぎ、互いを"人間として"みるプロセスが動き始める様子がまさに映し出されている。集会の最後に、会の代表で自らも息子を殺されたHさんがこう語る。

「私たちはいつも紛争になると"イスラエル側"、"パレスチナ側"という言い方をします。私は"第三の側"をつくることを提案します。”第三の側”は私たちです。私たちは双方をつなぐ側の代表です。私たちはみな痛みを持つ兄弟です。私たちはみな苦しみを持つ兄弟です」

ナラティブの現場では、新しい関係性が生じる。私たちは人の話に引き込まれた時、「時が経つのを忘れる」とか「我を忘れて聴き入った」という実感を持つ。人の話に「引き込まれる」という表現と、非線形システムにみられる「引き込み(entrainment)」現象でとは違ったことではない。ここでは、物語を語り/聴く人々のあいだで生じる「物語的引き込み(narrative  entrainment)」によって、他者像の根本的な変化がみられることに注目しておきたい。遺族の会の対話集会において、最初は互いに「イスラエル人=侵略者」、「パレスチナ人=テロリスト」といったステレオタイプ化されたネガティブな「他者」像を抱いていた。ところが、互いの物語を聴いた後では、それが具体的な名前と顔を持ち、自分たちのかわらぬ感情のある〈他者〉へと変わった。そしてそれに伴ってHさんが「第三の側」と呼ぶ新しい関係性が生まれたのである。これは当事者たちにとって「和解」の体験であろう。それは「パレスチナ問題の解決」といったような大文字の和解ではない。まあそれでイスラエルによるパレスチナの占領という構造的な問題が解決されるわけでもない。ほんの小さな湧き水である。だが大河も小さな湧き水から始まる。
(p42)強調は引用者

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永久に分かりあえなさそうな両者が対話によって変化していくという、実に壮大な挑戦の話。冗長に見えてもこういったプロセスを踏むことが、お互いの先入観を崩していく・・・ということよりも、当事者による「語り」が、それだけのパワーを内包している、ということに驚かされた。人類はコミュニケーションのためのテクノロジーやメディアを進化させてきたが、むしろコミュニケーションの原点であるシンプルな語りの中にこそ可能性があることを改めて思い出させてくれる。

〈読書メモ〉多層的な参加の構造

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「ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門」フィルムアート社(2015)より。

原点の題名は、Education   for Socially Engaged Art: A Materials and  Techniques handbook (2011) 著者の多くの実践経験を元に、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの光と影を、教育学・社会学・哲学などの理論を幅広く参照しながら、批評的な視点で考察した本。

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以下引用

 

B|多層的な参加の構造

「参加」は包括的な言葉であり、芸術の周辺ではその意味を見失いやすい。単に展示室に入ればそれは参加になるのだろうか?それとも作品の制作に関わる時に限って参加者になるのであろうか?自分自身が芸術作品の制作過程のまっただ中にいながら、関わることを拒否する場合には、それは参加していると言えるだろうか?
「参加」には先に議論したように、SEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)と同じ問題がある。
<中略>
高度に洗練されたSEAの中には、鑑賞者のエンゲイジメントのレベルに従って多様な参加の層を提供しているものがある。参加の層を以下のように試験的に分類してみよう。


1)名目的な参加(Nominal Participation)
来訪者や鑑賞者は、内省的に、受動で孤立したかたちで作品を凝視する。


2)指図された参加(Directed Participation)
来訪者は作品作りに貢献するためにシンプルな課題をこなす。例えばオノヨーコの〈Wish Tree〉


3)創造的な参加(Creative Participation)
来訪者はアーティストが設定した構成に基づき、作品の要素となるコンテンツを提供する。例えばアリソン・スミス〈The Muster〉


4)協働の参加(Collaborative Participation)
来訪者はアーティストとコラボレーションや直接対話を通して作品の構成やコンテンツを展開させる責任を共有する。例えばキャロライン・ウラードの〈Our Goods〉

「1:名目的な参加」と「2:指図された参加」は、たいてい一度きりの出会いで終わる。一方で「3:創造的な参加」と「4:協働の参加」は、より長期間にわたって展開する傾向がある。1と2のレベルの参加を組み込んだ作品の方が、3または4を特色とする作品よりも多かれ少なかれ思い通りに行くが、魅力的になるとは限らない。


それでも、参加レベルの区別を心にとどめておくことは重要だ。それは少なくとも以下の3つの理由からだ。第一に、その区別は、ある参加の枠組みにおいて可能なゴールの範囲を明確にするのに役立つ。第二に、後述するように、それは作品の意図がどの程度実現したかを評価するときに参照する枠組みをつくりだす。第三に、ある作品に要する参加のレベルを考慮することはその作品がコミュニティ体験をつくりだすときの手法の価値判断と密接に結びついている。

参加のレベルに加えて、個々人が個別のプロジェクトにどのような気持ちで参加するのかを認識することも同じく重要である。ソーシャルワークの場合、ソーシャルワーカーが交流する個人やコミュニティの傾向は、以下の3つのグループに分類される。

1:積極的に喜んで活動にたずさわる人々=自発的(Voluntary)
例えばフラッシュモブのようなタイプ

2:強要されて、または命令によってたずさわる人々=強制的(Non-Voluntary)
例えば高校の1クラスの生徒が活動家のプロジェクトとコラボレーションする

3:公共空間で、偶然(アートプロジェクトだという)状況をあまりよく知らないで遭遇する人々=非意図的(involuntary)

(P49-52)

<中略>


目的が明確に設定されていれば、きわめて限られた時間内のエンゲイジメントでも、実りあるものに出来る。コミュニティ・プロジェクトにおける問題の多くは、予想される時間的な投資に対して非現実的なゴールが設定されることによって起こる。SEAプロジェクトは、アーティストに対して著しく多大な時間と努力を要求しがちだ。
(P56)

 

引用ここまで。


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アートをデザインに読み替えれば、CoDesignとほとんど共通する話だ。建築だけでなく現代アートでも社会に開かれていく動向があるのがなかなか興味深い。

 

たしかにこの本は、理論書でもなくハウツー本でもない。「むしろ彼は、人々とエンゲージするアートを実践する上で、教育学や社会学、コミュニケーション論、現代思想など、人と人の関わりを軸とする研究分野における多くの成果からSEAにいかせるであろう知識や情報を共有することに力を注いでる。そしてそれを表現の自由への制約や足かせとするのではなく、アーティストの活動を理論的も実践的にも支えるものにしようとしているのだ」(訳者あとがきより)

こういったアカデミア発の書籍のスタイルは参考になる。

 

そして、積読を消化したちょうどのタイミングで、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」展が開催されることを知った。

会期:2017年2月18日(土)〜3月5日(日)
開館時間:11:00〜20:00 (最終入場19:00)
休館日:なし
会場:アーツ千代田3331
観覧料:一般1000円/大学生以下500円(要学生証)

​http://sea2017.seaexhibition.site/

近年、アートの新しい潮流として注目されている「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」は、現実社会に積極的に関わり、人びととの対話や協働のプロセスを通じて、何らかの社会変革(ソーシャル・チェンジ)をもたらそうとするアーティストの活動の総称です。本展では、とくに3・11以降顕著となった、社会への関わりを強く意識した日本人アーティストの活動に注目し、アイ・ウェイウェイ、ペドロ・レイエス、パーク・フィクションなど海外の代表的な作家やプロジェクトとともに紹介。東京を舞台に5つのプロジェクトも実施します。日本で初めての本格的なSEAの展覧会としてご期待ください。

http://www.art-society.com/researchcenter/wp-content/uploads/2017/01/SociallyEngagedArt.jpg

 

 

 

 

2017年度Xデザイン学校がまもなく募集開始

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社会人向けデザインスクール、Xデザイン学校の2017年度学生の応募受付が2/10から開始されます。2年目の今回は、ベーシックコースとアドバンスコースに分かれるそうです。

 

■ベーシックコース(UXデザインを基本とした実践に役立つ基本スキルを身につける)

出願期間 2月10日(土)-20日(月)(先着順)


■アドバンスコース(スタートアップ/新規事業創出のための次世代デザインを探求する)

出願期間 2月10日(土)-20日(月)(書類選考)

 

詳細は公式ウェブサイトへ

www.xdlab.jp

 

上平はアドバンスコースで、「オープンデザイン」を担当予定です。

 

そして母体のコミュニティでもあった情報デザインフォーラムは草の根的な活動も10年近くなり、次のフェーズに向かうためにXデザイン学校が運営することになりました。今後はXデザインフォーラムという名称になります。(しばらくは併置するそうです)第1回Xデザインフォーラムは、5月のゴールデンウィーク頃に開催予定です。

ブログの方向性を再考する

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最近拙ブログも読者が増えてきて、小さな話題にしてもらうことも増えてきた。とても有り難いことだし、わざわざ読みに来て下さっている方々の期待には応えたいと思う。そして、加藤研に触発されて毎日書こうと言っておきながら・・・・考えてみれば結構ブログに時間をつっこんでいることにも気付く。

 

僕の場合、一記事に1000〜2000字で、本が10万字とかだそうだから50~100記事で一冊の本になる計算になる。授業がない時期こそ集中して本や論文を書かなければならない(汗)のにブログを濃くしている場合でもないので、力の配分は考えないといけない。

 

目標は中原先生。彼のブログは大変面白いし勉強になるが、なんと朝の出勤前の20分だけで書いているという。「もったいぶらずどんどんブログに出して損はない」と言い切る姿勢は、励まされる。でも、超人にしかみえない彼ですら、毎日書かないとそのスピードでは書けなくなるんだそうだ。

www.nakahara-lab.net

とりあえず、これからも読者受けは意識しない方向で、でも自分の学習とそれをスライドさせたコンテンツづくりの「一石二鳥」はしっかりねらいます。「オブザベーション」と「BOOK」のカテゴリを中心に無理のない範囲で書いて行きたいと思います。Facebookページでの配信は間引きます。

習慣を自然につくるには

先日、卒業研究発表会で子供の片付けをテーマにしている学生と話したあとに考えたこと。片付けは一時的に整頓して解決するようなものではなく、日々のルーチンとして「習慣」を作ることの意味が大きい。たとえば、収納する場所をつくること、その対応を覚えること、タスクが切り替わるときに片付けモードを思考に組み込むことなど。経験デザインの対象としては、一時的にハッピーな気持ちになる、というものに比べて地味だし結構難易度が高いものと言えるけれど、たまに感心するような事例に出会うことがある。

 

先日、うちの3歳児が歌っていて知った、「あわあわ手あらいのうた」(ビオレ)は大変良くできていると思った。手洗いの最中に歌を歌いながらあわせてポーズをとっていくと、終わる頃には洗い残しのない手洗いができるというもの。

 

youtu.be

あわあわ手あらいのうた | ハンドシリーズ | ビオレu | 花王株式会社

どうやら2011年頃につくられた映像のようだが、なにより凄いのがまだちゃんと読み書きも出来ない小さな子供たちが最後までフルコーラスで歌えて、自分から楽しそうに進んでやる、という動機までデザインできていることだ。

歌→ストーリー→ポーズ→手洗い→感染防止 が同時に成り立っているわけだが、本当は逆なんだろう。特に小さな子供にとってはもともと身体経験は一体なのだ。

 

年長組ぐらいになるとクラス全体で30分ほどの演劇ができるようになるが、台本もないのに全員がセリフを完全に覚えられているのも、個別の言葉ではなく一連のストーリーのあるパフォーマンスをステージ全体の位置づけでつかむかららしい。たしかに気を付けて観察すると、ひとつひとつのセリフを発する際にはオーバーなほどのふるまいが同時に行われている。子供に方法をインタビューしてみたら、やはり「個別のシーンじゃなくて、ストーリーの最初から最後までを、遠し稽古としてくりかえしくりかえしやる」とのことだった。

 

考えてみれば学生時代の勉強の工夫だって同じようなポイントがあった気がする。書くなり発話するなり物語にするなり、個別の知識ではなく複合的に捉えることが大事だというのはみんな経験していることだ。そうして全体として捉えることで自然に身体化されて習慣にもなっていく。日々パソコンに向かっていると、たまにそういうあたりまえのことを忘れそうになる。

目をあわさないコミュニケーション

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2/5(日)は用事の合間を縫って横浜まで、慶応SFC加藤研の「フィールドワーク展:たんぽぽ」を見に行ってきた。学生達の研究も大変密度が高くて素晴らしかったのだが、加藤先生自身の活動もいろんな取り組みが僕よりも何歩も早くて、活動を知る度に驚きと悔しさを同時に感じる。例えば、来年学生達と屋台をやってみようって計画を進めていたら、それは「カレーキャラバン(の影響)だね」と同僚の先生に見抜かれてしまうし、その話を加藤先生に話したら、「いや屋台はでかいから、なんだかんだで機動力に難がある。だから屋台じゃなくて僕は今『おかもち』やっている。これならどこでも持って行ける」とあっさり新作を目の前に出されてしまった。

うう。おかもちが「出前」の意味合いをもったままコミュニケーションを生む道具に変化するとは。しかもおしゃれだ。写真はOkamochi ABSINTHE(フランスのリキュール) 。

 

 

vimeo.com

こちらはおかもちコーヒー。(Okamochi Coffee) 素晴らしい。

 

で、「学生達が『自分たちはコミュ障だけど、ワークショップでなら街の人達と喋れる気がする、それを通してコミュニケーションを生む場をつくりたい、なんて健気なこといっているんですよね」という話していたら、加藤先生が「それはとても大事なことで、例えば料理していれば、目をあわさなくても済むじゃないか!」と(カレーの鍋で肉を一生懸命炒めながら)仰っていて、ものすごく納得した。

 

なるほど同じ状況を共有しながらも目をあわさなくても済むから、ドライブ中の運転席と助手席の会話は気楽なのか。逆に言えば目をあわさなければならない状況はコミュニケーションの逃げ道がないから圧力(プレッシャー)が高まるわけだ。バーベキューや料理教室のような、なにか別のものを一緒を見ながら会話が起こる場が最近の男女の出会いのきっかけとして流行しているのも繋がる気がする。

 

帰り道にぼんやりと場を分類するためのマトリックスが浮かんだのだが、そういえば10年前にそんな共同研究をしていたことを思い出した。

皆さんも実感したことがあるかと思いますが、マテリアルがなく「会話自体がコンテンツ」となるコミュニケーションの形態では、お互いの立場がすでに決まっていることが多くて親密なコミュニケーションは生まれにくいでしょう。

 しかし、食事などのリラックスした場に「ごはん」というマテリアルがある場合は、それがコミュニケーションを発生させる要素となり、活発な会話が生まれてお互いの親密度がアップするのです。

 (「テーブルを介したコミュニケーション分布図」。観察調査は、専修大学ネットワーク情報学部の上平崇仁准教授と同学部の学生の協力を得て実施された

テーブルを介したコミュニケーションデザイン − @IT

 

過去の経験をもう一度分解して、アップデートする必要があるな。

 

あと、「継続課題」は以前自分も学生に出したことがあるのだが、自分はやってなかったので挑戦してみよう。春休み期間が終わる(3/31)まで、簡単な記事でも1日1本をブログ書いてみるか。

 

加藤先生、そして加藤研究会のみなさん、大変素晴らしい研究発表で刺激になりました。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

16年前の小さな接点

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年末に開かれたコミケに同僚のHくんが行くというので、お願いして小さな特製本を買ってきてもらった。売れっ子の写真家である著者による最初で最後の教則本だそう。

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twitterで質問を受け付け、それに対する返答というかたちでコンパクトにまとめられたもので、まあインターネットで全部公開されているものだから一部紹介しても怒られはしないだろう。このページのやりとりが一番笑った。たしかに雰囲気に逃げないで「ちゃんと」撮る練習するのが上達の一番の近道だと僕も思う。

 

さて、実は僕はこの著者とは16年ほど前に小さな接点がある。当時、僕は助手として東京工芸大芸術学部に勤め始めた頃で、写真学科の1年生にデジタル表現の基礎(いわゆるAdobeソフトの入門みたいな奴)を教える授業を持つことになった。始めて持ったその授業にいたのが彼だった。その頃から写真に向き合う姿勢はとても真摯だったし、写真学科の全体講評の際には先生方にも議論を挑んだりする挑戦的なところがあって、同世代のクラスメイトたちからはちょっと浮いているところがあったように思う。なぜか所属学科も建物も違う僕の研究室にはよく遊びに来てくれて、一緒に本厚木に酒飲みに行って写真や現代アート談義をしたりした。

 

その後、僕は大学を移り、彼は卒業してプロの写真家になった。そしてあっという間に駆け上がるように一流になっていき、もう気軽に話せる関係でもなくなり、僕は遠くから1ファンとして活躍を眺めているだけになってしまった。彼の仕事は、ウェブサイト(SUZUKI Shin photographs)で見ることが出来る。たぶん誰でも見たことがあるような影響力のある広告ばかりだ。さらにクライアントワークだけでなく写真家として自分の活動も精力的に行っているところもすごい。

 

そんな彼が自分のノウハウをまとめた教則本を(コミケで売るためにw)作ったというので、それは是非手に入れなきゃ、となった次第。

 

Hくんに「もし彼が俺のことを覚えていたら、よろしく伝えておいて」とお願いしていたところ・・・。

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なんとサインじゃなくて思い出のメッセージをくれた。ひねりをいれるところまで変わっていない・・・!(涙)

 

彼が書いているのは「デジャ=ヴュ (第14号) 『プロヴォーク』の時代」amazonでも結構なプレミアついている。この号で特集されていたのが僕の好きなアーティストのアンゼルム・キーファーだった。たしかにそういえば彼に勧めて貸したんだっけ、ずいぶん昔のことなのにちゃんと覚えてくれているものだなぁ。

 

彼だけじゃなくて、昔は学生だった若者達が立派な姿で活躍している姿を見ると、嬉しい反面で自分も頑張らなきゃと思わされる。なによりも、人は毎日変わるものだからこそ、だれが何をきっかけにしてどう化けるか、誰にもわからないし、今は「まだ何者でもない」若者達に日々接することに対して、気が引き締まる思いがする。

防犯装置としての隣人

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この記事をお読みのみなさんに質問です。あなたは、日本の都市部のスタバでパソコンを広げて、たくさんのメールに返事してる最中に、ふとトイレに行きたくなったとします。さて、このような状況になった時、どうしますか?

 

1)そのまま放置して行く

2)怖いのでノートパソコンをトイレまで持って行く

3)隣の人に「パソコンを見ててもらえますか」とお願いする

 

日本人だと1)が多そうな気がするが、もちろんそんなことをしていると他の国では速攻で盗難されてしまうだろう。安全な日本でも盗まれないとは限らない。海外で日本人が盗難に遭いやすいのはそういう環境に慣れて気がゆるんでいるからでもある。かといって、2)もなかなか面倒くさい。そもそもトイレまで持って行ったとして一体パソコンはどこにおかれるのか。

 

デンマーク図書館では、みんな3)の手段をとっていた。前の人や隣の人に監視をお願いしてから、席を立つのである。地元の人から頼まれて戻ってきてお礼いってくれるのは、ちょっと信用されている気がして嬉しかったことを覚えている。話によるとイギリスでもみんなそうしているらしい。

 

というわけで、僕はノートパソコン(もっと正確に言うと中身の情報)が心配だったので、3)を試してみることにした。同じようにパソコンで作業していた隣のビジネスマンは急に話しかけられて心底びっくりした顔だったが、お願いを聞くと、快く「いいですよ」と言ってくれた。面白かったのが、それをきっかけに軽いやりとりが始まったことだ。日本ではカフェで他人同士が会話することは極めて珍しい。そして30分ほど経って先に向こうが去るときには「じゃ」と笑顔で別れの挨拶してくれた。

 

こういう時、我々の発想では、「他人には決して迷惑をかけてはならない」という社会通念がまっさきに発動されるし、そうでなくても「パソコンは心配だけど声をかけにくい」という理由もあったりして、解決策としては人が関わる必要のないデバイスとかアプリで人工物をつくる方向に行ってしまうような気がする。でも、こういう時に隣の人という(適当な?)リソースを使うという方向もあったりするわけだ。

 

実際に試してみたら、見知らぬ隣人は快く協力してくれたし、それをきっかけに会話が起こり、カフェらしい一期一会の交流があった。我々は他人との干渉を避けるあまり、他人にお願いする先にそういうことが起こることをほとんど知らないのではないか、という気がしないでもない。

トークイベント:「デザイン思考“以後”と、クリエイティビティの行方」開催のお知らせ

周辺の方々の声を受けて、トークイベントを企画してみました。時代は刻々と変わる中でデザインのありかたも少しづつ変わっていきます。そんな中で見落とされがちなことや今うっすらと立ち上がりつつあるようなことなど、まだ体系化されていないようなことを議論したいという考えです。すぐお仕事に役立つようなお話しではないですが、思索的なテーマに関心をお持ちのみなさま、是非ご参加下さい。

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21世紀に入って広まった「デザイン思考」という言葉は、社会の多くの領域に影響をあたえました。これまでデザインがあまり重視されてこなかった領域や組織の人々にも、創造的な問題解決の可能性を広げた功績は大きいといえるでしょう。

 しかしながら、ふりかえってみて日本の社会において期待されたような進展があったかと問われれば疑問が残ります。たしかに、近年多数のデザイン関連書籍が出版され、失敗の少ないデザインの方法を試すことは容易になりました。その一方で、デザインという行為は形式知のみで構成されているわけではなく、視野を拡げて俯瞰してみると、あちこちに「語られにくい問い」や「見落とされている視点」が存在しているように思われます。

 そこで、本トークイベントを企画しました。デザインという概念そのものが、時代と共に流れる水のようなダイナミズムを携えており、絶え間なく問い続けることが重要です。デザイン思考という言葉から新鮮さが消えた現在のタイミングだからこそ、これまで言語化されてきたことを越えた立場で、改めて人々の創造性に対するクリティカルな議論ができるはずです。それらの論点や課題を洗い出すことで、今後のあるべき社会を描いていくための手がかりも見えてくるのではないでしょうか。

 ここでは、デザイン理論にも詳しく、かつ新しいデザイン領域を拓くことに挑まれてこられた第一線の実務者の方々をお招きし、それぞれの立場から、狭義のデザイン思考では語られることが少なかった視点から話題を提供して頂きます。その話題をもとに、次の段階に進むためのステップとして参加者の皆様を交えて深く議論出来ればと思います。また、ただ聴くだけではなく議論に参加しやすくするためにiPadを用いたビジュアルミーティングの方法を取り入れ、当日の議論に反映していく予定です。このような思索的なテーマに御関心をお持ちの皆様、ふるってご参加下さい。

 

 

■日時

2017年2月24日

■会場

インターナショナルリエゾンセンター(東京ミッドタウン・デザインHUB内)

 

■プログラム

 

1)はじめに

  開催主旨:上平崇仁

  ビジュアルミーティングについて:富田誠

 

2)話題提供(トーク15分+質疑5分)

・佐宗邦威(株式会社ビオトープ 代表取締役):有機的変化のデザイン(仮)

・武山政直(慶應義塾大学経済学部 教授):「欧州の政策デザインにみるアプローチの変化」(仮)

・柴田厳朗(GKデザインリサーチイニシアティブ 取締役)「野生・その他・異邦の鳥」

 

3)参加者のみなさまとのオープンディスカッション (軽食しながら)

 

 

■登壇者紹介

佐宗邦威 株式会社ビオトープ 代表取締役

東京大学法学部卒。イリノイ工科大学デザイン学科(Master of Design Methods)修士課程修了。P&Gにて、ファブリーズ、レノアなどのヒット商品のマーケティングを手がけた後、ジレットのブランドマネージャーを務めた。ヒューマンバリュー社を経て、ソニー(株)クリエイティブセンター全社の新規事業創出プログラム(Sony Seed Acceleration Program)の立ち上げなどに携わった後、独立。B to C消費財のブランドデザインや、ハイテクR&Dのコンセプトデザインやサービスデザインプロジェクトを得意としている。「21世紀のビジネスにデザイン思考が必要な理由」著者。京都造形芸術大学創造学習センター客員教授

 

武山政直 慶應義塾大学経済学部教授・コンサルタント

慶應義塾大学経済学部卒業後、同大学院経済学研究科に進学。1992 年カリフォルニア大学サンタバーバラ校大学院に留学後Ph.D.取得。2003年より慶應義塾大学経済学部准教授に就任。2008年より同教授。都市メディア論、マーケティング論を背景に、ICTを活用したサービスデザインの研究に着手。サービスロジックに基づく事業イノベーションをテーマに、企業と顧客の価値共創プラットフォームの構築など、産学共同プロジェクトを多数推進。同時に企業研修やコンサルティングにも従事。2013年、サービスデザインの国際機関SDNの日本支部設立、共同代表に就任。

 

柴田厳朗 GKデザインリサーチイニシアティブ 取締役

1986年にGKインダストリアルデザイン研究所に入社後、博覧会展示企画、地域開発調査、商品開発等に携わったのち、2000年から2007年までGKデザインヨーロッパ(アムステルダム)にて、欧州人デザイナーとの共創型デザインプロジェクトのマネジメントやデザイン調査を担当。現在はデザインリサーチ、プロダクトイノベーションブランディング領域を中心にプロジェクトを推進。一橋大学社会学部卒業、イリノイ工科大学 Institute of DesignにてMaster of Design Methods修了。共訳著に「現代デザイン事典 -変容をつづけるデザインの諸相-」(鹿島出版会)。

 

■ビジュアルミーティング ファシリテーター

富田誠 東海大教養学部専任講師

武蔵野美術大学 基礎デザイン学科卒業、早稲田大学大学院 国際情報通信研究科修了。IT&デザイン系のスタートアップ創業、早稲田大学政治学研究科 助手などを経て、現在は、東海大学教養学部芸術学科専任講師、早稲田大学ジャーナリズムコース非常勤講師。専門は情報デザイン、特に情報の視覚化とデザインプロセス。

 

■企画 / モデレーター

上平崇仁 専修大学ネットワーク情報学部教授

鹿児島県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科デザイン専攻修了後、グラフィックデザイナー、東京工芸大学芸術学部助手を経て、2004年専修大学赴任。2012年より現職。情報デザインの教育・研究を行う。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは手に負えない複雑な問題を人々の相互作用の中で創造的に解決していくための協働デザイン(CoDesign)の仕組みづくりについて取り組んでいる。2015-16にはコペンハーゲンIT大学インタラクションデザインリサーチグループの客員研究員として、北欧流参加型デザインの現場で調査研究を実施。人間中心設計専門家。

 

■お申し込み

peatixからチケットを購入できます。

満席になりました。(1/30 12:10追記)

peatix.com

 

■主催

専修大学上平研究室

 

■協力

公益財団法人日本デザイン振興会、株式会社ACTANT、株式会社Biotope、東海大学専修大学