Kamihira_log at 10636

みえないものを、みる視点。

自分の経験が投影される「何か」

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先月の11月18日のこと。研究室の学生が進めている立体インフォグラフィックスの実験を授業の中でやってみた。この取り組みには、単にインフォグラフィックスを立体化する、というのではなくて、見るだけの状態を越えて、作っていく過程を組み込むことで、ある特定の情報をより自分事として捉えることができるのではないか、という問いがある。

 

プリンタとカッティングマシンを併用して60部の設計図を複製する。それを履修生達は自分でチマチマと組み立てていく。

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指示に沿って折っていくと、上のような立体が出来上がる。リズミカルに並んだ折り目の中に、1年生が入学してから4年生となって卒業していく間の月日が、階段のメタファで表現されている。さて、この立体を作ってみて大変面白いのが、これ自体は極めて客観的な事実で、同じものなのに、学生達は自分が今どこにいるかを勝手に投影して、それによって感じ方が大きく変わることだ。

 

4年生は残された時間を突きつけられて強烈な衝撃を受ける。3年生は自分の軌跡を感じて焦りを感じると言う。2年生は遠くまで来た感じを受けてなんだかしみじみすると言う。そして研究室に遊びに来た1年生にも見せてみたところ、「別に何とも思わない」と言う。そして、みんな登ってきた階段に自分の過ごしてきた日々の出来事を重ね合わせている。(ちなみに僕自身も学生ではないので、この図の中にいないから全く刺さらない)

 

この違いは、以前からよく講演などの機会でも説明していることで、僕らはどう考えても入力した情報をそのまま受け取っているわけではなく、過去の経験を反映したものを見ているということである。それはまるで、プロジェクターから投影された光が、スクリーンという支持体によってうけとめられることで像を結ぶことに喩えれば、そのスクリーンは大きさも反射率も向きもそれぞれ個別につくられているようなものだ。

 

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授業のスライドより。

 

実験の目的は、ただの文字情報の場合と、自分で手間暇かけて組み立てていく情報の場合でどのくらい感じ方が違うのか、また経験している立場が違うことでどのくらい感じ方が違うのか、だったのだが、取ったアンケートからもはっきりと違いが浮かび上がって面白かった。

 

そして、ある学生は、不器用ゆえにキレイに折れず、あちこち歪んだ立体になるのが、まるですっきりとは進んでいない自分の困難な道のりを表しているようだ、と語った。別の学生は、踊り場にあたる長期休暇は立ち止まって考えるために必要なのであって、そこでどれだけ力を蓄えるかなのだなと考えた、と語った。

 

この立体はシンプルに事実だけを表しているのだけど、だからこそスクリーンのようにそれぞれの経験を投影するのだろうし、想像させる「余地」ってのは大事なのだな、と改めて思う。

 

そしてもうひとつ。現在を含めて今後の情報過多時代には、主語の大きな、だれにでもわかりやすい情報というのは存在しなくなり、特定の文脈を持った特定の誰か(例えば、上の立体で言えば、自分で組み立てた学生という当事者)に刺さるということしかありえないのではないか。上の立体を見て顔を見合わせながら叫び声を上げる4年生達の反応を見ていると、そんなことを考えさせられる。コミュニケーションをデザインする、というのは当たり前になっている前提を含めて設計していく必要がありそうだ。

 

 

人間—脱—中心設計

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とあるきっかけがあり、ちょうど1年ほど前にデンマークで関わった高齢者の皆さんのことを思い出していた。Give&Takeプロジェクトのリビングラボに参加していた方々で、この人達は当初、何かをシェアしたがっていたわけでもなく、シェアリングエコノミーに興味があったわけではない。それなのに、高齢者向けスキルシェアリングサービスを開発するプロジェクトに関わりながら、やったことのない新しいことに挑戦し、現状から積極的に変わっていこうとしていたのがとても印象的だった。

 

kmhr.hatenablog.com

その様子を見ながら、自分はいろんなデザインがあると言っても、使う人が関わり合いから学び、変容していくような体験をつくる方向性を持つものが好きなんだな、という思いを強くした。

 

従来の人間中心設計のモデルは、基本的に(反復プロセスによって)システムを人の側に合わせていく、という思想が前提である。そこでは「人が変化する」ことはスコープに入ってないし、デザインも相互の関係で構成されるとは捉えない。そういうわけで僕は人間中心設計とは別のルートを模索しているというわけである。

 

違う立ち位置から見ようとする時には、前提を変えることで見通しがよくなる。この間読み直した京大の山内先生の著書「闘争としてのサービス」で展開されている「人間—脱—中心設計」の議論は、大変興味深かった。

 

勉強がてらメモしたので、ちょっと長いが引用する。

ここで興味深いのは、人間中心設計とは正反対のデザインが成立するということである。この正反対のデザインを、人間脱中心設計と捉えてみよう。客に闘いを挑むようなデザインというのは、デザイナ—を超越的な立場に置かないということを意味する。デザイナ—が客あるいはユーザーと対等な立場に立ち、予定調和的な芝居ではなく、相手の出方に自らを曝け出すならば、そこには根源的な意味での闘いが生じる。

 

<中略>

 

サービスデザインは、ユーザの体験の連続性、つまりタッチポイントのつながりの全体性を体験としてデザインするという革新性を持っている。この革新性を、ユーザを固定的に措定し、その潜在的な要求を満たすためではなく、サービスという連続性を通してユーザが変容するところまで推し進めなければならない。つまり、サービスデザインがユーザを前提とするのではなく、ユーザはその結果であると捉えることが重要となる。もちろん、結果としてユーザが十全の主体性を獲得するのではなく、常に矛盾を抱え、引き裂かれた主体としての結果である。

 

<中略>

 

一方、人間中心設計では、ユーザとはどういう人でどういう要求をもっているのかが問題となり、そのためにユーザを固定的に実体化する。例えば、人間中心設計の標準であるISO9241-210の中では、「ユーザの要求を明示し」、「ユーザの要求を満たす」という手順が示されている。しかし、ある個人をユーザという自明な実体として措定するのはだれか?この枠組みでは、デザイナ—はユーザに対して超越的な立場にいることになる。デザイナ—が超越的な立場からユーザのためにデザインするということは(Nomanもこの枠組みに留まる)、ユーザを抽象的に外からしか捉えることができず、逆にユーザを神格化することにつながる。神格化とは、ユーザーという実体を絶対的な対象として受け入れ、その要求を満たすことを目的とすることを意味する。しかし、そのような神格化されたユーザの要求を外から満たしてあげるというデザイナ—は、自らをこのすべての関係性の外に置くことになる。本書でこれまで議論してきたサービスは闘いであるというテーゼは、この関係性を捉えなおすものである。ここで人間を脱中心(de-center)するという考えかたが重要となる。

 

<中略>

 

人間脱中心設計のためにデザイン理論は、弁証法的否定性を内包している。ユーザが自分の主体を構築するということを前提とする以上、サービスにはまずユーザを否定する契機が含まれている。サービスが文化のパフォーマティブを通して構築されるとき、ユーザを否定し、より高い水準のユーザを定義することで矛盾を生じさせる。この矛盾により、ユーザが自らをより高めていく運動を引き起こす。

 

<中略>

 

人間中心という言説によって、人間という予め規定された主体を中心に据えるのではなく、人間を脱中心し、人間がどのように主体化されるのかに着目することが必要である。そのため、ユーザと闘うことが求められる。闘うと言うことは、ユーザをないがしろにするのではなくて、ユーザを対等な存在として尊重することの必然の帰結である。

 

「闘争としてのサービス」山内裕  p211-212

 

山内先生がクリアに説明されているように、脱中心化することが、矛盾を起こし、それがユーザが自らをより高めていく運動を引き起こす、というのは確かに同感だ。そうでないと人は成長しないし、質の高い文化はつくられていくことはないだろう。先に挙げたデンマークの高齢者達を見ていてもそうだった。考えてみれば僕が日々苦闘している教育の場はまさにお互いによる闘い(struggle)だ。

 

人間中心設計は、人工物の中でも特に工業製品のように「マス」を対象とした製品開発に愛称のいいモデルだと僕は解釈している。企業の製品開発では問題無いのだが、「人が変化していく」中での関係性を捉えるためには、前提を含めて注意深く考えることが必要になりそうだ。最近はそんなことを考えている。

 

 

ブリコルールの創造性

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自宅マンションは、子育て世帯がとても多いところなので、ゴミ捨て場には大量に粉ミルクの空き缶が捨てられている。掃除のおじさんたちは、その缶を再利用して掃除用具の収納をつくっている。同じブランドで揃えることで統一感を出しているのにセンスを感じて、おもわず笑った。

ブリコルール(雑多な物や情報などを集めて組み合わせ、その本来の用途とは違う用途のために使う物や情報を生み出す人)の創造性ってのは面白いね。

 

この工夫をみながら、以前も清掃員のことを書いたことを思いだした。

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5号館の清掃員のおじさんは、毎朝早く掃除道具や回収ゴミを一括でガラガラと引きながら移動し、研究室やゼミ室を掃除していく。よく見ると、捨てられた傘の柄や、バトミントンのシャトルの空き箱を上手にリユースして収納しやすいように工夫していることに感心した。移動しながら掃除するために、最適な形態を自分で編み出しているのだ。それを見ていて、やっぱり丁寧に仕事している人はそのやり方が表出しているものだな、と思った。 kamihira_log「仕事の知恵」2008/10/6

 

 主体的な活動を行う人は、よりよく生きるために小さなところから自分の周りを変えていくことができる。

 

「デザイン観」は変化するか

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「アクティブラーニング」と呼ばれる学習取り組みがだいぶ一般的になった。先生が話し、学生は黙って話を聞いて学ぶ、という一方通行型の学習観から切り替わり始めたのは、(たしか)90年頃。素朴な観点では、教える側は、「言えば聞く、聞けばわかる」と思いがちだが、人間が学ぶことのメカニズムは非常に状況的なもので、たとえば一斉講義では、どんなに教員が努力して一生懸命わかりやすく話をしても、受け取る学習者の頭の中にはたったの数%しか残らないという。

 

教育者たちは、講義による伝達が幻想であることを受けとめた上で、「教員の自己満足をやめよう」「自分が喋るよりも、学生達に対話させ、もっと主体的に学ぶように視点を切り替えよう」「スローペースであっても、その場その場に起こっている関わり合いの変化をよく解釈しよう」と方向性を切り替えてきた、という長年の経緯がある。

 

人は一人ではなく、他者から学ぶ。学習とはあらかじめどこかに用意された知識をインストールすることではなく、人と人の関わり合いという社会的な営みの中で構成される。アクティブラーニングの背後にもある、そういった学習観は、「社会的構成主義」と呼ばれている。

 

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5年ほど前に、デザイン・スキル・スタンダード・トライアル・プログラム(2011)という教育プログラムの一環で実施した時の僕の講演資料より。この回に参加された浅野先生が詳しくレポートして下さってます。震災の直前だったので、この頃はワークショップもわりと牧歌的なテーマだったな。

 

もちろん物事は「見方」で決まるので、これは「人が学ぶ」ということをどのような立場からを解釈するかの問題であるし、その立場に立ったところで、時間も手間暇もかかることを考えれば決していいことばかりではない。でも、一人一人の人間という社会的な存在が発達していくことはそれだけ複雑なことなのだ、と謙虚に受けとけるためにも意義のある視点だろう、と僕は思う。

 

今じゃこういう観点はわりと一般的にも受け入れられている(からこそ、ワークショップがここまで活発になったんだろう)が、こういった学習観が社会に行き渡るまで、実に20年以上。

 

さて、なんでこんなことを書いているかというと、「学習観」と同じように、「デザイン観」にもこういった転換が起こっているように思うからだ。

 

分かりにくい情報をわかりやすくデザインすれば、人々に効果的に伝えることができる・・・とデザイナーが考えるのは、今のような情報過多時代に通じることなのだろうか。ユーザーのニーズに応えれば、ユーザははたして本当に満足するのか。

 

極端なことを言えば、知らず知らずのうちに、何かを提供しようとする側は、人々を「うけとる」だけの受動的な存在として規定していないだろうか。

 

あなたはデザインに対して、どんな観点をもっていますか?

 

近所で発見した参加型デザイン事例

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先日、下の子がお気に入りの近所の小さな公園に行った。昨年の10月に作られたばかりの新しい公園である。

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適当に遊ばせてベンチに座っていたら、おや、ベンチの背板にメッセージプレートが埋め込まれているのを発見。このベンチは寄付されたもので、どうやらこの敷地は元は狛江市立第七小学校だったらしい。

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観察モードのトリガーが入り、改めて周囲をよく見渡してみる。公園には、隣にある老人ホームからお年寄りが散歩に来たり、同じく幼稚園就学前の子供が遊びにきている。

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EPSという発泡スチロールでできている山。こどもたちはいつのまにか一緒に遊び始めるので、つられて親同士も会話を始める。この女の子も同じ年齢らしい。

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山の側面にはバナナの形をした滑り台。そういうわけでうちの子にとってはここは「バナナ公園」だ。

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植えられている木には、子供達のイラスト付きで樹木名の札が付けられている。

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あちこちに小さなコミュニケーションが埋め込まれていて、親しみが持てるいい公園だなぁと思っていたところ、普段使わない方の入り口に看板(上の写真)を発見した。

 

狛江第七小学校が平成17年3月に閉校した後、跡地の一部は給食センターに、一部は老人ホームに、一部は雨水貯留施設になったそうだ。そして雨水貯留施設の地上部を活用して、この児童遊園が整備しようという計画が数年前に出来て、その基本デザインは市民参加型のワークショップをなんども繰り返してまとめられたという。上の樹木名の札や公園のネーミングなどに、近所の緑野小学校の子供達が参加している。

 

ふむふむ。都市デザインではけっこう古くからワークショップが取り入れられていることはよく聞くけども、こんな身近に事例があるとは知らなかった。できるまでにどんな経緯があったのか興味深いので狛江市役所にヒアリングに行ってみたい。

 

自分の感覚がズレていることを知った

前々回の「デザイン思考の今後」という記事を書いたら2日で4000viewを記録した。別にそんな面白い話だとは思ってなかったのでとても不思議だった。教え子に聞いてみると、「みんなうすうすと思ってたことを突いたからでは?」とのことだったので、なるほど、それならば。と、一つ前の「日本社会の独自性を考える」を書いてみた。こちらは自分としては内容に手応え合ったし、日本人が気付きにくいところを突いたつもりだったのだが・・・結果はほぼ反応無し。やっぱり自分の関心は世間とは結構ズレているんだなぁ。まあとある人とやりとりできたので、無駄ではなかったと自分に言い聞かす。

 

というわけで、新しく読者登録して下さった方が沢山いらっしゃるようなので、去年の過去記事をいくつか紹介します。最近は頻度落ちてますが、去年はマメに書いていました。いずれも半日以上かけて頑張って書いた(僕自身にとっては非常に思い出深い)訪問記です。

 

kmhr.hatenablog.com

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日本社会の独自性について考える

興味深いレポートを読んだ。経産省の次官・若手未来戦略プロジェクトによる「21世紀からの日本への問いかけ」(PDF)というもので、経産省の菅原郁郎事務次官が30歳前後の若手キャリアと議論して作成した非公式の提言書である。未来を描きにくい世の中であるが、若手を積極的に登用して既成概念を壊して活路となるビジョンを見出そうとする姿勢が見えて、素晴らしい活動だ。

 

日経の記事より引用。

 今も英語やプログラミング教育を重視しようという動きがあります。これは短期的には正しい方向性だと思います。ただあまりにそれを重視しすぎると、他国にはない日本の「なくしてはいけないもの」を犠牲にする可能性がある。日本は植民地化されず、固有の言語で独自の文化を育んできた歴史があります。グローバル化が進む世界では、その日本独自の価値観こそ競争力を生み出しうるのではないでしょうか。

www.nikkei.com

 日本という地理的特性が育んだ文化は世界的に独自性が高いことは事実で、それらをふまえた上でどのように展開していくべきなのか、自分も地面を這いまわりながらずっと考えている。

当該資料から一部をキャプチャ。

 

 

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価値観・文化の特異性として

1、自然との調和

2、場の重要性

3、暗黙値の重要性

4、矛盾への寛容性

5、若者発文化

 が挙げられている。このキーワードをみながら、ちょっと考えた。

 

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僕が春に帰国したときに、とても驚いたと同時に日本社会の独自性をつよく表していると思ったのが、日本のコンビニのおにぎりの棚である。

 

多くのニーズに応えるように、定番の具から味付きごはんまで、実に多種多様なおにぎりが並べられている。そして超がつくほど機能的なパッケージ。海苔のパリッとした風合いを損なわないように包装され、手を汚さず巻くことができる。見慣れると当たり前で気がつかなくなるが、棚の中には細部の細部まで徹底的にKAIZENが積み重ねられている。コンビニチェーンは売り上げから詳細なデータを収集し、そのデータを元にして食品メーカーは品質改良に勤しむ。そうして創意工夫を重ねて、逐次改良されていく過程はたぶん世界最高クラスで、アメージングとしか言いようがない。


しかしながら、棚のおそらく結構な割合の食品は、廃棄処分されゴミになる。いろんな事情があるとしても、貴重な食糧を有効に活用するよりは、「何か問題が起きないように問題を未然に防ぐ」の論理の方が優先される。関係者のだれもが勤勉に働いているが、自分の責任を越えることにはみんな目をそらす。他の文化圏ではフードロスの問題にはもっと真剣に取り組んでいるわけで、その意味では日本人の自称する「もったいない」文化というものはけっこう怪しい。

 

改めてこの現象を解釈してみると、上の資料で挙げられている、「持ち場で頑張る」「内と外の感覚」「勤勉性・職人気質」「行間を読む」「矛盾への寛容性」というような文化特性が強く発揮されている結果でもあるのだ。そして棚に並んでいるのは「勤勉性」そのもので、棚から棄てられたものは、他にも使えたかも知れない「生産性」そのものだ。悲しいことだけど。

 

コミケなどのポップカルチャーはもともと自主制作として個人や仲間内の創造性がベースなので、仕事上発生しやすい責任のしがらみが小さく、自由にやれているから日本文化の独自性が良い方向に発揮されているんじゃないだろうか。

 

そう考えていくと、日本の文化の特異性というのは実際に毎日の生活の中にあるのだけど、それを「長所」と捉えて伸ばすべきか、「短所」と考えて修正すべきなのかというのは、実によくわからなくなっていく。

 

コンビニの棚はあくまで一つの喩えであるが、要するには我々は、自分(達)の責任の手の中で収まるプロジェクトは上手だが、責任の所在があやふやになる領域や、誰かの領域を侵犯してしまうような連携が苦手なんだろう。(だからこそ、いろんなシステムはそれぞれの組織の面子を守るために統合されない)

 

制約を逆手に取ることこそが創造性と言い聞かせて、日本社会とデザインの関係を日々考えているが、なかなか難しいものだ。

 

デザイン思考の今後

みんながうすうすと感じてはいるが、なんだか言語化できないこと、というのが時々ある。

 

ここ最近、「デザイン思考」に関する議論はもう一周したんだなー、と感じさせる文章を目にすることが増えてきた。デザイン思考は、(専門家にとっては)あたりまえのことを形式知にして名前をつけ共通言語化し、誰にでもクリエイティブに考えることはできるんだ、と人々の創造性の裾野を大きく広げた。その功績は偉大である。でもそうは言っても、デザインは方法論だけで構成されているわけでもないわけで。

 

現在日本ではビジネスにおけるデザインの重要性に注目が集まり,「デザイン思考」の活用への興味・関心が高まっているが,そのほとんどはIDEOスタンフォード大学d.school が提唱する狭義の「デザイン思考」であり,これまでデザイン論やデザイン研究が追究してきた世界の多様なデザインの考え方や捉え方,思想・信念・文化を踏まえた「(本来の;広義の)デザイン思考」を参照するものではない。筆者らは,我が国のデザインマネジメント研究者としてこの事態を看過せず,世界の多様なデザインの思考方法やその知見を,現在の日本のビジネス社会に十分に還元・流通させることができていない不備を猛省し,喫緊に取り組むべき課題として認識している。

イタリアにおけるデザインマネジメント研究の特徴と動向に関する考察

 

立命館の八重樫先生の視点。今のデザイン思考はこれまで行われてきたデザインに含まれていた思想・信念・文化といった見えないことを参照してないというのは全く同感。

 

「目的」という主観的な要素をいかにイノベーションに活用するかが狙いです。デザイン思考を実践しても、それを現実化する最適な技術がなければ実現できません。

<中略>

そうした目的の設定や共有、部門や組織を超えたコミュニケーション、シナジーの創出、組織のクリエイティビティの創出がなければ、デザイン思考は有効ではありません。創造性を重視する組織文化がその根底に極めて重要なのです。

www.foresight.ext.hitachi.co.jp

紺野先生の説明。先生は以前、講演でも「定番の方法論に従ってるだけで、なにか起こせると思うか?」とオーディエンスを挑発されていたことをよく覚えているが、結局のところ、目的設定ができなきゃうまくいくわけがない、というのはその通り。なんのためのデザインか、ってことだよね。

 

私はデザイン教育のあり方を少しだけ変えるべきだと言っているのです。というのも、私は現在のモデルはある分野で行き詰ってしまっていて、考え方を少し変えることが時にはアイデアを自由にし、新たな方法を生み出すと考えているからです。小さな変化ですが、 d.schoolの講師や他の人々の多くは既にプロセスを重視しなくなっているようです。

medium.com

d.schoolのCarissa Carterによる記事の翻訳。原文はこちら。発祥の地のd.schoolでも似たような結論のようだ。「重視しない」というのは原文では"beyond process already"(もうプロセスの議論は越えている)となっている。ここで紹介されている「8つのコアデザイン能力」というのは、多様な解釈ができそうな抽象的な概念でまとめられている。パターンランゲージっぽい。

 

と、ここまで最近読んだ3つの記事と論文を引用してみた。僕も同じようなことを春先に思っていて、何度か講演の際に下のような図を書いて喋ったことがある。

 

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 三角形の最下部は具体的な活動の層。それが短期間で終わらず長期間にわたるものになると、それらをどうやるか(How)をうまく進めるためにデザインプロセスが必要になってくる。この層は近年の言語化の努力によってあらかた整備されたといってよいだろう。

 

そしてもう一段階視点を上げると、上の層には、「何をするのか」「どこでやるのか」「誰がやるのか」「どんなタイミングで、どのくらいの期間やるのか」といったような、"状況"を含んだデザインを取り巻く環境の問題が存在する。この層は、しばしば前提となってしまって、なんだかんだで簡単に変えにくいし疑いにくいが、前提は「解」を規定してしまうからこそ、ここを問うことは重要だ。

 

そしてさらにもっと抽象度の高いところには、その環境の中で、もしくは環境そのものを再解釈し、「なぜ」やるのか?「なぜデザインなのか?」といった、行き先を照らすビジョンの問いがある。

ここで悩ましいところだが、ビジョンと環境は、どっちが上位という訳でもなさそうである。ジャレッド・ダイアモンドが「銃・病原菌・鉄」で示したように、文化はそもそも地理的条件の中でつくられていくからだ。 例をあげれば、移民が多い街では異文化を考慮した地域コミュニティをどう作るかが切実な問題になるし、自然災害が多い国では防災に関するデザインが発達する。我々はそうして環境から影響を受けながら、身の回りを人工物化していく。そしてそれは環境になっていく。両者は密接な相互関係にある。

 

そんなわけで、デザインを構成する要素として、具体的な問題から抽象的な問題までいくつかの階層があって相互に影響し合っているということを示してきた。ということは、デザインは実践すると同時に、一方でそこから抽象度を上げてもっと抽象度の高い議論に向かうことも必要なはずなのだ。でもデザイン思考の言説においては、短期的な問題解決を越えたその先を見据えて、我々はどんな文化をつくっていこうとするのか・・・という議論をする人は(少なくとも自分の観測範囲では)それほど多くない。「思考する」ってのは、本来、抽象性の高いところの方が親和性が高いはずなのにね。

 

こういった現象は、特に「デザイン思考」に限った話じゃないようだ。

 

嗚呼、こうしている間にも、バイラルは広がっていきます。Aがシンプルで模倣可能性が高く、かつ、革新的であるが故に、このバイラルはとめられません。
 実践の連鎖は、もう「A””””””’」くらいになったでしょうか。かくしてクオリティは地に落ちました。Aという学習手法で生み出される学びの時間は、ひと言でいうと、「あまりに惨い時間」になってしまいました。

 さらに手痛いことに、アーリーアダプターのDたちから、こんな声もでてきました。
「実践Aをつくった創始者Cさん、最近、元気ないねぇ・・・もうオワコンなのかなぁ・・・」

「実践Aも、昔はよかったんだけどね。創始者Cさん、これから、どうするんだろうな・・・・そういえば、全然話が変わるんだけど、新しいQという手法って、最近、流行ってるけど、知ってる?あれ、面白いよねぇ。今度、みんなで勉強会してみようか。で、使ってみようよ」

 そして、創始者Cだけが、独り残されます。
「ああ、こんなはずじゃなかったのに」 

「革新的な学習手法」と「普及プロセス」について考える:あの魅力的な方法が、いつのまにか、「惨い学びの場」を生み出してしまうプロセス | 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する

 

 中原先生による上記記事で語られる寓話では、学習の現場でもそっくりな話が展開されていることが興味深い。というよりも、だれでも使えるようなツールをよく作っている身として、他人事じゃなく心が痛い。普及していくことと、もともと含まれていたはずの思想が矮小化されていくことは表裏一体のように思える。

 

それはなんでだろう。と言うことをずっと考えていたのだが、一つの要因としては、「切実さ」が足りないということだろうか。現状をなんとかしなければ、という切実さがなければ、浅瀬に入ったきっかけからさらに進んでいこうとする動機は生まれないし、困難に向き合ってもそれ以上を考えないというか。

 

この話には特にオチもないのだが、この頃仕事ばかりで飲みに行く時間も無いので、だんだん視野が狭くなりつつあるのを感じる。だれかと議論したいな。

 

地域資源としての岡本太郎

11/19(土)には、KS(川崎・専修)ソーシャルビジネスアカデミーで講義とワークショップを担当した。これは川崎市×専修大学による社会起業家向けの連携事業であり、専修大学大学院経済学研究科の社会人大学院特別教育プログラムとして運営されている。その中の「都市における社会参画・まちづくりのためのデザイン」という単元でデザインの科目(計4コマ)があって、それを僕が担当しているというわけだ。ほぼデザインとは縁の無い方々にデザインのワークショップを実践できる、というのはとても貴重な機会なので、毎年この時期は頑張っている。

 

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一部スライドを紹介する。1コマ目は「社会包摂」という見えにくい因果関係をみるために、デンマークの街の事例を紹介。それを通して日本社会の構造を考える。2コマ目はワークショップで、今回は地元川崎市多摩区にある、岡本太郎美術館とのコラボレーションである。

 

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美術館側としても利用者が美術ファンだけで閉じていることに対する危機感は強い。そういうわけで近年は岡本太郎美術館も、地域住民と関わりを深めようといろんな普及プロジェクトを行っていて、上平研究室でも地域住民参加型のプロジェクトをお手伝いしている。学芸員のみなさまとミーティングしている際に、KSアカデミーのワークショップとして実施することを思い付いて、今回の講座に取り入れてみた次第である。

 

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短時間(2時間)だし、まあ(よくある)地域資源を活用しようとするアイデアワークショップなんだけど、そこは僕もプロとして細部には工夫をいれていて、この頃はロールプレイイングやシナリオを積極的に取り入れている。よく知らない人同士でいきなりブレストさせてもダメですね。どこにもいない空想上の「地域の人」の架空のアクティビティを飛び交わせるのではなく、実在する人間としての参加者からその人の生活状況を聞き出し、リサーチと文脈理解、アイスブレイクを兼ねるのがポイント(これをメンバー全員で役割変えながら回す)。発想のジャンプ台として、まず事実を収集するのはとても重要である。

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30代から70代まで、いろんな年代の人が参加して下さってます。

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最後はアイデアを一案に絞り、簡単な素材でプロトタイピングしてプレゼンする。

岡本太郎美術館のある生田緑地は、自然は豊かだが、意外に子供を遊ばせる場所が少ない・・・ということで岡本太郎の作品から発想した「TARO遊具」を作って設置する、そこを介してTAROを知るきっかけにするという案はとても興味深かった。真ん中に見えるのは、太陽の塔の滑り台+ブランコと、代表作「痛ましき腕」のシーソー。リボンがシーソーになっている。TAROの造形はプリミティブで色使いも明快だからこそ、原作の魅力を持ったまま人々が新しい視点を足してさらに発想を生むことが出来そうで、美術館のワークショップとしても展開できそうな気がした。そして専門家とコラボすれば実際の遊具として実体化することも不可能ではないと思う。いつか実現するといいな。

 

残り2コマは今週土曜。綱渡りは続くが頑張る。

 

 

情報通信学会で登壇してきました

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11月4日、関西大学梅田キャンパスで開催された情報通信学会関西大会 「メディアのエコロジーとデザイン思考―参加型デザインから望ましい情報社会を構想する」に登壇してきた。上の写真は、企画者の岡田先生と基調講演のカリハンス・コモネン氏。

 

ちょうど1年ごろ前に、おふたりにはフィンランドでお会いしたのだが、こんなかたちで再会できたことがとても嬉しい。

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僕の役割は、このワークショップのプリ・レクチャーとして、デンマークのCoDesignとそこから学べることについて解説すること。(時間押しているのにオーバーしてしまい、申し訳なかったです)紹介した事例は、過去にこのブログでも書いた、廃棄食材スーパーマーケットがん治療のデザイン刑務所の親子面会室のデザイン多民族が共生する公園スーパーキレンなど。

 

それと今回は「デザイン思考」がテーマでもあったので、自分なりの論考に基づいた枠組みを解説する。スライドより紹介。

 

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「デザイン思考」は、大まかに言えば、「ノンデザイナ—の人々がデザイナ—の考え方を用いて、いろんな分野の問題解決に適用すること」を指すが、もう少し広い視点で解釈すると、デザインすることの"民主化"と捉えられる。主語が変わったわけだ。

 

そして、それより以前に起こった左側の二つ「政治」と「情報発信」の民主化と並べてみることで、時代の要請の中で、最初は特権的な行為だったものが徐々に「人々へ」と移っていった大きな流れが見える。そして同時に専門家の役割は変わりこそすれ、無くなるわけではないことがわかる。

 

しかしながら、アラブ諸国やイギリス、そして今のアメリカの例が如実に示すように、民主化されたことで政治が決して良い方向に進むわけではないし、インターネットも衆愚化やフィルターバブルが問題になっているのも多くの人が知る通り。そういう先例を見れば、デザイン思考もポジティブな可能性を開くだけでなく、他二つと同じような道をたどる可能性が高いであろうことは容易に想像できる。

 

とはいえ、われわれはもはや受け身のままでもいられないし、それによって起こることも一義的な良い悪いが言えるようなものではなくなっている。我々に出来るのは、その責任と真剣に向き合いつつ、「我々は何を目指すのか」を問い続け、学びを重ねていくことぐらいだろう。

 

(そして巷で聞く「デザイン思考」の言説は、5STEPとかの定番の方法の易しい解説に成り下がっているとしか思えないのが、まことに残念だ)

 

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 岡田先生によるワークショップ。「2025年に大阪万博が開催されたと仮定して、その後に残る望ましいメディアシステムをデザインする」というお題。短い時間ながらとても盛りあがった。「オモロい」が人々にとって生成され、重要な価値になるのは、関西ならでは。

 僕にとっては情報通信学会はアウェーだったけれども、参加者のみなさんとても熱心に聞いてくださって、有り難かった。「越境」はしてみるものだな。

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楽しい一日でした。企画してくださった岡田先生ありがとうございました。